花を吐く




 小さな背中が、少し前を歩いていく。
 道路に引かれた白線の上から足を出さないように、まっすぐに、時折ふらふらと揺れたり、ぴょこりと跳ねながら。
 天気が良くて、早咲きの桜の花が咲き始めていた。
 よくよく耳をすますと、少年の、調子の外れた鼻歌が聞こえてくる。
 やわらかい日の光に照らされた背中を見つめながら、随分と無防備に背中を見せてくれるようになったな、と思った。
 別に、信頼されたとか、そういうことではないだろうが──出会って、駆け引きを繰り返し、共に行動する中で、少しずつ積み重ねて、変わったものはあるだろう。お互いに。
 そんなことを考えながら、後をついて歩く。
 風が吹いて、少年の髪を揺らした。

(──ああ、欲しいな)

 不意に。何の脈絡もなくこみ上げた情動に面食らって、足を止める。
 驚いた。
 首を傾げ、胸を押さえて、また歩き出す。一瞬、開いた距離はすぐに元に戻った。

(欲しい。あの子が──?)

 言葉を胸の奥で転がすと、ぼんやりとした感情がじわじわと、輪郭を持つ。
 思いの外大きなそれに戸惑って、小さな背中から目をそらす。
 見上げた空は青く、しかしこの季節らしくあわくけむっていた。

(──何を、今更)

 今更。それとも、今だからこそ、だろうか。
 出会った頃、こちらを探るような視線に、警戒しつつ心が躍るのを感じた。
 悪い人たちの敵だろう、という言葉にひやりとして、でも同時に、「見つけてくれた」と思う自分を感じた。
 東都水族館の件。IoTテロの件。
 まっすぐにこちらを見つめる強い視線に、どうしようもなく、胸が熱くなった。なんて子だと、どこか心地よい敗北感をおぼえて、目が離せなくなった。
 この子が自分にとって「特別」なのは当たり前のことで、そんなこと、確認するまでもないことだったはずだ。
 ──それでも、幾度も「特別」を重ねていくと、こんな風に不意に、また別の、新しいものになるのか。
 小さな背中に、視線を戻し、自嘲する。

(それにしても、欲しい、とはまた)

 そこに感情が落ち着くとは、我ながらどうかしている。
 この子どもを手にしたところで、自分の手に余ることなんて目に見えているではないか。
 そもそも自分は、誰かと共に歩むことを許されるような立場でもない。身の程知らずな願いだ。
 わかっている──はずなのに。なぜそんなことを、願ってしまったのだろう。
 この子と、短い間でも、重ねて変わったものがあることが、誰かとそんな風に関係を進めていくことが、嬉しかったのだろうか、自分は。

「──、」

 ──馬鹿げている。
 口を開き、音にしかけた名前を飲み込む。
 音にならなかった少年の名前は、当然、届くこともなく、胸の底に沈んだ。
 振り返りもせず、小さな背中は白線を踏んで進んでいく。

(交差点につくまでに、この子が白線から足を踏み出さなかったら、このまま何も言わずに消えてしまおうか)

 それがいいような、気がした。
 今日はたまたま、買い物に行った先で会っただけだ。方向が同じだから何となく言葉を交わして、同じ方向に歩いているだけのこと。
 黙って姿を消しても、彼は少し首を傾げるだけで、特になんとも思わないだろう。帰り着く頃には、会ったことも忘れているかもしれない。
 そんな風に、誰かの日常から消えるのは、自分の得意とするところだった。
 桜の花びらが、ひらりと落ちてくる。

(交差点まで、なんて悠長なことを言わずに、あの花びらが地面に落ちたら、にしようか)

 そう考えて、ふわりと落ちてくる花びらを目で追っていると、不意に、くるりと、少年が振り返った。
 大きな瞳がこちらの姿をとらえて、「なんだ」と気の抜けた声をあげる。
 束の間、止まった息を吐きだし、苦笑する。

「なんだ、って、なんだい」
「いや、あんまり静かだから、いなくなっちゃったかと思った」

 少年はあっさりと白線から足を外して、こちらにやってくると、下から顔をのぞき込んでくる。

「どうかしたの? 安室さん、いつもは無駄におしゃべりなのに」
「無駄って、ひどいな」

 苦笑して、肩をすくめる。
 どうやら、自分は消え損ねてしまったようだ。

「──今年の桜は早いな、と思ってね。見てたんだよ」

 そう言って、そばの桜を見上げる。学校の校庭から伸びている桜の枝からは、ひらひらと、花びらが降っていた。

「それに、君がご機嫌で歌をうたっていたから。大人しく拝聴するべきかと思ってね」

 コナンは顔をしかめた。

「音痴で悪かったね」
「そんなこと言ってないだろう」

 花びらは、はらはらと落ちて、足元に重なっていく。

「安室さん、桜好きなの?」

 ずっと桜を見ているのが気になったのか、そう問う少年に答える。

「日本人なら、大抵好きなんじゃないかな」

 そう、日本人は、この華やかで美しく、儚い花が大好きだ。
 一気に咲いたと思ったら、咲いた端から潔く散っていく、この花が。

「──こんなだったら、いいんだけどね」

 そう、つぶやくと。
 あっさり、高い声が否定した。

「いや、安室さんこういうのとはちょっと違うんじゃない? 儚さとは無縁っていうか、しぶとそうっていうか」

 散々な言われように、少年を見て顔をしかめる。

「何が言いたいのかな」
「黙って物憂げな顔してたら、桜に攫われそうな雰囲気あるけど、そんな大人しいタイプじゃないでしょってこと」
「攫われる? ……ああ。そういう表現あるね」

 美人に対する比喩表現だった気がするが、自分のようなタイプではなく、むしろこの子のようなタイプの顔立ちに向いた表現ではないだろうか。
 そう思いながら、整った顔立ちの子どもを見下ろして、眉をひそめる。

「……君も、黙っていれば攫ってもらえそうなんだけどね」

 しかし、この子どもが、大人しく攫われるとは思えない。木の枝をへし折って木を燃やしてでも自力で戻ってきそうだ。
 しみじみ言うと、コナンは顔をしかめた。

「人のこと言えないでしょ! だからそんなしおらし気な顔して桜見てたって意味ないから止めればってことなんだけど! もう、行くよ」

 ぐいっと手を引かれて、引かれるままに歩き出す。
 行くって、どこにだ。
 この子は帰宅途中で、自分はバイトの買い物帰りで、確かに目的地はほとんど同じではあるが、一緒に帰る必要も理由も、ひとつもないのだが。
 自分の手を掴んだまま、どんどん歩いていく子どもの丸い頭を見下ろす。

「──代わりに君が攫ってくれるのかい」

 からかう言葉をかけると、コナンはちらりと振り返り、嫌そうな顔をした。

「いや、安室さんを攫っても、絶対持て余すでしょ」
「……ひどいなあ」

 攫ってくれるわけでもないのに、消えることも許してくれないのだ、この子は。
 呆れて手を離すかと思えば、小さな手はそのまま、自分の手をつかんだままだ。
 つながれた手と手を、見つめる。
 少年の言う通り、自分は確かに、儚いタイプでも、しおらしいタイプでもない。似合わないし、性に合わない。
 ──けれど。この子は、知らない。こちらの裡にある感情も、さっき、自分を見ながらこちらが何を考えていたかも、何一つ、知っているはずがない。
 だから、一気にわき上がったこの感情が、凝り固まってどうしようもなくなる前に、気づかれないようにそっと吐き出して、この花のように、散らして消してしまいたいと、そうでないなら自分ごと消してしまいたいと、らしくもなく、願っていることだって──当然、知りはしないのだ。
 背後から吹いた風が、花びらを運んでくる。
 小さな手は、まだ離れない。
 裡にあるものが、この口から吐くものが、まだきれいに見えるうちに、手放してしまいたい。
 その気持ちは本当で、でも、どこかで自分は、触れた指からこの子にこの熾火のような感情が伝わってしまうことを、この思いをあばかれることを、願ってしまっていた。
 ひらりと、花びらがつながれた手の上を通って、落ちていく。

(この花びらが落ちるまで)

 そうしたら手をほどくのだと決めて、刹那、指に力を込めた。