仲が良いのか悪いのか
足元を小さな影が走り抜けていく。
またこいつは、と顔をしかめて、小五郎は手を伸ばしてその影──コナンを掴み上げた。
「まぁたお前、はっ」
勝手にちょろちょろ動き回って邪魔をするな──と続けようとして、予想外に簡単に持ち上がった小さな体が、勢い余って飛んでいきそうになるのを、慌てて抱え込む。
「あぶ…っ」
「もー、おじさん離してよ!」
捕まったコナンは、バクバクする心臓を押さえる小五郎には気づかず、腕の中でぶらぶら足を揺らしながら文句を言う。
「刑事さんたちの邪魔したりしないからぁ。ねえ、下ーろーしーてー! ねぇってば……おじさん?」
小五郎は、こちらを見上げるコナンをじぃっと見つめた。
(小さい小さいと思っていたが)
ぷらぷらと揺れる細い手足は、よく見れば折れそうに細い。腕で抱え込んだ腹も、中身が詰まっているのか疑わしい細さである。
(──これはさすがに細すぎるんじゃねぇか?)
江戸川コナンは、ある日突然毛利家に転がり込んできた居候である。
小学一年生という年の割に口が達者で、好奇心が旺盛で、何にでも首を突っ込む悪癖持ちのいたずら坊主だ。小学生ならそんなもの、元気いっぱいでいいじゃないか……と思うかもしれないが、コナンの場合はそうも言っていられない。なにせ、首を突っ込むものが殺人事件だったり強盗事件だったりで、怪我をしたことだって一度や二度ではないのだ。
(あの細さだと、そのうち犯人にぶん投げられて骨折するとか、そういうことが起きかねねーだろ……)
小五郎は、隣で眠るコナンを見下ろす。
暑いのかタオルケットをはいで、ぺろりとめくれたパジャマから見える薄い腹には、銃創。──小学生の腹にあっていいものではない。
当時の騒ぎを思い出しながら、小五郎は眉間をもみほぐした。
(飯は……食ってるよな?)
朝と夜は、娘の蘭が作った食事をきちんと食べているし、昼は給食を食べているはず。──だが。いまは夏休みだ。
夕食は、普段通り三人で食べている。しかし問題は、朝と昼だ。
部活の早朝練習や合宿が増えた蘭とは、最近朝食を一緒に食べられていない。蘭が朝作っておいた朝食を後から小五郎とコナンが食べるか、適当に買っておいたパンを食べるのが夏休みの朝食のパターンだ。
(──でも最近俺は寝坊してばっかなんだよな……)
朝、学校に行く蘭やコナンに合わせて起きなくてもいい……となると、ついつい寝過ごしてしまうのだ。
起きた時には、コナンはもう食事を終えていることが多い。
自分の分は食べたよ、と言っているが、正直、味噌汁が元々どのくらいあって、ご飯がどれだけ残っていたかなんて小五郎が知るわけもない。つまり、コナンがちゃんと朝食を食べているかどうか、わからないのだ。
そして、昼だ。
外に遊びに行かない日には、事務所で小五郎と食事をとるが、コナンはほぼ毎日、「阿笠博士の所に遊びに行ってくる」と出かけている。小五郎自身が仕事で不在のことも多い。昼を買うための小遣いはやっているし、阿笠の家に行っているなら昼食くらい出てくるだろう……と思っていたが、よくよく考えれば、あの研究に没頭しがちで不健康な体型の中年男性に、ちゃんとした食事が用意出来るか疑問である。
と、なると。
──コナンはこの夏休み、ろくに食事をしていないのではないか。
小五郎は眉間にしわを寄せた。
阿笠のことをああだこうだ言ったが、それよりも問題なのは、自分の監督不行届きだ。小遣いだけ渡して、「食べてると思ってました」で通るはずがない。
コナンはしっかりした子どもだから、無意識に大丈夫だろうと思っていたし、コナンだって食事を軽視してはいないだろうが、あの子どもは、何かに集中すると他をおろそかにしがちなところがある。食事を忘れるくらいは、ありそうだ。
まずい。それは、とてもまずい。
半ば無理矢理押しつけられたようなものとはいえ、預かっている子どもなのだ。責任は小五郎にある。
それに、そんな理由でコナンが痩せたことを知ったら、蘭が激怒するだろう。
(……バレないうちになんとかしねーとまずいな)
翌朝、小五郎は気合いで早く起きた。
「今日は朝から仕事でもあるの?」と不思議がる蘭に朝食の内容を確認して送り出し、コナンの起床を待つ。
起きてきたコナンは、小五郎が自分より先に起きていることに驚いて目を丸くした。
「え。今日何かあるの?」
「ねぇよ。いいからほら、顔洗って来い。飯にするぞ」
「はぁい」
コナンは首を傾げながら、顔を洗い、小五郎が準備した朝食に手を合わせた。
「いただきます」
「おう、ちゃんと食え」
トーストとハムエッグ、トマトとキュウリのシンプルな朝食を、コナンはもくもくと口に運ぶ。
小五郎は、改めて朝食の皿を見下ろし、トーストを口に運びながらつぶやいた。
「……今日はいつもよりハムが少ねぇな」
ピクリと小さな肩がふるえる。
「へ、へぇ~、そうなの? ハム、足りなかったのかな~? ……おじさん、ボクのハム食べる?」
コナンはにこーっと笑って小五郎に皿を押しやる。小五郎は目を細めてコナンを見下ろした。
不安は的中だ。やはり、勝手に朝食を減らしていたようだ。
証拠はないのでこの場では指摘せず、小五郎は皿を押し戻した。
「いらねーよ。ちゃんと食え。食わねーと大きくなんねーぞ」
「……はぁい」
コナンはぷっと頬をふくらませて、ハムエッグを箸でつまむ。
「ところで今日はお前、何すんだ」
「え? 今日は登校日だから、学校だよ」
「あ? そうなのか?」
「昨日も言ったでしょ」
「じゃあ昼は給食か」
「ううん、午前中で終わるから。あ、でもボクそのまま博士の家に遊びに行くから、お昼はいらないや。博士んちで食べる」
「ああ……いや、駄目だ」
小五郎がそう言って首を振ると、コナンは首を傾げた。
「え。何で? 今日何かあるの? お仕事連れてってくれるの? どんな依頼?」
「あん? 何もねーけど……遊びに行くのはいいがいっぺん帰って来い」
「はあ? なんで?」
「何ででもだよ! 帰って来なかったらタダじゃおかねーからな!」
「……はぁい」
コナンは探るような目で小五郎を見たが、抵抗したところで無駄だと思ったのか、しぶしぶうなずいた。
朝食を全て食べたのを確認して、学校に行くというコナンを送り出す。
送り出してから、やはり食事はきちんと管理しないと駄目だなとため息をついた。
さて、昼は何を食べさせるべきか。
「昼……昼な……」
普段蘭に家事を任せっきりなせいもあって、急に献立を考えろと言われてもパッと出てこない。──面倒臭い。これが残りの夏休み中続くのかと思うと既にうんざりしてくる。
「とりあえず今日はポアロでいいか」
そこで、ふと思いつく。
ポアロには、弟子の安室がいる。彼は料理が得意だ。何かいいアドバイスをもらえるかもしれない。
そう考えて、小五郎は着替えて仕事のメールチェックを済ませると、ポアロに向かった。
モーニングの時間を過ぎたポアロは空いていた。
「毛利先生。いらっしゃいませ」
安室はいつもの人の良い笑顔で小五郎を迎える。
「お席はどこでも空いてますよ」
「カウンターいいか?」
「ええ、勿論です」
安室は少し首を傾げた後でうなずいた。普段一人で来る時にはあまりカウンターに座らないので、どうしたのかと思ったのだろう。
いつものコーヒーを出しながら、安室は「何かありましたか?」と聞いてくる。
話が早くて助かると、早速切り出す。
「おう。コナンのことなんだけどよ」
「コナンくんですか?」
「安室くんの目から見て、あいつどうだ」
「どう、とは」
安室は少し困った様子で首を傾げる。漠然とし過ぎたかと補足する。
「いや、あいつ、小さすぎやしねーかと思ってよ。昨日ちょっと掴み上げ……いや、抱っこしたらよ、あまりにも軽いもんだから。持ち上げたついでにどっかに飛ばしちまうかと思ってヒヤヒヤしてよ。ああ軽いとこう、投げたらぽーんと、遠くに飛ばせそうだろ」
「……そうですね」
安室は少し目をそらして、うなずいた。
「コナンくん、小さいですからね」
「やっぱ小さいよな?」
同意に身を乗り出すと、安室はうーんと首を傾げた。
「そうですね……あの年の平均がどのくらいかはわからないので、印象の話になりますが。少年探偵団の男の子の中では、一番小さいですよね」
「だよなぁ」
少年探偵団とは、コナンが学校の友だちと一緒にやっているごっこ遊びだ。コナンを含めて男子が三人、女子が二人の構成である。
安室の言う通り、男子二人─小嶋元太と円谷光彦は、コナンより大きい。大食漢の元太はともかく、細身の光彦と比較しても小さいのはやはり気になる。
「でも他の二人が大きいだけかもしれませんし……ほら、小学生くらいだと女の子の方が成長が早くて大きいって言うじゃないですか。歩美ちゃんとコナンくんは、同じくらいの大きさでしょう」
言われて、娘の蘭が小学生の頃のことを思い返す。蘭の幼なじみでコナンの遠い親戚でもある工藤新一は、言われてみれば、しばらく蘭と同じくらいのサイズだった気がする。そう思えば、心配するほどのことではないのかもしれない。新一はいまでは蘭より背が高くなっていることだし、コナンもそのうち伸びるのかもしれない。
(でもあの探偵坊主、ほっそいんだよな。腰回りは蘭の方が太いんじゃねーか?)
蘭が聞いたら激怒しそうなことを考え、顔をしかめる。親戚のコナンもそうだ、というならやはり子どものうちから気をつけてやらねばならない。何より、いまコナンは親元を離れているのだ。
「まあ、身長のことはともかくだ。どうも夏休みの間、朝昼たまに食うのさぼってんじゃねーかと思ってよ」
今朝のことと、昨夜考えた懸念を話すと、安室はふむと口元に手をあてた。
「確かに、それは良くないですね」
「だろ? 俺の監督不行届きって言われりゃその通りなんだが。ちゃんと食わせようと思ったんだが……案外、飯何するか考えるのも面倒でよ。毎食外食ってのもな」
蘭に昼まで作ってもらうわけにはいかない。朝晩の準備だって、負担になっているはずだ。この上、「自分では管理出来ないから昼も頼む」なんて、大人として父親として、情けなくてとても言えない。
小五郎は一度咳払いして、顔を上げた。
「そこで、安室くんに頼みがあるんだが」
「はい、先生! 昼食くらいでしたら僕が作りますよ。お任せ下さい!」
きっぱり、張り切った様子の安室に言われ、小五郎は目を丸くした。
そこまでは頼んでいない、というか、頼むつもりはなかった。小五郎としては、自分でも作れる簡単な料理や、コンビニや外食を活用した昼食案を出してもらうだけのつもりだったのだ。
しかし、作ってもらえるなら、それに越したことはない。何より、楽だ。
「本当にいいのか? ……いやでも、毎日だぞ? 蘭はしばらく土日も部活だし……さすがに無理だろ」
「いえ、探偵業は急ぎの依頼は入っていませんし、今月はずっとポアロに出勤予定でしたから。先生とコナンくん二人分くらい全然問題ありません」
「……そうか?」
「はい!」
良いお返事だ。黙って話を聞いていた梓がため息をついた。
「毛利さん、任せちゃって大丈夫だと思いますよ。安室さん凝り性だから、お題のあるメニュー作りとか大好きなんです」
「お題?」
「小学生のコナンくんの成長にいい料理ですよね。大人の体作りメニューなら知見があるんですが、子ども向けだと一から調べないといけないですね。どんな栄養素がいいのか……」
安室はすでにあれこれ考え始めている。変な方向に真面目だ。
「──まあ、安室くんの負担にならないなら、頼めるか?」
「勿論です。負担なんて。先生にも、コナンくんにも日頃お世話になってますから」
「俺はともかく、あのガキが何の世話してるってんだよ」
「あら毛利さん、コナンくんはポアロで起きた事件をいくつも解決してくれてるんですよ。それに、安室さんとも仲良しですから」
「そうか?」
言われて、首を傾げる。
二人が一緒にいるところは何度か見ている。仲が悪いとは思わないが、コナンはどうもこの男を警戒している素振りがあると思うのだが。
「そうですよ。あ、でも仲良いっていうより安室さんがコナンくんと仲良くしたがってるって方が正しいのかな?」
「……梓さん」
安室がため息をつく。
「仲良くしたいと思っているのは本当ですが、僕は先生と同じく、コナンくんの成長を願っているんですよ」
「ほんとですか? この前新作ケーキの試食『忙しいから』って断られたの、根に持ってません?」
「持ってないです」
「あー、とにかく」
話が脱線しそうだったので、割って入る。
「いつから頼める?」
「明日からでも大丈夫です」
「じゃあ頼む。今日はとりあえずここで何か食わせるから」
ホッとしてそう言うと、安室は目を丸くした。
「えっ、でもまだ何も調べてませんし、普通のランチしかお出しできないですよ」
「いいよンなもん別に。まずはちゃんと食わせるのが一番だろ」
「それはそうなんですが……でもうちのランチはサラリーマン向けでカロリーも栄養素も」
安室は不満げにぶつぶつ言っている。
梓がささやいた。
「毛利さん、面倒な相手に頼んじゃったかもしれませんよ」
「俺もいまちょっとそう思ってたとこだ」
返したところで、カランカラン、と入り口のベルが鳴った。
「いらっしゃい──コナンくん」
その声に入り口を振り返ると、怒った様子のコナンがいた。
「もー! おじさんここにいた!! 帰って来いって言ったくせに家にいないって、ひどくない?」
言われて時計を見れば、もう昼前だった。
コナンは小五郎が出張している時など、特別な時でないと合鍵を持たされないので、小五郎がいないと家に入れないのである。
「悪い悪い」
「もー……暑くて死んじゃいそうだよ」
外はよほど暑かったのか、コナンの額にはだらだらと汗が流れている。
「お水どうぞ。おしぼりも」
安室がグラスとおしぼりをカウンターに置く。
「ありがとう、安室さん」
礼を言ってカウンターの高い椅子によじ登ろうとするコナンを、横から抱き上げてやる。
「──ん? お前ちょっと重くなったか?」
朝ご飯をきちんと食べた成果だろうか。コナンは「は?」と顔をしかめた。
「先生、ランドセルの重さでは」
指摘されて、背中のランドセルに気づく。
「何だよ。おら、さっさと下ろせ」
「まずボクを下ろしてよ」
文句を言うコナンを隣の椅子に下ろすと、コナンはランドセルを下ろした。
「ふー、暑かった!」
そこでもう一度持ち上げてみる。
軽い。昨日より軽くなっている気がする。
「外で汗かきすぎて軽くなってんじゃねーか。早く水飲め!」
「さっきから何? 軽くなったのはランドセル下ろしたからでしょ! 水飲むから下ろしてよ」
ぎゃあぎゃあとうるさいコナンを椅子に下ろすと、コナンは汗を拭いて大人しく水を飲んだ。
「よく飲め。あとよく食え。今日の昼飯はここで食ってくから何か頼め」
「え? そうなの? うーんと、じゃあ何にしようかなぁ。アイスコーヒーと……」
「待ってコナンくん」
そこで安室がストップをかける。
「メニューは僕が選ぶから。あとアイスコーヒーは駄目。オレンジジュースを飲むといい」
安室は氷の入っていないオレンジジュースのグラスを置く。
「暑いところから帰ってきた後は、ビタミンやクエン酸が取れる飲み物がおすすめだ。あと体を冷やしすぎるのも良くない」
「……え。何なのいきなり」
コナンは不審げに安室を見上げる。安室は無視して続ける。
「クエン酸と一緒にカルシウムも取った方がいいな……いま丁度いいメニューが無いから、トマトパスタのソースに牛乳を入れてアレンジしよう。野菜も摂れるし」
「ちょっと、ちょっと待ってよ。何で安室さんがボクのお昼決めるの??」
抗議の声をあげるコナンに、安室はにっこりと微笑んだ。
「毛利先生に頼まれたからだよ。これからコナンくんのお昼ご飯は僕が面倒見るから」
「おじさん?」
コナンが小五郎をにらむ。小五郎は肩をすくめた。
「しゃーねーだろ。お前、最近ちょっと痩せただろ。そのままだと蘭が心配するぞ」
「えっ」
蘭の名前を聞いて、コナンは目を丸くした。
この少年は、娘を慕っている。これ幸いと、まるで蘭が心配している態で続ける。
「朝昼ちゃんと食ってるかって、心配してんだよ」
「だから今朝……いや、ちゃんと食べてるよ」
「俺がいない日も、ちゃんとか? 阿笠博士の家でも、本当にちゃんと食ってるんだろうな」
「た、食べてるよ……?」
うろ、と視線が泳ぐ。
「本当に、本当に、毎日一回も欠かさずか?」
「う……い、一日、くらいは……抜いたこともあるかもしれないけど」
「コナンくん。駄目だよそれは。成長途中の今は、体を作るのに大事な時期なんだよ」
安室がパスタを出しながら口を出す。ついでに、注文していない小五郎の前にも同じものが出てくる。美味そうだからまあいいかと、小五郎は黙ってフォークを取った。
「いや、でも……安室さんに面倒見てもらう必要なくない?」
「じゃあ、蘭さんにお昼もお願いするのかい?」
コナンは黙り込んだ。コナンだって、蘭の負担が大きいことはわかっているのだ。
「僕なら、ここで食事を作るついでだから気にしなくていい」
コナンはじろりと安室を見上げた。
「暇なの?」
「何失礼なこと言ってんだ、お前は!」
小五郎はコナンの頭にげんこつを落とす。
「いたぁい」
「安室くんが好意で引き受けてくれたのにぐだぐだ文句言ってるからだろ」
「いえ先生、でもコナンくんが僕の料理じゃ嫌だって言うなら無理強いは出来ませんから……」
安室は眉を下げる。コナンは気まずげに顔をしかめた。
「別に嫌、ってわけじゃないよ……安室さん料理上手だし……」
「ありがとう。今日はあり合わせで悪いけど、明日からはコナンくんが美味しく食べられるのを作るよ。だから、任せてもらえないかな?」
「うん……でも……」
「それに、さっきも言った通り、君はいま体を作る大事な時期なんだよ。せっかく運動しても、きちんと食事をしないと体は作れない。まだ筋トレみたいなことを意識するような年じゃないと思うけど、いまのうちに体作りしておくことは、無駄にならないと思うな」
少し興味を引かれたように、コナンは安室を見上げる。
「……それ、安室さんの実体験?」
「そうだよ」
コナンはじぃっと安室を──というより、安室の肩や腕を見つめた。
この弟子は、見た目は優男風なのに筋肉がすごいのだ。コナンくらいの年頃の男子から見ても、憧れる体ではあるだろう。
「……じゃあ、お願い、します。忙しくなったら、無理しなくていいからね」
「ありがとう。その時は遠慮なく申告させてもらうよ。──さあ、冷めないうちにパスタ食べて」
促され、コナンはようやくフォークを手にした。
安室は器用にパスタをフォークに巻き付けるコナンをにこにこと眺めている。
半分ほど食べて、コナンは安室を見上げた。
「あのさ……これって安室さんに何か得があるの?」
どうやらこの小生意気な少年は、それが気になっていたらしい。
安室は首を傾げて愉快そうに笑った。
「得があれば、納得してくれるの?」
「……そりゃ、まあ」
得なんてあるわけないだろう。むしろ損が多いのでは──と考えたところで、後で費用を相談しておかないとなと考える。蘭から支給されている昼代で足りるだろうか。
そんなことを考えている小五郎にコーヒーのおかわりを注いで、安室は楽しげに言った。
「あるけど、内緒」
「はぁ?」
「当ててみなよ。名探偵くん」
安室は非難の声をあげたコナンにパチンとウインクをして見せた。コナンはうげ、と嫌そうな顔をする。
──これはやはり、「仲が良い」というのとは違うのではないか。コナンの態度もそうだが、安室も妙に意地が悪い。
小五郎は梓に目を向ける。梓はにこっと笑って、うんうんとうなずく。
こりゃ通じてないな、と諦めて、小五郎はため息をついた。
翌日の朝、安室は出勤前に事務所に顔を出し、昼食の入った保冷バッグを置いていった。
ご丁寧にメニューの説明付きだ。
「──ってことで、具材でバランス考えてるから。全部しっかり食べてね」
鶏肉はタンパク質がどうだのアボカドのカリウムだどうだのという説明をいささかうんざりした顔で聞いて、コナンは「わかった」とうなずく。
「これ、ボクいくつ食べればいいの?」
「これとこれ、ひとつずつでいいよ。飲み物は牛乳がいいかな。残りは毛利先生の分」
「え。……残り全部?」
「そうだよ」
「……わかった」
コナンはうなずく。それを確認して、安室は「では」とポアロに向かった。
小五郎はコナンが持ってきたランチボックスをのぞき込む。
中には野菜がふんだんに使われたサンドイッチが詰まっていた。
「お、美味そうだな」
「うん……」
何か考えているコナンを放って、冷蔵庫にサンドイッチをしまう。
今日コナンは家にいる日のようで、いつものように、事務所のソファで本を読んでいた。
客は来ない。暇だ。
新聞を読みながら、コナンを観察する。
一日で何か変わるはずもないとわかってはいるが、相変わらず細い手足が気になって、机の上にあったアメを投げてやる。
「食え」
コナンは顔をしかめたが、大人しくアメを口にした。薄荷の味が気に入らなかったのか、一瞬眉間にしわが寄る。
「あのさあ、痩せたって言うけど、ボク別に痩せすぎてるわけじゃないからね」
「ガキはもう少しぷくぷくしてるもんなんだよ。あとそういうことは三食きっちり食ってから言え。──アメまだあるぞ。食うか?」
「もういい!」
コナンはぷっとふくれてそっぽを向いた。大人の気持ちがわからないガキだ。
そうこうしているうちに、昼になった。
コーヒーを入れ、コナンには牛乳を注いでやって、ランチボックスを開ける。
「じゃあ食うか」
「……いただきます」
早速一つ食べる。照り焼きのチキンを挟んだサンドイッチは、少し甘めで子ども向けの味付けかもしれないが、小五郎にも十分美味しく感じられた。
「見てねーで食えよ」
ひとつ飲み込んで二つ目を手に取りながら小突くと、手にしたサンドイッチをじろじろ観察していたコナンは、小五郎を見上げて「大丈夫か」とつぶやいてかぶりついた。
具材がいっぱい入っているのに子どもが食べてもこぼれないのは、作り方が上手いせいだろうか。
「それにしてもあいつ器用だな」
「あふほはん?」
口いっぱいにサンドイッチを頬張りながら首を傾げるコナンにうなずく。
「飲み込んでからしゃべれ。……何か色々説明してたけどちゃんと聞いたか? 昨日の今日でお前のために調べてくれたんだろ」
こくん、と飲み込み、コナンは口をとがらせる。
「……そういうの得意なんでしょ、安室さんは探偵なんだから。半分くらい聞いたけど、ボク小学生だから難しいことわかんなかったよ」
「都合のいい時だけ子どもぶりやがって」
「おじさんだって聞いてたんでしょ。保護者なら、代わりに覚えておいてくれてもいいんじゃないの?」
「生意気なことを言うな」
肘でつつくとコナンは笑った。
TVの気象情報では、気象予報士が熱中症の危険を訴えている。
塩分の補給も大事だけど、ミネラルバランスが──とかなんとか言っていた安室の声を思い出していると、黙々とサンドイッチを食べていたコナンが顔を上げた。
「ねえおじさん」
「あん?」
「昨日安室さんが言ってた『得』って、何のことだと思う?」
「あ? まだそんなこと気にしてんのか。……さてな。どうせ作ってみたいメニューがあったとか、その程度のことだろ」
「それくらいのこと得って言う?」
「だったら、お前がいつまでもぐだぐだ言ってっから適当にごまかしたんだろ」
そう言って最後のひとつを口に入れる。コナンはしかめっ面でむっすりと黙りこんだ。
本当に妙なところに拘るな、と小五郎は呆れる。
子どもなんて、優しくされて当然の存在だ。何かをもらう時に対価なんて考える必要は、これっぽっちもない。
普段は、コナンだってそうしているはずだ。知り合いに何をしてもらおうが、何をもらおうが、「ありがとう」の一言で当たり前に受取っている。小五郎が見るに、むしろコナンは、人から施される親切を当たり前に受け取る、ある種のおおらかな育ちの良さを持っている子どもだ。
なのに、安室に対してはこれだ。
──安室に、何かあるのだろうか。
小五郎は、実のところよくは知らない、急に押しかけてきた己の弟子のことを考える。
安室透。二十九歳。
小五郎と同じ私立探偵。探偵業では食っていけず喫茶店でアルバイトをしている。料理はこの通り、プロ並み。仕事に連れて行けばよく気がつくし、有事の行動も冷静で役に立つ。優秀と言っていいだろう。人当たりが良く、整った顔立ちのわりに反感を買うケースが少なく、異常に入れ込まれることもまた、少ない。線引きが上手く、誰に対しても平等で親切。蘭の話ではテニスも上手く楽器も得意だとか。
隙が無い。隙のなさは逆に嫌味でもあるが、そう思うのは小五郎がそう年の離れていない同性だからで、コナンくらいの年の子どもは、憧れこそすれ、反発する理由にはならないのではないだろうか。
(安室くんに何かされたとか……? いや、多分それもないだろ)
良識ある大人として、事件現場でちょろちょろするコナンを叱ったことがあって、それで反発されている……というのも考えられなくもないが、それをいつもしている小五郎への態度は変わらないのだから、安室にだけ態度がおかしいのは他に理由があるはずだ。
(安室くんに「そういう」趣味があるようにも見えねーし)
コナンは見目が整っている。怪盗キッドがらみでメディアにも取り上げられたことがあるから、変な大人に目をつけられてもおかしくないが、安室はそういう特殊嗜好の持ち主には見えない。
梓は、「仲良くしたがっている」と言っていた。確かに、安室は妙にコナンを気にしているところがある。今回のことも、コナンだから引き受けてくれたのだろう。とはいえそれは、何か別のものな気がする。
(──どっちかっつーと、こいつの安室くんに対する態度と似てるような……)
そう、改めて考えてみれば、この二人は、互いに互いを観察しているようなところがあるのだ。──理由は、よくわからないけれど。
(まあこいつは、小学生にしてはちょっとおかしいとこがあるからな……。相性ってのも、理屈じゃねーだろうし)
安室がコナンのことを、逆にコナンが安室のことを、「何となく苦手」と思うことだってあるだろう。
そんなことを考えていると、袖を引かれた。
「何だよ」
「あのね、おじさん。お願いがあるんだけど」
「あ? 何だよ」
「明日から、お昼安室さんも一緒に食べよって、誘ってもいい?」
「…………はぁ?」
苦手なんだろうな、と考えていたところに予想外の提案をされて、小五郎はぽかんとした。
否定されたと思ったのか、コナンはむきになって説明する。
「おじさんも見たでしょ、今朝の安室さんの荷物。ボクたちのお昼が入った保冷バッグの他には、薄いバッグしか持ってなかったじゃん。バッグ持ってたってことはポアロに行く前にうちに来たってことで、どこかに他の荷物を置いてきた可能性は低い。つまり、自分の分のお昼は作ってないってことだよ! あんな薄いバッグに入るはずないもん」
「……まあ、そうだな」
相変わらず、変なところに気づく子どもだ。
「ボクたちの分だけ作って、自分はお昼別のもの食べるなんて、おかしいっていうか、申し訳ないじゃん」
「作ったついでに、朝飯で食ってるんじゃねーのか?」
そう言うと、コナンはやれやれと肩をすくめた。
「おじさん、安室さんは朝は和食って決めてるんだよ」
「あん? ──お前なんでそんなこと知ってんだよ」
「この前聞いたんだよ。蘭姉ちゃんと献立の話しながら、朝は和食が一番ですよね、お味噌汁飲まないと一日が始まりませんって、言ってた」
女子高生と若い男で所帯じみた話をしているなと呆れたが、蘭が所帯じみているのは主に自分のせいだ。
黙る小五郎に、コナンは続ける。
「もし、お昼作るついでに朝同じの食べてるなら、それはそれで申し訳ないじゃん。食べたいもの食べられなくなっちゃったんだから。……そういうのなんか、借りを作ってるみたいでしゃくというか」
借り。損得の次は借りときた。
言うことが小学生のそれではない……が、今日のこれはどうも、安室に対してただ素直になれないだけのようにも見える。
小五郎はため息をついた。
「それで、一緒に食おうってか? ……まあいいけどよ。別にお前がそうしてーなら、そう言ってくりゃいいだろ。安室くんがそれでいいか、ちゃんと確認して決めろよ」
「うん! 多分、ランチタイム終わってからになるから、お昼遅くなっちゃうけど……」
「別に構わねーよ」
答えると、コナンはホッと息を吐いて、食べ終えたランチボックスを持って立ち上がった。
「じゃあボク、これ返しに行くついでに言ってくるね」
「ちゃんと礼も言えよ」
「わかってるよ」
コナンは軽く洗ったランチボックスを保冷バッグに入れて、「行ってきまーす」と事務所を出て行った。
それを見送り、ぼやく。
「……苦手なんだか気にしてんだか、どっちなんだありゃ」
小五郎はため息をついて、コーヒーを飲み干した。
翌日。
安室は一時過ぎに事務所にやって来た。
「おじゃまします。すみません、遅くなって」
「別に構わねーよ。こっちこそ悪いな、ワガママ言って」
「いえ、そんな」
安室はどこか居心地の悪そうな顔で、持参した保冷バッグを机に置いた。
「今日のお昼はなに?」
「きょうはおにぎりだよ。おかずもたくさんあるからね」
言いながら、アルミホイルにくるまれたおにぎりと、おかずの入ったタッパーを並べていく。
「コナンくんはこれ二つね。先生も、こちらをどうぞお好きなだけ」
「ありがとな」
安室は手際良く、お茶の準備までしてくれる。今日はコナンもお茶でいいらしい。
「いただきまーす」
「どうぞめしあがれ」
コナンは、今日はあっさりおにぎりにかぶりつく。小五郎もひとつ手に取って口に入れた。具は鮭だ。
「今日は解説ないの?」
もぎゅもぎゅと食べながら、コナンが正面に座った安室に声をかける。安室は、目を瞬かせた。
「え。ああ、おにぎりは、お米にもち麦が混ざってる」
「ふーん? 何がいいの?」
「食物繊維が摂れる……不足しがちだからね。あと海苔は──」
出だしは少し戸惑った様子だったが、話しているうちにペースが戻ってきたのか、安室は段々冗舌になっていった。「もち麦はダイエットにも取り入れられるがダイエット食と成長期の食事では気をつけるべき点はかなり異なって云々──」という話あたりからは、完全に聞き流して食事に集中することにした。
今日の料理も美味い。
蘭も現役女子高生としてはかなり料理上手な方だと思うが、安室の料理はレベル、というか領域が違う。これは完全にプロの作る料理だ。卵焼きの巻きの完璧さといったらどうだ。卵焼きにはじゃこが入っていて、これはカルシウムがどうだとかなんとか、言っていた気がする。
安室は、コナンが何か口に入れるたびに説明を加える。その上、「よく噛んでね、十回以上だよ」などと口煩い。さすがに鬱陶しくなったのか、コナンは「もう」と安室にタッパーを押しやった。
「これ全部食べたら体にいいのはよくわかったから、もう説明はいいよ。安室さんもちゃんと食べて」
「聞いてきたのはコナンくんじゃないか。ひどいな」
「いいから、早く食べないとおじさんが全部食べちゃうよ」
「わかったよ」
安室は苦笑して、言われるままにおかずをいくつか皿に乗せた。お返しのつもりなのか、コナンが口を出す。
「お肉だけじゃなくて、野菜も食べないと駄目だよ。──あ、その卵焼き美味しかったから、安室さんもいっぱい食べた方がいいよ」
偉そうに言うコナンに小五郎は呆れた。それを作ったのは目の前の男なのに何を言っているのだ。
安室は手を止めた。
「──ほんと? 美味しかった?」
「すっごく。あ」
コナンはうなずいて、皿に取り落とした唐揚げを箸で追いかける。
「……そう」
それを見つめ、安室はホッと、心底安心したように息を吐いた。
小五郎は目を瞬かせる。
──珍しい顔だ。
安室という男は、どんな時でも大抵、にこにこ笑顔を浮かべている。安室の名前を聞いて思い浮かべるのは、微笑んでいる顔だ。勿論、一切他の顔をしないわけではないが、困った顔をしても考え事をしていても、彼の表情はどこかフラットで、掴みにくいところがある。
けれど、いま見せた顔は珍しく、感情のにじんだものだった。
(飯褒められるのなんて慣れてるだろうに)
ポアロでも料理上手と有名なのだ。美味しいなんて聞き慣れた言葉だろうに、この顔は何だろうか。
(子どもが苦手そうな味で心配してた……ってわけでもねーよな?)
むしゃむしゃと、今度は鶏そぼろが入ったおにぎりを食べながら首をひねる。
隣でコナンが声をあげた。
「あ! おじさん、そのおにぎり四つ目じゃない? 大きいおにぎり六つしかなかったのに。安室さんとおじさん、一人三つずつだよ」
「あん?」
「大丈夫ですよ先生。お好きなだけ食べて下さい」
安室は鷹揚に笑う。先程の顔は嘘のように消えて、いつも通りだ。コナンが小五郎の脇腹をつつく。
「食べ過ぎて寝てばっかりいると、太っちゃうよ、おじさん」
「なんだと?」
おにぎりを飲み込んで、生意気なことを言うコナンの頭を両脇から拳でグリグリしてやる。
「痛い痛い、痛いってば!」
「うるせー! 生意気なこと言ってっとまた口にアメ玉入れるぞ」
「やだ、おじさんのくれるアメ薄荷味なんだもん」
「……先生とコナンくんは仲がいいですね」
安室が言い、小五郎はコナンを顔を見合わせた。嫌そう、というか不本意そうな顔をしているが、それはこちらも同じだ。
「別に仲良かねーよ。普通だ、普通」
そう答えると、安室は「普通ですか」と苦笑した。
その日以降、安室は事務所で昼を食べるようになった。
事務所の狭いキッチンスペースで簡単な仕上げをして出してくれることもあり、レパートリーは米とパンにとどまらず、蕎麦だったりパスタだったり、呆れるくらい豊富なものだった。
コナンはキッチンで作業をする安室の足元をちょろちょろしている。
「今日はお蕎麦なの?」
「今日は特に暑いから、食欲があまりなくてもさっぱり食べられるものがいいかなって。味付けがちょっと洋風だから楽しみにしてて。この前レモンが好きって言ってたからソースに入れてみたんだけど──」
安室が「味見」とスプーンを口元に差し出すとコナンは大人しく口を開く。ソースが酸っぱかったのか口をすぼめたコナンに、安室が笑った。
(……楽しそうだな)
昼食を作る話が出た時や一緒に食べるようになった時の、あの少し警戒しているような気配はどこへやら。数日でこれだ。
ああしていると親子のよう──というには微妙に年が近く見えるし、兄弟のようと言うには年が離れているので、例えにくいのだが、まあとにかく、悪い感じはしない。
それに。
小五郎は安室の横顔を見る。
コナンと話している時に見せる笑顔は、いつもの取り澄ましたものとは違う、どこか無邪気な、子どもっぽいものだった。
(そういう顔も出来るんじゃねーか)
コナンの体重は順調に増えているし、出来すぎな弟子の新たな一面も見れた。どうなることかと思ったが、蓋を開けてみれば大満足の結果だ。
にぎやかな会話を聞きながら、小五郎はもうすぐ夏休みも終わるなと、カレンダーを見上げた。
「おじさん、ボク遊びに行ってくるね」
午後、コナンが事務所に顔を出したので、「おう」と答える。
Tシャツと膝下丈のパンツから見える手足は少し日に焼け、健康的だ。まだまだ細い気もするが、数週間前の不安になる細さと比べればだいぶましになった気がする。
「気をつけていけよ。今日も外暑いみてーだからな」
「わかってるよ」
コナンは帽子をかぶりなおして見せる。
「お前ちっこいんだから、照り返しがきついとすぐバテるぞ。日陰歩けよ」
「安室さんの受け売りじゃん、それ」
口を尖らせた後で、コナンはふと日差しの強い外を見た。
「──そういえばボク、夏はいつもバテちゃって、何日か外出れない日があったんだけど、今年は大丈夫だった」
「あ? そうなのか。そりゃ良かったな」
「うん。ありがと、おじさん」
随分と素直なコナンに小五郎は顔をしかめ、帽子の上から乱暴に頭を撫でた。
「礼なら安室くんに言え」
「後でね」
くすくす笑うコナンに、今日は夕方外で依頼人と会うから、と合鍵を渡す。それを受け取って、コナンは「行ってきます」と事務所を出て行った。
依頼人との約束までは少し時間がある。
小五郎は外出の準備をして、下のポアロに入った。
「いらっしゃいませ。──先生。お昼ぶりです」
安室が笑顔で迎えてくれる。
「アイスコーヒー頼む」
家を出て、一つ下の階の店に来ただけなのに、汗をかいて冷たいものが欲しくなってしまった。阿笠邸までは少し距離があるが、コナンは大丈夫だろうか。
常連らしい客が会計に立ち上がる。
「ごちそうさま。この時間空いてるのもあと少しの間だねぇ」
「そうですね、八月ももう終わりですね」
「あっという間だ、まったく」
そう言って笑って、客は出て行った。そういえばそうだな、とぼんやり考える。
夏休みが終われば、安室目当ての女子高生も学校が始まり、戻ってくる。放課後はまた、店内がにぎやかになるだろう。
「──お待たせしました」
アイスコーヒーが出てくる。それを受け取って、持ってきた封筒を安室に渡す。
「これ。昼食代、遅くなってすまん」
渡さねばと思いながら、ずっと忘れていたのだ。
安室の顔に戸惑いが浮かんだ。
「僕はそんなつもりでは……こちらから勝手に言い出したことですし」
「俺が頼んだことだし、材料費はかかってるだろ。つっても、俺は料理なんてしねーから、いくらくらいが適当なのか全然わかんねーんだけどよ。足りるか?」
安室は「失礼します」と封筒をのぞき込んで、苦笑した。
「二人分のお昼には多いくらいですよ」
「なら手間賃込みで、取っといてくれ。どうせ元々、蘭から昼飯代にってもらってる金だ。コナンもだいぶマシになってきたし、感謝してんだ。もう夏休みも終わるし、多いって言うなら最後の日に豪華なもんでも作ってくれ」
最後、という言葉に安室はわずかに目を見張り、小さく笑った。
「……では、ありがたく頂戴します」
固辞するのも角が立つと思ったのか、安室は素直に封筒をエプロンのポケットにしまった。
その様子になんとなく、最初のコナンとの会話を思い出して、たずねる。
「毎日毎日作るの面倒だっただろ。安室くんに得なんてあったか?」
この数日。
安室と一緒に食事をして、わかったこともあるし、相変わらずわからないこともある。
安室とコナンの間には、一定の線引きがあるが、それでも別に互いに嫌い合っているわけではないこと。
よくわからないと思っていたこの弟子が、コナンの前では普段見せない表情をちらつかせること。それがみな、この男の素の感情であるらしいこと。
何故コナンが相手の時だけそういう感情を見せるのか。それが、何故なのか。
結局この二人がお互いをどう思っていて、どういう関係であるのか。
──わからなくても別にいいかと思っていたが、少し、踏み込んでみたくなった。
見上げた先で、安室は珍しく、本当に困ったような、少し心細げな顔をした。
弟子、弟子と言っていたが実際、この男は自分よりいくつも年下なんだよな、とそんなことを改めて思って、苦笑する。
「そんなに困る質問か?」
「あ、いえ」
安室はハッと我に返り、目を伏せた。小五郎が黙ったままでいると、安室はぽつりとつぶやいた。
「あれは、口先だけだったんです。ああいえば、その場はあの子をごまかせるかなと。……でも、そうですね。楽しかったです」
食器を洗いながら、安室はぽつぽつと続ける。
「一人暮らしだと、作っても自分しか食べないので……こうやって誰かのために何かを作ること、久しぶりだったなと。美味しいって食べてもらえるのも、嬉しくて。……ポアロでも料理はしてるんですけどね。不特定多数のお客様向けじゃなくて、あの子のためだと思うと。なんだか楽しかったんです。損得とは、少し違うんですが」
美味しい、と言ったコナンを見ていた安室の、安心したような表情を思い出し、あれが「嬉しい」なのかと、納得すると同時に呆れる。あんなにわかりにくいと、コナンにはまず伝わっていないだろう。
安室はふっと、我に返ったようにいつもの人のいい笑みを浮かべた。
「コナンくんだけじゃなくて、先生も美味しそうに食べて下さるので、作りがいがありました。なので、面倒なんてこと、なかったですよ」
「……困った奴だな、お前」
「え?」
「いや。なんでもねーよ」
その時、バックヤードから梓がやって来た。
「こんにちは、安室さん、毛利さん」
「梓ちゃん。今日はいまからか?」
「ええ。安室さん、やることなければ早めに上がっちゃっても大丈夫ですよ」
「明日の仕込みがあるので、それが終わったら」
時計を見ると、待ち合わせ場所に向かうのに丁度いい頃合いだった。アイスコーヒーを飲み干して、席を立つ。
「じゃあまあ、もうしばらく頼む」
「はい。お任せ下さい」
いつものように笑ってうなずいた安室を背に、小五郎は午後の炎天下を待ち合わせ場所に向けて歩き始めた。
安室透という弟子は、何となくわかったと思ったら、またわからなくなる。
何でもそつなくこなす優等生。人当たりが良く誰からも好かれる好人物。外見は実年齢より若く見えるが、中身は年相応どころかそれ以上に落ち着いている。たやすく本質を見せない、陽炎のような男。
誰とでも一定の距離を保つこの男は、明らかに江戸川コナンという小学生を特別視している。
(……コナンのやつもほんとに、なぁ)
江戸川コナンは、小五郎から見ても変わっている。
捜査一課の刑事たちが、明らかに他の子どもとは別の扱いをしているのも、例えば怪盗キッドのような変わり者の盗人が、あの子どもに盗んだ宝石を託すのも、大阪の高校生探偵がやたらと構い倒すのも、天才と有名な阿笠が特にあの子どもを気にかけ、目にかけているのも──全て、コナンが特別な子どもで、怪盗キッドその他、自身もまた有能で特別である人間を、引きつける何かを持っているからだろう。
小五郎は自分を凡人だと思っているし、事実そうだ。だから、小五郎には、コナンはちょっと変わった、でも普通の子どもにしか見えない。自分はそれでいい、とも思っている。幼なじみに藤峰有希子のような特殊な人間がいたからわかるが、傍観する余裕があるくらいの方が、あの手の人間と付き合うには、楽なのだ。
(安室くんも、妙なのを見つけて戸惑って、調子狂ってんだろーが……大丈夫かあいつ)
安室のコナンに対する感情が、警戒なのか執着なのか、あるいは単純な好意なのかわからないが、変な方向に行かなければいいのだが。
簡単に終わった依頼人との面談の後。
そんなことを考えながらぼんやりと、まだまだ暑さの残る公道を歩いて、道を曲がった瞬間。目の前にいままさに考えていた人物の姿が見えたので、一瞬幻覚かと疑った。
安室と、コナンだ。
買い物帰りなのか、食材が入ったエコバッグを持った安室が、コナンと並んで、何か話しながら歩いている。
(……本物か?)
声をかけるかためらって眺めていると、二人とすれ違った親子連れの、子どもが持っていた風船が、不意に子どもの手を離れて空に飛んでいった。
「あ」
コナンより少し小さいくらいの女の子が声を上げて手を伸ばしたが、届くはずもない。風船はあっという間に、大人が手を伸ばしても届かない高さに飛んでいく。
その時。
「安室さん!」
コナンが短く呼んだ。
安室は持っていたエコバッグを放るように下ろして、身をかがめる。そこにコナンが駆け寄って──次の瞬間、ぽーんと、夕暮れの空に飛び上がった。それはもう、高く。
安室が組んだ手と反動を使って、コナンを上に飛ばしたのだ、と理解出来たのは、コナンの細い腕が赤い風船をつかみ、そのまま勢いよく落ちてきた小さな体を、安室が受け止めた後だった。
ぽかんと口をあけて突っ立っている女の子に、安室の腕から下りたコナンが風船を手渡す。
「はい」
「あ、りがとうございます…?」
「ありがとー……」
母娘が、何事が起きたかよくわかっていない様子で、コナンと安室に礼を言う。
「どういたしまして」
コナンはにこっと笑った。
小五郎は歩み寄り、安室が落としたエコバッグを拾い上げる。
「あ、すみませ」
振り返って小五郎の顔を見て、安室は一瞬「やべ」という顔をした。
「やべ」としか表現出来ない、まるでいたずら坊主のような顔だった。
雷を落としてやらねばと思っていたのに、思わず吹き出してしまう。
「げ、おじさん」
小五郎に気づいたコナンが、素直に嫌そうな声をあげた。
目を丸くしている安室に咳払いして、コナンをにらむと、コナンは「えへへ」と猫をかぶった。
「えっと……おじさん、もしかしていまの見てた?」
「見たに決まってんだろこのボケ! 百メートル向こうからだって見えたに決まってるだろあんなもん! 何やってんだお前らは!!」
怒鳴りつけると、コナンは安室の足の後ろに隠れる。しかしコナンがいくら小さく細くても、安室の足一本で隠れられるわけがない。
「先生、申し訳ありません……その、つい」
盾代わりにされた安室が眉を下げて謝罪する。
小五郎は顔をしかめて、エコバッグを差し出す。卵が割れてしまっている。安室はそれを困った顔で受け取った。
安室の後ろに隠れたコナンを脇をつかんで持ち上げる。
──重い。
炎天下を歩いて疲れたからか、コナンが抵抗を諦めて大人しくしているからか、それとも食事の成果がここまできたのか、とにかく、常になく重い気がする。
よくこれを、あそこまで高く飛ばせたものだ。そもそも、正気の大人がこんな小さな子どもをあれほど勢いよく飛ばせるだろうか。──そんなわけがない。
急に、馬鹿馬鹿しくなった。
薄々わかってはいたが、安室もまた、小五郎が想像する以上に、普通の人間ではない。
コナンに調子を狂わされて困らないか、なんて余計な心配だった。
──そして。
あんな呼びかけ一つで応えられてしまう程度には、コナンのことをわかっているのだ。
(ったく、心配して損したぜ)
しかし、言うべきことは言っておかねばならない。
小五郎はコナンを腕に抱え直して、安室に向き直った。
「安室くん。俺は相談をした時に言ったよな。こいつがいつ危ない奴に放り投げられて怪我したりしねーか心配だって」
「──はい。うかがいました」
安室は神妙な表情で答える。
「それなのにお前が放り投げてどうすんだ。受け止められなかったら怪我じゃ済まなかったかもしんねーんだぞ」
「おじさん」
コナンが声をあげる。
「なんだ」
見下ろすと、コナンは小五郎を見上げ、きっぱりと言った。
「安室さんは、落とさないよ。だからボク飛んだんだから」
それは、その場のごまかしなどではない、はっきりとした少年の意思表示と、信頼。
小五郎は口を閉ざした。
安室もまた、少年の向こうで目を見張り、子どもの小さな頭を見つめている。
その表情を確認して、小五郎は大きくため息をついた。
「──落とす落とさねーじゃなくて、そもそも投げんなって話なんだよ、馬鹿!」
小さな頭に軽く頭突きを食らわせて、小五郎はコナンを安室に押しつけた。
「重いし熱いんだよ。罰として安室くんはうちまでその汗で湿ったチビを運ぶこと」
「はぁ?」
「はい、先生」
安室は素直にうなずいた。
「ちょっと安室さん、下ろしてよ」
「駄目だ。お前も罰としてそのまま運ばれてろ」
「何の罰なの」
「危ないことした罰に決まってんだろ! もう二度とすんなよ!」
「……ごめんなさぁい」
「申し訳ありません。以後気をつけます」
不承不承の謝罪に、もうしません、とは言わないその場限りの謝罪。まったく、とんでもない奴らだ。
小五郎は鼻を鳴らした。
「ったく……ちったぁ太って心配もなくなったと思ったらこれだ。安室くんは責任もって、そいつを気軽にポンポン飛ばせないように、夏休み後も一日一回こいつに菓子でも食わせて太らせろ! 罰だから今度は自費だぞ! あとその割れた卵で晩飯何か作ってけ!」
「わかりました」
「はぁ~?」
コナンが不満げな声をあげる。
「さっき重いって言ったじゃん! もういいでしょ! これ以上太ったら豚になるよ!」
「あんだけきれいに投げ飛ばされといて何言ってんだ。飛ばせなくなるまで太れ!」
「いやだよ。それにそんなすぐに太れないよ!」
「まあまあ」
もだもだと腕の中で暴れるコナンを片手で押さえて、安室は困った風な顔を作って言う。
「でも先生、僕はコナンくんの体重がいまの三倍くらいになっても、余裕で投げ飛ばせるし受け止められると思うんですが……」
「「げ」」
コナンと声が揃う。三倍。コナンは確か二十キロ弱だから、六十キロ弱か。……さすがにそれは言い過ぎではないだろうか。
「え。嘘でしょ。いくら安室さんでも無理でしょそれ」
安室はにっこりと笑った。
「大丈夫だよ。──だからどれだけ大きくなっても安心して頼ってくれていいよ」
コナンは一瞬黙ってから、にこっと笑う。
「……わあーほんと? でもボクがおっきくなる頃には、安室さんおじいちゃんになってるんじゃないかな~?」
「そう? きっとあっという間だと思うけどな。……あと、おじいちゃんは言い過ぎだと思わない? せめておじさんって言ってくれないか」
「安室のおじさん!」
「まだ早いよコナンくん」
ニコニコと笑いながら言い合う二人に、小五郎は本日何度目かわからないため息を落とす。
全く、仲が良いのやら悪いのやら。
何があればこんなにへんてこで複雑な関係になるのだろうか。──しかし、考えても馬鹿馬鹿しくなるだけだということは、よくわかった。なので、もう考えないことにする。
「お前ら行くぞ」
「「はぁい」」
悪ガキどもは声を揃え、大人しくついてくる。
もう考えない、と言ったが、勝手にやきもきさせられた憂さ晴らしをしてやるかと口を開く。
「──そういやコナン、お前安室くんにちゃんと礼言ったのか? おかげで夏バテしなくなったって言ってただろ。安室くんと一緒に食べたいってワガママ言って、毎日付き合ってもらったんだからちゃんと礼は言っとけよ」
「「え」」
コナンがパッと赤くなり、安室は目を丸くする。
「コナンくん、先生が一緒に食べろって言ったって、言ってなかったっけ?」
「そ、そうだっけ? ボク忘れちゃった……そ、それに別に、どっちでもいいでしょ」
「良くないよ」
「安室くんも、良かったじゃないか。コナンが美味しいって食ってくれて、作るの楽しかったんだよな」
「っ、先生」
安室が抗議の声をあげる。今度はコナンが目を丸くする。
「え。そうなの? 片手間とか言ってたのに」
「いや、その、料理自体に手間がかかってないのは本当だし、ベ、別にコナンくんだけじゃなくて、毛利先生にも食べてもらえて光栄だったって話だよ」
「……ふうん?」
「それよりさっきの話が気になるな、僕は」
「さっきの話って、何のこと?」
じと目でにらみ合う二人に、吹き出す。
やっぱり、変な奴らだ。
「お前ら仲良いな」
そう言うと、二人は顔を見合わせ、何とも言えない、微妙な表情になった。
「別に」
「……普通です」
小五郎は吹き出す。
何が普通か。普通なところなんてひとつも無いくせによく言う。
「そうかよ。──安室くん、俺は卵焼きが食べたい。ビールのつまみにしたら最高だろうな」
「承知しました」
「良し、じゃあさっさと帰るぞ」
「「はい」」
また声を揃えて返事をして、気まずげに顔を見合わせる二人に笑って、小五郎は歩き出した。