雨宿りと男の話
ふっと外が暗くなった。読んでいた本から顔を上げて窓の外を見る。
もうそんな時間だったか、と見ているうちに、窓から見える空にあっという間に黒い雲が流れ込んで、直後に雨粒を落とし始めた。夕立だ。
「蘭姉ちゃん、雨だよ!」
声をかけて、開けていた居間の窓を閉める。キッチンから蘭が飛び出してきて、奥の部屋に向かった。
「コナンくん、ごめん、事務所見て来てもらっていい?」
「わかった」
事務所には小五郎がいるはずだが、居眠りしている可能性もある。
急いで階下の事務所に行ってみると、開いた窓から雨が吹き込んでいた。慌てて窓を閉めて、「おじさん!」と声をあげる。しかし、応えはない。
コナンは窓にしっかり鍵をかけてから、事務所を見回した。デスクにも、応接ソファにも、小五郎の姿はない。トイレにも人の姿はない。事務所は見事に無人だった。
(こりゃ、抜け出してどっか遊びに行ったな? それとも、ちょっと買い物か?)
仕方のないおっさんだ、とコナンはため息をつく。
大した貴重品は置いていないとはいえ、鍵もかけずに、不用心にもほどがある。
その時、ポケットに入れていたスマホが振動した。コナン名義のスマホだ。取り出すと、小五郎の名前が表示されていた。
「はい?」
『おう、コナン』
「おじさん、どこにいるの?」
その問いで、自分の不在がばれていることを、小五郎は察したようだった。
『机の上の書類、無事か?』
「間一髪ってところかな。なんでおじさん事務所にいないの」
『タバコ買いに出たんだよ。そしたらこの雨だろ? 通り雨かと思ったら止む気配もないしよ。まったく、最近の天気はどうなってんだ』
「……傘持ってないんだね」
その辺で買えば、と言えば、出来たらやってる、と苛立った声。
『この雨で近くの店のビニール傘が軒並み売り切れなんだよ。コナンお前、アイス食べたいだろう』
コナンはため息をついた。
傘を持って迎えに来い、ということだ。アイスひとつでこの豪雨の中出て行く気にはなれないが、なにぶん、居候の身だ。
どこ、と場所を問うと、弾んだ声で答えが返ってきた。
戻って蘭に報告すると、蘭はため息をついた。
長靴と、レインコートと、と準備する合間に「お父さんがごめんね」と言うので、いいよ、と首を振る。
「おじさん、アイス買ってくれるって」
子どもぶってそう言えば、蘭は苦笑した。
「お夕飯前だから、ちょっとだけだよ? 私も行けたら良かったんだけど」
「蘭姉ちゃんはご飯作ってるでしょ」
だいたい、この雨の中蘭を外に出すくらいなら、自分が行く方が何倍もマシだ。
長靴にレインコートに傘、ついでに小五郎の大きな傘を持って、気をつけるんだよ、という蘭の声を背に外に出た。
もしかしたら止むのでは、と期待していたのだが、一向に止む気配はない。出てきてしまった以上、途中で止んでしまうのもしゃくだ。絶対に雨が降っているうちに小五郎のところに到着してやると、足を速める。
雨の勢いは強く、夕暮れ時で視界が悪い。しかもレインコートは蒸れる。道を行く人も、急な雨に慌てて帰路を急ぐ人ばかりで、何度か大人にぶつかり、舌打ちをされた。こんな時は、小柄な身が嫌になる。
そんなこんなで、なんとか小五郎の指定する店についた時にはぐったりしてしまった。
指定されたのは、コンビニの隣の喫茶店だ。ポアロ以外の喫茶店には、あまり立ち入らないので、少し緊張しながら扉を押す。
いらっしゃいませ、という落ち着いた男性の声と、おうコナンこっちだ、という小五郎の声。
レインコートのフードを下げて傘をたたんでいると、初老の店員が「おあずかりしますよ」とレインコートを脱がせて入り口のコートかけにかけてくれた。
「ありがとうございます」
礼を言ってから、小五郎のいるテーブルに向かう。
店内は同じ雨宿りの客で満席だったが、それでも十人少し。ポアロと比べるとこじんまりとしている。
「ちゃんと迎えにきたよ」
コンビニでアイス買って帰ろうよ、と言うと、まあ座れ、と向かいの席を示された。
「注文したコーヒーが出てきたとこなんだ。お前も、何か注文しとけ」
「ええー? 蘭姉ちゃんご飯作って待ってるよ?」
「十分や二十分いいだろ」
コナンはため息をついて、バニラアイスを頼んだ。
雨脚は弱まる気配がない。夕飯時だからか、諦めたのか、客がぽつぽつと出て行く。
すぐに出てきたアイスをつついていると、コーヒーを飲み干した小五郎が不意に、あー、と口を開いた。
「お前、最近どうだ」
「……え。ボク? 最近って、別に何もないけど」
「何か困ってることとかよ」
「ないよ。どうかしたの?」
小五郎はため息をついた。
「あー、もう面倒臭ぇから単刀直入に聞くが、安室くんとは最近どうなんだ」
「へっ? 最近どうって、なに?」
唐突に出てきた男の名前と、妙な聞き方に目をむく。
「安室さんどうかしたの?」
「どうかしてたのはお前らだろうが。連休明け、みょーによそよそしくなってよ」
「……別にもともとそんなに仲良くないけど」
コナンはごまかすようにもごもご答えてスプーンをくわえる。
ゴールデンウィーク頃、安室を避けていたのは、事実だ。
IoTテロの件で、毛利家を巻き込んだことへの抗議のつもりであったが、想定外に長期化し、蘭や風見に心配をかけていたのは、知っている。
小五郎もなにか気にしている様子ではあったが、いまに至るまで、口に出して何か言われたわけではなかった。そしてその件は、一ヶ月程前に解決している。その後は普通に接している、はずだ。
なぜ今更、とコナンはアイスをつつきながら小五郎を見上げる。
「お前、この間怪我して帰って来ただろう」
「え。ああ、うん」
引ったくりを捕まえた時に膝をすりむいて、安室に手当てをしてもらった件だ。
「安室くんがあの後、一緒にいたのにあんな怪我させてすみませんって、謝りにきたんだよ」
「え? いや、あれはボクの自業自得なんだけど」
「んなこたわかってる。お前な、探偵ごっこに大人を巻き込むなよ」
「……はあい」
「あいつも始終怪我してるみてえだし。先月の、それこそ連休頃にも怪我してただろ」
コナンはヒヤリとした。
あの時、コナンに付き合ったせいで安室は大怪我をしている。うまく隠していたので、まさか自分以外の人間が気づいていると思わなかった。
(やっぱりオッチャン、たまに侮れねぇよな……)
とりあえずは、ごまかす。
「そうなの? ボク気づかなかったなー」
「あの時もお前が何か巻き込んだんじゃねーのか」
「知らないよ」
後ろめたさはあったが、安室もこれをばらされて得するわけではない。それに巻き込まれた云々を言うなら、最初に巻き込んだのは、あちらだ。
小五郎はハーッとため息をついた。
「そう言うなら、とりあえず信じてやるがな」
「……急にどうしたの。今更、そんな話持ちだして」
「オレだって男同士の話に無闇矢鱈と首を突っ込む気はねぇんだよ。それにあん時は、大人の方に釘さしたしな」
大人の方、とは安室か。それは全然知らなかった。
「それで、なんで今回はボク? っていうか、この間の怪我が何?」
「だから、お前、あんまりあいつの前で怪我とかすんなってことだ」
「なんで」
単純に不思議で、そうたずねると、小五郎は「なんででもだよ」と答えた。
「とにかく、お前の前でどうだったか知らんが、あの後怪我は悪化してないか、心配してたぞ。大人にああいう顔をさせるな」
「ああいう顔って?」
小五郎は言葉に詰まって、顔をしかめた。
「なんつーか……いや、どうでもいいだろ。とにかく、変な顔だよ」
「わかんないよ、そんなこと言われても。安室さん、ボクの前だといつもにこにこしてるし」
小五郎はまた顔をしかめて、ぼやく。
「……あいつもたいがい複雑っつうか、面倒な性格してるな」
それには同意だが、大人しく黙っておく。小五郎も腕組みをして、黙ってしまった。
窓の外は、まだ雨だ。
傘をさして通り過ぎる人の流れを見ながら、考える。
怪我は、そりゃ、しない方がいいだろう。しかし、安室の前で、というのはなぜだろう。そして、あんな顔、というのはどんな顔か。
アイスの最後の一口を口に入れて、こくりと飲み込む。
安室は、あれで小五郎に一定の敬意をはらっている。そういう、年上の男の前でなら見せる顔も、あるのだろうか。ならばそれは、いまも本来の姿でも、年が随分と下の自分には、一生見られないものなのかもしれない。
そんなことを考えていると、小五郎が小さくつぶやいた。
「──何かをなくすとな、人間は臆病になる。壁作って、自分は一人なんだと開き直る。……でも、それはまだ早えだろ」
それは、安室のことか。
確かにあの人は、どこか「一人」のイメージだった。誰かを亡くしているのかな、というのは、コナンも考えたことがある。以前、事件に巻き込まれて病院に運ばれた時に動揺を見せたのも、そのせいだろう。
なるほど、だから「怪我するな」か、と納得する。
それにしても、小五郎はよく見ている。弟子などと言っても口だけで、適当にあしらっているのかと思えば、存外、気にかけているらしい。
「とにかく、お前みたいな変なガキに構ってくれる奇特な大人なんだ。あんま心配かけんなよ」
その奇特な大人は、奇特が行き過ぎて小学生を利用しようとしているんですが、と内心思いながら、「はあい」と答える。
小五郎は、そんなコナンを見下ろして、目を細めた。
「お前、なんだかんだ安室くんのこと気に入ってるだろ。振り回して愛想つかされないようにしろよ」
コナンは突然の言いがかりに目をむく。
「は? 何それ。気に入ってないし、振り回してもいないんだけど」
「うそつけ。それに、お前にその気がなくてもあいつは振り回されるんだよ」
「それはボクのせいじゃないんじゃない?」
「自覚がねえのが一番性質悪いんだ」
ケッと突き放すように言って、小五郎は立ち上がった。
「食い終わったなら帰るぞ」
「ちょ……もう、待ってよおじさん」
支払いを済まして外に出ると、雨はあがっていた。
変な言いがかりはつけられるし、雨は止んで迎えに来たかいがないし、散々だ、とむくれる。着なおしてしまったレインコートも暑い。
小五郎は気にした様子もなく、コナンの持ってきた傘を持って、いくぞ、と歩き始めた。
夕時で人は相変わらず多かったが、後ろをついて歩くと、行きよりはスムーズに歩けた。
背中を眺めながら、もしかしてずっと、話をするタイミングをうかがっていたのだろうかと、考える。
安室のことなのかコナンのことなのか、どちらの比重が大きいのか、わからないが、心配をかけていたのは、確からしい。
変な、いや、不思議な大人だよな、と思う。
抜けているように見えて鋭いし、コナンを普通の子どものように扱うかと思えば、安室のような大人と対等に扱う。
「ねぇおじさん」
「あん?」
「そもそもさ、ボクと安室さんって、おじさんにはどんな関係に見えてるの」
小学生と三十手前の大人だ。一般的には、到底、対等な何かが成り立つような組み合わせではない。
小五郎は嫌そうな顔でちらりとコナンを振り返り、言った。
「弟子と居候なんて、どっちも息子みてーなもんだろ。お前らの小競り合いなんて、兄弟喧嘩だ」
「……それは、ちょっと雑過ぎない?」
いささか呆れてそう言うと、いいんだよ、と頭を叩かれた。
「いいからさっさと帰るぞ」
「寄り道したのそっちじゃん」
文句を言いながら、足を速める小五郎を追いかける。
(──息子。息子ねぇ)
自分にはちゃんとした父親がいるし、こんなポンコツ探偵が父親なんてな、とは思うが、少し、くすぐったい気持ちもある。安室と兄弟、というのは、微妙なところではあるが。
コナンは小走りで小五郎に追いつくと、袖を引いた。
「ねえおじさん、ボク、蘭姉ちゃんのご機嫌とるために何かお土産買っていった方がいいと思うんだけど」
「あ? ……ああ。そこのコンビニでアイスか何か買ってくか」
ほら行くぞ、と手を取ってコンビニに方向転換する小五郎に、コナンは「はあい」と答えて手を握り返した。