いまはまだ届けない




 消灯時間を過ぎた入院病棟は、非常灯の灯りがぽつりぽつりと見える以外、暗い闇に沈んでいた。
 安室はキャップを目深にかぶり直し、足音を立てずに廊下を進む。
 就寝にはまだ少し早い時間だったが、患者たちは大人しく規則に従っているのか、フロアはしんと静まり返っている。目的の病室も、灯りが消え、ドアは閉まっていた。
 鍵がかかっているかもしれないという予想に反して、特別病室の扉は少し力を入れただけですんなりスライドした。

(──不用心な)

 時間外に侵入している自分を棚に上げて顔をしかめ、するりと部屋に入ると扉を閉める。
 扉は開けた時同様、音もなく閉まった。ひとつ、息を吐く。
 同じフロアの別の病室に世良真純が泊まっていることは、把握している。彼女は要注意人物だ。
 安室は視線を上げ、薄暗い部屋の中を見回した。
 特別室と言っても、個室で来客スペースが少し広い程度だ。付き添いが泊まるためのベッドやソファもない。患者が小学生であることを考えれば、無駄な広さが逆に心細さをかき立てそうな部屋だが、肝心の患者──江戸川コナンに関しては、その心配は不要だろう。
 そのコナンは、カーテンを開けっぱなしにした窓際のベッドに腰かけて、外を見ていた。

「──こんばんは」

 声をかけると、コナンは振り返る。
 額や腕に巻かれた包帯、そして少年の肌は、窓の外からのわずかな明かりを反射して、薄闇に白く浮かび上がって見えた。

「……安室さん。こんな時間に、どうかしたの?」
「お見舞いだよ」

 安室はベッドに近づく。
 近づくと、窓からは病院の駐車場が見えた。安室の愛車も視界の端に映る。わかっていて、そこに停めた。
 コナンは警戒するように目を細めた。

「お見舞い? ……そんな真っ黒な格好で」

 人目につくのを避けるために着ている黒いパーカーやキャップが、組織を連想させたのかもしれない。
 安室は否定するように笑って見せ、肩をすくめた。

「そう。ほら、この通りお見舞いの品も持ってきた」

 手にした小さなケーキの箱を持ち上げて見せると、コナンは呆れ顔になった。

「あのさ、ボク、ただの検査入院なんだけど。検査入院っていうか、念の為一晩泊まるだけで、検査も終わってるし。明日の朝には退院だよ」
「帰ってから食べればいいだろう」

 そう言って、部屋に備え付けられた冷蔵庫の扉を開け、電源が入っていることを確認してケーキを入れる。
 ぱたん、と扉を閉めると、部屋には沈黙が落ちた。
 コナンはどこか気まずげな様子だ。
 何故安室がここに来たか、薄々わかっているのだろう。安室はにこりと笑みを浮かべた。

「──名古屋は、随分楽しかったみたいだね?」

 コナンは眉を下げ、ため息をついた。

「あー……まさか安室さん、この件担当してたりはしない、よね?」
「まさか」

 公安はそこまで人が足りていないわけではない。潜入捜査中の安室が、WSGなんて世界的な祭典に関わるわけがない。──本来は。
 安室が出てくる羽目になったのは、リニアの暴走を止めた巨大なサッカーボールのせいだ。
 東都の危機を救った……と言えるか今回は微妙ではあるが、不審なサッカーボールの出現は二度目。以前に大観覧車の暴走を止めた時に、公安──否、安室がどれだけ苦労してあの巨大ボールを「無かったこと」にしたか。その「前科」があったから、今回も連絡が来たというわけだ。
 もっとも、謎の巨大ボールが出現しなくても、安室は今回の件をひそかに追っていた。
 鈴木会長の事件の後、日本にいるFBIの人間が動き出したことを、公安も察知していたからだ。
 過去米国で起きた誘拐事件をなぞるように起きた事件は、もしそのまま同じように進めば公安の管轄になる。
 当然、次のターゲットと目されたジョン・ボイドのことも把握していた。彼が毛利探偵事務所に現れたことも、リニアライナーに乗ることも、毛利たちの名前が搭乗者名簿にあることも。
 とはいえ、潜入中の安室が彼らにくっついて、世間で大注目されているイベントに参加するわけにもいかない。タイミング悪く、組織の案件で都内から出られない事情もあった。
 だから。安室は公安の担当部署に対処を任せ、ただ経緯を見守るしか出来なかった。
 ──名古屋国際空港病院でクエンチが発生した時も、コナンが世良真純一人だけを連れてリニアに乗り込んだ時も、リニアが暴走を始めた時も。
 一切、手が出せなかった。
 遠くから組織の目を盗んで公安の部下に指示を飛ばし、確認を任せるしかない状況は、どうしようもなくもどかしかった。
 焦りと苛立ちがつのる中で、この件に関与しているはずの赤井が、何故あの子のそばにいないのかと憤った。
 自分を棚に上げたひどい八つ当たりで、言いがかりだ。
 安室だってわかっている。
 一緒になんて、いられるはずがない。あの男は世間的に死んだことになっていて、いけ好かない大学院生の姿であっても、目立つ場所に出ていくわけにはいかない。それは自分と同じだ。
 そう、思っていた。──なのに。
 あの男が放った一発の弾丸は、コナンの危機を救った。
 姿を現さず、遠くから。あの男は、この子を鮮やかに救ってみせた。

(──いつだって、あいつはそうだ)

 自分に出来ないことを、易々とやってのける。
 結局、その後暴走を始めたリニアを止めたのは世良真純とコナンで、それを見ているしか出来なかったのは、あの男も同じだっただろうけれど。

「ええと……安室さん、怒ってる?」

 黙り込んだ安室に、コナンが困ったように眉を下げた。
 ──怒っているか。
 そう問われれば、その通りだ。けれど、コナンに怒っているわけではない。
 彼が犯人を止めようと全力を尽くしていたことは、知っている。それでも出てしまった被害は、リニア開発現場のセキュリティ対策の落ち度で、極論を言えば、国際大会が開かれるこの時期にそれを許した国の安全対策の落ち度だ。
 怒りを感じるならば、不甲斐ない同僚に対して。あるいは、ろくに情報連携もせずにやりたい放題だったFBIや、赤井秀一──そして、結局は何もしなかった、自分にだ。
 ひとつ息を吐く。

「──君には、怒っていないさ。事情も経緯も知っているからね。無茶ばかりすると、ヒヤヒヤしたけど」
「それは、安室さんには言われたくないよ」
「……」

 確かに、IoTテロの際に一緒にあれだけ無茶をした前科があるから、言い訳は出来ない。
 でも。

(──今回、君は一人で。僕はいなかったじゃないか)

 あれだけの無茶をしたけれど、あの時自分は、コナンと二人ならばやり遂げられると信じていた。死ぬ気なんて微塵もなかったし、何があってもこの子だけは守ると、決めていた。
 事実、安室がいなければ、コナンはあの時ビルから落ちて無事ではいられなかったはずだ。
 後から振り返って、考えることがある。
 この子はあの時、安室透が自分を助けると信じて飛び出したのだろうか。それとも、そんなことすら考えず、ただ大切な少女を守るために必死で、自分たちのことなどどうでも良かったのだろうか。
 前者だと信じられるほど、自分とこの子の距離は近くない。まして自分は、彼を陥れ利用した直後だった。しかし、後者だと考えるのも違和感があった。彼は、無茶ばかりしているが無謀ではないし、土壇場でも自棄になるタイプではない。
 ならば、安室が借りくらい返すだろうと、そう思っていた……くらいが妥当なところか。であれば、それはそれで、この子なりの信頼と言えなくもなかった。
 あの時自分は、彼の協力者であり、保険であったのかもしれない。
 ──でも、今回は。
 彼は最後尾の仕掛けを世良真純に託して、危険な先頭車両に向かった。助けてくれる人がいない状況で、一人で。
 間に合って、帰ってきた。でも、それは結果論だ。
 少し揺れが大きければ、脱線は早まったかもしれず、彼の避難は遅れて大怪我をしていたかもしれない。最悪、死んでいた可能性もある。
 そんな場所に、何故一人で向かったのか。──何故、一人で向かわせてしまったのか。
 見下ろした先、白い包帯の色が目に刺さるような気がして、安室はつばを下げた。

「……安室さん、今日は静かだね」

 からからに渇いた喉の奥から、何とかいつも通りに声を出す。

「いつもはうるさいみたいに言うね」
「おしゃべりなのは事実じゃん。ていうかボク、すごく怒られると思って車が見えた時から覚悟してたんだけど」
「何故、怒る必要が? 君は、不甲斐ない僕らの代わりに尽力してくれただけじゃないか」
「──なら」

 コナンはため息をついた。

「安室さんは、ここに何をしに来たの? そうやって、真っ暗な中でうつむいて、離れたとこでポケットに手ぇ突っ込んで立っていられても……何もわからないよ」

 言葉に詰まる。
 釘を刺しに来たわけでも、怒りに来たわけでもない。
 ならば、何をしに来たか。
 安室はグッと奥歯を噛みしめ、顔を上げると、薄い笑みを浮かべて見せた。

「……言っただろ。──お見舞い。それだけだ」

 コナンは安室を見上げ、何度かゆっくり瞬きした。
 すっと、包帯が巻かれた腕が、安室に向けてのばされる。
 ビクッとして思わず後ずさると、コナンは苦笑した。

「お見舞いに来たなら、さ。せめて、怪我の具合くらい聞くべきじゃない?」

 そんなことは、とうに知っている。
 裂傷と、打撲が少し。全治数週間の、軽傷。念の為の検査でも異常は無し。
 それくらい、病院に来る前に部下の風見から聞いていたし、カルテの情報も見ていた。
 コナンだって、わかっているだろう。怪我の程度がどの程度か、安室が調べないはずがない。それもせずに、夜中に顔を出したりするわけがない。
 なのに、コナンは怪我をした腕をこちらに伸ばしたままだ。
 おそるおそる、足を踏み出して、手を取る。
 細い腕から力が抜けて、安室の手に委ねられた。
 とくりと、細い手首から鼓動が伝わる。
 安室は唇をかんだ。

「っ……痛みは」
「まだ動くと多少ピリッとするけど、大丈夫」

 コナンは穏やかに答える。

「……打ち身は。歩ける?」
「勿論。ここにだって自分で歩いてきたんだから」
「痛みで眠れないから、起きてたんじゃないのか」
「眠れないのは……まだちょっと興奮してるからじゃないかな。色々あったし」

 コナンは笑って肩をすくめた。つられて少し笑う。

「……名古屋に行って東京に帰ってくるだけで、あれだけの大冒険になるのは君くらいだ」
「今回だけだよ」
「──怪しいものだな」

 本当に。この子の「大丈夫」は信じられない。
 この子は、目を離すとすぐに無茶をする。知らないところで怪我をして。──知らないところで、いなくなってしまうかもしれない。
 刹那、心が揺れて、表情が取り繕えなくなり、安室はとっさにコナンの体を抱き寄せて、その顔を自分の肩に押しつけた。
 傷が痛んだだろうに、コナンは声ひとつ上げず、いまも黙って腕の中で大人しくしている。
 そっと、腕に力を込める。
 とくりとくりと、鼓動が伝わってきた。
 少し高く感じられる体温は、怪我のせいだろう。
 鼓動と、熱。──腕の中の小さな体は、確かに、生きていた。
 そう感じた瞬間、風見から聞いた「無事」の情報と、転送されたカルテの「軽傷」の診断が、ようやく、頭の中で事実として落ちついた。
 力が抜ける。
 そのまましばらく、子どもの生存を確かめて。安室は、コナンの肩口で、はーっとため息をついた。

「……あまり、無茶をしないで」

 しばらくして、うん、と小さな返事があった。

「──心配かけて、ごめんなさい……?」

 果たしてこの言葉で正解だろうかと、少し躊躇うようなその声に、苦笑する。
 それで間違っていない。けれど、いまの自分たちの関係で、それをすんなり正解だと信じるのは難しいだろう。安室はまだ、コナンに、自分にとって彼がどれほどかけがえのない存在なのかを告げていないし──今はまだ、告げるつもりもなかった。
 安室はひとつ息を吐いて、身を離す。
 同時にポケットからあるものを取り出して、コナンのパジャマの胸ポケットに落とした。
 こっそり忍ばせるには存在感のあるそれにすぐ気づいたコナンは、訝しげな顔をしてポケットに手を入れる。

「何……」

 それを取り出して、コナンは目を見張った。

「──これ、って」

 子どもの手のひらに乗る程度の、金属の塊。
 少し形は変わっているが、銃弾であることはわかる。
 ──リニアに撃ち込まれた、『銀の弾丸』。
 赤井が彼に届け、彼を助けたシルバー・ブレット。
 随分、凝ったものを作ったものだ。
 組織の一部で、赤井は「シルバー・ブレット」と呼ばれているが、今回のこれは、別にそれを意識したわけではなく、ただ撃ち込む場所の特性や、貫通力を優先しただけだろう。
 用意周到なFBIは、事件後即座に取引を持ちかけてきて、あの時どこからともなく現れた一発の銃弾を「無かったこと」にするよう要求してきた。こちらがそれを飲まざるを得なかったのは、リニアの搭乗者に元FBI長官で現国際WSG協会会長という大物がいたことも大きい。
 とにかく、コナンの窮地を救った一発の弾丸は、無謀なカーチェイス諸共、無かったことになった。
 それでも、安室がこれをFBIに先んじて回収させたのは、こんな明らかな証拠をFBIに回収され、まんまと隠滅されるのはシャクだからで、何より、バーボンとしての自分には、利用する価値があるものだったからだ。
 弾に刻まれた線条痕は、赤井秀一の生存をにおわせるに十分な証拠となる。
 ──けれど。
 この弾がどこでどのように使われたかが知れれば、コナンにも組織の目が向けられる危険がある。それに何より、この弾丸を手にしていると、赤井秀一が、自分がなし得なかったことを見事に成し遂げたことがどうしても意識されて、腹が立った。
 下らないプライドは捨てるべきなのだけれど、ことあの男に関しては、冷静な判断などクソ食らえという気分になるのも、いつものことだった。

「……なんで」

 コナンが警戒よりも、戸惑った顔で安室を見上げる。
 何故か、なんて、そんなことは安室にも説明できない。安室もつい先程まで、これをコナンに渡すつもりなんてなかった。
 でも、この子の生存を確かめた今となっては、自分がこの弾丸を所持していることが、正しいことだとは思えなかった。
 安室は苦笑する。

「それは、君に届けられたものだからね」

 銀の弾丸は、コナンを救った。赤井は確かに、この子を助けた。
 その礼を、感謝を、安室がする筋合いはないが、あの場の混乱が長引いていれば、リニアを止めるのが間に合わなかったかも知れず、コナンは無事でここにいなかったかもしれない。
 戸惑いで顔をしかめているコナンに、安室はにっこりと笑う。

「それは、君の好きにしていい。──ああ、もし持ち主に返すなら、『どうもありがとうございました』と、伝えておいてもらえるかな?」

 あえてゆっくりと、そう告げる。
 「貸し一つ」だなんて言うよりも、コナンのことで安室に礼を言われる方が、あの男は嫌に違いない。そうだ。絶対に、嫌だろう。逆ならば「貴様は何様のつもりだ」と切れる自信がある。
 コナンはぱちぱちと目を瞬かせた。

「え、と。ボク、持ち主なんてわかんないけど……」

 ごにょごにょと相変わらずの下手な愛想笑いでごまかそうとして、それでも安室が笑みを絶やさずにいるのを見て、コナンはげんなりした顔でため息をついた。

「……これはボクが持っておくよ」

 どこまで理解したのか、そう言って銀色の弾をポケットにしまう。
 安室は何とも言えない気持ちでそれを見つめる。
 渡してもらわないと、嫌がらせが不発に終わってしまう──が、渡されたら渡されたで、FBIの利益になってしまってシャクだ。どう転んでも微妙な手を打ってしまったかもしれない。

(──まあ、もう一つ仕込みはしたし、いいか)

 安室は冷蔵庫を見て肩をすくめ、ベッドから離れる。

「用も済んだし、失礼するよ。──よく寝て。二、三日は安静にしていること」
「うん。安室さんも、あんまり無理しないでね」
「ウェイターも探偵も、そんなに大変な仕事じゃないよ」

 PCに届いている報告書のことを思い出して内心げんなりしながらうそぶくと、コナンは苦笑した。

「……お見舞い、ありがとうね」
「──こちらこそ」

 安室の返事にコナンは首を傾げる。安室は苦笑した。
 ──きっとこの子は、こんな夜遅くに、不安でいてもたってもいられなくて安室が病室を訪れたことなんて、わからないに違いない。わからなくても、いまはそれで良かった。
 促されるまま大人しく横になったコナンを確認して、安室はそのままそっと部屋を出た。

「……さて」

 やらねばならないことも、やりたいことも、山ほどある。立ち止まっている暇はない。
 病室を訪れるまでの不安がすっかり消えていることに苦笑して、安室は暗い廊下を歩きながら頭の中で処理する案件に優先順位をつけ始めた。