四月の魚




 桜の花が咲いている。
 先週からほころび始めたつぼみは今週一気に花を咲かせはじめ、あっという間に満開になった。
 少しばかり憂鬱な気分で毛利探偵事務所まで戻ってきたコナンは、何となく、そのまま家に帰るのを躊躇って、一階に足を向けた。
 お花見をするなら、今週末では遅いんじゃないか、と話をしているサラリーマンと入れ違いに、喫茶ポアロのドアをくぐる。

「こんにちは」

 客を見送ったばかりでレジ前にいた安室が、コナンを見て「いらっしゃい」と笑顔を見せた。

「今日はひとり?」

 それにうなずいて、客の入りが六割程度の店内を見回す。丁度、休憩時だ。ご近所の奥様方や外回り中のサラリーマンでテーブル席の多くは埋まっていた。

「カウンターでいいかな?」
「うん」

 案内されるまま、コナンはカウンターの一番端の席に座った。
 一応メニューを手に取ったが、頼むものはだいたいいつも決まっている。

「ケーキセットひとつ。飲み物は……今日はあったかいのがいいな。──カフェオレで。今日はケーキなに?」
「本日のおすすめは、フルーツパイだよ」
「じゃあ、それでお願いします」
「はい。──まだ外、寒い?」

 おしぼりを受け取って、肩をすくめる。

「また冬に逆戻りしたみたいな感じ」
「せっかく桜も見頃なのにね」

 この時期、大人はみんなお天気と桜の話をしている気がする。思わず苦笑すると、安室はカフェオレを出しながら首を傾げた。

「どうかした?」
「ううん、なんでも」

 桜、と言えば。先日、安室は梓とお花見にちなんだケーキの話をしていた。
 期間限定メニューを開発するらしい。まめなことだ。
 色々──そう、色々と「やること」があって忙しいだろうに、安室はそんな様子はかけらも見せない。自由気ままな、駆け出しの私立探偵兼アルバイター。ポアロで働いている安室は、まさにそんな印象だった。

「はい、お待たせ」

 カップを両手で持ってぼんやり手を温めていると、目の前にケーキが置かれた。

「ありがと──って、何これ」

 出てきた皿の上を見て、コナンは目を丸くする。
 フルーツパイはフルーツパイなのだが、パイ生地が魚の形をしていた。
 ぼんやり考えていた流れで、何となくきれいめの、お花見にちなんだ造形のものが出てくるような気がしていたので、目の前の魚型のパイの、チョコレートで出来た丸い目をまじまじと見つめてしまう。
 何故、魚。

「──あ、ポワソン・ダブリルか……」

 気づいてつぶやくと、安室は「よく知ってるね」と笑った。
 ポワソン・ダブリル──「四月の魚」。
 起源は諸説あるが、要は、魚の形をしたお菓子を食べるフランスの風習だ。魚の絵をこっそり背中に貼るイタズラをする習慣もあるとか。
 日本での認知度はまだ低いが、この時期、たまに見る菓子だった。

「パイもだけど、魚の形のチョコレートとか、売ってるお菓子屋さんあるでしょ。これ、期間限定ってやつ? この間話してた、お花見イメージのケーキって、これじゃないよね?」
「もちろん。それは、パイシートが余ってたから思いつきでね。本日限定だよ」

 本日。四月一日。ポワソン・ダブリル。──要するに、エイプリルフールだ。
 コナンは少し顔をしかめた。
 エイプリルフールは、「嘘をついてもいい日」だ。そういうことになっている。
 いつ頃からか、企業を中心にこの日限定のお遊び企画も増えて、日本ではお祭り的に楽しまれるようになった。
 別に、嘘をつかねばならないというわけではないのに、何か変な義務感でも芽生えるものなのか、あるいはお祭りには参加せねばという気になるのか、小五郎も蘭も、今朝、「競馬で百万当たった」だの「十キロ太っちゃった」だのと、他愛のない嘘をついていたし、さっき阿笠のところで遊んでいた時も、元太が「オレ、鰻が嫌いになっちまった」と意味もない嘘をついてきた。
 彼らは他愛のない嘘をついて、笑い、そしてコナンを見て問いかける。

 ──コナンくんは、何か嘘つかないの?

 思い出してしまった。
 コナンはため息を飲み込んで、パイにフォークを入れた。頭の部分についていたチョコレート製の丸い目が無くなると、パイからは急にとぼけた印象がなくなった。
 ──嘘なんて、この日に限らずつき続けている。
 だから、「嘘をついてもいいですよ」と言われても、困ってしまう。嘘に嘘を重ねたところで、結局は嘘で、自分が彼らについている、少しも他愛なくなんてないひどい嘘が、今日ならば許されるなんてことも、あるはずがない。
 逆に言えば、今日だからより一層駄目だということもないわけで、コナンにとって今日は、特にどうということもない、ただの四月の一日だ。
 ──でも。
 蘭や友人たちの、罪のない嘘を聞いていると、少し後ろめたくなる。
 少年探偵団の仲間たちと遊ぶのを早めに切り上げて、事務所にも戻らずに、こんなところで時間をつぶしているのは、だからだった。
 チョコレートの目とイチゴの乗ったパイを口に入れて、飲み込む。
 ほんのりとした甘みと酸味は、少しささくれた気持ちを落ち着かせた。

「……おいし」

 思わず口に出すと、安室がからかうようにこちらを見た。

「そうなの? 腕によりをかけて作ったんだけどな」

 一瞬、意味がわからずぽかんとする。

「え? だから……ああ。いや、エイプリルフールだからって、わざわざ嘘とかつかないよ。本当に美味しいってば」

 顔をしかめると、安室はわざとらしく首を傾げた。

「ほんとかな」
「ほんとだよ。それを言ったら、さっきの腕によりをかけたっていうのは、嘘なの? ほんとはこれ、どこかで買ってきたんじゃない」
「ちゃんとここで作ったよ」
「ほんとかなぁ」

 見上げて首を傾げると、安室はにっこりと笑った。

「僕だって、わざわざ嘘はつかないさ」

 よく言う。目を細めてにらむと、安室は軽く肩をすくめた。
 客が立ち上がり、安室はレジに向かう。
 コナンはため息をついて、もう一口、パイを食べた。オレンジの酸味が口に広がる。
 エイプリルフールに嘘の話をしても、安室相手だと後ろめたさはなかった。
 ──だから、「ここ」に来たのかもしれない。
 ふと、そう思った。
 今日梓は非番。マスターも不在だ。だから、いまここには、安室しかいない。嘘つきな、この男しか。
 そのことに、コナンは奇妙な安堵を感じていた。
 自分と同じ、嘘つきな男。自分と同じように、本当の姿を隠して、周囲を騙している。
 安心するような相手ではない。むしろ、気の抜けない相手だ。
 敵ではない、はずだ。本来の所属を考えれば、敵を同じくする仲間、同志にもなり得るはずの人間。ただ、いまも組織に潜入していて幹部の地位にあり、また常にNOCの疑いをかけられているこの男の立場を考えると、自分の抱える秘密を打ち明けていい相手とは、到底言えない。
 安室透はそんな、微妙な相手だ。
 身を守るため、仲間を守るためなので、彼に嘘をつくことに後ろめたさはない。一対一になると探りが入って鬱陶しい時もあるが、頭の回転が速い男との会話には無駄がないから、話をすること自体は、嫌いではなかった。
 そもそも、自分たちの間に駆け引きめいたやりとりが成立するのは、お互いに、「嘘」の姿をしているからだ。
 もし自分が工藤新一のままだったら、組織との接点などないわけで、安室が、小五郎や自分を探る理由もない。そうなれば、この男は警察と関わりのある、目立ちたがりの高校生探偵には近寄りもしないだろう。
 そしてこの男が潜入捜査官でなかったなら、その時もまた、彼にこちらを気にする理由なんてひとつもない。一課の関わる事件におかしな子どもがよく出てくる、ということくらいは噂になるかもしれないが、公安がわざわざ気にするようなことではない。
 この関係は、お互いが嘘を抱えているから成立するものなのだ。
 ──だから安心する、というのも、おかしな話ではあるけれど。

 安室は客を見送ると、呼ばれて店内に出た。満席ではないものの、一人で回すには、いささか客の数が多い。
 しばらくは放っておいてもらえそうだと、コナンはパイに向き直った。
 半分になるともう、元が魚の形だったとはわからない。ただのフルーツパイだ。
 小さく息を吐く。
 ゴールデンウィークの約束くらい、すれば良かったんだ、と今日のことを思い返しながら思う。
 みんなで遊びに行こうよ、という歩美のなんでもない誘いに即答出来なかったのは、彼らに対して後ろめたさを覚えていたからだった。先のことなんてわからない、破るかもしれない約束なんてしたくないと、何故か今日は思ってしまった。
 曖昧にうなずいて、毛利家で出かけるかもしれないから確認をすると答えると、すぐに了承がもらえず歩美は残念そうな顔をした。そのことがまた、憂鬱さに拍車をかけた。
 嘘をつきたくてついているわけではない。悪気があるわけでもない。どうしようもないことだ。
 自分に出来るのは、ただひたすら、元の姿に戻る努力をすることだ。

(でも、だからと言って──)

 首を振る。
 後ろ向きになるのは、らしくない。ため息をついて、ブルーベリーをフォークで刺す。

(今日、さっさと終わっちまえばいいのにな)

 もしくは、イギリス式に午前中で終わればいいのに。そう思いながらちらりと振り返って店内の様子を見ると、安室は常連のおばあさんと話をしていた。
 その穏やかな横顔をぼんやりと眺める。
 「安室透」は、常連に愛されている。お年寄りにも、近所の奥様にも、サラリーマンにも、女子高生にも。
 コーヒーをいれるのが上手く、ケーキやサンドイッチを作るのが上手く、話を聞くのも上手い。
 あのおばあさんも、コーヒーを飲みながら、安室や梓と少し話をするのを、習慣にしていたはずだ。
 苺をいただいたの、一人じゃとても食べられないから、今度もってくるわね。梓ちゃんやマスターと一緒に食べて。
 そんな声がきこえる。

(安室さんは、こういうのねーのかな……)

 そう考えて──否定する。
 この男は、潜入捜査官だ。全てわかっていて、安室透という人格を作って、行動しているはずだ。
 人当たりの良い好青年を演じるのも、全て目的があるからだ。
 灰原の件。FBIとの一件。
 目的のために時に手段を選ばないところを、見てきた。自分の目的のために、小五郎やコナンを利用することを、蘭を泣かせることを、選べる人間だ。
 組織に潜入して、いまの地位を得るまでにも、きっと色々あったはずで、それらの全てを、この男は覚悟とともに飲み込んでいるはずだ。
 本人から何かを聞いたわけではなくても、それくらいは想像出来た。
 目の前の安室の横顔からは、そんなことは欠片もうかがえなかった。
 いまも完璧に「安室透」を演じ続けている。
 その成果である本日限定のパイを、もう一口、口に入れる。
 パイはいつも通り、とても美味しかった。ケーキ職人が作っているのだと言われても、信じてしまいそうなくらいに。

(──ああ、そっか)

 気づいてしまって、コナンはそっと目をそらした。
 安心なんてしていたのが、急に馬鹿みたいに、恥ずかしく思えた。
 同じ嘘つき、なんて、そんなはずがない。安室はまるで、自分とは違った。
 この人は多分、こんな日だからと揺らぐような甘さを、己に許さないだろうし、もし嘘に疲れたとしても、苦しくなったとしても、誰かに頼ることはない。
 自分が思い出して、何となくここに足を向けてしまったように、誰かを頼ることは──きっとない。もしそんな相手がいたとしても、それはきっと、自分の知らない誰かだ。
 そう思うと、何だか息が詰まるような気がした。
 考えてみれば、この男のことなんて、ほとんど知らない。
 どこで、いつ生まれて、どうして警察官を目指して、何故組織に潜入することになったのか。
 いまどこに住んでいるのか。何が好きなのか。──そんな、基本的なこと、全てを。

「随分難しい顔をしてるね」

 声をかけられて、顔をあげる。安室はコナンの隣の椅子にこしかけた。
 客の姿が減っている。いつの間にか、残っているのは話に夢中な女性客が一組だけになっていた。
 これならばそうそう声はかけられないだろうし、店員が多少さぼっていても気にしないと見込んだのだろう。
 コナンは笑顔を作った。

「ちょっとボーっとしてただけだよ」
「そう?」

 安室は首を傾げた。そしてコナンの顔をのぞき込み、苦笑する。
 一体何だ、と問う前に、手が伸びて来て、口元を拭った。

「パイは食べにくいのが難点だね」

 パイのくずがついていたらしい。コナンは拭われたところを押さえて、顔をしかめた。

「言ってくれれば自分で取るよ……」
「それで、何を考えてたんだい」

 さらりと無視して、安室はコナンの顔を更にのぞき込んで来る。
 コナンは半分以下になったパイを見た。

「別に大したことじゃないよ。安室さんは、すごいなーって。……お家でも、お料理するの?」
「そりゃね。自分で作らないと、作ってくれる人なんていないから」
「自分で作らなくても、コンビニとかあるじゃん」
「たまにはいいかもしれないけど、頻繁に利用するのは、あまり経済的とは言えないな。どうしても栄養が偏るし」
「ふーん、真面目だね。今日は晩御飯何作るの?」
「今日? なんだろう。何にしようね。コナンくんは、何がいいと思う?」
「……わかんないよ、そんなの」

 わかるわけがない。
 カップを手に取る。カフェオレは残り少なくなっていた。ポアロのカフェオレは美味しい。でも、コーヒーの方が甘いパイに合っただろうなと思った。

「おかわりいる?」
「──コーヒーがいいな。ボク、コーヒー好きなんだ」

 そう、言うと。安室は目を丸くした。
 ひとつ息を吐いてカフェオレを飲み干し、コナンは安室を見上げた。

「なんちゃって! カフェオレ、おかわりください」

 安室はコナンを見つめて、しかし何も言わずに、空のカップを手に取って立ち上がった。そのついでに、くしゃりとコナンの頭を撫でる。

「──っ、なに」
「少々お待ちください」

 安室はパチリとウインクしてカウンター内に戻る。軽く乱れた髪を手で整えて、何なんだ、と戸惑う。
 ──優しい手つきだった。まるで、慰めるような。
 コナンはおかわりを準備する安室をにらんだ。
 こちらがこの男のことを知らないように、この男だって、こちらのことを知らないはずだ。
 知らないくせに──まるで、わかっているかのようなことをする。
 自分はそんな様子を見せはしないのに、自分自身には、そんな甘えを、きっと許しはしないだろうに。
 何も見せてくれないくせに。
 腹が立つ。
 一番腹が立つのは、わかっているのに安室の手にどこかでホッとしてしまった自分だった。
 視線には気づいているだろうに、気づいていないふりをしてコーヒーを入れた安室は、それをそのまま、新しいカップに入れて、コナンに出した。

「……ボク、カフェオレ頼んだんだけど」
「そうだけど。もし飲めるなら飲んでみて欲しくてね。──それ、僕が一番好きな、ポアロのブレンドなんだ」

 どう反応して良いかわからず、ただ穏やかな表情の安室を見上げる。
 一番好き、とか、そんなの、適当に言っているだけだろう。十中八九、そうだ。
 こちらが口を滑らせたから、合わせてくれただけで、それはきっと、こちらを油断させるためだ。頭を撫でたのだって、計算のうち。
 今日は四月一日。それでなくても、この男は嘘つきなのだ。
 でも。
 こちらの告げた他愛もない本当に、同じく他愛もない本当を返してくれたのだったらいいのにと、思ってしまった。
 コナンは、はあ、とため息をついた。
 自分は子どもで、この男は、大人だった。
 自分はいま弱っている。それは本当のことで。──甘えに来て、まんまと甘やかされた。つまりは、そういうことだった。
 カップを手に取る。コーヒーは、美味しかった。

「どう?」

 にっこり笑ってこちらを見つめる安室に、顔をしかめて見せる。

「……苦いよ」
「飲めないなら引き取ろうか」
「飲む。パイと一緒だったら、大丈夫だから。──ありがと」

 安室はそれに「そう」とうなずいた。
 残っていた客が席を立ち、安室はレジに向かった。
 フルーツパイを、口に入れる。
 フルーツがほとんど乗っていない端の部分は、カスタードクリームの味が強く感じられた。多分洋酒が少し入った、甘すぎないクリームを味わう。
 今日だけ。
 今日だけ、この男の嘘を本当だと思って、美味しいケーキを食べて美味しいコーヒーを飲んで、揺らいだ気持ちを立て直そう。
 そうして元気になったらまた、元の体に戻るために、この男と駆け引きをしながら、組織の謎を追っていく。
 ──そして、元の姿に戻れたら。
 その時はきっと、この人のささいな謎を──いつどこで生まれて、どんな風に育って、どこに住んでいて、何が好きなのかを、ポアロのブレンドが好きだというのは本当なのかを、解きあかしてやるのだ。

 人のいなくなった静かな店内から、明るい窓の外を眺める。
 どこから落ちてとんできたのか、桜の花びらが、店の前をひらりひらりと舞っていた。
 少しの息苦しさと甘さを飲み込んで、コーヒーを飲む。
 店を出たら歩美に、一緒に遊びに行こうと連絡をしよう。
 そう決めて、コナンはぎゅっとカップを握りしめた。