毒入りチョコレート事件





「明日はいよいよバレンタインですねぇ」

 梓のつぶやきが耳に入り、安室は小さく顔をしかめた。
 今年もまた、憂鬱な日がやってきてしまった。
 ──バレンタインデー。
 最近は、自分へのご褒美チョコという名目で女性がチョコレートを買う祭事──というイメージもあるが、それでも本来の「女性から男性にチョコレートを贈る」習慣が廃れたわけではない。
 渋い顔をした安室に気づき、梓が肩をすくめる。

「まあまあ、安室さん。大丈夫ですよ! お店の扉に『チョコお断り』の張り紙をしてもいいって、マスターも許可してくれたじゃないですか」
「……明日休めたら一番良かったんですがね」
「マスター、明日は前々から予定が入ってていませんし、私だけではちょっと……。日頃のサボリのツケですよ。──あ、そうだ。チョコの受け取りはお断りしても、ホットチョコレートの注文とかは増えそうですよね。在庫もう一度見ておかないと」

 梓は「失礼します」と言ってバックヤードに向かった。商魂たくましい。そして当たり前だが、完全に他人事だ。
 カウンター席でコーヒーを飲んでいた鈴木園子が、感心したように言った。

「イケメンは大変ですねぇ」
「ああ……いえ、すみません。変な話を聞かせてしまって」

 頭を下げると、園子の隣で毛利蘭が苦笑した。

「そんな。あ、でも……私たちも、日頃のお礼にチョコお持ちしようと思ってたんですけど……止めておいた方が良さそうですね」
「お気持ちだけで十分嬉しいです。本当に」

 気遣いに感謝して、二人にコーヒーのおかわりを注ぐ。
 知り合いからの物くらい……と思わなくもないが、受け取っているところを誰かに見られたら、面倒なことになりそうだ。彼女たちに迷惑をかけるのも本意ではない。
 好意を寄せてもらえるのは、ありがたい。というか、安室透は万人に好かれる好青年という設定なので、ある意味目論見通りではある。
 しかし、物事には程度と言うものがある。大量にチョコレートをもらっても食べきれないし、だいたい、よく知らない人間にもらったものを気軽に口に入れるわけにはいかない立場だ。誰かに横流しするにも、思い当たる人間がいない。チョコレート好きの部下はいるが、彼だって気軽に貰い物を食べるわけにはいかないのは同じ。それに彼に関して言えば、大量のチョコレートを渡したら、しばらく食事がそれだけになりそうで心配だというのもある。

(まったく、誰がこんなもの流行らせたんだか)

 安室はため息を押し殺して、今年はどこのチョコレートが美味しかったかで盛り上がる二人の楽しそうな声を背に、夜の仕込みに取りかかった。





 その、次の日。
 朝、店の前で掃き掃除をしていると、軽い足音がして、ビルの階段からコナンが下りてきた。

「おはよう、コナンくん」

 声をかけると、ポアロの上にある毛利探偵事務所の謎多き小学生、江戸川コナンは、ランドセルを揺らして安室の所にやってきた。

「おはよ、安室さん」
「今日の夜、ポアロにご飯食べに来るんだって? 蘭さんから聞いてるよ」

 毛利家の親子──探偵業の小五郎と高校生の蘭は、それぞれ多忙だ。仕事や部活で家を空けることも少なくない。どちらか一人なら問題はないが、二人が共に不在となると、預かっている小学生のコナンが一人になってしまう。そういう時には、知り合いの阿笠博士のところに泊まりに行くか、二人が帰ってくるまで階下のポアロで待っているかのどちらかになるのが、常だった。
 昨日蘭は、今日は小五郎も自分も帰宅が遅いからと、コナンのことを頼みに来たのだ。

「うん。夕方行くね。──ところで、安室さん」
「なんだい」

 何気なく返事をすると、コナンはランドセルから細長い箱を取り出した。
 青いリボンがかかったそれを、安室に差し出す。

「はい」
「──えっと……?」

 安室は首を傾げた。
 「はい」とは、どういう意味だろう。ちょっと持ってて、ということだろうか。そう思って受け取ると、コナンは「じゃあ」と踵を返した。
 慌ててランドセルを掴んで引きとめる。

「ちょっと待って。これ、どうするんだ」

 コナンは振り返って、顔をしかめた。

「離してよ。どうって……それは安室さんにあげたものだから、安室さんの好きにすれば」
「……僕に?」

 安室は目を丸くした。そして、箱に目を落とす。
 お店のものにしてはいささか安っぽい作りの箱と、斜めになった蝶結びのリボン。軽く振ると、中に固形物が入っているのがわかる。

「……これ、何?」
「はあ?」

 コナンは呆れ声をあげると、安室の手を振り払って向き直った。

「何って。安室さん、今日が何の日か知らないの?」
「今日……って……バレンタイン」
「そうだよ。──今日渡すものなんて、チョコレートに決まってるでしょ」
「……チョコレート」

 安室はおうむ返しにつぶやいた。
 バレンタインだから、チョコレート。
 それは、わかる。わかるが、問題は何故この子が、自分にチョコを渡すのかということだ。しかも、これはおそらく手作りだ。

「昨日、作ったんだよ。蘭姉ちゃんと、園子姉ちゃんと一緒に。まあ、ボクはボウル押さえたり、チョコ丸めたりしただけだから、大した手伝いはしてないんだけど」
「ああ」

 なるほど、と得心する。
 つまりこれは、蘭たちからのチョコレート、ということだろう。昨日あんなことを言っていたが、蘭は義理堅い。小学生のコナンから手渡せば角が立たないと思ったに違いない。
 安室はエプロンのポケットに箱をしまった。

「ありがとう。お礼を言っておいてくれるかな」

 すると、コナンはムッと目を細めた。

「言っておくけど、それ、蘭姉ちゃんからでも、園子姉ちゃんからでもないからね」
「え?」
「二人とも、今年は止めておこうねって言ってたから。今日待ってたって、もらえないよ」
「いや……それはいいんだけど」

 安室は、一度しまったチョコレートを取り出す。

「じゃあ、これは? まさか、君が僕にっていうんじゃないだろう?」
「それじゃ悪いの?」
「え?」
「ボクが安室さんにあげるんじゃ、駄目なわけ?」

 重ねてそう言われ、安室はまじまじと少年を見つめた。

「……いや、駄目じゃないけど」

 戸惑いつつ、何とか答える。
 駄目ではない、が、おかしいだろう。
 一般的に、小学生の男の子が顔見知りのお兄さんにチョコレートなんてあげない。まして、この子は江戸川コナンだ。

「何か、学校でそういう課題でもあったの? 流行ってるとか?」

 二十以上年の離れた子どもとは、文化が違うこともあるだろうと念の為に問えば、「そんなのないよ」と呆れたような返事。
 コナンは少し面倒臭そうにため息をつくと、肩をすくめた。

「深い意味はないよ。昨日お手伝いして、『コナンくんも誰かにあげたら』って言われたから」
「それで何で僕なのかな」
「別に、ボクが誰に何あげたっていいでしょ。……迷惑だって言うなら、返してくれてもいいけど」
「迷惑、ではないけど……」

 何を企んでるのだろうかとは、考えてしまう。
 戸惑いが落ち着くと、疑念がわいてくる。
 そもそも、安室とコナンは、バイト先の常連さん、あるいはご近所の顔見知り、なんて、ほのぼのした関係ではない。
 お互いに、暴かれてはならない秘密を抱えた、油断出来ない間柄だ。
 ちらりと、コナンを見下ろす。

「この中……入っているのは、チョコレートだけかな?」

 そう言って小さく箱を振ると、コナンは一瞬目を丸くした後で、にこっと笑った。

「他に何が入ってると思う?」
「さあ。全然わからないな」

 わざとらしく首を傾げると、コナンはするりと安室に近づいた。
 眼鏡の奥で、大きな瞳が意味深にきらめき、細められる。コナンは秘密でも告げるように、囁いた。

「──毒」

 安室は目を丸くした。
 コナンは安室を見つめたまま、もう一度言った。

「毒が、入ってるんだよ」

 そう言って、にこっと笑って身を離すと、コナンは「行ってきます」と言って、駆けていってしまった。





 ──わけがわからない。
 毒が入っているというチョコレートをエプロンのポケットに入れて、安室は店の中に戻った。

「お帰りなさい。安室さん、外でコナンくんと何話してたんですか?」

 梓が声をかけてくる。窓から店の外のやりとりが見えていたのだろう。

「何かもらってたみたいですけど」
「ああ……」

 安室はポケットから箱を取り出す。梓はそれをのぞき込んで首を傾げた。

「それ、もしかしてチョコレートですか?」
「ええ……」
「……ああ! 蘭ちゃんたちから」
「と、思ったんですが。コナンくんかららしいです」
「コナンくん? ……コナンくんが、安室さんにですか?」

 梓は目を瞬かせて、箱と安室を交互に見た。そして、また首を傾げる。

「──どうしてです?」
「わかりません」

 それがわかればこちらも困っていない。
 安室は、小箱のリボンを解いて、フタを開けた。
 中には、少し形のいびつなトリュフチョコレートが三つ。見た目はごく普通のチョコレートだ。

「手作りチョコの定番ですね」
「蘭さんたちと作ったみたいですよ」
「へえー。……しかし何故また、安室さんに?」
「わかりません」

 二度目の問いに、同じ答えを返す。梓は腕を組んで首を傾げた。

「んー……あ。もしかして、お返し狙いですかね?」
「お返し?」

 梓は大きくうなずいた。

「ホワイトデーの、三倍返しです!」
「いまもあるんですか、その制度」
「あるんじゃないですかね? よく知りませんけど。コナンくんはきっと、安室さんがホールケーキをお返ししてくれることを期待してるんですよ」

 安室は苦笑する。

「それくらいなら、お安い御用ですけど」

 しかし、梓の推理は外れだろう。コナンはちゃっかりした子どもだが、甘える相手は選んでいる。そして、安室はその対象ではない。

「……」

 別にそれはいい。
 フタを閉じてリボンをかけなおし、さてどうしようかと考える。
 とりあえず、このままにしておくと溶けてしまいそうだから──と冷蔵庫の扉を開きかけて、手を止める。

(──毒)

 あの子はさっき、これを毒入りだと言った。
 まさか、本当に毒が入っているなんてはことないだろうけれど──毒だと渡されたものを、飲食店の冷蔵庫に入れるのはためらわれた。
 相手は江戸川コナン。怪しげな麻酔銃を常に腕につけている子どもなのである。

「とりあえずこれ、休憩室に置いてきますね」

 休憩室なら、暖房も切ってあるし、置いておいても問題あるまい。

「はーい。ついでに張り紙取ってきて、ドアに貼っちゃって下さい。JKに突撃される前に!」
「了解しました」

 苦笑して、安室は休憩室に向かった。





 その後の一日は、予想した通りに進んでいった。
 張り紙を見て入って来た女性客は、残念そうな顔をするか、気の毒そうな顔をして、ホットチョコレートやチョコレートケーキを頼み、常連の男性客はニヤニヤ笑いながら、安室にいつもは頼まない甘いものを注文する。「どうして駄目なんですか」とごねる客は想像したよりも少なくて、そのことにはホッとした。
 夕方、本日五人目の「どうしても受け取ってもらえませんか」と粘る女子学生に、やんわりと断りを告げて見送り、ため息をつくと、カウンター席に座っていた常連の男性客が笑いながら声をかけてきた。

「お疲れさん。梓ちゃん、安室くんにコーヒーでも出してあげてよ。俺のおごり」
「あら、いいんですか? 良かったですね安室さん。コーヒーいれますから、ついでに休憩行ってきちゃって下さい。ホットでいいですか?」
「ええ。──ありがとうございます」

 客に礼を言うと、客の男は肩をすくめた。

「いやあ、いつもモテやがってって思ってたけど、見てるといいことばかりじゃないもんだな」
「ハハ」

 そうなんです、とも言えずに曖昧に笑う。

「しかし、一個ももらわないってことはないだろ? 梓ちゃんからとか、な?」
「げっ、止めて下さい! 喫茶ポアロは義理チョコという悪しき習慣を廃止して久しいんですから! あげませんよ!」

 梓が店内をきょろきょろ見回しながら叫ぶ。幸い、女性客は常連のおばあさんと、井戸端会議中の主婦だけだ。

「義理チョコは、だろ。本命なら問題ないわけだ」
「もっとないです」

 自分を目の敵にしそうな女性客がいないことを確認して落ち着いた梓が、きっぱりと否定した。

「それに、私からもらわなくても安室さんは今日ちゃーんと、可愛い子からチョコもらったんですから。ねえ!」
「え?」

 ニヤニヤと笑う梓に首を傾げ、今朝方コナンからもらったチョコレートのことかと思い当たり、苦笑する。

「可愛い……まあそうですね」

 江戸川コナンは、可愛いか可愛くないかで言えば、「可愛い」に分類されるだろう。年齢的な意味でも、顔立ちの評価でも、どちらでも。
 男が大げさに声をあげた。

「え、そうなの!? なんだよー……梓ちゃん、さっきのおごり撤回! やっぱりモテ男はいい思いしてるんじゃないか」
「残念。もう注いでしまいましたー」
「くそー」

 カウンターでのやりとりに、他の客がくすくすと笑う。

「すみません。こちらはお礼です」

 安室は笑って、クッキーを乗せた皿を男の前に置いた。甘い物が好きな人だということは、把握している。
 男は、やった、と笑ってクッキーを口に入れた。

「クッキーも美味いな。安室くん、独立出来るんじゃない?」
「いえ、本業がありますから」
「もったいない……で?」
「え?」
「安室くんにチョコあげた子って、どんな子?」

 ふむ、と安室は考えた。
 目の前の男と、おばあさんはともかく、井戸端会議を中断してこちらの会話に聞き耳を立てている主婦の皆さまは、使えそうだ。

「──そうですね。小柄で、年下の、可愛い子ですよ」

 普段ならのらりくらりと交わす安室が具体的な特徴を口にしたので、客たちは目を丸くした。

「へ、へえ? 年下」
「ええ。いつも元気いっぱいで、無茶ばっかりするんで目が離せないんです」
「お、おお……」

 なんだか少し愉快な気分になってきて、コナンを思い浮かべながら続ける。

「でも趣味は意外とインドアで。僕のいれたコーヒーをお供に読書するのがお気に入りなんです。本を読みだすと全然構ってくれなくなるので、ちょっと寂しいんですけどね」

 梓が呆れ顔で安室を見ている。それに片目をつぶって、しれっと続ける。

「今朝一番に、家の人と作ったんだって、手作りのチョコレートを持ってきてくれたんですよ」

 にっこりと笑うと、常連の男はわざとらしく声をあげた。

「あー、はいはいはいはい、幸せなのはよくわかりました! ごちそうさまでした! くそー、イケメンに彼女がいないわけがないんだよな」
「どういたしまして。どうぞ、お詫びです」

 クッキーを追加する。

「詫び? 何の」
「モテてすみません、のお詫びです」
「腹立つなぁ!」

 男はクッキーをバリバリと食べて笑い、他の客も笑った。

「──では、休憩行ってきます」

 ここでコーヒーを持って下がる。──これで、店の客たちも噂しやすいだろう。
 精々盛り上がればいい。
 主婦のネットワークは侮れない。明日には米花町内に噂が回るだろう。これで少しは、寄ってくる女性が減るかもしれない。
 梓は呆れていたが、言いだしたのは彼女だし、安室はひとつも嘘は言っていない。
 コナンが可愛いのは事実で、無茶をしがちなのも、ここでコーヒーを飲みながら本を読むのも本当のことだし、家の人と作ったチョコを朝一番に持ってきたのも、事実である。小学生の男の子だ、という情報を口にしなかっただけだ。

 休憩室に入ると、朝置いたチョコレートの箱が目に入った。

(──さて)

 安室はそれを見つめる。
 ──ありがたく利用させてもらったが。これは実際、どういう意図なのだろう。
 安室がきれいにリボンを結び直したせいで、もらった時よりも贈り物っぽくなった箱を手に取り、椅子に座る。

 蘭や園子と作った、と言っていたが、それならば彼女たちから、昨日ポアロで話したこと──安室が今日、誰からもチョコレートを受け取らないつもりでいることは、聞いているだろう。
 なのにあえて持ってきたのは、何故か。
 自分は子どもだから例外だと思ったのか。
 しかし、それでも何故渡そうと思ったのかがわからない。
 バレンタインデーのチョコレートは、一般的には好意からの贈り物だ。
 好きな相手へ。あるいは、お世話になっていますの気持ちで。

(……でも、それはない)

 安室は首を振って、考える。

 もしかしたら本当に、毒が入っているのだろうか。
 安室に毒を飲ませて、無力化しようとした。毒でなくても、例えば、自白剤とか、睡眠薬とか。その類のもので、安室の隙をつき、何か情報を引き出そうとした、とか。
 しかしそれなら、何故馬鹿正直に毒入りだなんて言ったのだろう。
 そもそも。
 江戸川コナンは、知っているはずだ。安室が、組織の幹部バーボンであること。実は公安の人間であること。──だから安室が、人からもらった食べ物を、口にするわけがないこと。
 手作りなんて尚更だ。バレンタインは例外で、手作りチョコなら食べるだろうなんて、甘いことを考えるはずがない。
 ──そう。コナンは、安室がこのチョコレートを食べないことを、知っているはずなのだ。
 食べないとわかっていて、それでも渡す理由。
 食べてもらうことが目的ではなくて、ただ渡すことが目的ならば。

(発信機、か?)

 あるいは、盗聴器。
 食べないとふんで、チョコレートの中に隠した。そして、あわよくば安室の自宅や、潜入先の情報が取れないかと目論んだ。毒入りだと言ったのは、万が一にも食べないように保険をかけるため。

(……あり得るだろうな)

 安室はコーヒーを飲み、箱のフタをあけて、丸いチョコレートを見つめた。
 答え合わせは簡単だ。
 ──チョコレートを崩してみればいい。
 しかし。
 それはためらわれた。
 他の理由も考えてみるべきだ。
 安室が、チョコレートの中に何か仕掛けられていることを疑うことくらい、彼だってお見通しだろう。
 何かメッセージでもあるのか。
 そう思って確認してみたが、箱の裏にも内側にも、チョコレートをどかしたその下にも、特にそれらしいものはなかった。
 安室はため息をついて、椅子に背を預けた。
 チョコレートひとつに、何を振り回されているのだろう。
 こんなもの、捨ててしまえばいいのだ。いままで通り。
 それで、何の問題もないはずだ。
 手作りだからといって──いや、手作りならば、なおのこと。

 多分チョコレートには、盗聴器が仕込まれていて、あの子は「あわよくば」を狙っているだけ。──それが最も有力。
 何らかの薬が仕込まれている可能性も、ゼロではない。
 自分の気づいていないメッセージが隠されている可能性も、あるだろう。
 梓が言っていた、「お返し狙い」という可能性も、まあ、あるかもしれない。
 ──ただ単に、何の理由もなく、あるいはちょっとした好意と「お世話になってます」の気持ちでチョコレートをくれたのだ、という可能性よりは。

「……何を考えてるんだ」

 つぶやいて、頭を掻く。
 そんな可能性は、無いに決まっている。散々確認した通り、あの子と自分はそういう関係ではないし、あの子は安室がこのチョコレートを食べないことを知っている。
 割ってしまえばいいのだ。
 そう考えて、いびつな丸い塊をにらむ。
 ここから盗聴器が出てきたら、答えは確定だ。

「……」

 それでも。

(確認をしなければ、「普通のチョコレート」かもという可能性は残る)

 そう、思ってしまって。
 安室はため息をついて、箱のフタを閉じた。
 どんなに疑ってみても──結局のところ、自分は、チョコレートを差し出された時、心のどこかで期待したのだ。
 ただ単純に、親しい相手にするように、あの子が自分にチョコレートをくれたのかもしれないと。
 その可能性がゼロではないと想像するくらい、そうであったかのように誰かに話をするくらい、いいのではないかと……そう、思ってしまったのだ。

「……どうせ捨ててしまうくせに、勝手だな」

 安室は自嘲する。
 それにたとえこのチョコレートがそういう、普通のチョコレートだったとしても。自分は、それを受け取るに値する人間ではない。
 安室は余計な考えを振り払うように、首を振った。

『毒が入ってるんだよ』

 囁いた声を思い出す。
 ──このチョコレートには、毒が入っている。

「だから、食べられない……」

 そう言い訳して、箱を置く。

(店が終わった後、梓さんの目がないところで処分しよう)

 そう考えて、コーヒーを飲み干すと、店に戻った。



「あ、安室さん」
「戻って来た」

 休憩に入っていたのは三十分程。その間に客は入れ代わっており、カウンター席にはコナンの姿があった。どうやら来たばかりのようだ。
 安室は笑顔を浮かべて声をかける。

「いらっしゃい、コナンくん。まだ夕飯には早いから、コーヒーでも飲む?」
「うん」

 コナンはふいっと目をそらして、頷いた。

「……?」

 どうしたのだろうかと、コーヒーを注いで目の前に置き、様子を確認しようとしたところで、別の客に話しかけられる。

「ねえ安室さん、安室さんがチョコ受け取った子について、話してたんだけど」

 どうやら、客は入れ代わったが同じ話題が続いていたらしい。安室は苦笑する。

「まだその話してるんですか?」
「だって、いままでそんな話してくれたことないじゃない」

 ねえ、と安室の母親くらいの世代の女性たちがキャッキャと盛り上がる。梓は苦笑気味だ。

「小柄で、可愛い子なんでしょ」
「その子のチョコだけ、受け取ったのよね」
「読書とお菓子作りが趣味の」
「写真とかないの?」
「ありませんよ。あっても見せません」

 安室の答えに、何故かその場が盛り上がる。
 大事にしてる、とかなんとか、勝手に想像をふくらませているらしい。
 ちらりとコナンに目をむけると、コナンは店内の話など興味ない様子で、文庫本を読んでいた。

「年下なんでしょ。いくつくらい?」
「内緒です」

 人差し指を唇にあててそう答えると、今度はブーイング。ケチね、と言いながら、勝手にどんな子だろうかと想像し始める。
 この調子なら、期待以上に噂は回りそうだ。
 梓を代わりに休憩に送り出すと、その後でぽつぽつと客も帰り始めた。
 コナンは相変わらず本を読んでいる。お客さんも少なくなったので、少しくらい話をしてくれてもいいのにな、ともう一度目をやって、安室はふと首を傾げた。
 本のページが進んでいない。
 普段なら、もっと進んでいるはずだ。
 安室は少し考えてから、コナンの手から本を取り上げた。

「コナンくん」
「あ」

 コナンはパッと顔を上げる。その顔はどこか気まずげだ。

「そろそろ、夕飯にする? 何がいい?」
「えっと、ハンバーグ……」
「了解」

 答えて、本を返す。ちらりと見えたタイトルは、アントニイ・バークリーの有名なミステリーだった。読んだことはないが、今日という日に読むにはある意味ぴったりなのかもしれない。
 ちらりと休憩室に置いたチョコレートのことを思い出し、首を振ってハンバーグの準備を始める。
 コナンは返した本を開かず、じっと安室の作業を眺めていた。
 他に客がいなくなって、コナンは口を開いた。

「……あのさ」
「うん?」
「チョコレート……どうしたの?」

 コナンからその話をしてくるとは思わなかった。安室は肩をすくめた。

「毒入りチョコレートのことかい?」

 そう言うと、コナンはむっと口をとがらせる。

「そっちじゃなくて」
「え?」

 安室はきょとんとして手を止めた。コナンはもどかしげに言う。

「だから……もらったんでしょ、チョコレート。可愛い子に」

 安室は目を瞬かせた。
 一拍置いて、気づく。
 どうやらコナンは、先ほどまで安室と客たちが話していたのが自分のことだと気づいていないらしい。
 確かに、かなり曖昧に話をしていたから、誤解してもおかしくはない。
 でも、なら何故不機嫌そうだったのだろう。安室はてっきり、コナンは自分をだしに適当な噂を流そうとしている安室に呆れているか、腹を立てているのだとばかり思っていた。

「扉にあーんな張り紙までしてたくせに」
「……だって、張り紙を貼る前に来たんだよ」
「ふうん」

 コナンは素っ気なく言ってコーヒーを口にした。
 パン粉を牛乳にひたしながら、考える。
 コナンは何故不満げなのだろう。
 自分は学校でチョコをもらえなかった。──歩美がいるのに、そんなわけがない。
 蘭からチョコがもらえなかった。──それもないだろう。朝の話が本当なら、昨日彼らは一緒にチョコレートを作っている。その時にもらっているはずだ。
 安室がチョコレートを受け取ると、何か不都合があるのだろうか。

「安室さんさ」

 コナンがつぶやく。

「……そのチョコ、どうするの?」
「……」

 安室は、面白くなさそうな、あるいは何か心配しているような表情のコナンを見つめた。
 ぽつりと、言葉がこぼれる。

「──食べようかな」

 コナンは目を丸くした。
 それを横目に手を洗い、休憩室に行く。
 何かあったかと目を丸くする梓に何でもないと手を振り、チョコレートの箱を手に取った。
 ──いま自分は、少し都合のいいことを考えているかもしれない。
 でも、もしかしたら。
 チョコレートの箱を持って戻ると、コナンが「え」と声をあげた。
 それを無視してリボンを外し、三つ並んだチョコレートを一つつまんで、口に入れた。
 ゆっくりと、舌の上で溶かしたチョコレートは──ただの、チョコレートだった。
 おかしな味も、異物もなにもない、ただのチョコレート。
 安室はふっと笑って、もう一つつまむと、ぽかんと開いたコナンの口に押しこんだ。
 チョコはあっさり、飲み込まれる。
 安室の見つめる先で、コナンはじわじわと頬を赤くした。

「……ボク、お菓子作りは趣味じゃないんだけど!?」

 ようやく、先ほどまで噂されていた「可愛い子」が誰かに気づいたらしい。
 安室は笑った。

「手作りをもらったって言っただけなのに、話が大げさになったんだよ」
「信じらんねー……」

 コナンは顔をしかめてぼやくと、そっぽを向いてしまった。
 笑って、残りの一つを口に入れる。
 甘いチョコレートは、すぐに口の中で溶けた。それを惜しみつつ飲み込んで、空っぽになった箱のフタを閉じる。

「美味しかった。ごちそうさま」
「~~お粗末様でした!」

 コナンは自棄になったように怒鳴った。
 箱とリボンをエプロンのポケットにしまう安室をじっと見つめるコナンに、たずねる。

「……どうして、毒入りなんて言ったの?」

 コナンはまたツンとそっぽを向いた。

「別に何だっていいでしょ」
「……教えてくれたらデザートにレモンパイつけるんだけどな」
「そんなもので買収されません」
「どうしても、駄目?」
「駄目! ──もう、お腹空いたから、早くハンバーグ作って!」
「はいはい」

 肩をすくめ、調理に戻る。
 ──都合よく、想像するなら。
 この子は多分、安室がチョコレートを食べられないことを知っていて、あるいは、あの時そのことに思い至って、安室に理由をくれたのだ。
 罪悪感なく、チョコレートを捨てられる理由を。
 そして、もしかしたら、せっかくあげたチョコレートを、捨てられても仕方ないと、自分で納得する理由を。

(そこまで考えるのは、都合が良すぎるか)

 安室は苦笑いして、挽肉を混ぜる。コナンはもう安室とは話さないと言わんばかりの態度で、壁のように顔の前に本を立てている。
 それにしても物騒なタイトルだ。『毒入りチョコレート事件』とは。
 理由なんて色々選べただろうに、「毒」なんて言葉を出したのは、きっとこの本からの連想に違いない。
 成形した少し小さめのハンバーグをフライパンに落とす。じゅわ、という音。
 ふと思う。

(こんな気持ちでバレンタインを過ごすのは、久しぶりだな)

 少し置いて、ハンバーグをひっくり返す。

「もうすぐ出来るから、ちょっと待ってね」
「──ねえ、安室さん」
「なんだい」
「なんで……チョコレート、崩してみなかったの?」

 不意打ちの問いに、安室は一瞬、手を止めた。
 コナンは大きな目でじっと安室を見つめている。
 ──名探偵は、伊達ではない。
 こちらが謎解きをしているつもりだったのに、こちらの抱えた謎も、放っておいてはくれないらしい。
 ──でも。
 コナンにはきっと、わからないだろう。
 疑いながらも、チョコレートを崩してみることが出来なかった、安室の気持ち。
 それは──まだ、謎のままで、知られなくていい。

「……さあ。何でだろう。推理してみなよ、探偵くん」

 不満げな声を上げるコナンに笑って、安室はハンバーグを皿に乗せる。
 いつか。
 彼はこの謎を解いてくれるだろうか。
 そんな日が来ればいいなと夢を見て、安室は微笑んだ。