一番星を願う







 しばらく「本業」に戻らなければならない。
 ここで言う本業は、表向き名乗っている私立探偵としての仕事ではなく、組織のバーボンとしての活動であり、またその立場を利用して公安に情報を流す、潜入捜査官としての仕事だ。

 家を出る前に、いつも以上に念入りに掃除をする。何か不測の事態が起きて戻れなくなっても、痕跡を残さないように。──今回の仕事はさほど難しいものではないが、これは、危険度の大小に関わらず、少し長めの任務につく時の習慣のようなものだった。
 今回は、時間がかかるかもしれないと前もってわかっていたので、ポアロには休みを申請した。
 マスターは「戻りを待ってるよ」と言い、梓は「またですか」と呆れながらも、「出来るだけ早く戻ってきて下さいね! 休みが続くと、お客さんから『安室さんはいつ戻るんだ』って聞かれるんですから」と言ってくれた。

「ハハ……すぐに戻りますよ」

 安室が来る前は二人で店を回していたにしても、本来いるはずの人間が一人いなくなるのは大変なはずだ。いつもながら、ポアロの二人は寛大だった。

「ほんとにすぐ戻ってこれるの? ……そんなに厄介なお仕事じゃないってこと?」

 疑わしげに言ったのは、常連客で、その日もカウンター席でジュースを飲んでいた江戸川コナンだ。
 この、小学生のくせに妙に頭が良く、組織とも浅からぬ因縁があるらしい少年は、安室にとって興味の対象であると同時に、扱いに困る相手でもあった。
 コナンは、安室が警察庁に所属する公安警察官だと知っている。──不覚にも、知られてしまった。
 「組織の悪を暴く」という大雑把な目的は同じだと、互いに理解してはいるのだが、安室透はいまだ組織に潜入中の身だ。表だって彼と手を組むことは出来ないし、彼の周辺には組織も目をつけているから、状況によっては、自分の身や警察組織を守るために敵対することもあり得る。──そんな微妙な相手なのである。
 安室は笑顔を作った。

「勿論。探偵の仕事は、そんなに危険なものじゃないよ。今回は少し時間がかかるけど……でも、コナンくんが寂しいって言うなら、早く戻って来られるように頑張ろうかな」

 からかうように言うと、コナンは一瞬ムッと眉間にしわを寄せた後、わざとらしく笑顔を浮かべた。

「そっか、良かったー! ……でも、ボク心配だな。だってほら、安室さん、よく怪我するでしょう?」

 コナンは「とっても心配です」という顔で、安室を見上げた。
 お得意の猫かぶりだ。
 この子は、大人顔負けのしっかり者なくせに、それを隠して、純真無垢な子どもであるかのように装い、人の懐に入り込むのが得意なのだ。
 当然、安室には効かないが、大抵の大人はころっと騙されて、あからさまに不審なこの子の行動を「勘違い」で処理したり、聞かれるままに色々教えてやったりするのである。

「そうだ、ボク、御守り持ってるから安室さんにあげるね! お仕事、上手くいきますようにって」
「コナンくんは優しいねぇ。安室さん、良かったですね!」

 ころりと騙される大人代表・榎本梓は、コナンが取り出した小さな青い御守りを見て、感動したように手を叩いた。
 安室はにっこり笑って御守りを受け取る。
 御守りの中には、何か固くて丸いものが入っていた。──盗聴器だろう。

「嬉しいなぁ。ありがとう、コナンくん。大事にするよ」

 そう言って、指に少し力を入れると、御守りの中でパキッと軽い音がした。
 コナンが「げっ」と顔をしかめる。

「……まじかよ」
「うん? どうかした?」
「──別に!」

 コナンは拗ねた顔で、そっぽを向いてしまった。
 気づかれることくらい想定済だろうにと苦笑して、梓が「寒くなったねぇ」と世間話を始めたのを聞き流しながら洗い物を済ませる。
 コナンから、探るような視線を感じる。
 休みを取るなんて、一体何の仕事か、組織の仕事だろうかと、疑っているのだろう。
 探るような視線。疑うような視線。
 この子から自分に向けられるのは、いつもそれだ。

(こっちも似たようなものだから、人のことは言えないけれど)

 何しろ、江戸川コナンは怪しさの塊のような存在なのだ。
 その正体を、何となく想像してはいるが、まだ確証と言えるものを得られたわけではない。それに、自分の想像が正解なのだとすれば、なおのこと、彼に対しては慎重に振る舞わなければならないのだ。
 安室は、視線には一ミリも気づいていなかったふりをして顔を上げ、視線が合ってばつ悪げに目をそらしたコナンに微笑んだ。




 組織の人間は、どいつもこいつも腐っている。バーボンとして振る舞っていると、自分もまた、体の端から腐っていくような気がしてうんざりした。組織の仕事相手も、同じような腐った俗物だらけだ。裏をかいて、真面目に生きる市井の人たちを踏みにじり、甘い汁をすすることしか考えていない連中。
 無意識に舌打ちして、その後でため息をつく。

(──かなり溜まってるな)

 切り替えるように、首を振る。
 最近は、ポアロに出勤している間も、裏でベルモットに頼まれた調べ物をしたり、そこで仕入れた情報を公安へ流したりと、寝る暇もなく働いていたのだ。疲労が溜まっている。その上、一日フルでバーボンを演じ、取引相手と交渉をしなければならないとなれば、ストレスが溜まって当然だ。
 それも一応、今日の取引で一段落するはずだ。
 指定された廃ビルで一人──勿論、周辺に組織の構成員を配置してはいるが──取引時間が来るのを待っていると、妙に、ポアロでのコナンとの駆け引きめいたやりとりが懐かしくなった。
 ポケットの中で御守りに触れる。
 捨てるつもりだったのだが、「御守り」という形をしたそれをゴミ箱に入れるのはためらわれて、ポケットに入れたままになっていたのだ。

(──コナンくんは、元気かな)

 小柄な少年の顔を思い浮かべ、世間ではIoTテロ事件と言われている、春先に起きた事件を思い出す。
 あの時、危機的な状況に陥り、誰かの助けを必要とした時に、真っ先に自分の頭に浮かんだのは、あの子の顔だった。
 彼なら、助けてくれる。この国を。みんなを。
 そう、思った。
 でも、正面から助けを求めることは出来なくて、搦め手で無理矢理巻き込んで、力を借りた。あの子が大切にしている人を巻き込み、泣かせた。恨まれて当然のことをした。
 もう二度と口を聞いてもらえないかもしれないと、覚悟をしていた。彼の信念と自分たちの信念は違っていて、彼は自分たち公安のやり方を良しとしないだろうということを、知っていた。

(──なのに、あの子は)

 その時。
 暗闇の中、どこからかかすかに聞こえる時計の針の音に気づいて、安室はハッと顔を上げた。

(──しまった!)

 罠だ、と気づいた時には指定時間が目前だった。
 舌打ちして、周囲で監視している人間に通信を入れる。「離れろ」と指示をした瞬間、すぐ側で爆音が響いた。
 天井が崩れ落ちる。

(ああ、ここが終わりか)
 避けようがない大きながれきが落ちてくるのを見ながら、そんなことを考えて──何故か最後に、あの子の顔を思い浮かべた。





 ──賑やかな声がする。

「飼い犬さんじゃないかなぁ。だって、ほら。すごくきれいなわんちゃんだもん」
「でも、首輪してねーぞ」
「小さな犬ですから、サイズが合わなくて抜けてしまって、脱走して迷子になってしまった……ってところですかね」
「で、どうするの? 江戸川くん」

 甲高い話し声をいささか鬱陶しく思いながらぼんやりと聞いていたら、聞き慣れた名前が耳に入ったので、のろのろと目を開ける。

「──お、起きた」

 開いた視界に、眼鏡をかけた見慣れた少年の顔──江戸川コナンの顔が映り、安室はぱちぱちと目を瞬かせた。

(なんで、コナンくんが……)
「こんな寒い所で昼寝してると、風邪引くぞ」

 随分と気安い口調でそう言って、コナンはひょいっと──自分を持ち上げた。

(──はっ!?)

 強制的に高くなった視界と、ぶらんと持ち上げられて感じる重力。
 あり得ない。
 安室透は三十手前の成人男性で、江戸川コナンは小学一年生だ。コナンが自分を持ち上げるなんて、そんなこと出来るわけがない。
 なのに、いま確かに安室はコナンに抱き上げられている。
 混乱し、パニックに陥る安室の顔をのぞき込んで、コナンは首を傾げる。

「んー、一歳未満? だよな? お前、どこの子だ?」

 一歳未満。どこの子。
 その言葉に、安室はおそるおそる視線を下げて、小さな手に掴まれた、白くてふわふわした何かを見下ろす。
 それに触れてみようと手を動かしてみると、白くてふわふわしたものが、動いた。

(……え?)

 ギョッとして身をよじると、やはり白くてふわふわした、動物の足と思しきものがバタバタと動く。

「こら、暴れんな」
「珍しーな、コナンが犬に嫌がられるの」
「ねぇねぇ、歩美にも抱っこさせて!」
「噛みませんかね」
「気をつけてね、吉田さん」

 大丈夫だろ、と言いながらコナンが自分の体を歩美の手に渡す。
 ──犬。

「わー、可愛い! ねぇねぇ哀ちゃん、ここ座って。光彦くん、歩美と哀ちゃんとわんちゃんの写真撮って!」
「任せて下さい! ──ハイ、チーズ」
 スマホがカシャリと音を立てて、光彦が「どうですか?」とスマホの画面を歩美に見せる。
 それをのぞき込めば、そこには二人の少女と、白い子犬の姿が写っていた。
 ──彼らの話と自分の視界に映るものを総合すれば、自分はどうやら犬、それも、小さな子犬になっているようだった。



 修羅場はいくつもくぐって来たが、こんな経験はさすがに初めてだ。
 意識を飛ばしかけ、何とか踏みとどまったが、頭がくらくらする。

(なんだこれは……ああ、これは夢か……? いや、死んだんだな、僕は)

 最後に記憶しているのは、爆発で崩壊する建物から逃げ遅れた場面だ。
 あの状況では、生き残れるはずがない。
 内通者がいたのだろう。だから、気づくのに遅れた。瞬時にそれを理解し、内通者の名前は通信で伝えていたから、多分、そちらは組織が始末をつけただろう。
 逃げるよう指示をしたから、組織の人間も、傍受していた公安の人間も、巻き込まれてはいないはず。あの場で死んだのは、おそらく自分一人。

(ジンが喜んでるだろうな。……クソ)

 水無やベルモットがどう思うかはわからないが、ジンが大喜びすることだけは確かだ。あの男はずっと、安室を毛嫌いし、排除したがっていたのだ。
 ──それはともかく。
 いまの状況を整理すると、自分は死亡して、そして……犬に生まれた変わった、と──?

(いやいやいや、馬鹿か? そんな荒唐無稽なこと起きてたまるか!)

 しかし、この状況はそれ以外説明が出来ない。
 安室が気を遠くしたりぐるぐる唸ったりしている間に、少年探偵団の子どもたちは「とりあえず警察と保健所に飼い主からの捜索願が出ていないか聞いてみる」ことと、犬──安室はコナンが一晩預かることで話をまとめた。
 歩美のマンションはペット禁止、光彦と元太の家は家族に動物が苦手な人がおり、哀の住む阿笠邸は実験に使う化学薬品があちこちに放置されていて子犬には危ない──ということで、コナンが選ばれたのは消去法だった。
 コナンは、ジャンパーの前を開けて腹の所に安室を入れて前を閉めると、いつもの高木刑事のところへ向かった。
 迷子犬の飼い主探ししなんて、警視庁捜査一課の刑事に相談することではないのだが、人の良い高木は、担当の刑事や保健所の窓口を調べて、代わりに連絡を入れてくれた。人が良すぎる友人の後輩が心配になる。

「ええ、米花公園のベンチのところで眠っていたようです。白い──これは、柴犬かなぁ。確かに、飼い犬っぽいですし、既に捜索願が出ているか、いまは出ていなくても、一両日中に出てくるのではないかと。……ええ、写真を送ります。よろしくお願いします」

 電話を終えた高木は、安室に「ちょっとごめんね、フラッシュたかないから眩しくないと思うけど、我慢してね」と言って写真を撮り、手早く関係部署に送った。

「ありがとう、高木刑事!」

 コナンが礼を言うと、高木は「お安い御用だよ」と笑った。

「犬は、コナンくんが預かるのかな? 連絡が来たら、コナンくんに電話するね」
「うん! よろしくお願いします」
「どういたしまして。飼い主さん、見つかるといいね」

 ちょこちょことくすぐるように頭を撫でられ、思わずぷるぷると頭を振る。
 さっき子どもに囲まれていた時はあまり気にならなかったが、子犬の体では、高木のような優男でも威圧感をおぼえる。

「怖がられちゃったかな……?」
「まだチビだから仕方ないよ。な?」

 コナンがわしゃわしゃと頭を撫でる。妙に心地良くてされるがままになっていると、高木が笑った。

「コナンくん懐かれてるなぁ」
「いや、こいつ大人しいんだ。多分知らない所にひとりで、戸惑ってるんだと思う」

 それはある。でもそれはコナンが考えているような、迷子の子犬が孤独で不安になってる……というものではなく、この状況が一体何なのか、いまいち把握できていないし、受け入れがたいし、どうすればいいかわからないしで、困っているのである。

(だって、犬だぞ。ありえないだろ)

 暗いから送るよ、という高木に「大丈夫」と答えて、コナンはまたジャンパーの中に安室を入れると、警視庁を出た。
 そろそろ冬の気配が感じられるようになった秋の日は、落ちるのが早い。これを見越して、コナンは友人たちを帰して一人で来たのだろう。
 コナンは持っていたスケートボードに乗って、「よし、帰るか」と言った。
 ギュン、と何かが起動し、あっと言う間にトップスピードに乗る。

(待て待て待て待て!)

 コナンが違法改造したスケートボードに乗っているところは何度か見ていたし、これを使わないと米花町まで帰るのが遅くなってしまう、という事情はわかっているが、このスピードは何だ。危ない。
 だいたい、コナンはヘルメットのひとつもつけていないのである。
 服の中に保護されていても感じるGにバタバタと暴れると、怖がっていると思ったのか、コナンはスピードを落とした。
 もふっと頭を出す。危ないと文句を言う前に、コナンが「ごめんな。怖かったよな」と言うので、気がそがれてしまった。
 また頭を懐に収められそうになったので、首を振る。
 懐に抱えられるのは落ち着くので嫌ではないが、周囲の状況が見えている方がいい。

「頭出して、寒くないのか?」

 たずねられたが、犬で毛があるからか、体がコナンのジャンパーに包まれているからか、寒さは感じない。
 コナンは「大丈夫そうだな」とつぶやくと、歩道の人並みを器用に避けながら進む。

「あー、でもどうすっかな。うち連れてったら、おっちゃん文句言うだろうな……」

 それはそうだろう。そもそもコナン自身が居候の身なのである。小五郎は悪い人ではないが、動物を可愛がるタイプには見えない。一晩だけと頼まれれば嫌とは言わないだろうが、迷惑には思うだろう。

「と、なるとあそこしかないか」

 コナンはつぶやいて、スマホを取り出した。
 ながらスマホである。自分も緊急事態にはやらないとは言えないが、危ないだろう。しかし、ここで暴れて運転を誤る方が危ない。
 先ほどから、なかなかスリリングな光景なのである。低い位置で、背の高い大人の間をくぐり抜けるのはこんなに怖いものなのか。すれ違う大人の持った鞄が顔に当たりそうで恐ろしい。

(この子の視界は、こんななのか)

 コナンは慣れた様子でスマホに向かって話し出した。

「──あ、蘭姉ちゃん? ボク、今日阿笠博士の所にお泊まりしていーい?」
(何だ、結局阿笠博士を頼るのか)

 阿笠博士。自分も一度手を借りた、変わり者だと評判の、でも間違いなく天才の部類に入る発明家。
 この子にとって阿笠は、何でも相談できて頼りになる大人の代表なのだろう。

(この子が無茶をするのは、八割方あの博士の発明品のせいな気がするが……)

 スケートボードしかり、腕時計や、蝶ネクタイしかり。確か、サッカーボールという名の飛び道具が出てくるベルトもあったはず。何故か花火が出るあれだ。
 どれもこれも、危険なものだらけだ。──けれど。それらは、この子がこの子のやりたいことをやるために必要なものなのだろう。

(多分、コナンくんにとって一番純粋な協力者は、博士なんだろうな)

 彼の家には確か、灰原哀も居るはずだ。
 彼女の正体も無論、推測出来ている。先程は呆然としていてそこまで頭が回っていなかったが……自分は、彼女とどんな顔をして会えばいいのだろうか。
 ──なんてことを、考えていたのに。
 コナンのスケートボードが止まったのは、阿笠邸の手前。
 工藤邸であった。
 コナンは門をくぐると、玄関の呼び鈴を鳴らした。

(待て待て待て!)

 この家は、阿笠邸以上にどういう顔をして入ればいいのかわからない家である。一度訪問して痛い目に遭っているし、何よりここには。

「いらっしゃい。どうしましたか」

 この家に居候している大学院生──という設定の、沖矢昴が顔を出す。
 思わず唸る。ぐるる、と威嚇にもならない我ながら可愛らしい唸り声だったが、コナンは驚いたようだった。

「どうしたんだよ、お前。さっきまで大人しかったのに」
「……とりあえず入っては? 外は寒いですから」
「ありがとう」

 コナンは家に入り、居間に移動しながら沖矢に今日の経緯を話す。
 安室はコナンの腕の中で沖矢を──面倒臭い、赤井をにらみながら、それを聞く。概要は高木に話したものと同じで、新たな情報はなかった。

「なるほど。──それで? その犬を預かって欲しいと言うことか?」

 室内で完全に人目がないと確信しているからか、赤井はいつも通りの口調でコナンにたずねた。

(とんでもない!)

 こいつに世話をされるなら死んだ方がましだ。既に死んでいるが、いまここでもう一度死んでも構わない。
 コナンは慌てて手を振る。

「いや、それは申し訳ないし、ボクとこいつを一晩泊めてくれないかなって」
「好きにすればいいさ。ここは、ボウヤの家だからな」

 その言葉にコナンはピクリと肩を揺らし、ぎゅっと安室を抱きしめると、アハハ、と力なく笑った。

「えっと、ボクんちっていうか、親戚の家だけどねー……」

 安室はぱちぱちと瞬きした。
 今の会話から考えると、赤井はこの子の正体を聞いてはいないらしい。
 ここに匿い、世話をしているくらいだから、この男は全て知っているのかと思っていた。

(──なんだ)

 少しいい気味だと思って、ふんふんと鼻を鳴らすと、コナンが頭を撫でてくれた。

「落ちついたかな? 知らない場所で興奮してたのかな」
「……さっきのはどう見ても、場所というより俺を嫌っているようだったが」
「いや、まあ……。お前、赤井さんのこと嫌いなのか?」

 ほら見ろ赤井じゃないか、と思いながら「当たり前だ」と返事をすると、わふ、と元気良く吠えた形になる。

「ほらな」
「何でだろ。──あ、タバコの臭いが駄目なのかも。そうだろ?」

 抱き上げられ、鼻がくっつきそうな近さで尋問されたが、答えは否だ。ふんとそっぽを向くと、赤井がクツクツと笑った。
 赤井を楽しませるつもりなんか一ミリもなかったので、ムッとする。威嚇で吠えると、こら、とコナンに怒られた。

「駄目だろ、吠えちゃ。めっ!」

 安室はうっと言葉に詰まった。
 めってなんだ。可愛い。怒りがしぼむ。
 赤井がそれを見ながら口を開いた。

「ところで、その犬は何を食べるんだ?」
「え? あ」

 コナンは今気づいた、という顔で安室を見た。

「そうか。お前、腹減ってるよな。でも、子犬って何食べるんだ……? 子犬用の餌があるんだよな、多分」

 ──多分、そうだろう。
 生まれて数ヶ月は経っていそうな気がするが、そのくらいだと成犬と同じものは食べられない気がする。

「日本にいる同僚が犬を飼っていたはずだ。ジョディに聞いて、何か持ってきてもらおう」
「ほんと? ありがとう赤井さん」
「礼には及ばんさ。君はジョディが来るまでに、その犬を洗ってきたらどうだ? 外にいたんだろう」
「あ、そうだね! 洗面所借りるね!」

 赤井はスマホを取り出し、コナンは安室を抱えてパタパタと移動する。
 以前来た時も思ったが、広い家だ。
 洗面所に入ると、鏡があった。
 コナンに抱えられた子犬の姿に、ドキリとする。
 初めてちゃんと、自分の全身を見た。
 ──白い子犬。
 そうとしか言えない姿だった。自分で歩けるようになったばかりの子犬。
 洗面台に乗せられたので、鏡に近づくと、犬も鏡に近づいた。──認めざるを得ない。
 自分はいま、犬だ。犬になっている。

(なんでこんな小さな……それよりも、なんで犬に。しかも記憶付きで)

 前世の記憶持ちで転生、なんて、ポアロに来ていた女子高生が「面白い」と騒いでいた小説じゃあるまいし。

(いや、これはきっと夢だ)

 あるいは、死ぬ前に見ている走馬燈。走馬燈にしては、長いけれど。
 それに、走馬燈というのは、これまでの人生を振り返るものなはずだ。それなら過去の世界に行くのが自然だろう。──幼い頃、ヒロと出会った頃とか、先生に出会った頃とか、あるいは、警察学校の仲間たちと馬鹿をやっていた頃とか。
 それなのに、何故天敵の男が居候する家にいて、この少年に拾われた犬になっているのか。
 何故。

(──まるで、僕がこの子のことを特別に思っていたみたいだ)

 そんなことを考えていたら、急にコナンに抱き上げられて、お湯のたまった洗面台に下ろさた。ビックリして反射で暴れてしまい、水が跳ねる。

「わっ! 熱かったか?」

 熱くはない。そう言えば体を洗おうと言っていたかと思い出し、大人しくする。

「びっくりしただけか? ごめんな。──うん、やっぱお前、野良じゃねーよな。足がちょっと汚れてるだけみてーだ。でもまあ、全身洗っとくか!」

 人用のシャンプーでいいかな、子ども用だしな、とぶつぶつ言いながら、コナンは薄めたシャンプーで体を洗ってくれる。
 ──恥ずかしい。居たたまれない。が、犬の体なので、体に触れられている感覚はあるが、自分の体という感じがしない。
 ふわりと清潔な匂いが体を包む。

(……あ、コナンくんの匂いだ)

 何度か嗅いだことのある、やわらかい甘い匂い。
 子ども用のシャンプー、というのはコナンのものか。それはまあ、この家にあってもおかしくはないが、普段赤井が一人で住んでいるこの家に、コナンの日用品があるというのは、何となく面白くない。

(しょっちゅう泊まりに来てるのか? ……今日みたいに、阿笠博士のところへ行くと言ってここに来てることは、ありそうだな)

 そんなことを考えている間も、コナンは手を休めず熱心に子犬を洗う。
 わしゃわしゃと毛を泡立てられる感覚は、人に髪を切ってもらう時の感覚を思い出させる。美容院なんて、この仕事に就いてからろくに行っていない。無防備になるから落ち着かないし、器用なので自分で何とか出来たからだ。

「おかゆいところはございませんかー?」

 コナンが美容師のようなことを言う。
 存外子どもらしいところがあるのだなと可笑しくて、わふ、と笑うと、返事をしたように見えたのか、コナンも笑った。

「──よし、こんなもんか」

 洗い終えると、コナンは大きなバスタオルで安室を包み、ゴシゴシと拭く。
 その時、玄関からチャイムの音がした。

「あ、ご飯が届いたかもしんねーぞ」

 抱きかかえられて居間に戻ると、FBIの女がいた。ジョディ・スターリングだ。

「ハァイ、クールキッド。噂のわんちゃんはその子ね?」

 顔をのぞき込まれて、思わず背けると、赤井が笑った。

「どうやらその子はジョディのこともお気に召さないようだな」
「残念! でも、ほら。あなたのご飯を持ってきてあげたのよ」

 ジョディは紙袋から食材を取り出した。

「マークが飼ってる犬はもう大きいから、子犬用のペットフードは無かったんだけど、食べられるもの聞いて持ってきたわよ。あと、子犬用のトイレにこれどうぞって」
「ありがとう、ジョディ先生!」

 ペットフードとトイレという言葉に顔をしかめる安室には気づかず、コナンはジョディに礼を言う。

「いいのよ、あなたにはいつも助けてもらってるから!」

 なるほど。FBIは日頃からコナンに協力を求めているらしい。
 全く、気に食わない。日本でやりたい放題している上に、この国の宝のような子までいいように利用しているとは。

「……あら。ベイビーちゃんがご機嫌斜めね」

 ぐるぐるといううなり声が聞こえたのか、ジョディが言う。

「お腹空いてるのかも」

 同時に、コナンの腹が鳴った。
 コナンが赤くなる。赤井が笑って立ち上がった。

「待ってろ、煮物しかないが夕飯くらい出そう」
「あら、シュウの手料理?」
「お前は犬の餌を置いたら帰れ。二人分はないぞ」
「冷たいわね! 急に人を呼び出して使いっ走りにしておいて」
「あの、ジョディ先生、ボクと半分こする?」

 気を遣ったコナンがそう提案すると、ジョディは笑った。

「いいのよ! どうせ帰らないと仕事が山積みだから」

 ジョディはキッチンに向かった赤井の後ろ姿に目をやって、大げさなジェスチャーで肩をすくめた。

「でも、シュウの料理なんて、ちゃんと食べられるのかしら」
「あはは……最近はちゃんと煮込まれた状態で出てくるって灰原が言ってたから、大丈夫だと思うよ」
「そお? ならいいけど。……こういうことなら、あの彼の方が詳しいんじゃない? あの、ポアロにいる彼」
「安室さん?」

 自分の名前に、ドキリとする。

「そうそう。子犬が何を食べるかも、知ってそうじゃない?」
「確かに。しかも餌も手作りしてくれるかも。──でも、安室さん今いないから」
「いない?」
「仕事で、しばらくお休みだって。いつまでかは言ってなかったけど。──何か大きな動きがあるとか、そういう話聞いてない?」
「組織でってことよね? 聞いてないわ」
「そっか」
(──と、言うことは)

 安室は聞き耳を立てながら、考える。
 いまはまだ、安室が休みを取って一週間以内ということか。コナンの口調は、ポアロに申請した一週間を超えて休み続けている感じではなかった。

(店は──ベルモットがうまくやってくれるだろう。あの女は、蘭さんとコナンくんを気にしていたから……下手にコナンくんが疑問を持たないように、事件の痕跡が追えなくなるまでは休みを延ばし延ばしにして、もう大丈夫と判断したタイミングで消える手はずを整えるはずだ)

 公安は、死んだ身内をそのまま切り捨ててくれるはずなので問題ない。自分には、何か遺さなければならない身内もいないし、そもそも、何も遺して来なかった。

(……部屋を掃除する習慣、役に立ったな)

 安室は自嘲する。
 そうしている間にジョディは帰って行き、赤井が肉じゃがと思しき薄い色の煮物を皿に盛って戻ってきた。

「パンでいいか?」
「えっ? パン……肉じゃがとってこと? ……うん、パンでいいよ」

 コナンは目を丸くした後で、苦笑交じりに言う。
 米も用意していないのか。なら何故シチューでなく肉じゃがにしたのだ。FBIの考えることは理解不能だ。

「スパゲッティもあるぞ」
「うーん……パンでいいかな」

 コナンは答えて、小さな皿にもらった食材──肉を入れて、安室の前に置く。
 ペットフードでない分抵抗は薄いが、どうにも食べる気になれずにいると、赤井が余計なことを言う。

「食わないならこれをやってみたらどうだ?」
「犬に肉じゃがは駄目でしょ! タマネギ入ってるし、味が濃いんじゃない」

 言いながら、肉を手に取って口元に持って来るので、仕方なく口に運ぶ。

「あ、食べた。美味いか?」

 わからない。まずくはないが、何だか尊厳が削れた気がする。
 二口、三口食べて、もういいだろうと顔を上げると、コナンも飢えることはないと判断したのか、「腹減ったらここから食えよ」と皿を置いて、食卓に向かった。
 後を追おうかと考えて、止める。
 少し、一人で考える時間が欲しい。
 ぺたりとカーペットの上で伏せる。

(──さて)

 この状況は、本当に何なのだろう。
 確かなのは、自分が死んだこと。
 そして死んだ後──夢を見ているか。あるいは、犬に生まれ変わってしまったか。
 夢ならば、いつかさめるだろう。でも。犬に生まれ変わって、そしてこのまま十年以上生きていかねばならないのだとしたら──どうしたらいいのだろう。

(犬として、どう生きるか……? 知るかそんなの。警察犬でも目指すか?)

 自棄になって考える。志半ば──といえばその通りだし、この姿で生前の志を継いでいこうとするならそれしかない。
 しかし、犬の意志など飼い主に伝わるのか。

(あの子なら……いや。この犬には、他に飼い主がいるんだった)

 コナンたちが言っていた通り、この子犬は生まれた時から野良でいたにしては小綺麗だ。毛も明らかに人の手でカットされている。ならば近いうちに飼い主が見つかるだろう。
 勿論、飼いきれずに捨てられた可能性だって、あるけれども。
 可愛いからと子犬を飼い始めたはいいが、世話をし切れずに捨ててしまう人間はいる。首輪もしていないところを見ると、その可能性も高いように思う。

(……となると、保健所で殺処分か)

 飼い主が現れないとなれば、優しい子どもたちが引取先を探してくれそうな気もするが、どうだろう。
 そうなる前に逃げ出せるようにするべきか。しかし、いまの自分が一人で、いや、一匹で生きていけるかと言えば疑問だ。

(クソ、何でこんなことを考えないといけないんだ。面倒臭い。……夢でも走馬燈でもいいから、さっさとさめてくれればそれで解決するのに)

 だいたい、夢なのだとしたら、こんな心配などする必要のない、もう少し都合のいい設定でもいいのではないか。
 何故犬。何故──江戸川コナン。
 安室は目を閉じた。
 あの子を、特別に思っていたのは確かだ。
 もう駄目だと諦めたくなるような状況でも、決して諦めず、みんなを救ってくれるヒーロー。
 ──自分は、あんな風になりたかったのだろうか。……いや、なれないことを、自分でよく知っている。彼のようには、なれない。
 色々な経験をして、世の中を斜に見るようになった。不正を正した先に、何かいいものがあるとは、未来が変わるとは、信じてなかった。一つ正しても、また一つ、悪は出てくる。ただ、いまより悪くならないように、せめて善良に生きる人たちが幸せに生きていけるように、取っても取っても生えてくる芽を、せめて大きくなる前にと、必死に摘んでいただけ。
 でも、あの子は違う。あれだけ人が人を殺し、害するところを見ながら、人の悪意に触れながら、それでも人を信じている。未来が明るく変わることを、信じている。
 結局、彼が、彼の大事なものを傷つけて、彼を利用した安室のことを許したのも。──安室透が、あるいは降谷零が、何故それをしたかを精一杯推理して、信じようと、してくれたからなのだろう。

『そうすれば、君の本気の力が借りられるだろう?』

 あの日。コナンの疑問に返した言葉は、本心だった。でも、ふざけるなと言われても仕方ない答えだった。
 なのに。コナンは困ったような顔で、苦い声で、それでも、笑ったのだ。
 ──あの時、あの子は何を思っていたのだろうか。




 目が覚めると、目の前にコナンの寝顔があった。
 ギョッとして身を引いて、思い出す。
 昨日、コナンに拾われて、そして────まだ、自分は犬の姿だった。
 ため息をついて、布団から抜け出す。
 多分、昨日安室はあのまま眠ってしまって、朝晩冷える時期で放ってもおけないと、コナンがベッドに入れてくれたのだろう。
 ごそごそしていると、振動を感じたのか、コナンがむうっと顔をしかめ、その後でぼんやりと目を開いた。
 ぱしぱしと、大きな目が瞬きし、「あー……」とため息のような小さな声とともに、起き上がる。

「……おはよ」

 少し寝ぼけた声に、わふ、と小さく答える。
 コナンはベッドから下りると、シャッと音を立ててカーテンを開いた。大きく伸びをした後で、ぶるりと震える。

「寒っ。……あーでもよく寝たなー。おっちゃんのいびきがないとやっぱ快適だな。お前もいたからぽかぽかだったし。暑くなかったか?」

 寝起きはいいのか、寝ぼけていたのは一瞬で、すぐにテキパキと動き出す。
 振り返ったコナンの顔には、トレードマークの眼鏡が無い。眼鏡が無い顔をじっくり見るのは初めてだが、こうして見ると、資料で見た高校生探偵とよく似ていた。あの眼鏡を愛用しているのは、追跡ツール付きだからという理由だけでなく、単純に顔の印象を変える意味もあったのだなと、よくわかる。

「寝ぼけてんのか? まだ寝ててもいいぞ」

 そう言われたが、もう眠気は無い。ごそごそと着替えるコナンを待って、一緒に部屋を出ることにした。
 待っている間に広い部屋を一周してみたが、見事に本しかない。しかもミステリーばかり。いかにもコナンらしかった。
 分厚い扉を開け、居間に向かう。部屋は二階だった。廊下は好きに歩かせてくれたが、階段を下りる時にはまた抱っこだ。
 昨日までは戸惑いがあったが、もう、慣れた。
 開き直ったとも言う。
 夢だろうと夢じゃなかろうと、いまの自分に出来ることはない。──それなら、しばらくは様子見するしかない。

(飼い主が見つかるまではコナンくんが面倒を見てくれるんだろうから、退屈はしないだろうし。ここは快適だし──)
「おはよう、ボウヤ。朝食出来てるぞ」

 その声に、考えていたことを撤回する。この男がいる場所が快適であるはずがない。
 赤井は、今日は赤井の顔のままでいる。家の中とはいえ、何を考えているのだろう。隠れる気があるのだろうか。

「おはよう、赤井さん。今日は昴さんじゃなくていいの?」
「外出予定は無いからな」

 お前になくても、ここに急に押しかけてくる奴がいたらどうするのだ。
 イライラしてコナンの腕の中でもぞもぞしていると、下りたがっていると思ったのか、下ろしてくれた。
 コナンは昨日と同じ皿に安室用のごはんと水を入れると、自分も食卓に向かった。
 お腹は空いていなかったので、それは無視し、ついて行く。
 コナンは椅子に座って「いただきます」と言うと、「そうだ」と顔を上げた。

「今日家にいるなら、お昼過ぎまでこの子預かってもらってもいい? ボク学校があるから……」
「俺は構わんが、彼が何と言うかな」

 赤井はいささか焼きすぎているように見えるトーストを口に運びながら、こちらを見る。
 あんな炭の粉をまぶしたようなパンを食べていたら早死にするのではないか。別にそれで何の問題もないけれど。まさかコナンにもこんなパンを食べさせているんじゃないだろうなと見れば、コナンのパンはちょうど良い具合に焼けていた。──この男にも、子どもにきれいに焼けたトーストを譲るくらいの、最低限の常識はあるらしい。

「赤井さんと留守番出来るよな?」

 問われて、顔をしかめる。この男と二人きりなんて死んでも嫌だが、文句を言ってもコナンが困るだけだ。
 消極的に小さく吠えると、「大丈夫だって」とコナンは笑った。

「それは光栄だ」
「赤井さんと仲良くしろよ」

 それは承服しかねる。
 安室はぷいっとして、与えられた水を飲んだ。



 朝ご飯を食べると、コナンは小学校に行ってしまった。
 コナンがいなくなると、家の中は途端に静かになる。
 赤井のことは無視して、昼寝でもしていよう。子犬はきっとよく寝るはずだ。
 寝やすいカーペットの上に移動する……前にトイレを済ませる。ふと視線を感じて振り返ると、赤井がじっとこちらを見ていた。
 無礼な奴だ。

「……本当に飼い犬かもな。トイレのしつけが出来ているのはありがたい」

 余計な御世話だ。安室は無視してカーペットの上で丸くなり目を閉じる。
 赤井の足音が遠ざかり、少し離れた位置のソファに座る気配がした。
 薄目を開けてうかがう。耳に入ったイヤホンで、何を聞いているのだろうか。
 そもそもこいつは、いま何をしているのか。──死んだことになっているから、ひたすら隠れて、たまに同僚の相談を受けているとか、そんなところだろうか。

(──もったいない)

 この男は、現場で活きる男だ。
 でも、死んだふりをして、変装をしてでもこの道を選んだからには、きっとその方が良い理由が、そうしなければならない理由が、あるのだろう。
 ──あの子が、知力を振り絞って、助けた男。
 そのからくりを解くことは出来たが、彼らは決定的な証拠を掴ませなかった。その上、こちらの正体を暴いた。
 この男がまだ組織にいた頃、何度も組んだからこそ、この男の優秀さはわかっている。当時から、敵わないと、思わせる相手だった。
 でも、あの時安室が負けたのは、相手が赤井だったからではなく、あの子がいたからだ。
 赤井とあの子。おそらく自分と同程度か、それ以上に頭が回る相手に組まれては、勝率は低くて当然。いまなら、それが良くわかる。

(……何かが違えば。僕がこいつの立場になれただろうか)

 そんなことは、考えても、詮ないことだけれど。
 赤井はしばらくスマホをいじっていたが、何か気になるものでも見つけたのか、どこかへ電話をかけ始めた。席を立ったのでよく聞き取れなかったが、英語だったから同僚に連絡をしているのだろう。
 赤井は視界から姿を消し、しばらくして、沖矢昴の顔で現れた。
 ギョッとして思わず身を起こすと、「ああ、君はそのままで」と言う。

「出かけてくる。大人しくしていろよ」

 そう言って、餌の皿に雑に肉を盛ると、家を出て行った。
 外出しないと言っていたくせになんだ。

(──まあ、いない方が落ちつくからいいか)

 そう思って、安室はあくびをして目を閉じた。



 しばらくして目を開けると、赤井が戻ってきたところだった。何時だろう、とぼんやり考えた時、チャイムが鳴って、玄関が開く音がする。
 立ち上がり玄関に向かえば、やはりコナンだった。

「お邪魔しまーす……って、お前、迎えに来てくれたのか? いい子にしてたか?」

 小学校が終わる時間。もう午後だ。
 後ろから沖矢昴が顔を出すと、コナンは目を丸くする。

「あれ、今日は出かけないんじゃなかったの?」
「少し気になることがあってな」
「気になること?」

 コナンは安室を抱き上げると、赤井の後について居間に戻る。
 赤井はプリントアウトした紙を数枚コナンに差し出した。

「……爆発事件?」

 紙を見たコナンが眉をひそめる。安室もハッとして書類をのぞき込んだ。
 ──安室が爆発に巻き込まれた建物の写真だ。

「三日ほど前、深夜に爆発が起きて火災が発生している。日本の報道機関はどこもこの件を報道していないが」
「……SNSの目撃証言もそんなに多くないんだね」
「建物が倒壊するほどのものではなかったようだし、元々ひと気の無い場所だからな。──うちの調べでは、組織が絡んでいるようだ」

 コナンの目が鋭くなる。

「組織の構成員が取引相手と内通していて、一騒動あったようだ。取引相手の方を、爆発の騒ぎをきっかけに公安が押さえたらしい」
「公安……」

 安室はそっと息を吐く。
 元々、武器の密輸入に関与していた取引相手の方を公安で押さえるのが主目的だったのだ。組織の尻尾を掴むのに失敗しても、そちらが達成できたなら及第点だ。無駄死ににならなくて幸いだ。

「でもこれ、三日前のことなんだよね」
「何か気になる点でも?」
「……安室さん、もうしばらく休むって、ポアロに連絡があったみたいなんだ」

 赤井はタバコの煙を吐き出した。

「……なるほど。この件に安室くんが関わっていたとしても、検挙はお仲間に任せるだろうし、いつまでも戻ってこない理由はないな。──下手を打って疑われたか、バレたか。彼は下手なミスはしないだろうが……状況に寄るだろうからな」

 自分の正体がばれた時のことでも思い出しているのか、赤井は低い声で言う。

「ただ、死者が出ているという話も聞かない。怪我人もだ」

 それは、問題になる前に組織が回収したからだろう。
 今頃どうなっているやら、だ。海に投げ込むか、山に埋めてくれたなら上々。最悪、憂さ晴らしにジンに細切れにされているかもしれない。

「彼については、水無怜奈から何か情報が取れないか、確認してみよう。──もし彼が疑われているのだとしたら、彼女にも接触が難しいかもしれないが」
「……うん。ありがとう」

 コナンは息を吐いた。
 赤井はコナンの頭をぽんぽんと撫でる。

「安室くんなら大丈夫さ。しぶとい男だからな」

 失礼で、的外れで、無責任なことを言う。──安室はもう死んでいるのに。
 コナンは苦笑した。

「そうだね。安室さんなら、大丈夫だよね」

 ぎゅっと、犬になっしまった安室を抱きしめて、コナンはつぶやいた。





 こいつの飼い主探してくるね、と安室を連れて家を出たコナンは、警視庁に向かった。
 高木に面会を申し込むのかと思えば、庁舎の前で立ち止まり、難しい顔をしてつぶやく。

「……風見刑事の電話番号、知らないんだよな。──高木刑事なら知ってっかな」
(──はぁ!?)

 安室はギョッとした。
 風見。何故風見だ。いや、何故って、それは先程の話が気になっているからだろう。
 ──安室が、無事かどうか。
 もうどうしようもないのだから、気にしないで欲しい。それに、この子に組織がらみの危険なことに首を突っ込んで欲しくない。彼自身も、目をつけられているのだ。
 でも。
 この子はきっと、安室の安否がわかるまでは、もしかしてを疑って、行動するのだ。そういう子だ。

(でもなんで、せめて、あの暇してるFBIを連れて来ない……!)

 一人で何かしようなんて無茶もいいところだ。
 コナンがスマホを取り出したので、連絡をさせてはまずいと腕から飛び降りる。

「え!? あっ、オイ、どうしたんだよ」

 とにかく時間を稼ごうと、安室はちょこちょこと庁舎の前から離れる。
 スーツを着たビジネスマンの足元を駆け抜けるのは踏み潰されそうでヒヤヒヤしたが、これくらいのスリルは生前何度も経験している。

「待てってば!」

 しかし、子犬の足では稼げる時間などたかが知れていた。あっという間にコナンに捕まってしまう。

「大人しくしてないと博士のとこに預けるからな!」

 ゴツンと額に頭突きされたが、望むところだ。
 一度阿笠邸まで戻ってくれれば時間も稼げるし、吠えて騒げば隣家の男が釣れるかも知れない。是非そうして欲しい。

「ったく……あれ」

 コナンがふと、少し先に視線を向ける。

「──風見刑事」

 なに、と振り返ると、裏口から出たのであろう風見の姿。

「お手柄じゃん!」

 コナンはころりと態度を変え、上機嫌で安室を撫でると、昨日のようにジャンパーの中に安室をしまって、風見の後をつけ始めた。
 なんてことだ。自分が風見のところへ案内してしまうなんて。この子の悪運も強すぎる。
 風見は地下鉄の駅に入った。
 コナンもこっそりその後を追う。

(尾行に気づけ! あの馬鹿!)

 イライラしたが、コナンに「大人しくしてろよ」と頭を仕舞われ、押さえつけられてしまう。
 見えない。音から推測するに、改札をくぐって、ホームに下りて、電車に乗る気か。
 動物を持ち込む時はケージに入れないと違反だ。吠えてやろうか、さすがに風見も気づくだろう、と息を吸い込んだ時、ジャンパーが少し開いて、コナンがのぞき込んできた。
 コナンは安室の鼻先に指を当てると、「しーっ、だぞ」と言ってにこっと笑う。
 気勢をそがれて黙ると、「いい子だな」と頭を撫でられた。
 脱力する。

(……この子は。動物相手にもこうなのか)

 眼鏡が目立ってそちらに目が行きがちだが、コナンは顔立ちが整っている。この顔でにっこり笑えば、老若男女関係なく気を緩める。おまけに、あどけない顔と、この意志の強そうな、頼りになりそうな表情のギャップ。
 コナンはどうやら長野や静岡、大阪、京都にも親しくしている刑事がいるようだが、いつもこの調子で関係者を落としているのだろう。

(──僕に向けては、あまりこんな顔してくれなかったけど)

 昨日から見ているコナンの顔は、どれもそうだ。
 親しい友人に見せる顔。
 頼りにしている大人に見せる顔。
 対等に付き合い、信頼している相手に見せる顔。
 庇護対象に向ける顔。
 それを横から見たことはあったけれど、間近で見たり、自分に向けられたのは、初めてだった。
 当然だ。安室透は、この子にとって親しい友人でもなければ、無条件に頼りになる大人でもなく、信頼に値する相手でもなく、守るべき相手でもなかったのだから。
 互いに、人に言えぬ秘密を抱え、タイミングを誤れば敵対する可能性もある相手。
 助けてもらったことも、彼の手助けをしたこともある。でも、何か困った時、コナンが一番に声をかけるのは自分ではない。
 昨日、見た通りだ。阿笠。高木。赤井。その他にも、この子に力を貸す人間はたくさんいて、西の高校生探偵や国際指名手配されている怪盗だって、その中に入るのだろう。
 FBIの女は、犬のことを安室に相談すればと言ったが、安室がポアロに普通に居る時だったとしても、コナンは安室に相談しただろうか。
 本当に困った時。最期に駄目だと思った時。自分が思い出したのは、この子のことだったのに。

「あ、降りるぞ。乗り換えか」

 コナンはつぶやいて、また安室をジャンパーの中に押しこみ、電車を降りる。
 構内のアナウンスから乗り換え路線を推測する。嫌な予感がした。

「……もしかして、例の爆発があったビルに向かってるんじゃ」

 ぽそりとつぶやかれた推測は、安室の嫌な予感と合致する。
 風見はどうやらあの日の現場に向かっているらしい。
 何かの処分か。あるいは確認か。
 取引相手を公安が押さえているなら、組織の人間も警戒しているだろう。あの辺りをうろついていることはないだろうが、まだ監視はされているかもしれないし、危険がないわけではない。

(何をしに行くんだあいつ……僕のことか?)

 公式発表がどうであれ、現場には血痕があっただろう。組織の連中にそれを完全に消す余裕があったとは思えない。でも、燃やせばわかりにくくなるから、公安は降谷の安否を確信し切れていないのかもしれない。
 連絡が一定期間途絶えていれば、もう「そういうこと」だとわかりそうなものだが──しかし、組織に潜入していた人間なんて、いつ逆に裏切るかわからないのだから、死亡確認に慎重になる気持ちは、わからなくもなかった。
 電車を降り、駅を出て、風見はビルに向かって進む。
 どんどんひと気がなくなってくるというのに、風見はいまだに尾行に気づかない。
 あの建物にこの子を近づけては危険だと、安室は息を吸い込み、思い切り吠えた。
 ワンワンワンワンとけたたましく響く鳴き声に、コナンは「げっ」と顔をしかめ、風見もさすがに振り返る。

「っ、君は」

 風見は顔を引きつらせ、慌てて袖口を確認した。以前盗聴器をつけられたのがトラウマになっているらしい。
 コナンはため息をついた。

「今日は付けてないよ。たまたま見かけたからついてきただけ」

 コナンは開き直って、風見に近づく。

「たまたま……? 何で私を」

 IoTテロの件でコナンに借りがあり、かつ、侮れない少年だと思っている風見は、しゃがんでコナンと視線を合わせた。
 馬鹿が、と指導するつもりで、コナンの胸元から頭を出して頭突きしてやると、風見は「わぷっ」と間抜けな声を上げて顔を押さえた。

「こらっ、駄目だろ!」
「……ええと、それは?」
「ごめんなさい。この子は、迷子の子犬で、いま僕が預かってるんだ」
「探偵はそんなこともするのか……?」
「まあね」
「しかし、犬を連れての散歩には、少し寄り道が過ぎるんじゃないか」

 風見は立ち上がり、コナンを見下ろす。無駄にデカい男なので、威圧感がある。
 しかしコナンはそれを完全に無視して風見の腕を掴んだ。

「そんなことより、風見刑事に聞きたいことがあるんだ。安室さんがいまどうしてるか、知ってる?」
「え」

 風見がわかりやすく揺れた。コナンの目が鋭くなる。

「何があったの。やっぱり、爆発事件に関係があるんだね」
「君は、何をどこまで……」

 風見は動揺してコナンを見下ろす。

「公安が押さえた密売組織の取引相手は、例の組織なんでしょ。──安室さんは、無事なの?」

 風見は目を瞬かせた。

「どこからそれを……いや、しかし、君が気しているのは、そこなのか?」
「は?」
「ああ、いや……こちらの業務内容は口には出来ないが。あの人なら、大丈夫だろう」

 風見はあっさりと言う。
 うっかり自分も、「あ、僕は無事だったのか」と思ってしまったくらいだ。コナンもそう思ったのか、ほっと息を吐いた。

「ほんとに……?」
「ああ。まだ、そっちには顔を出していないのか? そのうち戻るんじゃないか」

 すらすらとそう言った風見の目が一瞬、斜め上を向く。それで気づいた。

(──嘘だ)

 風見はこれで、警視庁公安部のエースで、ゼロのサポート役を務める男だ。こうした嘘やごまかしが、意外と得意なのである。とっさの時には動揺してしまうこともあるので、まだまだだが、それでも、いまのように多少でも立て直す時間があれば、きれいにごまかし切る。脅しをきかせることしか出来ないような顔をしているが、なかなか食えない男なのである。
 風見とほとんど付き合いのないコナンは、嘘に気づかないようだった。

「そう。……良かった、杞憂で」

 ホッとしたコナンを見て、一瞬、風見が痛ましげに顔をしかめる。しかしそれはコナンが顔を上げる前にきれいに消して、風見はため息をついた。

「ああ。それを聞きたかったなら、もう帰りなさい」
「えー。でも、風見刑事は何しに行くの? ボク、お手伝いしようか?」

 コナンは安室の安否を気遣っていたことなど忘れ、きゅるんと無邪気な顔を作って首を傾げる。風見は、理解しがたい何かを見るような顔で、身を引いた。

「いや、いい。探偵だが何だか知らないが、あまり我々の仕事に首を突っ込むな。危険だ」
「それはわかってるけど……風見刑事が一人ってことは、そんなに危ないお仕事じゃないんじゃない? 博士に聞いたけど、風見刑事も部下の人がいるでしょ。危険なお仕事なら、その人たちと一緒なんじゃないかな」

 風見は言葉に詰まった。
 言い負かされそうになってどうする。吠えると、風見はビクリとし、安室を恐ろしげに見てから、咳払いした。

「それでも、君がついてくる必要はない」
「じゃあ、ボクは風見刑事について行ってるんじゃなくて、お散歩してるだけってことで。な?」

 同意を求められたが、フンと首を振っておく。

「違うらしいぞ」
「反抗期なんだ」
「まだそんな年には見えないが……」

 風見は安室をじろじろと見て、目をキラキラさせているコナンを見ると、ため息をついた。

「……まあ、別に好きにすればいい。本当に、大した用じゃないからな」

 なんだと、とギョッとする安室と、わあいと喜ぶコナン。
 コナンは足取り軽く風見の隣に並んだ。

「……その犬、唸っているようだが」
「たまに唸るんだよ。背の高い男の人が苦手みたい」
「そうか……」

 風見が微妙に傷ついた顔をする。

「ところで、何しに行くの」
「落とし物をさがしに」
「落とし物?」
「ついてくるなら手伝ってくれ。──御守りだから、君のような小柄な子の方が見つけやすいかもしれない」
「御守り?」
「ああ」
「風見刑事の御守りなの?」
「……ああ、いや……」
 風見は少し躊躇ってから、首を振った。
「──あの人のだ」
「え」

 安室も驚いて目を見張る。
 あの人、というのは間違いなく自分のことだ。
 御守りは、確かに持っていた。あの日、最後にポアロに出勤した日にコナンにもらった、盗聴器入りの御守りだ。
 でも、それをもらったことを知っているのは、安室自身とコナンと、あとはマスターと梓くらいだ。何故風見が知っているのだ。

「それって……小さな、青い御守り?」
「え。いや、実は詳しくは聞いていなくて……心当たりがあるのか?」
「ボクがあげたから」

 風見は目を丸くした。何か考えるように眉を寄せ、そして、「そうか」とつぶやく。

「君が……なるほどな」
「あ……いや、あげたことがあるってだけで、それのこととは限らないけど」
「いや、あの人は普段お守りなんて持たないから、それで間違いないだろう。色がわかって助かった」

 コナンは何か言いたげに風見を見上げる。風見もまた、同じようにコナンを見下ろした。

「なに?」
「……いや」

 風見は口ごもった後で、言いにくそうに口を開いた。

「君は、あの人と対立しているのではなかったのか。あの時、協力してくれたから……単純にどうこう言えるものではないのかもしれないが。個人的には、あの人が君にしたことは、酷いことだったと思う」
「──そうだね」

 コナンはうなずいた。

「そうなんだけど……でも、ボクもあの人に無茶させて、死んでもおかしくないことに付き合わせたし。……確かに、それ全部、あの人に巻き込まれたから始まったことだけど」

 工場や物流倉庫の並ぶ一帯は、トラックの出入りが多い午前中以外は落ちついて静かだ。件のビルは空きビルや空き倉庫が多いエリアにあり、特に人が少ない。
 たまにトラックが通る以外は人通りもない道で、コナンは安室を抱え直すと、静かにつぶやいた。

「何でこんなことしたのって、聞いたらさ。あの人、言ったんだ。──ボクの本気の力が借りたかったんだって」
「本気の……?」
「そう。──そんなことのために、おじさんをはめて、ボクをいいように利用しようとしたのかって、一瞬思ったけど……でも。……あの人が、ボクなら出来るって思ってくれたんだって、そう思ったら」

 コナンはため息をついた。

「──正直、少し、嬉しくもあったんだ」

 安室は驚いて、コナンを見上げた。
 あの、苦い、困ったような笑みの向こうで、この子はそんなことを考えていたのか。
 黙ってうつむいたコナンに、しばらくして風見が言った。

「わかるような、気がする。あの人は、とても優秀な人で、憧れだから。──もっとも、私は叱られてばかりで、そんなことを言ってもらえたことはないから、わかる気がする、というだけだがな」

 苦笑交じりに付け足された言葉に、コナンはふっと笑った。

「ね。……それにね。あとから、あの時あの人がどんな立場にいたか考えて……思ったんだ。利用できるとか、しやすいとか、そういう理由もあったかもしれないけど、でも、困って、『助けて欲しい』って思った時に、ボクを思い出してくれたんだったら。……一番に、ボクを思い出してくれたんだったら。ボクは絶対、あの人を助けてあげないとって。あの時だけじゃなくって、これからもずっと」
「──そうか」

 風見が小さく微笑むと、コナンはハッとして赤くなり、慌てたように言った。

「あっ……いまの、安室さんには絶対、言わないでね! ボクと風見刑事の秘密だから。約束してくれないと、また盗聴器しかけるからね!」
「……わかった。約束しよう」

 コナンに迫られ、風見は困ったように曖昧にうなずいた。
 ──約束するまでもない。
 告げようにも、安室はもう死んでいるのだ。
 助けて欲しいと二度と言えない。もし、この子が手を貸して欲しいと言っても、手を貸すことが出来ない。
 こんな風に言ってもらえても、嬉しいと伝えることも出来ないのだ。

「ほんとに守ってよね」
「守る守る。しかし、そんなに簡単に盗聴器をしかけないように」
「いざって時にしか使わないし。だいたいあの時盗聴してたのはそっちもでしょ!」
「……申し訳ない」
「まあ、あの人の指示だったんだろうけどさ! 一回くらいあの人にも盗聴器しかけたいんだけどなー……御守りに仕込んだのは秒で見つかったし」
「っ! 御守りに盗聴器を仕込んでいたのか!?」

 風見がコナンの肩を掴む。

「え? いや、だから渡した瞬間見破られて壊されたんだ……って」

 コナンの表情がふと険しくなる。

「待って、風見刑事。何でそんなこと気にするの? もしかして、さっき安室さんは大丈夫って言ったの、嘘なの!?」

 コナンが低く追及した、その時。
 目的地のビルに、こっそり入っていく人影が見えた。
 コナンも気づいてさっと顔色を変える。

「江戸川くん?」
「シッ! ……風見刑事、今日あのビル、公安の刑事さんが立ち寄る予定は?」
「いや、ないはずだ」

 風見も状況を察したのか、身を潜め、様子をうかがいながら隣のビルの陰に隠れる。

「人が入るのを見たのか? 何人だ」
「一人。だけど、その前に入った人がいるかも。──捕まえ損ねた奴がいるの?」
「幹部は全員押さえたはずだが……それに公安の調査は済んでいるから、あそこには何もない。それこそゴミか、拾い忘れた落とし物くらいしか残っていない」
「じゃあ、何か落とし物……?」
「──そう言えば、押収した顧客名簿データの一部が欠けているという話が出ていたな。大きな所は全て載っていたから、名簿に名前のあったところへは既に調査が入っているんだが」
「……顧客の誰かがその噂を聞いて、でも自分たちのところには公安の調査が入っていないから、名簿の取りこぼしがあるって気づいたとか……? それで、万が一を考えてここに探しに来た。見つけたらそのまま証拠を消すつもりで」
「データが入るような形式のものはさすがに見落とさない。そんなものが残っているとしても、残念だが爆発で破損しているはずだ」
「そんなの、相手にはわからないでしょ。万が一を考えたら、確実に押さえて、消しておきたいじゃん」
「確かにそうだな……」

 風見は顔をしかめ、そしてハッとしたようにコナンをにらんだ。

「君は今すぐ帰りなさい」
「ここまで来て帰るなんて出来ないよ。風見刑事も一人じゃさすがに厳しいでしょ」
「我々はそういう訓練を受けているんだ。応援も呼ぶ」
「でも、証拠のデータが残ってないとしたら、逃げられて白を切られたら終わりだよ。ここで建造物侵入でも何でも、理由をつけて捕まえて、取り調べに持ち込まないと。ほら、車があるし、あれに乗られたら最後じゃん」

 風見はクッと眉間にしわを寄せる。コナンはしれっと、薄い発信器を取り出した。

「──さてここに、発信器があります。簡単に取り付けられて、しかも剥がれにくいやつ。いまなら追跡ツールも一緒だよ」

 コナンはそう言って、追跡眼鏡を起動して見せる。

「貸してくれ。そして君は帰りなさい」
「やだよ。これはボクの大事な秘密道具なんだから、貸し出しは不可。それより、早く応援呼んだ方がいいんじゃない?」

 風見は舌打ちしてスマホを取り出し、素早く増援手配をした。
 このあたりだと、到着まで十五分はかかるだろう。

「ならばその発信器には頼らないから、帰りなさい。君に万が一のことがあったら、降谷さんに顔向けできなくなる」

 風見は強い口調で、そう言った。
 コナンは一瞬怯んだが、首を振った。

「ここで風見刑事を見捨てたら、ボクこそ安室さんに顔向け出来ないよ」

 二人とも、人の名前を出して勝手に何を言っているのだ。
 大人しくしているのも限界で、安室はコナンのジャンパーから抜け出して、下におりた。

「あ」
「ほら、この子もいる。君一人の体ではないんだぞ」
「その言い方何か違わない? でも確かに……」

 コナンは困ったように、安室を見下ろした。

「お前、大人しく出来るか?」
「出来ない」
「風見刑事には聞いてないよ!」

 その時、いまだ規制線が張られ、ところどころビニールシートで覆われたビルから、人が出てきた。
 スーツ姿の男が一人。風見は落ちついて写真をおさえる。

「クソ、車に発信器しかけ損ねた。この位置からだと、飛ばしても飛距離が不安だしな……」

 コナンはぼふっと違法改造ベルトからサッカーボールを取り出して、建物の陰から男たちをうかがう。

「……いや、近くに民家もないし、『わー、ボール飛んでっちゃった』作戦で近づくのも厳しいな」
「君、小学生を悪用してそんなことをしているのか」
「……一人なら眠らせるのが早いか」

 コナンは風見を無視して、違法改造腕時計を構えた。
 その時気配がして、安室は慌ててコナンの腕を引く。
 体勢が崩れて不発に終わった、その数秒後に、ビルからもう一人姿を見せた。

「仲間……!」

 コナンは舌打ちして、腕時計をしまった。
 あそこから出る麻酔針か何かは、おそらく一発だけのはずだ。複数人相手だと、一人を無力化しても他に警戒されるだけだ。

「サンキュー、助かった」

 コナンが頭を撫でてくれるが、安室としてはもう少し落ちついて行動しろと言い聞かせたいところだ。

(この子は危なっかしいんだから、お前が、ちゃんとフォローしろ!)

 風見の足にガシガシ頭を擦りつけると、風見はヒッと身を引く。

「風見刑事、犬苦手なの?」
「そんなことはないんだが……この犬怖くないか?」
「こんな可愛い子犬に何言ってんの」

 コナンは呆れている。

「そんなことより、人数が多いと困ったことになるよ。せめて、何人いるかわかるといいんだけど……」
「確かにな。──いや、だから、応援を呼んだから君は帰りなさい」
「いつ来るの。二人出てきたってことは、もう捜索終えて帰る気かもよ。ナンバーはボクも控えたけど、そこからたどれると思えないし……」

 もう一人、出てきた。

「──車の大きさからして、いてもあと一人だと思うけど」

 そう言っているうちに、最初に出てきた男が車のドアを開けて運転席に座った。
 時間がない。車が発進したとして、車種とナンバーと伝えれば検問で引っかけることも出来るかもしれないが、いまからその手配をするのは厳しい。それに、最初にコナンが言った通り、ここで何でもいいから理由をつけて取り押さえておかないと、後々面倒だ。

(僕がここに居たら──)

 ここにいるのが、自分と、この子だったら。

「ボクが迷子の振りして騒いで気を引くから、風見さん、お願いできる? 一人は何とか出来ると思う」

 そんなとんでもない言葉が飛び出す。
 だから何でそう無謀なんだとコナンのズボンに噛みついて抗議するが、コナンは大丈夫だから落ちつきなよ、と他人事のように安室をあしらう。

「無茶だ。どんな連中かわからないんだぞ。君が子どもだからといって、見逃すような人間かわからない。後ろ暗いことをしていたなら余計に、口封じを躊躇わないかもしれない」
「わかってるよ。でも一瞬は絶対、隙が出来るでしょ。なら大丈夫」

 何が大丈夫なものか。大声で吠えて抗議してやろうかと思って──安室は、ズボンから口を離した。
 ──この場に、おとりになり得て、かつ意表をついて警戒されにくい存在は、もう一人、いや、もう一匹、いるではないか。
 安室はタッとビルの陰から飛び出ると、車の横で思い切り、鳴いた。

「なんだ!?」
「犬?」
「どこから出てきたんだこの犬」

 男たちの戸惑う声。人数は増えない。
 その時、パシュッと軽い音がして、数秒後、運転席から顔を出した男が倒れた。

「お、オイ!?」

 パニックになる男たちに、今度はぶしゅっとなにかが潰れるような音がして、車のタイヤがパンクした。
 風見と、コナンが飛び出してきて、風見が一人絞め落とし、コナンのサッカーボールがもう一人を沈める。
 その時、ビルから隙をついて逃げるように、もう一人男が出てきた。男に向かって吠えると、コナンが気づいて、バウンドして戻ってきたボールを再び蹴る。

「逃がすかよっ!」

 ボールはきれいに男の首に当たり、崩れ落ちる。
 ビルの中を警戒したが、もうこれ以上は出てこないようだった。
 ホッと息を吐いたところに、公安の増援が来るのが見えた。
 安室はコナンのズボンを引っ張った。ここに居ては厄介なことになる。風見ならうまくごまかしてくれるだろう。
 コナンはこちらの意図を理解したように、ビルの陰に隠れて、しゃがみ込んだ。

「ハーッ、何とか上手くいったな。……にしてもお前、賢い犬だな?」

 感心したような、疑うような、半々の顔で首を捻り、コナンは安室の顔をのぞき込んだ。

「どこかで訓練でも……警察犬の訓練とか? いや、こんなちっこいうちから出来るんだっけか?」

 ぐりぐりと頭を撫でながら、不審げな顔をしている。
 妙に懐かしかった。これは、コナンが安室を見ていた時と同じ顔だ。
 わふ、と吠えると、コナンは苦笑した。

「ま、いっか。──すっげー助かった! ……ありがとな」

 向けられた、笑顔と言葉。
 不意に、胸の奥が詰まった。
 ──ありがとう。助かった。
 その言葉を、叶うなら、生きている時に彼から聞きたかった。──聞ける関係に、なりたかった。
 助けたことはあって。助けられたこともあって。
 でも、それはいつも複雑な事情の下での、一時的な協力体制に過ぎなかったから。ありがとうを心の中で思っても、伝えられる関係ではなかった。
 もしかしたらいつか。全てが片付いたらいつか。
 それが出来る日が来るかもしれないと──それが、自分が胸の奥に握りしめた、ただ一つの未来への希望だった。
 死んでから気づいても、遅い。
 死ぬ覚悟はいつもしていた。任務の中で、死んでも仕方ないと思っていた。
 でも──本当は、死にたくなんて、なかった。

「……? お前、どうしたんだ?」

 コナンが安室を抱き上げる。
 その時、風見がこちらへやって来た。

「良かった。ちゃんと隠れてたな。あとはこちらに任せてくれていい」
「うん。──あ! そんなことより風見刑事! さっきの、御守りに盗聴器仕掛けたって言った時の反応、何? 安室さんは無事なんじゃないの!?」

 風見が困った顔になった。
 この子相手に、風見が隠し通せるとも思えない。
 自分が死んだことを、あるいは、死んだと思われる状況で音信不通になったことを、コナンはどう受け止めるだろう。

「──風見刑事。ちゃんと教えて」

 ぎゅっと袖口を掴まれて、風見はしばらくコナンの視線を受け止めたまま躊躇っていたが、結局、ため息をついた。

「……降谷さんは、入院している。頭を打ってな。命に別状はないが、意識がまだ戻らない」
「え」
(…………は?)

 風見の答えに青ざめるコナンの横で、安室はポカンとした。

「ああ、いや、そう深刻に考えなくていい。私たちも心配したんだが、そのうち目は覚ますだろうと、医者は診断してる。オーバーワーク気味だったからな。意識が戻らないと言うか……まあ、寝ているんだろうと」
(は?)

 呆気にとられたが、風見がこの期に及んで嘘をついているとは思えない。
 では、何か。自分は生きているのか。
 なら、いまのこの姿は何だ。

「ほんとに? ほんとにほんと?」
「本当だ。降谷さんにあんなことを言ってくれた君に、嘘はつかない」

 コナンは顔を赤くした。

「忘れてよそれ!」
「言うなと言われただけだと記憶しているが」
「屁理屈!」

 コナンはむっと頬をふくらませた。風見は笑う。

「起きたら君に連絡を入れるように伝えよう」
「いいよ、そんなの。……ボクら、そう言うんじゃないし」
「そうか」

 風見はあっさりうなずいて、一人で帰れるか確認すると、仲間たちのところへ戻っていった。

「……何だよ、もう。心配させて」

 コナンはぶつぶつとつぶやいて、まだ混乱している安室を抱き上げた。

「でも、良かった」

 ぎゅっと子犬を抱きしめて、コナンは濡れた鼻の上に、軽いキスを落とした。

「──じゃあ、帰ろうか」









 目が覚めたら、無機質な白い天井が見えた。
 ゆっくりと視線を動かすと、点滴の袋が見える。
 ガチャリと、ノックもなく入ってきた風見が、降谷を見て声をあげた。

「降谷さん! 起き…意識が戻ったんですね」

 ナースコールを押して医師を呼ぶ風見をベッドから見上げ、ここはどこだ、とたずねると、公安が裏で厄介になっている病院の名前が告げられた。

「……僕は生きてるのか?」
「勿論です」
「あの状況で……」
「運がいいですよ、降谷さんは」

 医者が来るまでに風見がしてくれた話によると、あの時確かに降谷は、崩壊した天井の瓦礫で頭を打って倒れたそうだ。しかし、崩れてきた瓦礫の隙間にうまいこと収まり、火の手が回る前に、潜んでいた公安の仲間に救出された――ということらしい。
 確かに、馬鹿みたいに運のいい話だった。

「密かに運び出しましたから、組織にはここはばれていないはずです」
「……しばらく身を隠していたことにでもするか」

 内通者がいて、死にかけて、取引相手を公安がマークしていた……となれば、まあ何とか言い訳として通るだろう。通らなくても通すしかない。
 ついでにバカンスに行ってきました、とか何とかふざけた報告をすれば、ジンが切れ散らかして有耶無耶に出来るかもしれない。

「どれくらい寝てたんだ僕は」
「十日です」

 やって来た医者は簡単に診察をして、「頭を打っているから念の為明日検査してから、帰るように」とさっくり退院を言い渡した。厄介な患者には、さっさと出ていって欲しいのだろう。
 風見が「そうだ」と何か取り出す。
 青い、中に潰れた盗聴器の入った、御守りだ。

「寝言…いえ、うわごとで探していらっしゃったので。ビルに落ちてました」

 なるほど。何故風見が御守りのことを、と思ったが、そういうことだったか。──いや、夢との整合性を探してどうする。

(……夢、だったんだよな?)

 夢のはずだ。
 だって、わけがわからないではないか。犬になって、あの子と一緒に過ごして。
 夢の中のあの子に、あんな、己の願望丸出しの言葉を言わせて──?
 降谷は居たたまれずに点滴が刺されていない方の手で額を押さえた。
 夢だとしても痛すぎる。

「──あの」
「なんだ」

 静かに自己嫌悪に陥っている安室に、風見が躊躇いがちに声をかける。

「これは、言わなくていいと言われたんですが」
「?」
「例の、毛利探偵のところにいる少年に、連絡を入れてあげて下さい。とても心配していました」

 降谷は目を瞬かせた。

「……あの子に会ったのか?」
「ええ、はい。その、たまたま」

 安室がじっと御守りを見ると、風見は顔を引きつらせる。

「……御守りは、お前一人で探したのか」
「っ、ええ、はい。勿論、御守りを探したのは私一人です。とても大変でした」

 確かに。あの後コナンは帰ってしまったのだから、御守りを探したのは風見一人かもしれないが。──いや。また、夢と現実を混同している。

 でも、本当に。あれは、夢だったのだろうか。

「──他にも……あの子と、『言わない』と約束したことはあるか」

 たずねると、風見はしばらく沈黙し、「はい」と答えた。
 そうか、とうなずいて、その内容は問わずに、風見を帰す。
 一人になって、天井を見上げる。
 手を伸ばせば、褐色の太い腕。視界に入る前髪は見慣れた金だ。
 馬鹿げた夢だった。
 でも、もし夢ではなかったら。
 いや、夢だったとしても。
 一つ、自覚したことがある。元から心の中にあって、ようやく気づいたこと──と言った方が正しいだろうか。
 己の中の、ひとつの希望。
 降谷は目を閉じた。

(──死にかけて、『死にそびれた』って思わなかったのは……『生き残れた』と思ったのは、初めてだな)

 そう考えて、降谷は笑った。




 寝て、目を覚ましても、幸い犬に戻っていることはなく、降谷は二足歩行で退院し、そのまま安室透として組織に生存を伝え、ポアロに連絡を入れた。
 案の定ジンは切れ散らかし、梓はこんなことだろうと思ってましたと呆れた声で復帰を受け入れてくれた。
 コナンへは、連絡はしなかった。そういう関係ではないからだ。

 退院した翌日からポアロに出勤する。
 朝、店の前の掃き掃除をしていると、ランドセルを背負ったコナンが下りてきた。
 安室を見て目を丸くする。

「安室さん。復帰したの?」
「今日からね」

 答えると、コナンはこちらをうかがいながら、近づいてきた。

「……怪我、大丈夫なの?」
「怪我なんてしてないよ」

 本当は、頭を打った他に肋骨の骨にひびが入っていたが、こんなものは怪我のうちに入らない。
 にっこり笑って言うと、コナンは顔をしかめる。
 いつもの顔だなぁと思うと、何だか可愛く見えて我ながらおかしかった。

「なに、ニヤニヤして」
「いや? コナンくんにもらった御守りのお陰で、何事もなく帰って来れたのかもなって」
「……あっそ!」

 コナンは安室をにらんで、くるっとそっぽを向いてしまった。
 その時、ワンワン、甲高い鳴き声がして、「江戸川くんおはよう」と女性の声がした。

「あ、おはようございます! お。お前、元気にしてるか~?」

 声の方を振り返れば、三十代後半くらいの細身の女性と、まっ白な子犬。
 きちんとつけられた新品の首輪以外は、見覚えのある子犬だ。

「元気元気。また脱走しそうで、ヒヤヒヤしちゃう。そしたらまた、江戸川くんたちに探してもらわないと」
「アハハ。もう家出して迷子にはならないよな?」

 子犬はコナンに撫でられて気持ちよさそうだ。
 女性はコナンとしばらく立ち話すると、「またね」と言って安室にも会釈し、行ってしまった。

「……いまのは?」
「安室さんがお休みしてる間に、一日世話してた迷子の子犬。すっごく賢い子だったんだ。……なんか、途中から普通の子犬って感じになったけど」

 コナンはぶつぶつつぶやく。
 安室は、白い犬の後ろ姿を見送った。

「……ふーん」

 まさかまさかと思っていたが、やっと、認めてもいいような気がしてきた。
 ──本当に荒唐無稽な話ではあるが。
 自分が寝ていた間に見たあれは、本当に現実とリンクしていたのかもしれない。
 安室は笑った。

「なんなの、さっきから。妙にご機嫌だけど何かあった?」
「何でもないよ。──そんなことより、おしゃべりしてる時間はないんじゃない?」

 コナンは口を尖らせたが、時間がないのは事実なので、大人しく小学校の方へ体を向ける。

「いってらっしゃい」
「……いってきます」

 コナンは一度だけ振り返ると、走って行ってしまった。
 白い息が揺れるのを見えなくなるまで見送り、掃除を済ませる。
 大きく息を吐くと、自分の口からも白く染まった息が出て、高く澄んだ空に溶けていった。
 ──生き残った、あるいは生き返った自分には、願いがひとつ。
 この目で見た通り、あの子の周りには、あの子の力になれる人間がたくさんいる。でも、いつか。

(──いつかは、君が。僕のことを一番に思い出してくれるように。僕が一番に、君の助けになれるように)

 そして、その時きっと自分たちは、「助かった」と「ありがとう」を、素直に言えるような関係になれているはずだ。
 その日が来るまでは、死ぬに死ねない。
 もう一度深呼吸し、胸の奥に小さな希望をしまい込むと、安室はポアロのドアを押した。