運命前夜
閉店後の後片付けを終えて、安室は裏口の鍵をかけた。
その鍵を、隣で見ていたマスターに手渡す。
「短い間でしたが、お世話になりました」
「うん。──お客様も、寂しがるだろうな。安室君も、安室君の料理も、ファンが多かったから」
「ありがとうございます。……本当に、ご迷惑ばかりおかけしました」
今日は、「安室透」の最後の出勤日だった。今日を最後に、米花町とはお別れだ。引っ越しは、既に済ませていた。
長い長い任務が、黒の組織の壊滅という結果をもって終わりになったのは、三ヶ月程前のことだ。
幸いというか、悪運が強いというべきか、大きな怪我もなく任務を終えた安室は、本来の職場に戻ることになった。
それまでの身辺整理の期間が長めに与えられたのは、褒賞の一部だろうか。おかげで、世話になった人たちに不義理をすることなく、フェードアウトすることが出来そうだ。
安室透が迷惑をかけた人間の筆頭が、ポアロのマスターと梓だったが、二人は別れを惜しみこそすれ、安室の勝手を責めることもなく、新しい生活を心から応援してくれた。本当に、いい人たちだった。
深々と頭を下げ、マスターと別れる。
一つ息を吐いて、愛車に向かおうとしたところで、物陰にたたずむ小さな影に気がついた。
「コナンくん」
声をかけると、子どもが姿を現す。
「こんばんは、安室さん」
「こんばんは。こんな時間に一人かい」
「うん。──安室さんに、話があって」
コナンはまっすぐに安室を見上げた。その姿を見つめ返し、うなずく。
「──そう。……じゃあ、話が出来るところに行こうか」
車で、以前話をした海辺の公園に向かう。
車の中で、コナンは言葉少なに窓の外を見つめていた。細い足には少し前まで包帯が巻かれていたが、今日はもう、無くなっていた。
「──お店までどうやって来たの」
「え? 普通に歩いて」
「……こんな時間に関心しないな。怪我、完治したわけじゃないんだろう」
「大丈夫だよ。でも、ありがとう」
以前と比べ、素直になったような気がする。もう腹の探り合いをする必要がないからだろうか。
先日の最終作戦前に、彼の事情は改めてきちんと、聞いている。こちらの事情も勿論。
そして彼は近々、元の姿に戻るために日本を離れるはずだ。既に毛利家からは出ていて、いまは両親とともに工藤家にいる。
安室はそっと息を吐いた。
話の内容に、予想はつく。
──今日は、おそらく安室透と江戸川コナンの最後の日だ。
夜の海辺は、ひと気がなかった。
「こんな時間なのに、そこそこ明るいね」
「こういう場所は、暗くするとあっという間に治安が悪くなるんだ」
言うと、コナンは「なるほど」と笑った。そして、さらりと続ける。
「明日の便で、アメリカに行くよ」
「──うん」
話は、予想通りのものだった。だから、ショックはない。
「気をつけて。……こっちに戻って来るんだよね?」
「うん。様子見てだから、いつになるかはわからないけど」
「そう」
組織が壊滅して三ヶ月。この子がまだこの姿でいるのは、APTX4869の解毒剤の完成に時間がかかったからだ。いや、三ヶ月というのは、早いくらいだろう。宮野志保が、事前に試作品を山ほど作っていたからこそ、ここまで短期間で薬が完成したのだ。
「まあ、オレの場合これまでに何度も無茶してるし、解毒剤がちゃんと効くかは、飲んでみないとわかんないけど」
「大丈夫だよ、君なら」
自分が何か保証出来るというわけでもないが、そう言う。
でも実際、大丈夫だろうと思う。だって彼には、ヒーローには、ハッピーエンドがふさわしい。
コナンは眼鏡の向こうで大きな目を瞬かせ、そして小さく笑った。
「……だと、いいけど。──安室さんさ、例の薬、ちゃんと持ってる?」
「持ってるよ」
安室は、あの日からずっとお守りのように持ち歩いている、解毒剤の瓶を取り出した。
「飲んでね、それ」
コナンは簡単に、そう言う。安室は苦笑した。
「飲むよ。言っただろう、その日が来たら飲むって」
答えると、コナンは安室を見つめ、ふっと目を伏せると、ふらりと細い足を揺らした。
「──いま飲んで、っていうのは無理? アメリカに行っても、しばらくは検査だ。戻って来るまでにも、時間がかかるよ」
「……それが、君の答え?」
長い間『匂い』から離れることで、安室の体に不調が出ることを心配しているだけでなく、そもそも待たなくていいということなのかと問えば、コナンは少し間を置いて、首を振った。
「そうじゃないよ。……いや、そう、かな。もう、決めたんだ。──無事に戻れても、戻れなくても。バース性が変わっても、変わらなくても。……それには関係なく、答えを出そうって」
顔を上げた少年の目が、まっすぐにこちらを見つめる。
彼の言葉をゆっくりと頭の中で咀嚼して、安室は小さく笑った。
「──そうか」
すると、それを見たコナンが苦笑する。安室は顔をしかめた。
「なに……?」
「ううん。そういう顔するのかって。……なるほどな」
安室は眉間にしわを寄せる。
「まさか試したのか?」
「そうだって言ったら? でも、試されてるのはこっちじゃないの? 強引で執念深いのかと思えば、あっさり身を引く。……安室さんは、オレがΩにならなかったら用がないのかもしれないけど」
「そうじゃない!」
カッとして細い腕を掴む。足元に解毒剤の瓶が落ちた。
コナンは一瞬顔をしかめたが、引く様子もなく安室をにらみつける。
安室はぐっと唇を噛んだ。
この子に、自分の気持ちがわかるわけがない。
明確な形になったのは匂いがきっかけではあったけれど、ずっとひかれていた。きっかけを得てしまって、自分の意志とは裏腹に、欲がふくらんだ。
でも、彼には毛利蘭という相思相愛の、お似合いの幼なじみがいる。自分がつけ入る隙があるとすれば、彼のバース性が変わってしまった時だけで、それだってただ、ほんの少しの隙が出来たというだけのことだ。
なりふり構わずに賭けに出たことだって、半ば脅迫のように、彼に自分の存在を気にかけさせたことだって、未練がましい悪あがきだと自覚しているのだ。
コナンはじっと安室を見つめ、小さくため息をついた。
「……ごめんなさい。そんな顔をさせたかったわけじゃないんだ」
コナンはつぶやいて、ぽすりと安室の胸に額を当てた。
「……」
ゆっくりと、腕を離す。
「ごめん。いまのは、ちょっと、オレの不安を押し付けた」
最近、コナンの口調にはぽろぽろと、おそらくは本来の彼の口調が、交じるようになった。
──元に戻れるか。バース性が変わるのか。
元の姿に戻りたいという願いが叶う日がようやくきて、希望や期待と同時に、不安がふくらみ、気持ちが揺らいでいるのだ。
安室はコナンの体を抱き寄せて、ため息をついた。
「……君は、ひどい男だな。こんな時に甘えられて、僕が突き放せるはずなんてないってわかっていて、こういうことをするんだ。そもそも、ずっと黙っているつもりだった僕にみっともない悪あがきをさせたのは、君の告白なんだってこと、わかってるのか?」
恨み言を言いながら、彼に甘えられているのだという事実が甘く胸を苛む。
「……わかってるよ」
そう言いながら、さらに額を押し付けてくるコナンを抱きしめる腕に、力を込めた。
小さな体だった。
この体から、不意にいい匂いがするようになったあの日を思い出す。
偶然の、でも決定的に自分たちの関係を変えた事故。その事故が、何かを変えることに期待したけれど。
(──でも、それももうすぐ終わりだ)
答えはもうすぐに出る。いや、もう出ているのかもしれない。先ほど彼はこちらを試しただけなようなことを言っていたけれど、「バース性に関係なく決める」というのは、いかにも彼らしかった。
(……これを、失ってしまう)
元より自分のものなんかではなかったのに、そんな風に思う。
でも、この子が自分のものであり得たのかもしれないのは、何も確定していないいまこの時だけだった。
嫌だ、と心がきしむ。
手を離したくない。このまま自分のものにしてしまいたい。
「───ッ」
その衝動を振り切るように、でも最大限に優しく、体を離した。
(違う。──そう、こんなのは、薬で気持ちが増幅しただけだ)
そう、言い聞かせる。ごまかして、自分に暗示をかけるのは、昔から得意だった。
驚いたように顔を上げるコナンを見つめて、笑う。
「……うん。これで、むこう二ヶ月分くらいは補充が出来たよ」
戸惑い半分、呆れ半分の困ったような顔で、コナンも笑う。
「ほんとに?」
「本当本当。──だから、僕のことは気にしないで、行っておいで。いざとなったら……」
安室は足元に落ちた瓶を拾いあげた。
「──これがあるからね」
コナンは目を細めて瓶を見つめた。そして、うなずく。
「うん」
ひとつ息を吐いて、コナンはいたずらっぽく安室を見上げた。
「でもさ、それ効き目大丈夫かな? 一度開封してから時間経ってるけど」
「怖いことを言うな、君は。……でも、大丈夫。志保さんに、確認したからね」
「宮野に? ……いつの間に」
「さあ、いつだろう」
ごまかすと、コナンは不満げに口をとがらせた。安室は笑った。
「彼女も、君と一緒に行くんだろう? そんな時にもしものことがあったら、身動きが取れなくなってしまう。──そうなっては、困るからね」
「……」
真意を探るようにこちらを見つめるコナンを、見つめ返す。
「僕は、症状が仕事に支障をきたすほどのものだったら、どんなタイミングだろうとこれを飲んだだろうし、飲むだろう。たとえこの賭けが、無かったことになってしまってもね。君にすがるような無茶苦茶なことを言ったけど、それでも、僕の優先順位の一番はいまも、以前君に話した時と変わらずに、この国だ。──僕は、そういう男だ」
そう言って、安室は笑って見せた。
「だからね、僕は大丈夫」
この国を守ること。亡き友の分も、そして、大切な人を守るためにも。それが自分にとっての一番の優先事項で、この生き方は今更変えられない。
彼と出会う前に自分を形作った様々なものは、彼と出会っても変わらずにここにあるのだ。
だからきっと、自分は生きていけるだろう。──彼が幸せに生きているのなら。
コナンは静かに安室を見つめて、しばらくして、苦笑した。
「……あなたがそういう人だから、ボクはあなたを好きになったのかもね」
「……え?」
目を瞬かせる。
いま何を言われただろうかと少年を見つめると、コナンは笑った。
「強くて、頭が良くて。誰かに頼らなくても何でも出来る大人の人で……謎だらけで。大事なものがあって、いつもボクと違う何かを見つめてる。──近いのに、遠い。……そう、思ってたんだけど」
コナンの手が、そっと安室の頬に触れた。
「でも、それだけじゃないかもしれないって、知っちまったから。──あんたは本当に『大丈夫』で、全部抱えて一人で生きていけるのかもしれないけど。ボクが、オレが、それは嫌なんだ。もっと、知りたいし、あなたの人生に関わりたい」
手がそっと離れて、自分の顔がくしゃりとゆがむのを感じた。少年は笑う。
「だから、お願い。待っててよ。帰って来るから。答えを、その時に持って来れるかはまだわかんねーけど。でも、どんな答えを出しても、それで『終わり』にする気は全然ないんだ」
なんとか、口を開く。
「……随分と残酷なことを言うね」
「そうかな」
「そうだよ」
少年の細い腕をつかむ。
「一応僕は、君に告白をしていたと思うんだけど。……帰って来るとか、そんなことくらいで、満足して大人しく引き下がると思われては困る」
「いきなり図々しいな。さっきまで大人みたいなこと言ってたくせに」
「僕は、君に、告白を、していたと思うんだけど」
「わかってるよ、わかってるよ。……ったく。ハハッ」
少年はふきだした。
「やっぱり、それくらい元気な方がいいよ。泣かないで、いい子で待っててな」
「……泣いてない」
「うん。──でも、あんたが泣いたとこ見てみてーな。……いや、嘘。やっぱ笑ってて」
ぐい、と小さな指が、頬を上に引っ張る。
随分と不細工になっただろうその顔を見上げて笑った少年の顔が、不意に、くしゃりとゆがむ。
「……ひどい、お願いかもしれないけど。……もう一度、抱きしめてくれないかな……?」
「────お安い御用だよ」
引き寄せて、抱きしめる。
小さな手が、ぎゅっとシャツの背中を掴んだ。
少年は、何も言わない。
ぽんぽんと、ゆっくり背中を撫でて、口を開いた。
「──待ってるよ。君が戻って来るのを。……生きて戻って来て。それだけでいい」
小さな手から、少しだけ力が抜ける。その代わりのように、自分の腕にさらに力を込めて、小さく笑って続ける。
「君は、元に戻れなくても、バース性が変わってしまっても、待っていてくれる人が欲しいのかもしれない。……でも、残念だけど、そんなのは関係ないよ。君がどうなろうと、まだ僕は諦めたわけではないんだ。──だから、待ってるよ。君が、戻って来るのを。泣かずにいい子でね」
少年が顔を上げる。不安を見透かされて悔しいような恥ずかしいような、言いたいことはたくさんあるが自分がずるいことを考えていたことは事実なので何も言い返せないとでもいうような、複雑にしかめられた顔に、笑う。
少年はますます顔をしかめた。
「そんな顔しないで。君も、笑っている方がいい。──ないているところも、いつか見てみたいけど」
「……ヘンタイ」
顔が少し赤い。小学生ではありえない、でも実年齢からすれば可愛らしい反応にふきだすと、べし、と腕を叩かれた。
「ムカツク。大人で」
「もう少ししたら、年の差は縮まるだろう?」
「それでも、そっちの方が大人じゃん。…………でも、そうだよな。戻ったら……」
そこで口を閉じて、少年は小さく笑った。
「──うん。覚悟決めた。……行ってくる」
「うん」
ただ、うなずく。
「君がいないと死にそうになってしまう男が待っていることを、忘れないでね」
「忘れないよ」
うなずいて、少年はこちらを見上げた。
「──変な薬のせいだったかもしれないけど。それでも、『江戸川コナン』が『安室透』に恋をしていたことも、忘れないで」
「……忘れられるわけがないよ」
答えると、コナンは笑った。
「この姿で、安室さんと出会えて良かった!」
「──うん」
無意識に手を伸ばし、コナンを抱きしめる。
この子はもうすぐ消える。安室透もまた、消える。
──今日は、安室透と江戸川コナンの、最後の日だ。
少年は顔を上げ、苦笑した。
「……早速約束破って。大人のくせに。仕方ないな」
目元に、唇が触れる。
人のことを言えない彼の目元にもお返しに唇を落とすと、クスクスと笑われる。思わずこちらも笑ってしまう。
そうしてしばらく笑った後で、しっかりと目を合わせた。
──今日は、最後の日だ。
最後で、でも、最初の日だ。
「またね」
「ああ。……また」
最後ではなく、「また今度」があるから、待っていよう。彼との次が、始まる時を。
もう一度小さな体を抱きしめて、安室はそっと目を閉じた。