かわいいひと
安室がお休みの日の午後。榎本梓は、掃除をするために外に出た。
出た瞬間、日の光が肌を刺す。今年の夏は特に暑い。ざっとゴミを掃いてから打ち水をしてみたが、みるみるうちに乾いてしまった。
まったく、うんざりしてしまう。
夏休みに入ったからなのか、この天気ではみんな外出する気をなくすのか、最近はお客も減少傾向だ。
もう店に戻ろうときびすを返したところで、店の横の階段から、軽い足音が聞こえてきた。
振り返り、予想と違う子どもの姿に、目を丸くする。
「あれ、歩美ちゃん?」
「梓お姉さん。こんにちは」
毛利探偵事務所に続く階段から下りてきたのは、事務所に居候するコナンの同級生、吉田歩美だった。
彼女はいつも、同級生数人と一緒に行動しているが、今日は一人のようだ。
「コナンくんに会いにきたの?」
「うん。今日、博士の家に忘れ物していったから、預かって届けにきたの。でも、誰もいなくって」
「あらら。お出かけかな?」
この暑い中やってきたのにかわいそうに、と思って、そういえば、と手を叩く。
「そうだ歩美ちゃん、この間はクッキーありがとう。家で食べたよ」
先日、コナン経由で、歩美が作ったというクッキーをもらったのだ。その前に梓もクッキーをあげていたから、お返しだったのかもしれない。
「すごく美味しかったよ。時間あるなら、ちょっとお店に寄って行かない? クッキーのお礼に、ジュースごちそうするよ」
「ほんと? 寄ってくー!」
歩美も暑さにうんざりしていたのか、梓の提案に手をあげて喜んだ。
店に戻ると冷気が体を包む。歩美がほっと息を吐いた。
マスターが「いらっしゃい」と笑顔で迎えてくれる。
「歩美ちゃん、オレンジジュースでいい?」
「うん!」
歩美はうなずいて、よいしょ、とカウンター席によじ登った。カウンターの中に入り、オレンジジュースを準備する。
「あのクッキー、お友達と作ったんだって? 初めて作ったの?」
「そうだよ」
「すごいなー。私がクッキー最初に作った時は、なーんか生地が柔らかくなっちゃって、うまく型で抜けなくってさ。大失敗だったな」
「あのね、歩美は哀ちゃんと、あと昴お兄さんと一緒に作ったの。だからうまく出来たのかも」
「そっかー。すっごく美味しかったけど、あれ、普通のクッキーとちょっと違うよね? なにか隠し味が入ってるんじゃないかなって思ったんだけど、何かわからなくって」
そう言うと、歩美はふふふっと嬉しそうに笑った。
「そうなの。でも秘密のレシピだから、秘密なんだよ!」
「えー、どうしても秘密?」
「秘密」
「ざーんねん」
はいどうぞ、とオレンジジュースを出すと、歩美はいただきます、と礼儀正しく頭を下げた。
いつも思うが、少年探偵団の子どもたちは、みんなきちんとしている。
「そうだ、梓お姉さんに聞きたかったことがあるんだ」
「私に? なに?」
「あのね、前もらったクッキーに、猫さんの形のがあったじゃない? 猫さんのクッキー型、どこで買ったのかなって」
「ああ、あれ。うーん……どこだっけ。うちにあったやつ使っただけだから……私が高校生の時に買ったんだと思うんだよね。大きなお店に行けばあると思うけど」
「そっか……」
「良かったら、あげるよ? 私は、猫のはなくっても大丈夫だから」
言うと、歩美は眉を下げた。
「でも、それは悪いよ」
「いいよー、遠慮しなくっても。この間クッキー作ったのだって、たまたまなんだ。もう作らないしね」
「作らないの? なんで?」
歩美は首を傾げた。梓はため息をつく。
「うーん。話せば長いんだけど……そもそも、私がクッキー作ったの、コナンくんにお詫びにあげようと思ったからなんだけどね」
「『安室さんと仲良くしてね』のクッキーじゃないの?」
「え? ああ」
そういえば、二度目にクッキーをあげた時は、安室が意地悪をしたお詫びだったな、と思い出して笑う。
「うん、まあそれもあるかな。でもねー……論より証拠だ。マスター、例のもの歩美ちゃんに出してもいいですよね」
「どうぞどうぞ」
マスターは鷹揚にうなずく。梓は棚から、クッキーを取り出した。
「これ食べてみてくれる?」
「わー、美味しそう。いいの?」
「もちろん」
梓が出したクッキーを口に入れて、歩美は「美味しい!」と声をあげた。
「これ、どこで買ったクッキー?」
「安室さんが作ったクッキー」
答えた瞬間、歩美は顔をしかめた。急にテンションが落ちる。
「……安室さんが作った」
「そう。──わかるでしょ、歩美ちゃん。もうクッキーを作らない理由」
「うん。わかった」
歩美はうなずいた。うなずいて、親の仇のようにサクサクサクサクとクッキーを食べる。
他に客がいないので、梓は頬杖をついてため息をついた。
「まったく、嫌になっちゃうよ。『梓さんが作ったっていうだけで莫大な付加価値がありますよ』とかなんとか、おじさん臭いこと言ってたけど、この美味しさの前では白々しさ極まるっていうか。何もクッキー作って来なくってもいいと思わない? マフィンとかパウンドケーキとか、お菓子にもいろいろあるじゃない。あれはね、絶対私がコナンくんにクッキーあげたのと、歩美ちゃんがコナンくんにクッキーもらったのがうらやましかったんだよ」
リスのようにクッキーを食べていた歩美が、動きを止める。
「歩美も?」
「そりゃそうでしょ。私が最初にあげた時はノーリアクションだったもん。もらったクッキー、歩美ちゃんと分けてて、楽しそうだなーって、うらやましくなったんじゃない。その上、歩美ちゃんもクッキー作ってあげたんでしょ。コナンくんがそれで喜んだとなれば、ねぇ」
「コナンくん、喜んでた?」
「そりゃ、喜ぶよ。美味しいって言われなかった?」
「言ってくれた。この味好きだって」
えへへ、と歩美は照れたように笑う。可愛らしいな、と梓も微笑んだ。
「──でも、じゃあコナンくんもこのクッキー食べたんだ?」
「らしいよ」
不安げな顔になる歩美に、でもね、と補足する。
「お店みたいな味がするって言われたんだって、安室さんへこんじゃって」
「……お店みたい、はほめ言葉じゃないの?」
「ほめたんだと思うよ。多分だけど、安室さん、心がこもってないって言われたような気がしたんじゃないかなー」
コナンからあずかったという歩美のクッキーを梓に渡した後で、少し拗ねたように話をしていた安室を思い出す。
拗ねてる、珍しい、とまじまじと観察したら、顔をしかめられてしまったが。
「歩美のクッキーは、心こもってたよ!」
「だよね」
主張にうなずくと、歩美は、でも、と眉を下げた。
「……安室さんのクッキーだって、心こもってたんじゃないかなぁ」
おや、と梓は目を丸くする。
「歩美ちゃんは、そう思うの?」
「思う。だって、安室さんコナンくんのこと大好きだもん」
梓は思わず大きくうなずいた。
「だよねえ!」
マスターが隅で笑っている気がしたが、放っておくことにする。バイト中のおしゃべりを後で咎められるかもしれないが、その時はその時だ。
「思うんだけど、安室さん、不器用なんだよ。意地悪したり、生まれた時からこれくらいできますけど、みたいな顔で完璧なお菓子出したりしてるけどさ、この間も、コナンくんはどんな味が好きだろうって悩みながらケーキ作ってたし。そういうところをもう少し見せていった方が、グッとくるんじゃないかなって、思うんだよね」
「うん……そうだよねぇ」
何か心当たりでもあるのか、歩美はうなずいた。
そして、梓を見上げ、小声でささやく。
「安室さん、時々かわいいよね」
「あ、歩美ちゃんもそう思う? たまにかわいいよね、安室さん」
顔を見合わせて、笑う。
歩美はオレンジジュースを飲んで、でも、と口をとがらせた。
「……安室さんがかわいいの、コナンくんが知っちゃうのは困るかも」
なるほど、と梓は追加のクッキーを出してあげながら、うなずく。
「歩美ちゃんにとってはライバルみたいなものだもんね」
「打倒安室さん、なんだよ!」
「倒されちゃうのかー」
「ほ、ほんとに倒したりはしないけど。でも、歩美ライバルがいっぱいいるから。……梓お姉さんは、ライバルじゃないよね?」
恐る恐るこちらを見上げる歩美に、梓は、さて、と首を傾げた。
「うーん、どうかな。コナンくんはきっとイケメンに成長するし、安室さんかコナンくんかって言ったらコナンくんだよねぇ」
「えっ」
ぎょっとしてクッキーを取り落とした歩美に、冗談冗談、と笑う。
「コナンくんもこんな年上は対象外でしょ」
「でもコナンくん年上が好きだよ」
「──ですよね」
二人の脳裏には、同じ人物が浮かんでいるはずだ。
上の階に住む、美人で優しくて強い、料理も上手な、パーフェクトな女子高生。コナンが彼女を慕っているのは、誰の目にも明らかだ。
恋かどうかはわからないが、歩美にとって最大のライバルであることに間違いはないだろう。
「なるほど。歩美ちゃん、なかなか厳しい状況なんだね」
「そうなの」
「うーん、じゃあとりあえずはスキルアップだ。あ、なるほど、だから、打倒安室さんなわけだ」
ぽんと手を叩くと、歩美は大きくうなずいた。
「そう、とりあえずは、安室さんなんだよ!」
つまり、歩美の中では、コナンをめぐるライバルとして、自分に一番近い位置にいるのが安室、という認識らしい。
若干安室が気の毒なような、まあ、妥当なような。なにせ、安室はコナンの前だと男子小学生並の大人げのなさを見せるのだ。
クッキーの件だってなかなかに大人げがないと、梓は思っている。
「安室さんはお菓子作り上手だから、簡単には打倒できないけど」
「まずはひとつを極めることからよ、歩美ちゃん。まず初戦がいい勝負だったクッキーを極めたらいいよ。猫のクッキー型、今度持ってきてあげるから、いろんな形でやってみたら? コナンくん、うちの大尉のこと可愛がってくれてるし、猫好きだよ、きっと」
「うん。この間、ハートの形のあげたんだけど、ちょっと恥ずかしそうだったから。他のがいいかなって歩美も思ってたんだ」
「それは照れてるだけじゃないかなーと思うけど。──うーん、まあでも、男の子はちょっと恥ずかしいのかな」
「あと、ハートだけいっぱい入ってるより、他のがいっぱいあって、コナンくんにだけハートが少し混ざってる方が、気になるんじゃない?って」
「お、歩美ちゃん、いい参謀がいるのね」
「参謀って?」
「アドバイザー、みたいな感じかな」
「うん! 哀ちゃんはすっごく頭いいんだ」
哀ちゃん、というのは少年探偵団の一員で、歩美にとっては唯一の同性の仲間だ。あまりポアロには来ないからよく知らないが、賢い子らしい。
「──でも、梓お姉さん」
歩美が、心配そうに梓を見上げる。
「梓お姉さんは、安室さんのさんぼうさんなんじゃないの? この前も、安室さんよろしくねって、してたでしょ」
言われて、はたと我に返る。
つい盛り上がってしまったが、梓的には、バイトの後輩である安室を応援しないわけにはいかない。いくら大人げなくても、だ。それが先輩というものである。
「そうだった……歩美ちゃん、私たちいまから敵同士だ」
「えーっじゃあ猫さんは?」
「猫はあげるよ。安室さんは可愛い猫の抜き型とか使わないだろうし。今度安室さんがいない時にこっそり取りに来て」
それに多分安室は犬派だと思う。根拠はないが、女の勘だ。
「今日話したことも、先日いただいたクッキーのお礼に黙っておきますので、そこは安心して下さい」
もう一枚、クッキーを追加すると、歩美はそれを口に入れて、重々しくうなずいた。
「じゃあ歩美も、ジュースのお礼に、梓お姉さんが敵にワイロを送ったこと、安室さんに黙っててあげる」
「そうしてもらえるとありがたいです」
うなずく。歩美もこくりとうなずいた。
そして、顔を見合わせて笑う。
その時、窓の外を、コナンと毛利親子が歩いていくのが見えた。
「あ、歩美ちゃん。コナンくん帰ってきたみたいだよ」
「え。あ、ほんとだ!」
歩美は身軽に椅子からとびおりた。
「梓お姉さん、ありがとう! ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
お店からとび出していく歩美を、手を振って見送る。
コナンくん、という声にコナンが振り返り、歩美が笑顔で駆け寄って行った。
それを店の中から見守り、オレンジジュースのグラスを回収すると、マスターが笑う。
「安室くんのクッキー、そんな裏があったんだ?」
「半分くらい私の推測ですけど。たぶん、合ってると思いますよ」
「なるほど」
安室くん可愛いとこがあるんだね、と笑いながら言うマスターに、うなずく。
「そうなんですよ。だから私、応援してるんです」
「じゃあ、私も応援しようかな」
「いいですね。チームポアロでサポートしましょう。可愛い同級生から同居している女子高生まで、ライバルはよりどりみどりで、かなりの劣勢ですから、応援しがいがありますよ」
「……梓ちゃん、本当に応援してる?」
マスターのいささか呆れた声を背に、梓は、先輩として安室のためにどんなサポートが出来るかを、考え始めた。