運命は信じない 10


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 パソコンの中には、やはり五年前のバース検査の結果が保存されていた。
 それと、薬の研究履歴。
 巧妙に隠されていたそれをすぐに見つけだした灰原は、すぐさま分析に取りかかった。

「全体のデータから、αとΩのデータ、あとこの時点でバース性が確定していなかった子どものうち、αとΩの夫婦から生まれた子どものデータだけをピックアップして研究していたみたいね」

 ざっと内容を確認した灰原は、そう言った。
 αの中には安室のデータ、そしてαとΩの間に生まれた子どものデータに、工藤新一のデータがあった。ピックアップされた子どもは、他に二人だけだったそうだ。

「何が目的だったのかは、本人に聞いてみないとわからないけれど、これ多分、α同士やΩ同士で疑似的な番関係を作れないかって研究じゃないかしら。大人のαやΩのデータに、未確定の子どものデータを触媒として掛け合わせているみたい。──基本は、博士やあの男の話していた香水と同じ。でも、対象を同じ第二性を持つ物に向けようとしている」
「だから、αのオレとαの安室さんとの間に反応が出たってことか?」

 灰原は首を振った。

「いえ。研究の目指す方向性はそうだけど、結果が出ていないの。失敗している。結局は、香水が劣化したものしか作られていない。データの売却が中止になったのも、結果が出なかったからかもしれないわ。あなたたちに作用してしまったのは……推測だけど、あの人と工藤くんのデータを掛け合わせて作った薬がひとつ、あったんじゃないかしら。それが、作用した」
「失敗っつうけど、実際オレたちがこうなったこと考えると、まずい薬なんじゃないか? やっぱり」
「そうね。このまま闇に葬った方がいい──と言いたいところだけど、制作者が生きて拘束されているなら、そっちでも、それ相応の対処はしておいた方がいいでしょうね」
「新一から、安室くんに伝えておけば良いじゃろう」
「……オレじゃなくて、博士から伝えればいいだろ」

 思わずそう言うと、阿笠と灰原は顔を見合わせ、コナンを見た。

「何かあったのか?」
「別に。ただ、今回正式に協力を依頼されたのは博士と、間接的には灰原だ。オレから連絡する方がおかしいだろ」
「……まあいいけど」

 灰原は、肩をすくめた。

「これなら、解毒剤は出来そうよ。早めに作るよう努力するわ。それまでに、頭を整理しておくことね」




 ただいま、と玄関のドアを開けると、エプロンをつけた蘭がおかえり、と顔を出した。

「蘭姉ちゃん。今日早いね」
「大会終わったばっかりだからね。部活もしばらくのんびりモードだよ」

 蘭は空手の大会に無事優勝し、次の大会に進むことが出来た。のんびりモードと言っているが、また数日すれば、厳しい練習が再開されるだろう。
 あの後、阿笠の家に一泊だけしてから、コナンは予定より早く毛利家に戻った。
 小五郎は複雑そうだったが、蘭はどこかホッとしているように見えた。


『コナンくんにとっては、お母さんと一緒に暮らせる方が絶対にいいんだけど、もう少し、うちにいてくれたらいいのになって、思っちゃったんだ。勝手だよね』

 電話口で、蘭は新一にそう言った。

『誰かさんと違って、いつも一緒にいてくれて、頼りになるんだよ、コナンくん』
「へいへい、ふらふらしてて悪かったな」
『わかってるなら、もう少し顔見せに来なさいよ。あ、そうだ、この間は、ありがとうね。検査のこと』
「いや。コナンはオレの親戚でもあるし。まだバース性なんて関係ないガキだっただろ?」
『──うん』

 蘭は小さくうなずいた。

『あの、さ。新一。新一は……』

 言いかけて、蘭は言葉を切った。

「蘭?」
『──ううん、何でもない!』
「何だよ。途中でやめられると気になるだろ」
『言ってもいいの? 次はいつ帰ってくるつもりで、次の大会には応援に来てくれるのかなって、聞きたいんだけど?』

 言葉に詰まる。

「……見には行きてーけど、必ず行けるかは」

 しどろもどろの答えに、電話の向こうが沈黙する。焦って呼びかける。

「蘭? 悪い、その」

 すると、笑い声が聞こえてきた。

『事件でしょ。まったく、しょうがないんだから。でも、帰ってくる時には連絡してね』
「──ああ、わかった。……あのさ、蘭」
『なに?』

 ためらって、結局、首を振った。

「いや。今度帰ったら、好きなもんおごってやるから、何がいいか考えとけよ」
『ほんと? 楽しみにしてるね』


「コナンくん?」

 ハッと顔を上げる。数日前の電話のことを思い出して、ぼーっとしていた。

「大丈夫? 調子悪いなら言うんだよ?」

 額に手を当てられ、慌てて身を引く。

「大丈夫!」

 まだ解毒剤は出来ていないが、安室はここ数日ポアロに出勤している。
 あれから、安室が今回の件に触れてくることはない。でも暗黙の了解のように、毎日学校帰りに店の前で顔を合わせていた。お互い、それで補給されているのだろう。

「ほんと? じゃあ、ご飯作るの手伝ってくれる? 今日はハンバーグだよ」

 コナンが毛利家に戻ってきてからずっと、夕飯のおかずは、唐揚げだのエビフライだの、妙に子ども向けというか、男の子が好きそうなものばかりだ。蘭なりに、早めに母親が外国に戻ってしまったコナンを気を遣っているのか、それとも戻ってきたお祝いのつもりなのか、それはよくわからないが、ああ見えて案外和食好きな小五郎がそろそろ不満そうだ。
 まあいいか、オレは好きだし、と思いながら答える。

「やった、ハンバーグ! ごちそうだね」

 すると蘭は苦笑した。

「大げさね、コナンくんってば」
「そ、だよね。へへ。ボク、手洗ってくるね!」

 コナンは洗面所に向かった。
 ──あの日。
 電話をした時に、自分は蘭に何を言うつもりだったのだろう。
 結局口にしなかったけれど──ごめんと言って、それで何を許してもらうつもりだったのだろう。
 謝ってばっかり、と公園で笑った彼女のことを思い出しながら、コナンは蛇口をひねり手を洗った。





 薬が完成した、という連絡が入ったのは、阿笠がパソコンを持ち帰って、二週間後のことだった。

「パソコンの回収は依頼しておいたけれど、薬は、あなたから渡して」

 そう言って灰原はコナンに細長い瓶に入った少し青みがかった液体を渡した。

「それで、二人分。毒物を疑われても面倒だから、あなたの分と、一つにまとめてあるわ。あなたは目盛一つ分。あの人はその倍。一緒に飲みなさい」
「サンキュー、灰原。悪いな、面倒ばっかかけて」
「今回は、珍しく、あなたが何かしたわけじゃないでしょ。一応、私も飲んでAPTXの服用者に害がないことは確認しているから、安心して」
「はっ!? お前な」
「医者として当然のことよ。もちろん、安全に絶対の自信があるから飲んだの。あなたに怒られるようなことじゃないわ」

 しれっと言う灰原に頭を抱える。
 阿笠は苦笑し、しかし、と首を捻った。

「原因はわかったものの、ここまで顕著な反応が出た理由はわからないままじゃ。APTXの影響、と考えるしかないのかもしれんが」
「多分、江戸川くんのバース性が固定される前だから、というのも影響しているのではないかしら。工藤くんに戻った時には影響がなかったわけだし、結局、α同士Ω同士では効果がない薬だったんだから」

 灰原の言葉に顔を上げ、阿笠と灰原を交互に見る。

「固定、って言い方するところを見ると、灰原は子どものバース性はまだ選択されてないだけって考えてる派なのか?」
「ええ。多分、母の……いえ、姉の影響もあるんでしょうけど」

 灰原はどこか寂しげに笑った。

「──可能性の中から、ぴったりのひとつが選ばれたんだよって。私のバース性がわかった時に。お母さんが、生まれた時点ではバース性は決まっていないって考えている人だったのを、お姉ちゃんなりに解釈して、そう言ったみたい」

 何と言っていいかわからずに黙る二人を見て、灰原は笑って、阿笠に目をやった。

「だって、αになった人が子ども時からαだったなんて、証拠がないじゃない。測定されていないんだから。科学的な思考でいけば、確定派なんてナンセンスよ」

 灰原の挑発に、阿笠が声を上げる。

「複数のバース性の要素を持っていることだって測定されとらんじゃろうが」
「──と、まあ、こうやって専門家が日々侃々諤々議論をしても、わかっていないのが実状なのよ。私はαだったから、いまもαの要素しかないのかもしれないし、もしかしたら、いまの私はお姉ちゃんと同じβになる可能性だって持っているのかもしれない。あなたもそう。もしかしたら、あなたの中にあるΩの要素が、今回反応したのかもしれないし──そうじゃないのかもしれない」
「おい、科学者。随分曖昧なこと言うじゃねーか」
「特定するためにはあなた、邪魔になる要素が多すぎるのよ。まあ、今回みたいなことはそうそう、起こらないわよ。同じ年にバース検査を受けたってだけなら大勢いるでしょうけど、その中でピックアップされたデータは数百。子どもに限ればたったの三。その中で掛け合わされて、しかも片方はご丁寧にデータが取られた時と同じ、バース確定前の姿になっていて、さらに、たまたま薬が割れた現場に、薬の効力が発揮されている時間内に、揃って立ち入るなんてこと、天文学的な確率でしかあり得ないわ」
「……言われてみればひでぇ事故だな」

 そう言うと、灰原はわざとらしく、首を傾げた。

「あら、そういうの、他にも言い方があるんじゃない?」





 事前に連絡を入れて、今日の安室のシフトは四時までと確認している。
 ポアロに迎えに行くと、ちょうど安室が出てくるところだった。
 いつものように、声をかける。

「時間取ってくれてありがとう。少し説明したいこともあるから、どこか場所移さない?」
「いいよ。じゃあ、折角だし少し足をのばそうか」

 安室もいつも通りに答えた。
 車は近くの駐車スペースに停めてあった。
 助手席に座り、あとは安室の運転に任せる。
 相変わらず、落ち着くいい匂いがした。この匂いも、今日で最後だ。
 車はすぐに、海辺の公園につく。薬を飲まなければならないので、車を停めて公園に行く間に、コンビニで水を買った。
 港の護岸にそって整備された遊歩道は、ランニングをする人や犬の散歩をする人が絶えず通っていたが、ベンチに座っているのは、数十メートル先に見える、老人と犬の一組だけだった。
 適当なベンチに座って、コナンは解毒剤の瓶を取り出す。
 阿笠からも、安室へは説明がされている。コナンは簡単にそれを繰り返した後で、瓶のふたを開けた。
 まず自分から飲まないと安室は飲まないだろう、と、ミニサイズのペットボトルを開けて水を少し飲み、そこに目盛一つ分、解毒剤を溶かす。
 薄い青は、すぐに判別できない程度になった。

「直接飲んでもいいって言ってたけど、ちょっと苦いみたいだから」

 コナンは言って残りの瓶を渡すと、思い切って一口、水を飲んだ。
 わずかに苦みを感じるような気もしたが、無味無臭に近い。
 これを飲み干して、しばらくすると、不可思議な症状は消えるはずだ。
 勢いのままにコクコクと、一気に半分ほど飲んで、一息つく。
 安室は黙ってその様子を見ていた。

「……結局さ、なんでこんないい匂いがするのかは、わからなかったね」
「迷宮入りか」
「そう言われるとシャクだな……」

 もう一口、飲む。
 安室は手の中の瓶をもてあそびながら、口を開いた。

「──取り調べの結果だけれど。阿笠さんの推測通り、同じバース性の人間同士で番関係を作ろうとしていたみたいだ。加害者はα性で……α性の恋人がいたらしい。でも、ある日現れたΩに取られてしまった。自分たちの関係がもっと強固なものだったら、と思っていたそうだ」
「……そっか」

 その動機を、理解することは出来ないが、想像することは出来た。
 いつか自分よりふさわしい相手が出てきたら、というのは、恋人間で普遍的にある悩みなのかもしれないが、バース性がかかわると、本人の意志を凌駕する何かに流されてしまう心配も出てくる。
 ──でも、そうやって無理につないだものを、本物だと、納得出来るのだろうか。
 赤井は、人によってはそれが有効だと、言っていた。
 錯覚でも、それが続けば本当になる。それを幸せだと思うか不幸せだと思うかは、人によるのだろう。

「安室さんはその動機、馬鹿馬鹿しいって、思った?」
「どうかな。そう願う気持ちは、わからなくもない」

 それは、以前言っていた、番なんて作る気がないという話だろうか。
 コナンの視線に気づいたのか、安室は苦笑した。

「理解は出来るって、だけの話だよ。僕もこれまでに、いいなと思う人が一人もいなかったとは言わないけど……到底相手にしてもらえるような感じではなかったし、他にふさわしい相手がいた。僕はそれを納得していたから──どうやってでも振り向かせたいとは、思えなかったな」
 おどけたような軽い口調。でもその目には少し寂しさが浮かんでいるようにも見えた。
「……それは、安室さんの初恋の話?」
「そう。僕はね、だいたいいつも、そんな感じなんだ」

 それはいまも、安室には淡く思う相手がいるということだろうか。
 相手が赤井ではないことは、さすがにわかった。でも、じゃあ、それは誰だろう。
 考えたところでわかるはずがない。
 出会って一年にもならない。本音で話すことも出来ない。お互いに、嘘の姿でごまかしている。──安室について知っていることは、ごく少ない。
 そして安室の人生の中に、コナンが登場する隙間なんてほとんどない。
 そのことが無性に悔しくて、コナンは一気にペットボトルの水を流し込んだ。
 これで、全部だ。しばらくしたら、消えて無くなる。
 コナンは一つ息を吐いて、口を開いた。

「安室さん」
「うん?」

 言ってしまえ。
 そう自分の背中を押して、コナンは安室を見つめた。

「安室さんの匂いが、いい匂いだって思うようになってさ。いつもよりちょっと距離が近くなったり、お泊まりしに行ったり、喧嘩みたいなことしたり。普段の安室さんと違うこと、たくさんして、安室さんが実は大人げない人で、多分優しい人で、ちょっと可愛くて、もしかしたら寂しがりやなのかもって気づいたりして──ボクね、結構楽しかった! 安室さんの一言に振り回されて落ち込んだり、全然自分らしくなくて嫌にもなったけど。それ、まるで恋みたいだって、そう思った。これが、薬のせいで、偽物の気持ちだとしても」

 安室の目が、丸く見開かれる。
 小学生の子どもに、こんなことを言われたって困るだけだろう。わかってはいたけれど、この男に一瞬でも、ひっかき傷程度のものでも、何かを刻みつけてやりたかった。
 コナンは笑った。

「嘘で偽物でも、ボクは、あなたに恋をしてた。──この気持ちが消えちゃう前に、それだけ言っておきたかった」

 江戸川コナンの存在は、嘘で出来ている。そんな江戸川コナンの初恋なら、偽物の恋が、ふさわしいのではないか。
 風が、強く吹き付けた。
 目を閉じて、ふと、これまでずっと感じていた匂いが無くなっていることに気づく。
 ──呆気ないものだ。
 目を開け、まだ呆然としている安室を見上げて、苦笑する。

「……匂い、消えちゃった。即効性だよ、この薬」

 これで、終わりだ。
 全部終わって、また元通りだ。
 その時、安室が、そっとコナンを抱き寄せた。額が胸に押し付けられて、トクントクンと、安室の心音を伝えてくる。

「……もう、消えてしまった?」
「うん。もう全然わからない」
「こっちは、まだいい匂いを感じるのにな」
「ああ、じゃあやっぱりお互い飲まないと駄目なんだ。飲んで、安室さん」

 安室は身を離して、手の中の瓶を見つめた。そして、瓶を握り込み、小さく笑った。

「──いや、飲まない」
「……は?」

 コナンはぽかんとした。

「何で? 何言ってるの。このままにしてていいことないよ」
「そうだね。わかってる。今は飲まないけど──飲むよ、いずれ。……多分、そう遠くないうちに」
「何だよそれ」
「コナンくん、覚えてる? 僕が初めて阿笠さんの家に行った時のこと」
「え?」

 初めて安室が阿笠の家に来た時。それは、確か一度新一に戻った日のことだ。
 あの日安室は、コナンがいなくなったと、そう言ってひどく憔悴していた。
 安室はまっすぐにコナンを見つめた。

「また、あの時のように、君がどこにもいなくなってしまったと、それがわかったら──その時、薬を飲むよ。その時までは、いまのままでいい。きっと、それはそう先の話じゃないだろう?」
「……なんで」

 声がかすれる。
 安室は苦笑して、コナンを見つめた。

「君だって、わかってるだろう、名探偵くん。君はたくさんヒントを残した。元々、疑ってはいたしね」

 それは、警視庁近くの公園で話をした時から、覚悟をしていた。
 優秀なこの人なら、察するだろうと。それでも、安室はずっと決定的なことを言わずにきた。

「いつから……?」
「決定打はデータの件だけど、元から疑っていたって言っただろう。今回の件でも、君は何故か、最初から自分がαであると決めてかかっていたように見えたし。確信したのは、阿笠さんの家に行った時かな」

 あの日、新一は変装をして安室とわずかながら接触している。その時に、何かミスをしただろうか。コナンの思考を読んだように、安室は小さく首を振った。

「阿笠さんのところに、大学や企業の関係者が出入りすることがあるのは、知っていた。だから、お手伝いの青年自体を怪しいと思ったわけじゃない。おかしかったのは、玄関だ」
「玄関……?」

 コナンの靴は、あったはずだ。と、そこまで考えてハッとする。

「気づいたかな? 確かにあそこには、阿笠さんの靴と、君の靴と、もう一人子どもの靴があった。──でも、あの時いた青年の靴は、無かった」

 当然だ。新一はあの日、裏口から入ったのだ。出る時にはコナンになっていたから、表の玄関に置いてあった靴を履いた。うっかりしていた。

「裏口から入った可能性もあるけど、たまにしか来ない人が裏口から入るのは逆に不自然だ。まあ、あの日はそれどころじゃなくて、気づいたのは後になってからだけど」

 安室はコナンを見て、苦笑した。

「もっとも、証拠なんてどこにもない。こんな話は、そうと考えれば色々と説明がつくというだけの、妄想みたいなものだ。──でも、油断はしないでね、江戸川コナンくん」

 コナンは眉を寄せた。
 まだ証拠はないから、組織に言う気はない、それよりもこちらに対する交渉カードとして使えそうだ、ということだろうか。全然安心出来ない状況だ。

「それが、なんで解毒剤飲まないことにつながるんだよ」

 コナンと新一の差を感じ取れる、ということに、一体何のメリットがあるのか。
 安室は手の中の瓶に目を落とした。

「賭け、かな」
「賭け?」
「そう。結局、どうして失敗したはずの薬なのに、僕たちの間に番みたいな反応が出たのかは、わからない。わからないけれど……もし、万に一つでも、この先に可能性があるなら。そこに手を伸ばしてみたいと思った。君が、あんな告白をしてくるから」

 目を見開くコナンの手を取り、安室は続ける。

「君に、思う相手がいるのは知っている。とてもお似合いで、君にふさわしい相手だ。僕は自分をそうだとは思えない。だから、君が本当にαなら大人しく身を引くけど……もしそうならない可能性があるなら、僕を選択肢に入れて欲しい」
「なに、言って」

 αに戻らない可能性。その可能性が極わずかであっても、存在していると、知っている。天文学的な小さな数字かもしれないけれど。

『──そういうの、他にも言い方があるんじゃない? 「運命」、とかね』

 家を出る前に聞いた、灰原の言葉が、頭に浮かぶ。
 ぎゅっと、手に力が込められた。

「これだけは、諦められないんだ」
「だったら、尚更、飲んでよ。安室さんだって、これが誰かに作られたものだって、わかってるでしょ?」
「そうだね。でも、僕は自分の気持ちがそれだけではないことを、知っている。それに、解毒剤を飲まずにいれば、君は、自分の匂いが必要な僕のことを意識してくれるだろう? ……まあ、本当のところ、諦める時にきっかけが欲しくて、自己暗示が欲しいだけかもしれないけど」
「……なんだよそれ」

 それでは、まるで元からコナンのことを好きだったみたいだ。

「明確に、そうだと思っいてたわけじゃないけどね。いますぐどうこうしようって気もないし。でも、欲が出た。君に、真っ先に助けを求められる相手になりたい」
「そ、れは」

 それは、それなら、自分だってずっと思っている。

「それだけじゃ、駄目なのかよ」
「折角だから、もう一声欲しいな」
「いや、もう一声っていう譲歩の範囲じゃないだろ」
「ごまかされてくれないか」
「当たり前だよ」
「必死なんだ。僕はいま、自分の健康と安寧をカタに、賭けに出ているわけだから」
「その言い方はずるいだろ」
「ずるくても、何でも。必死なんだよ」

 コナンは、ぐっと唇を噛んだ。
 忘れるつもりだったのだ。消してしまうつもりだったのだ。いま、ここで。
 それで、工藤新一を待ってくれているあの子のところに、帰るつもりだった。

「オレは……今日全部、消しちまうつもりだったのに」
「ごめんね。それは、させられない」
「忘れるから、言ったのに」
「言い逃げのつもりだったのか? 言われた方の気持ちを考えてくれ。……君はひどい男だな」
「そうだよ」

 傷をつけてやりたいと思いながら、その先を考えずに、目を閉じて、蘭の所へ戻るつもりだった。
 身勝手にこの恋を昇華しようとした。
 安室の手が、そっとコナンの頬に触れる。

「──ごめん。これを言ったら、苦しませることはわかってたのに。君が苦しんでくれてることが、とても嬉しい」

 本当に、嬉しそうな声だった。
 ひどいのは、どっちだ。
 その上、一度αになっている人間相手に、次はΩになったらなんて、確率の低い条件をつけて考えて欲しいだなんて、逃げ道を作って。
 衝動のまま、声を上げる。

「だったら!」

 コナンは安室の手を払った。

「いっそ、バース性とか関係なく、奪いにいくくらい大きく出ろよ! 中途半端なんだよあんた!」

 安室は目を丸くしてコナンを見つめた。
 その顔が、泣いているのか笑っているのかわからない表情を浮かべる。そして、安室は肩をふるわせながらうつむいた。

「……君ね。君って子は、ほんとに」
「なんだよ!」

 恥ずかしくなって怒鳴ると、安室はぎゅっとコナンを抱きしめた。
 そしてそのまま、笑い続ける。
 しばらくそうやって笑い続けて、安室は最後に小さく、まるで泣きそうな声でささやいた。

「──ありがとう。ごめんね」








 そんなやりとりをした後も、二人の関係が変わったわけではなかった。
 安室はこれまで通りで、コナンもこれまで通り。
 匂いだの不安だのに押しつぶされることもない、平和な生活が戻ってきた──と言いたいところだが、一つだけ、新しい習慣が出来た。
 学校に向かおうと、探偵事務所の階段を下りたところに、今日も掃除用具を持った安室がいる。

「コナンくん、おはよう」
「おはよう」

 安室は、ランドセルを背負ったままのコナンを抱き上げると、首筋に鼻を寄せた。

「──うん。ありがとう」
「……どういたしまして」

 安室は本当に、解毒剤を服用せずにいる。つまり、コナンの匂いが途切れると調子を崩してしまうということで、だからこれはボランティアだ。
 ボランティア、なのだが、毎朝毎朝こんなことをされると、意識してしまって仕方ない。
 解毒剤を飲んで、消えてしまったはずなのに、まだ少し引きずっているのか、日に一度懐いてくる安室を可愛いなぁと思ってしまっている。
 ほだされている。こんなの作戦に決まっているのだから、油断しては駄目だ。
 あんなことを言っていたが、安室とコナンを取り巻く環境が変わっていないことは事実で、油断出来ない相手であることは、間違いない。
 ──でも。
 いつか遠くない未来、何のわだかまりもなく安室に助けを求めて、求められて、そうなれば、どんなにいいだろうと思う。
 今回のことで、強くそう思うようになった。
 でも、それがどんな気持ちによるものなのかは、わからない。
 蘭のことはやっぱり特別で、大切だ。彼女の手を取らない未来なんて、想像できない──はずだったのに、違う可能性を考えられてしまう自分を、どう扱っていいのか、まだわからずにいる。
 そんなことを考えていると、安室は「寝ぐせがついてる」とコナンの髪を軽く整えて、小さく微笑んだ。
 なんだか腹が立つくらいきれいな笑顔だ。
 ──安室はあの後、「分が悪い賭けなのはわかってるから、答えを急がない」と言っていたが。
 長引くと、不利になる気がする。
 あの日身勝手に昇華しようとした恋を、完全に消せなかった時点で、あの告白を、どこか嬉しいと思ってしまった時点で、既にひとつ、負けているのだけれど。
 ため息をつくと、安室は時計を見て、言った。

「引き止めておいて何だけど、コナンくん時間大丈夫?」
「え? ヤベッ」

 腕時計を覗き込んで、思いの外進んでいた時間に慌てる。
 ぴょんと安室の腕から下りると、背中に声がかけられた。

「気をつけてね。──いってらっしゃい」
「うん。いってきます!」

 答えて、手を振る。

 ──元の姿に戻った時に、バース性が元の通りαになるのか、それともΩになるのか、それはわからない。
 けれど、バース性がどうなったかに関係なく、自分の気持ちと向き合って答えを決めようと、そう決めた。

(運命とか、本能とか。薬のせいとか。そういう言い訳のない、本当のオレの気持ちがどこにあるか)

 どんな答えだろうと、それを真っ直ぐに、自棄ではなく、今度こそきちんと伝えよう。
 それが、逃げ道を作りながら、それでも無茶苦茶な、捨て身の賭けに出た安室への誠意であるはずだ。
 一度、心臓に手を置いて、コナンはスピードを上げて走り出した。