灰原哀は憂えている
海に行こう、という話が最初に出たのは、夏休みに入る前のことだった。
提案者は歩美で、なんでも、父親の勤める会社が持つ保養所が使えるのだという。
「くじでね、当たったんだって」
その小学生らしい説明を咀嚼すると、保養所の使用申請は抽選制で、その抽選に見事当たった、ということらしい。
「行くなら歩美がお友だちと行くだろうからって、おっきな部屋取ってくれたんだよ」
だから六人は余裕なのだ、という。肝心のご両親はどうするのかと言えば、当たった日はあいにく仕事が忙しいらしい。どうやら、歩美の両親ははなから阿笠をあてにしていたようだ。
少年探偵団の子どもたちの親は、妙な発明ばかりしている阿笠を、良く言えば、非常に信頼している。
いささか意地の悪い見方をすれば、放任主義が過ぎる、という気がするが、一般的には、小学一年生という、行動力に少しばかりの知恵がついた扱いにくい年頃の子どもを、あずかってくれるところがあれば、喜んであずけるものなのかもしれない。そのあたり、到底普通に育ったとは言えない自分には、わからなかった。
海なあ、とひとりテンション低く話を聞いている少年──江戸川コナン、本名は工藤新一という、見た目は小学一年生、中身は日本警察の救世主と言われた高校生探偵の家庭もまた、息子のこんな状態を知って好きにさせているわけだが、工藤家の場合は、父親も母親も一般人からかけ離れているから、他の子どもたちと一緒くたにサンプルのひとつに数えるのは不適切なのかもしれない。
「コナンくん、海嫌い?」
歩美が心配そうに声をかける。
「いや、嫌いじゃねーよ。人多そうだなってのと、あと今年暑いから、気ぃつけねーとなって思っただけだよ」
「そうですね、熱中症には気をつけないといけませんね」
光彦がうなずく。もう、行くことで決定らしい。結局、子どもは子どもで、親に聞いてみる前に自分の意思を通すつもりでいるらしいのだから、哀が心配することは、何一つないのだ。彼らがそれぞれ親に愛されていることは、短い付き合いでもわかっている。
「博士、この日大丈夫?」
「ああ、多分大丈夫じゃろう」
阿笠も阿笠で、自分に特にメリットのない頼み事を、気軽に引き受ける。わーい、と歩美たちが万歳した。
「哀ちゃんも、予定しておいてね」
そう言われて、うなずく。
しかし、夏の人の多い時期に海。
「なんにも起きないといいんだけど」
呟くと、コナンがはは、と乾いた笑みをこぼした。
しかし、コナンの事件吸引体質を心配している場合ではなくなった。
旅行に出る日の直前というタイミングで運悪く、風邪を引いてしまったのだ。
──運悪く、というか、自業自得というか。うっかりクーラーをかけっぱなしで寝てしまって、のどに違和感があるな、と思っていたら、あっという間に悪化してしまったのだ。海に行く前日のことである。
阿笠に呼ばれ、哀の見舞いにやってきた少年探偵団の面々は、話を聞いて、素直に、落胆と心配を半分ずつ見せた。
「じゃあ、海はまたにしようよ」
すぐさま言ったのは歩美だ。光彦と元太も、少し残念そうにしていたが、反対はせず、「そうですね」「今度にしようぜ」と言う。
そうだな、となにかとまとめ役のポジションになりやすいコナンがうなずいた。
まさかそんな話になると思っていなかった哀がぽかんとしているうちに、コナンは、各自両親に予定変更を伝えるように、と話を進め、歩美にキャンセルの諸連絡をどうすればいいか確認し始めている。そこまで来てから、哀は「待って」と彼らを止めた。
「もう明日よ。これからキャンセルすると、いろんなところに迷惑がかかるわ。私は、留守番しているから」
「でも病気の人間ひとりで置いてくわけにもいかねーだろ」
「そうだよ。それに、哀ちゃんがいないとつまんないよ」
わーわーと枕元で騒がれて、哀は顔をしかめる。
そこで、インターフォンが鳴った。
「お客様ですか?」
そう光彦が首を傾げたが、哀には来客の見当がついた。案の定、迎えに出た阿笠が連れて戻ってきたのは、隣家の居候、沖矢昴だ。
「こんにちは。灰原さんが風邪と聞いて、おかゆを作ってきたんですが、みなさん何かあったんですか」
白々しい物言いに、頭がますます痛くなる。
この、演技する気や本気で何かを隠す気が一切見られない男が、合法的とは言えない手段でこの家の様子をうかがっていることを、哀は半ば確信しているが、証拠が見つかっていないし、どうやら害意はないようなので、放置している。
昴お兄さん、と歩美が駆け寄っていく。先日一緒にお菓子作りをしてから、歩美はこの自称大学院生にこれまで以上の親しみを感じているようだった。
「おかゆ作ったの?」
「ええ。たまごがゆです」
「わあ、あとで見せて。歩美も哀ちゃんに作ってあげたかったなぁ」
「それはすみません。でもこのおかゆは一人分しかありませんから、吉田さんは明日の夜か朝の分を作ってはいかがでしょう」
「そっか! 昴お兄さん、手伝ってくれる?」
「もちろんです」
「──オッホン」
おかゆの話で脱線しているふたりを、阿笠が咳払いでたしなめる。
沖矢はベッドの上に鍋ごと置いて、それで何があったんですか、と聞いてきた。雑が過ぎる。鍋の熱が取れていて、汚れていないことを祈るばかりだ。
阿笠とコナンが交互に事情を説明し、歩美たちが間に言葉をはさむ。話を聞き終えた沖矢は、少し考えてからうなずいて、「では」と言った。
「私が、灰原さんの様子を見ていますよ。なので、コナンくんたちは予定通り、海に行ってきて下さい」
少年たちは顔を見合わせた。
「しかし、迷惑ではないかの」
「いえ、大学院も夏休みですし」
夏休みの学生なんて暇なものですよ、と本物の大学院生が聞いたら卒倒しそうなことを平気で言って、沖矢はにっこり笑った。
「二泊三日の話でしょう。よろしければその間こちらに移ってきますよ」
「──私がそっちに行くわ」
哀は口を開く。
沖矢の提案は、全員にとって都合のいいものだ。提案は受けるべきだろう。しかし、注意はしなければならない。どうやら自分を見張っているらしいこの男に、害意がないことはわかっているが、それでも、研究室があるこの家を自由にうろつかれるのは困る。
哀はコナンを見た。沖矢もまた、コナンに目をやる。
沖矢が居候している工藤邸は、遠い親戚であるこの少年が、鍵をあずかって管理している、という設定になっているのだ。
コナンは眉根を寄せ、「灰原はそれでいいのか?」と聞いてくる。うなずくと、コナンは沖矢に向き合った。
「──ボクは、いいと思うよ。昴さんが見てくれるなら、安心だし。新一兄ちゃんたちにも、一応連絡しておくよ。蘭姉ちゃんにも言っとく」
蘭の名前が出たのは、工藤新一不在の工藤家に、たまに蘭が掃除で出入りしているからだろう。沖矢が居ついて以降はあまり寄らないが、念のため、ということらしい。
「でも、本当にいいのかな」
阿笠が、哀と沖矢を交互に見て、心配げな顔になる。哀はうなずいた。
「大丈夫よ」
「お任せください」
沖矢がにっこり微笑んで、うけあう。
自分で言っておきながら、本当に大丈夫なのだろうか、とベッドの上に鎮座する鍋を見つめ、哀はため息をついた。
翌日、阿笠が子どもたちを車に乗せて出かけるのを沖矢と見送って、哀は最低限の荷物を持って工藤家に移った。
「あなたは、本当に良かったの? 海について行った方が良かったんじゃない」
「全員揃っていたなら、押しかけることも考えたでしょうね。ホームズが海に行くならワトソンが必要ですし。こう見えて、海は得意なんですよ」
「……何言ってるのかわからないわ。それにその格好、海とは縁遠いように見えるけれど」
この暑さでもかたくなにハイネックの服を着ている沖矢を見上げると、沖矢はにっこりと、ごまかすように微笑んだ。説明をする気はないらしい。
ホームズ、というなら、それは江戸川コナンのことだろう。
工藤家に居候させていることから言っても、彼の「昴さんは大丈夫」という言葉からしても、コナンが彼に一定の信頼をおいていることは、確かだ。
しかし、ワトソンを自称するとは。彼もまた、コナンのことを一定以上に評価しているらしい。
一体どんな──と考えたところで、頭が痛くなってきた。
とりあえず考えるのをやめて、コナンに使っていいと言われた客間に入る。急な話だったのに、部屋はきれいに整えられていた。
哀が大人しくベッドに潜り込むと、後ろからついてきていた沖矢が、窓のカーテンを閉めた。部屋が薄暗くなる。
「よく寝たら、みなさんが帰ってくる頃には治っていますよ」
「それはそれで腹が立つわね……」
「お昼と夕飯、何か食べたいものはありますか」
「焦げたおかゆはもうたくさんよ。買ってきたものでいいから、食べられるものを希望するわ」
「仰せのままに」
仰々しい返事にため息をついて、布団にもぐる。沖矢はそっと部屋を出て行った。
子どもたちが海につくのは、昼過ぎくらいだろうか。今頃、阿笠のビートルの中で歌でも歌いながら大騒ぎしていることだろう。
彼らが予定通りに行けて良かった、という気持ちの後に、少しだけ、寂しさがうかんだ。
哀はぎゅっと目を閉じる。
朝食後に飲んだ薬がきいたのか、すぐに眠気が襲ってきて、哀はうとうとと眠りに落ちた。
目を開けたら、まだ十一時だった。
スマホを見ると、目的地まであと少しだ、という阿笠からのメールが一通、数分前に来ていた。サービスエリアらしき場所で、子どもたちが焼きそばを食べている写真がついている。時間的に、昼休憩も兼ねているようだ。
運転気をつけてね、と、あんまりカロリーが高いものを食べ過ぎないように、という注意を返す。
注意したところで、日頃哀の食事制限に悩まされている阿笠は、羽目を外すのだろうけれども。
体調は昨晩より格段に良くなっていた。
咳が出はするし、動き回るのは少し辛いが、熱はさほど高くはない。ベッドに横たわっているのは少しばかり退屈だった。
家にいるはずの男は、少しも物音を立てない。
生活音すらないしんとした空間は、どこか落ち着かなかった。いつの間にか、にぎやかなことに慣れていたのかもしれない。少年探偵団の子どもたちは言うまでもなく、同居している阿笠もまた、落ち着きのない性質だ。
起き上がり、何か本でも読もうかと、ベッドを抜け出す。家の中は好きに使っていい、と家主の息子は言っていた。
書斎に向かいながら、しかし、あの推理オタクの育った家だ、ミステリーしかないかもしれないなと考える。ミステリーが嫌いなわけではないが、好んでは読まない。よく読むのは専門書か、あるいは、軽めのエッセイだ。
廊下を歩いていると、書斎の手間のドアが開いた。
沖矢が顔を出す。同時に、すこしタバコの匂いがして、哀は顔をしかめた。
「どうかしましたか」
「ベッドの中で読む本でも探しに行こうかと思って」
「ああ、それなら書斎は向かないですよ。あそこに軽い本はない」
内容のことなのか、厚さと重さのことなのか、どちらのことかはわからなかったが、沖矢は「下に行きましょう。ついでに少し早いですが食事にしましょうか」と哀を促した。
「居間にあるキャビネットに、少し本が入ってましたよ。多分、有希子さんのものではないかと」
それは、あの推理オタクとミステリー作家の蔵書よりはましかもしれない。哀は大人しく沖矢の後に続いた。
「準備をしますから、本を見ていて下さい」
「お昼、なに?」
「うどんです」
キッチンに消える沖矢を見送り、キャビネットを開けると、言う通り、明るい色味の背表紙の本が並んでいた。
演劇論のようなものもあったが、新しいものから古いものまで、エッセイがいくつもあって、そこから一冊拝借する。
本を持ってダイニングに行くと、すぐ温かいうどんが出てきた。
買ってきたものでいい、と言っておいたので、うどんだったら電子レンジかコンロで温めるタイプのものか、もしかしたら季節的にコンビニで買った冷製うどんかと思っていたのに、きちんと丼にはいったうどんだ。
「うどんは時間通りにゆでただけですし、つゆは規定通りに薄めましたし、たまごは割っただけですし、野菜もゆでて入れただけです」
だから失敗などしようがない、と言いたいらしいが、それは買ってきたうどんとは絶対に言えないだろう、と思う。
だいたい、ホウレンソウはともかく、この星型の人参は何のつもりなのだろうか。クッキーを作った時に、昴さんもお星様ね、と歩美に言われたことを根に持っているのだろうか。
いろいろと、言いたいことはあったが、いちいちツッコミをいれる体力はない。
自分と同じものが男の前にもあるのを見て、足りるのそれで、とたずねると沖矢はうなずいた。
「大丈夫ですよ。お昼はいつも軽めなんです」
「そう」
いただきます、とつぶやいて箸を手に取る。阿笠と同居するようになってからの習慣には、いまだ慣れない。誰かと食事をする習慣すら、なかったのだ。
沖矢も同じようにつぶやいて、箸を取った。
口に入れたうどんは、やたらと柔らかかった。時間通りにゆでた、と言っていたが、麺をあげるまでに手間取りでもしたのだろう。
これまで阿笠家に差し入れられた作り過ぎたおかずとやらを見ても、また、先日クッキーを作った時のいささかぎこちない手つきを見ても、普段料理などしないのだろうことは、察せられる。
「……買ったものでいいって言ったのに」
「夕飯は、そうしましょう。買い物に出る時間がなかったんです」
「夕方は買い物に出る時間があるのかしら」
見張っている、と言ってもさすがに、二十四時間見張っているというわけではなさそうなので、哀を置いて少し外出するくらいはするかもしれないが、そのあたりはどうなのだろう。
見上げると、まあ、そうですねえ、と沖矢はどっちつかずの返事をする。
顔をしかめ、最後の一本をすすって飲み込んだところで、インターフォンが鳴った。
いったい誰だ、と顔をしかめる。とうに食事を終えていた沖矢が立ち上がり、インターフォンの画面を見ると、そこで応答することもなしに玄関に向かった。
好奇心から、ついていく。
沖矢は警戒する様子もなく、玄関を開けた。
ドアの前にいた人物が、いきなり開いたドアにびっくりしたように一歩下がる。
「こ、こんにちは。あの、急にすみません」
「蘭さん。本日はどうかされましたか」
そこにいたのは、毛利蘭だった。蘭は、沖矢の後ろにいた哀を見つけ、ホッと息を吐いた。
「新一から連絡があったんです。哀ちゃんが風邪引いて、博士が不在の間うちにいるからって。それで、お節介かとは思ったんですけど」
そう言って、手にしていた紙袋をかかげる。
「……お昼、はもうお済みですよね。夕飯に、よろしければ」
漂ってきたつゆの匂いに気づいたのか、蘭は苦笑して、紙袋を沖矢に手渡す。本当は、昼にと思って持ってきてくれたのだろう。
相変わらず、人が良い。
紙袋を受け取って中をのぞいた沖矢が、こんなにすみません、と頭を下げると、蘭はひらひらと手を振った。
「いえ、とんでもない。病人食とか、作り慣れていらっしゃらないんじゃないかなと思って」
「ありがとうございます。助かります」
「ありがとう」
「哀ちゃん、起きていられるくらいには良くなったの?」
「ええ。大丈夫」
「良かった」
にっこりとほほ笑んで、蘭はふと、自分の背後、門の外を気にするようなそぶりを見せた。
「──蘭さん、お昼はお済みですか?」
「ええ、食べてきましたので」
「では、お茶でも。せっかく暑い中来てくださったんですから」
沖矢が蘭を招き入れる。蘭はどこかホッとしたように、うなずいて家に入った。ドアの鍵が閉められると、細い肩から少し力が抜ける。
先にキッチンに向かった沖矢を放っておいて、哀は足を止め蘭の手を引いた。
「……何かあった?」
たずねると、蘭は一瞬顔をこわばらせた。
「え? ううん。何もないよ」
「嘘。何か、気になることがあるんでしょう」
作ったような笑顔に、重ねて問うと、蘭は眉を下げる。
「気のせいだと思うから」
「私のことなら、気にしなくても平気よ。だてに、江戸川くんに巻き込まれていろんなこと経験してないわ」
言えば、蘭は苦笑して、重い口を開く。
「うん。……でも、本当に大したことないの。──外に、刑事さんがいたような気がして」
「刑事……?」
とっさに思いつくのは、高木や佐藤だ。しかし、それならば蘭がこんな、不安げな顔をするわけがない。
「えっと、ほんとに、気になるのは個人的な事情っていうか。春、ちょっと関わった刑事さんなんだけど。……あんまり、この辺にいるはずの人じゃないから、どうしたんだろうなって思っちゃっただけだよ」
そう言って、蘭は「行こうか」と哀の手を引いた。
──春に関わった、刑事。
居間に行くと、沖矢がお茶の準備をしていた。
「灰原さんは、薬を飲んでくださいね」
「はいはい」
置いてあった薬の袋を手に取る。
蘭と沖矢が少し話をし、なぜかお客様の蘭が、持ってきてくれた梨をむくことになる。蘭は「勝手知ったるってやつなので大丈夫ですよ」とひとりキッチンに向かった。
「哀ちゃんも食べられそうかな」
「ええ、少しなら」
頭の動きはいつもより鈍い。薬を用量分出しながら、ぼんやりと考える。
春、というのはおそらく、GWのことだ。
エッジオブオーシャンの爆破。IoTテロ。
毛利小五郎が犯人として逮捕され、コナンが解決に奔走していたことは、もちろん覚えている。爆発現場から不審物を見つけろだの、落下してくる衛星の軌道を計算しろだの、無茶苦茶な要求をされたのだ。
あの件は、たしか公安が絡んでいた。ならば、蘭の言う刑事も、おそらく公安の刑事だろう。
──公安。
薬のシートが、指先でくしゃりとつぶれる。
公安は、あの安室透の所属先だ。
コナンが直接そう明言したわけではないが、一連の動きややりとりを見ていれば、それはわかる。コナンの側にも、隠す気はないだろう。しかし、それを知ったところで哀が安心できるわけではない。
警察からすれば、組織の幹部クラスだった宮野志保は、犯罪者だ。その上安室透は、組織の幹部・バーボンでもある。おそらく元々はシェリーを追ってこの街に来たはずだ。所属がどうあれ、潜入捜査している身であれば、状況によってはどうふるまうかわからないのだから、最大級に警戒して対応すべき相手だ。
──でも、あの人がいたなら、蘭さんがここまで不安げになるはずがない。
彼女にとって、安室透は気のいい喫茶店店員で、父親の弟子なのだ。
見かけたのはそれ以外の、公安刑事だろう。
──それにしてもなぜ、今になって?
蘭たちが気づいていなかっただけで、公安はずっと毛利家を監視していたのだろうか。──それとも、見られていたのは、ここか。
あの事件の解決には、少年探偵団や阿笠が関わっている。阿笠が爆弾を運んだドローンの開発者として目をつけられた可能性はあるだろう。しかし、事件後すぐには、何かがここを探るような様子はなかったのだ。おそらくは安室が「協力者」については言わなかったのだろう、と思っていたのだが。
「難しい顔をしていますね。蘭さんが、何か?」
薬を飲み込んだのを見計らったように、沖矢が声をかけてくる。哀は沖矢を見つめた。
この男が誰であれ、何か異変があったら察するだろうし、察したら放置はしないだろう、と思う。しかし。
──察知してて、黙っているってことは、あるわね。
蘭が梨をむいて戻ってくるのは、すぐだろう。哀は口を開いた。
「アイス、食べたいから買ってきてくれないかしら。蘭さんをおうちに送るついでに、お願い出来ない?」
沖矢は少し眉を上げる。
「アイスなら冷凍庫にいくつかありますが」
「氷菓やラクトアイスを、私はアイスクリームとは認めないわ」
「なるほど。お味の指定はありますか」
「バニラ。外、暑いから溶けたり落として駄目にしたりしないように、周りに十分、注意してね」
「承りました、お嬢様」
仰々しく沖矢が答えたところに、蘭が戻ってきた。
「お待たせしました。冷えたの持ってきたんですけど、来るまでにちょっとぬるくなっちゃったかも」
「冷たいものより体に良さそうだわ」
つい先ほどアイスを頼んだ口でそう言うと、沖矢はわずかに視線をそらした。何がおかしいのだが知らないが、イラっとする。
蘭はそんなやりとりには気づかず、「そっか、ならちょうど良かったね」と微笑んだ。
「灰原さん、食べられるようならたくさん食べて下さい。体力が落ちてしまっているはずですから」
「……どうも」
沖矢と哀のやりとりを見ていた蘭が笑った。見ると、すみません、と小さく頭をさげる。
「この間、安室さんとコナンくんも似たようなやりとりをしてたなーって思って。プール行くんだから食べないともたないよって。あのふたり、年の離れた兄弟みたいで。昴さんと哀ちゃんもそんな感じなのかな」
「父親にするにも兄にするにも半端な年の差だわ」
「灰原さんが妹だったら楽しいだろうと思ったんですが、ふられてしまいましたね。──あの探偵さん、コナンくんとプール行ったりするんですか」
「ええ、たまたまなんですけどね。小学校で夏休みにプールの日があるんですけど、保護者がついていかないといけなくて。お父さんの予定が合わなかったので、代理で安室さんが」
「へえ。探偵さん、意外と時間に余裕があるんですね。お仕事とか大丈夫なんでしょうか」
「あ、ええ……」
「……暇で仕方がない大学院生がよく言うわ」
若干嫌味とも取れる言葉に、蘭がなんと返したら良いのか戸惑っているのを見て、思わず口を開く。蘭がホッとしたように哀を見た。
「そういえば、哀ちゃんはプールの日どうしたの?」
「あんな暑い日に外出たくなくて。お休み」
「確かに。水の中は涼しいって言っても、日差しがね。コナンくんもちょっと焼けて戻ってきたよ。海から戻ってきたらまた焼けてるだろうなぁ」
言ってから、蘭ははたと口を閉じる。
「……哀ちゃんは、行けなくて残念だったね」
「ああ……別に、平気よ」
いかにも彼女らしい気遣いだと感心しながら、首を振る。
「吉田さんも、お土産買ってきてくれるって言ってくれたし、また遊びに行けばいいことだから。無理に行ってもみんなに気をつかわせるだけだわ……私を気にして全力で遊べない方が嫌だもの」
そう言うと、蘭は小さく笑う。
「──哀ちゃんは優しいんだね」
「……そういうんじゃ、ないけど」
何をどうすれば、いまのが優しい、ということになるのか。居心地悪く身じろいだところで、沖矢がでは、と立ち上がった。
「デザートも食べ終わったところで、少し買い物に出てきます。蘭さん、事務所までお送りしますよ」
「え、そんな。大丈夫です」
「ついでですから」
そう言って、沖矢は蘭を促す。
「お皿は、置いておいてください。灰原さんは、ベッドに戻って寝てくださいね」
「……わかった」
「じゃあ、お言葉に甘えて……。哀ちゃん、お大事にね」
哀の頭を撫でて手を振ると、蘭は沖矢と一緒に家を出て行った。
沖矢は小一時間ほどして、戻ってきた。
「特になにも問題はありませんでしたよ」
哀が寝ている客間を訪れた沖矢は、アイスは冷凍庫に入れておきました、という報告とともに言う。
起きなくていいから、と哀を制して、勝手にベッドに腰かける。
「本当に? 嘘ついてないでしょうね」
「ええ」
ならば、蘭の見間違い、あるいはすでに立ち去っていたか、だ。
一応、コナンには後で報告をしておこう、と思う。彼は、彼女を何よりも大切にしていて、彼女が憂うことを何より嫌う。
気づかうように頭を撫でた、蘭の手の温度を思い出す。
哀自身は、蘭に対して複雑な思いがある。
妬みは、ある。しかし、慕わしさもたしかに、気持ちの中にあった。
「……蘭さんも、ちゃんと送って行ったのよね」
「勿論。事務所に入るところまで見届けましたよ。──灰原さんは、蘭さんを気にされてますね」
沖矢を見上げる。動きのとぼしい表情からは、感情は読めなかった。
「……大事な人に、似てるから」
「──そうですか」
沖矢の手が、哀の額に触れる。
「熱は、下がっているようですね。でも夕飯まで、ゆっくり眠った方がいいでしょう。治りかけに無理をするのが、一番まずい」
言われるまま、目を閉じる。
だいぶ良くなったつもりだったが、起きてしばらく動き回っていたから疲れたようだ。
「──目が覚めたら、良くなっていますよ」
眠りに落ちる寸前に、男の低い声が聞こえてきた気がした。
目が覚めたら、全部良くなっている、なんて。本当にそうだったら、どれだけ良くて、そして、どれだけ最悪な気分だろうと、そんなことをぼんやりと、考えた。
姉は、優しい人だった。
宮野明美と宮野志保は、仲のいい姉妹ではあったけれど、容姿から性格から、似たところは少ない姉妹だった。
親から科学者としての才能を受け継いで、組織の中心で研究をしていた志保と違い、姉は監視付きとはいえ、ほとんど普通に生活していた。
志保にとって、姉は普通と平和の象徴で、大切な、守らなければならないものだった。
自分が守らなければ、と思っていた。自分が組織にとって重要な人物になれば、組織は姉に容易に手出しは出来ないだろうと、ずっとそう思っていた。
馬鹿だった、と思う。甘い考えで自分を過信する、子どもだった。
志保がそうして研究をしている裏で、姉は姉で、妹を守ろうとしていた。
姉は強い人だった。でもだから、あんなことになってしまった。向いてなんていない組織の仕事をして、あっさりと、殺されて。
馬鹿な人だ、と思う。
付き合っていた男のことだってそうだし、自分のことだってそう。自分を利用した男のことなんて、可愛げのない妹のことなんて、捨てて逃げてしまえば良かったのに、とらわれて、抜け出せずに、死んだ。
姉とよく似た優しい人に、最初に抱いたのは妬みだった。
姉はこんな風に幸せに生きられなかったのに、まっとうな両親と思いあう恋人に恵まれることもなかったのに、と。
そして、幼なじみに大切に思われていながら、彼の苦境を何も知らずに生きていることも。
暗い優越感もあった。
自分が彼と秘密を共有していること。彼が元の姿に戻るために、自分の力が必要なこと。何があっても真っ先に相談してくれること。彼女の知らないことを山ほど、知っていること。
何も知らされていない彼女を、かわいそうなひとだ、と思った。
その彼女の姿が、姉の姿とまた、重なった。
組織内で役立つ才能もなく、利用されるばかりで、大事なことも知らされず。
そして気づく。
毛利蘭を上から憐れんでいるように、自分は姉のことだってずっと、何も知らないのにと、憐れんでいたのではないか。
気づいてみれば、確かにそうだった。
守ってあげるつもりだなんて、そんなことを上から考えて、普通の、何も出来ない人だと、侮っていた。
姉のことは大切だったし、だから姉の死があんなにも悲しく、苦しかった。自分は確かに、姉のことを愛していた。
けれど、宮野志保は、宮野明美の優しさと愚かさが、どうしようもなく嫌いだった。
身の程も知らず、妹を助けようなんてして、殺されてしまうくらいなら、自分のことなんて見捨てて、逃げて、身勝手に生きていて欲しかった。そんなことも出来ないなんて、なんて愚かな人だろう。
彼女は、どうだろうか。
大事な幼なじみに、大切なことを隠された彼女は。
枕元のマナーモードにしたスマホが振動している。目を開けると、部屋の中は真っ暗になっていた。
ぼんやりとぼやけた視界に目をこすり、スマホを手に取る。
時計を見ると十八時前。夕飯までにはまだもう少し、時間があるだろう。
振るえるのをやめたスマホを手に取りメールを開くと、海の写真が添付されていた。
日焼けした友人たちの写真に、無意識に口元がゆるむ。
体調はどうか、と問うメッセージは阿笠からだった。
だいぶ良くなった、と簡単に返して、いま何してるの、と問うと、夕食のバイキングの順番待ちだという。
少し考えてから、電話をかけた。
『──おう、灰原。珍しいな』
コナンの声と、かすかなざわめきが聞こえてくる。
「少しだけ、話せるかしら。耳に入れておいた方がいいことがあるの。江戸川くんのスマホは、博士に預けておいてくれる?」
『……ちょっと待ってくれ』
ガサガサと移動する音がして、しばらくすると、雑音なしのクリアな声が聞こえてきた。
『お待たせ。わざわざ新一のスマホに、どうした?』
「江戸川くんのスマホ、変な細工がされているかもしれないでしょ」
『あれはあの時だけだろ。アプリ抜いたのお前じゃねーか。セキュリティ強化したのも』
「そうだけど。私は自分が万能じゃないこと、知ってるもの。念の為よ」
GWの一件に関わっていた時、江戸川コナンのスマホには盗聴アプリを仕込まれていた。仕込んだのは公安だというのだから、呆れ果てる。電池の消費が早い、という弱点があり、コナンはすぐに気づいたけれども。
もう彼が盗聴されていることはないだろう、とは思うが、新一名義のスマホに連絡を入れたのは、念の為だ。
『それで、耳に入れておいた方がいいことって?』
「今日、ここに蘭さんが来てくれたんだけれど」
そう口火を切って、今日あったことを話す。
「──十中八九、公安の刑事でしょう? あなた、いまになって彼らが動き出す理由に心当たりがある?」
んー、と通話口からは考えるような声。
『ないわけではない、というか、オレが怪しいのは見ての通りだし、いつか調べられることはあるだろうなとは思ってたからな。警察にお世話になった履歴はとっくに把握されてるみてーだし』
「随分のん気ね」
『誰かは、というか、誰の指示かは、察しがつくから』
「……安室透?」
『か、その右腕だな』
「右……前に言っていた人? 風見、と言ったかしら。てっきり友好的な関係を築いているものとばかり思っていたけれど」
『そうだよ。でも、友好関係を築くことと、相手を裏で調査することは、両立するだろ』
哀は顔をしかめた。
「あなた一応、小学生なのよ?」
小学生相手にそれは、いくらないんでもえげつないのではないかと言えば、コナンはあっさり否定する。
『そんなこと関係ねーよ。風見さんは大人で、公安の刑事だ。そして、あの人の右腕でもある。オレが小学生だなんてこと、些細なこと──とまでは言わないけど、障害にまではならないさ』
「頭がおかしいんじゃないの。あなたも、安室透も、その風見って人も」
吐き捨てるように言うと、コナンはけらけらと笑った。
『でもまあ、なんで今更、ってのはあるな。服部の最近の様子も合わせて考えると……安室さんの指示って線が濃厚か』
「西の名探偵さんも関わってるの?」
『少しな。まあ、それはともかく、こっちからも少し探ってはみる』
哀はため息をついた。どうやら、なにか隠していて、すべて話す気はないらしい。
「あなた、行動がガバガバなんだから、油断してるとあっという間にバレるわよ。大事になる前に、話は通してちょうだい。私とあなたが一蓮托生ってこと、忘れないで欲しいわね」
『わーってるよ』
「本当に、大丈夫なんでしょうね?」
『大丈夫。──かどうかは、まあ、どうかな』
「ちょっと」
『そう怒るなよ。問題は、何がどこまで知られるかってことじゃねーんだ。そこは、だいたい予測はつく。問題は、その理由をどう考えるかと、それをどう解釈してどう動くか、だな』
コナンはため息をついた。
『いや。なんだかんだ、安室さんの考えも読めるようで読めねーし、風見さんも、そういうとこあの人の部下っぽいからな。──うん。注意する』
「せいぜい、そうしてちょうだい。私も、これまで通り安室透には近づかないようにするし……風見って人も、警戒した方がいいのね?」
『そうだな』
歯切れ悪く、コナンは言った。
「──なんなの? 何か気になることでも?」
『ああ……いや。最近さ、たまに考えるんだよ。オレの正体がバレたら、元に戻ったら、みんなどう思うんだろうなってさ』
哀は沈黙した。
哀は、学校に通う以外の交流を、ほぼ断っている。だから、この姿になって親しくなったのは、阿笠と少年探偵団の子どもたちと、学校関係者くらいだ。
阿笠は、最初からすべてを承知している。でも、子どもたちは違う。
哀は、歩美の顔を思い浮かべた。
哀ちゃん、とまっすぐに自分を慕ってくれる、可愛い少女のことを。子どもらしく女の子らしい、愛されて育った子ども特有の、優しさと無邪気なわがままさを持ち合わせた、素直でひたむきな彼女。
彼女に嘘をついていることは後ろめたく、そしていつか、自分が元の姿に戻ったらと考えると、苦しくなる。光彦も、元太もそうだ。
十以上、年の離れた自分は、彼らの世界には溶け込めず、容易にはじかれてしまうだろう。けれど彼らはきっと、いなくなった灰原哀を、容易には忘れることはないのだ。
哀は、哀とコナンは、いつか必ず彼らを傷つける。
哀は首を振った。
自分ですら、そうなのだ。行動範囲が広く、知り合った人も多いコナンは、もっと複雑だろう。
「……蘭さんは、きっと怒るでしょうね」
『だよな』
何度も正体がバレかけたのだ、と聞いている。さすがは幼なじみ、というべきか、それともこの後先考えない猪突猛進な性格の男の場合、必然というべきか。
「他の人は、わからないわね。居候先の探偵さんは、最初に怒るだけで長引かない気もするけど。FBIとか、さっきの公安の人とかは……私もよくは知らないし。あなた、考え無しに交友範囲を広げすぎなのよ」
『オレは灰原ほど慎重になれないんだよ。お前のそういうとこ、素直にすげーと思う』
「それはどうも。個人的な意見を言わせてもらえば、慎重な工藤くんなんて、すでに工藤くんではない気がするけど。慎重ならそもそも、そんなことになってないでしょうし」
『そういうことを言うなよ。──オレがこうなってなかったら、お前とも知り合えてなかったのかな』
「その可能性が高いでしょうね」
幼児化の先行例としての江戸川コナンがいなければ、自分はどうなっていただろう。──おそらく、とっくに組織に捕まっている。
「そう考えると、あなたの軽率さには感謝しないといけないのかしら」
『慎重じゃねーのは認めるけど、軽率っていうのはさ……オレそんなに軽率に見えるか?』
「あら、誰かに言われたの? 見る目がある人ね」
『和葉ちゃんだよ』
「ああ。なるほど」
服部平次といつも行動をともにしている少女を思い出す。
あの二人も、幼なじみだという。
工藤と蘭の関係ととても良く似ている気がするが、実際、近くで見ていると、何かが根本的に違うように思う。
コナンと蘭、平次と和葉だから相似形に見えるが、工藤と蘭、平次と和葉であれば、どうだろう。
「工藤くん、一応、蘭さんには何かフォローしておいた方がいいんじゃないの」
『は? ……ああ。でも何をどういうんだよ。オレから公安の刑事は気にするなって言ったって、オレが公安に関わってるんじゃねーかってますます心配かけるだろ。お前には悪いけど、多分、風見さんが探り入れてるのは、お前だ。蘭が見たのはたまたまで、運が悪かったんだ。これから会うことがなきゃ、忘れるよ』
引っかかるが、コナンの言うことは、もっともだ。そして、哀にはこのことに口を出す権利はない。だいたい、あったとして、積極的に蘭をフォローする気も、結局のところ、あるとは言えなかった。
そして、ふと気づいて哀は眉をひそめた。
「……いまあなた、さらりと問題発言したわね。私がなんですって?」
『オレを本気で調べたら、どうしたって阿笠博士に行きつくだろ。IoTテロの時協力もしてるしな。そしたら、居候してるお前が気になって当然だ。今日、風見さんに海に遊びに来たって連絡いれてんだ。あいつらの写真つきでな。お前がいなかったから、様子を見に来てみたってとこじゃねーか』
深く、息を吐く。
「あなたそれ、わかっててやったわけ?」
意図せず、声は低くなった。電話の向こうでコナンが早口になる。
『不可抗力だよ。そもそも、風見さんがオレのこと探ってるのはお前の電話で知ったんだし』
「大した仲良しごっこね。軽、率、に、写真を送ったりするのも今後は控えて欲しいものだわ」
『悪かったよ。──ちょっと、油断してたっていうか、別方面警戒してた。それは認める』
コナンはため息をついた。
『……さっき、偉そうなこと言ったけどよ。多分、本当にあの人に裏切られたら、オレ多分ショックなんだ』
「『風見さん』?」
『ああ』
それはまた、随分となついたものだ。
「安室透ならいいの?」
『そっちは、こっちもたいがい、色々してるからな。やり返されても、この野郎って思ってやり返すかな。……まあ、あの人たちを敵に回したくはないけど』
「敵に回したくない、ねぇ」
コナンはしばらく沈黙した後で、ため息をついた。
『──味方に欲しい』
江戸川コナンらしい発言だ、と思った。
「そう単純にはいかないでしょうけどね。なにせいまだ潜入してるわけだし」
『安室さんはな』
哀はひそかに驚いた。
つまり彼は、安室だけでなく、その風見という男も、味方に欲しいと思っているのだ。そこまで、とは思っていなかった。
警戒すべき相手だが、しかし、このことは気に留めておく必要があるだろう。
哀がそんなことを考えていることなど知らず、コナンはひとり呟く。
『安室さんも、そりゃ、味方になってくれたら心強いけど……あの人は、味方とか、そういう単純なもんじゃないっつうか』
コンコン、とノックの音がした。
その後で、扉の向こうから声がする。
「灰原さん、起きていらっしゃいますか。ご飯、食べられるようなら、そろそろいかがでしょう」
時計を見れば、随分長電話していたようだった。
沖矢の声は、電話の向こうにも聞こえたようだ。
『こっちもそろそろ席の順番回ってくるみてーだな。また、連絡する』
「ええ。今日はどうやら何事もなかったようだけど、旅行が終わるまでは気を抜かないようにね」
『へいへい』
あっさり、電話は切れた。
哀はベッドから下りて、扉を開ける。
沖矢は哀を見て、いつもは細められている目をわずかに見開いた。何事か、と思っていると、すっと哀の前にしゃがむ。
なに、と言おうと口を開く前に、大きな手が頬を撫でた。
「どうかしましたか。何か、悲しい夢でも?」
「え?」
「……涙のあとが」
言われて、驚く。頬をこすったが、コナンと話している間に乾いていたのか、自分ではわからなかった。
「……覚えてないわ。薬の影響か、なんだかぐちゃぐちゃな夢を見ていた気がするから。でも、平気よ」
「そうですか。なら、いいんですが。顔色は随分良くなってますね。──さあ、蘭さんが作ってくれたおかゆでご飯にしましょう」
「ええ」
頬をさすり、沖矢の後について行きながら、電話をかける前のことを思い出す。
姉と、蘭の夢を見ていたような、気がした。
目の前の、大きな男の背を見つめ、口を開く。
「……ひとつ、思い出したわ」
「何をですか?」
「夢の話。──話してもらえないことは、教えてもらえないことは、悲しいことだって、考えていた気がする」
振り返った沖矢は、じっと哀を見つめた。
沖矢が口を開く前に、哀はつぶやく。
「──夢の話よ」
「夢の話、ですか」
「ええ」
テーブルには、すでに温められた料理が並んでいた。
哀が寝ていたらどうするつもりだったのだろうか。こういうところ、段取りがいいのか悪いのか、よくわからない。まさか、様子をうかがっていたわけではあるまいと思うが、この男の場合、否定できない。
着席して、ふたり、ぎこちない「いただきます」を唱える。
蘭の作ってくれたおかゆは、前に食べた時と変わらず、美味しかった。栄養バランスのとれたおかずも、優しい味がした。
はふはふと、無言で食べていると、沖矢がぽつりとつぶやいた。
「──先ほどの、夢の話ですが」
「ええ」
「黙っている方にも、理由があるんじゃないでしょうか。……おそらくですが」
哀は箸を止め、沖矢を見つめた。宮野志保の時には見たことがない、誰だかわからない、男の顔を。
「──あなたは、江戸川くんと似ているのね」
沖矢が箸を止める。
「コナンくん、ですか」
「ええ」
それ以上のことを話すつもりはなかったので、黙って食事を進める。沖矢もまた、それ以上は追及してこなかった。
コナンと沖矢、ふたりがどういう関係だかは、知らない。知らないが、互いに信頼していることはわかる。
何があったかも知らないが、コナンが哀と知り合った後に出てきたこの男と、それなりの信頼関係を築いていること考えれば、よっぽどの経験をしたか、うまが合ったのか、そのどちらもかだろう、と思う。
江戸川コナンの相棒として、いささか面白くない気もするが、そもそもあの男は、あらゆるところに秘密を抱えているのだ。──おそらくは、相手のことを思っているつもりで。
コナンが哀のことを考えて黙っている何かを、一緒に抱えているこの男は、一体、何者だろう。答えはうっすらと見えている気はするが、それならばなぜ、彼は黙って哀のそばにいるのか──それは、もしかしたらコナンも知らない、この男だけの秘密なのかもしれない。
──本当に、よく似てる。
翻って、あの人──安室透はどうなのだろう。
近寄りたくもないし、近寄るわけにもいかないので、彼のことはよくわからない。
コナンが居候する毛利探偵事務所の下でアルバイトをして、毛利探偵の弟子に入って、一緒にプールに行って……そんな仲良しごっこをしているあの男。
そういう単純なものじゃない、と言った、どこか途方にくれた、迷子のような声を思い出す。
白黒ハッキリつけたがる彼の、そういう、回答保留のような態度はめずらしい。
そんなことを考えていると、沖矢が煮物の皿を哀の前に差し出してきた。最後に残ったじゃがいもに目を落とし、食べて、と皿を押し返す。
「もうお腹いっぱいよ」
「では、ありがたく。灰原さん、明日のお昼は何が食べたいですか」
「蘭さんが持ってきてくれたの、一食分だったの?」
「いえ、でも明日朝までかな、と。何を買ってきましょうか」
「……こう暑いと、買い物に出るのも面倒でしょ。……また、うどんでいいわよ。ゆですぎてるくらいが、胃にいいでしょうし」
哀の言葉に、沖矢は口に入れかけたじゃがいもを寸前で止める。
何かに驚いたような顔をする男に、何事かと顔をしかめると、沖矢は首を捻る。
「──ゆですぎてましたか?」
予想外の言葉に、目が丸くなる。
「あなた、同じもの食べたでしょう」
「うどんは、あんなものかと」
至極真面目にそういう沖矢に、哀は一拍置いて、ふきだした。
「なに、それ。いったいどこで育てば、あんなやわらかいうどんが普通になるのよ。私、病人じゃなくておばあさんだと思われているのかと思ったわ」
沖矢は、クツクツと口元をおさえて笑う哀を驚いたように見つめていたが、やがて苦笑して、時間通りにゆでたんですけどね、と肩をすくめた。
「いいわ、だいぶ調子も良くなったし、明日は私がうどんゆでてあげる」
「では、明日体調が良くなっていたら。ご教示ください」
哀は箸を置いて言う。
「ええ、謝礼はアイスでいいわよ。先払いを希望するわ」
「すぐお持ちします、姫」
相変わらずの芝居がかった口調で言って、じゃがいもを食べてしまうと、沖矢は食器を重ねて立ち上がった。
その背中を見つめる。
この男が、抱えた秘密を哀に、あるいは志保に、明かす日はいつか来るのだろうか。
そして、自分の秘密を、この男に明かす日は。
彼はすでに知っている、ような気はする。こちらがなんとなく、察しているように。けれど、明言されれば変わるものもあるだろう。
その時に、自分はどうしたいのか、この人と何を話したいのかを、考えておくべきだという気がした。
この男だけでなく、子どもたちとも、どうなりたいのかを。
『最近さ、たまに考えるんだよ。オレの正体がバレたら、元に戻ったら、みんなどう思うんだろうなってさ』
そう言った、コナンの声を思い出す。
彼がそれを考える時に、一番恐れるのは、何だろう。
やはり、蘭だろうか。それとも、哀の知らない、たくさんの関係の中のどれかか。
なんにせよ、自分はその揉め事に巻き込まれることになるのだろう。
それは、薬の開発者としての責任であり、彼の相棒としての権利だ。
哀は目を閉じてひとつ、息を吐く。
問題は、もうひとつ。
元に戻ったら、なんて、当たり前に考える彼の、哀に対する無意識の信頼。
まだなに一つ、手がかりをつかんだわけでもないくせに。彼はいつも、こちらに無理難題をふっかけてくる。
──出来るだろうと思われてるなら、やるしかないわね。
風邪なんて、いつまでもひいていられない。
彼らが帰ってくる前に、完全復活しなければと、哀は沖矢が持ってきたバニラアイスに手を伸ばした。