協力者の領域




 コナンから「海のお土産渡したいから時間ありませんか」という連絡があったのは、もう夏休みも終わりという時期のことだった。
 海に行った、車上荒らしと盗撮犯を捕まえるのに協力したくらいで何事もなく無事帰った、という、思わずため息をつきたくなる連絡があってからは、少し時間があいていたが、小学生もなかなか忙しかったらしい。
 承知する旨と都合のいい日程を返信するとすぐに、ではこの日に以前の図書館で、という返信が来た。ホームズのおすすめを教えてもらった図書館だ。
 ふと、服部の言葉が頭に浮かぶ。
 ──自分の好きなもん、知ってもらいたい相手は、好きな相手やろ。
 了解、と返す送信ボタンを押しながら、風見はため息をついた。


 久しぶりに会ったコナンは、先日プールの後に見かけた時よりも白くなっていた。聞けば、あまり焼けない体質なのだという。
 雑談の合間にまた一冊、本をすすめられて、ついでに他の本も一冊借りて、早々に喫茶室に移動する。

「ここでいいのか? コーヒーがいまいちなんじゃなかったのか」

 問うと、コナンはそれはそうなんだけど、と言ってアイスティーを頼んだ。

「ここは、飲み物注文したら持ち込みOKだからさ」

 風見も同じものを頼み、手を引かれるまま喫茶室の隅に移動する。
 あたりを見れば、乳幼児連れの母親や父親がいて、ミルクやお菓子をあげていた。なるほど、利用者ニーズに応えて、ということのようだ。

「お土産はお土産で用意したんだけど、今日はほら、これ持ってきたんだ」

 コナンはそう言って、小ぶりな袋を取り出した。

「これは?」
「安室さんが作ったクッキー」
「ああ、この間話していた」

 袋を開くと、コナンが以前に写真を送ってきたのと同じ、シンプルなクッキーが出てきた。コナンはにこにこと笑う。

「前からボク、風見さんに安室さんのお菓子食べてもらえたらなーって思ってたんだよね。でもほら、ケーキだと持って帰るわけにもいかないじゃない?」

 それはそうだ。日持ちもしないし、第一、そんなことをしたら降谷がまた「何をたくらんでいるのか」と勘ぐるだろう。

「食べて食べて」
「では、ありがたく」

 一枚取って口に入れる。サクリとした歯ざわりの後口の中に程良い甘みが広がる。

「……うまいな」
「でしょ」
「ああ。頂き物の特別なクッキーの味がする」

 そう言うと、コナンは、嬉しそうな面倒臭がるような残念がるような、なんとも複雑な顔をした。
 風見は二枚目に手をのばしながら聞く。

「どうかしたか?」
「いや、やっぱりそう思うよねーって」

 そう言って、コナンは頬杖でため息をついた。

「ボクもね、お店のクッキーの味がするって言っちゃったんだけどさ、そしたら安室さん拗ねちゃって」
「拗ねる」

 意味がわからず顔をしかめると、コナンはアイスティーを飲みながら、眉を下げた。

「拗ねる、っていうのは梓さんの表現だけど。まあ、感想が気に入らなかったみたい。ほめたつもりだったんだけど。風見さんだってそうでしょ」
「そうだな」

 自作でこの味が出せるのはすごい、というか、プロ並みだというほめ言葉のつもりだったのだが。

「梓さん曰くね、心がこもってないって言われたような気がしたんじゃないかって。ちょっと、うがちすぎじゃない?」

 それを聞いて、ああと納得する。

「まあ、降谷さんはもともとそういうところがあるからな。特に君に関しては」
「ボクが悪いの?」
「そういうわけではないが。一筋縄ではいかない関係なんだろ」
「そうなんだけど」
「君もこれをもらって、何たくらんでるんだろうなって思わなかったか?」
「ちょ……っとは思ったけど」

 コナンはばつ悪げに、ずぞぞとストローを鳴らす。

「まあ、そういうことだ。よろしく頼む」
「よろしく頼まれても。ええー、じゃあボクなんて反応すれば良かったの? 『わあ、このクッキー、安室の兄ちゃんの、クッキーさん美味しくなあれって気持ちがいっぱい詰まってるね!』って?」

 アイスティーの口に含んだ瞬間を確実に狙われていたが、なんとかこらえた。苦労して口の中の水分を飲み込む。

「ゴホッ──江戸川コナンくん」
「風見さん、先生みたい」

 コナンはしれっとそっぽを向く。口直しにクッキーをもう一枚口に入れる。

「からかうな。まあ、あの人がいきなりクッキーを作った経緯は……さておくとして」

 おそらく榎本梓や吉田歩美への対抗心だろうとは言わないでおく。上司への情けだ。

「美味しく食べて欲しいという気持ちはあっただろう、多分」

 邪念も混じっている気はするが、まあ、それも置いておく。

「そんなのはわかってるよ。ちゃんと美味しいとも言ったのにさ」
「──なんだ、君は君で、感想を曲解されたことに拗ねてるのか?」
「違います」

 即答だ。図星だったらしい。

「おかしくない? 梓さんも風見さんも、安室さんは素直じゃないからわかってやれみたいなことを言うけどさ、ボク子どもなんだけど。あっちは三十手前のいい大人じゃん」
「……すまない。君相手だとつい。降谷さんには、君が感想を素直に受け止めてもらえず悲しんでいたと伝えておこう」

 コナンはギロリと風見をにらんだ。

「絶っ対にそういうこと言わないで。言ったら風見さんとは絶交だから」
「絶交か……それは嫌だな。でも、それならどうするんだ?」

 コナンは肩をすくめる。

「別にいいよ。風見さん相手に愚痴言えてすっきりしたし。ボクと安室さんがそうなのは、最初からだし、風見さんも言う通りお互い様だし。仕方ないよね」

 そう言われてしまうと、それはそれで、という気がする。
 もう少し素直になった方がいいのでは、と降谷に以前助言したのだが……降谷とコナンが一筋縄ではいかない関係であることは、重々、承知している。片方が素直になったところで、怪しまれるのが関の山だろう。
 悩む風見をよそに、コナンはけろりと

「それにね、梓さんが面白いアドバイスしたみたいだから、ボク、それがどうなるかちょっと楽しみなんだ」
「……面白いアドバイス?」

 榎本梓というのは確か、風見についてもなにやら愉快な想像をしていたという女性だ。いったいどんなアドバイスをしたのか。
 コナンはにまっと笑った。

「安室さんは、生まれた時からなんでも出来ますみたいな顔してるからダメなんです、失敗したり悩んだりしてるとこをチラっと見せていかないと。そういう、自分だけに見せるちょっと弱ったところ、みたいなのにグッとくるんです──って」
「……そのアドバイスは、君に対する態度についてなのか?」

 コナンはぶはっとふきだした。

「そうなんだけど、おかしいよね? 何か違うっていうか、何もかも違うっていうか」

 前々から思っていたのだが、高木といい榎本梓といい、安室透のコナンに対する態度というか感情について、何か大きな曲解がないだろうか。いや、そう思っているのは風見だけで、風見がわかっていないだけなのだろうか。
 ──いや、小学一年生に懸想する二十九歳成人男性をこんなに見守りバックアップする体制、おかしいだろう。多分、彼らも、お気に入りの小学生とうまく仲良くなれない青年を微笑ましく見守っているだけだろう。多分。

「だから、安室さんが急にドジっ子キャラになっても、なんだこいつって思わないでねって、梓さん言うんだけど。それ全部聞いちゃったボクはどうすればいいわけって思わない?」
「榎本さんは、その、天然なのかな」
「だねぇ。すごくいい人だけど。善意が空回りしちゃうタイプというか、妄想が暴走しがちというか。可愛くていい人なんだよ」
「なるほどな」

 風見はもう一枚クッキーを口に入れ、降谷がそのアドバイスをどうするつもりなのかと想像する。

「……すでにドジっ子アピールがあったりとかは」
「しないよ。っていうか、最初にボクと安室さんが会った時、安室さんドジなウェイターを装ってたから、それ見てもまた何かやってんなくらいにしか思わないだろうし、それはあっちもわかってるんじゃない」

 ドジなウェイター。
 それはいったいどんな風だったのか、そもそもどんな出会いだったのか、聞いてみたかったが、こらえる。

「ちなみに、参考までに聞きたいんだが、弱ってるところを見たらグッとくるのか?」
「安室さんの?」

 コナンはきょとん、と首を傾げた後で、にっこりと笑った。

「そんなとこ見たらもちろん、ほだされたふりしてつけ込むに決まってるよ」
「──君は難しいな」
「じゃあ逆に、安室さんは、どういうとこにグッとくると思う?」
「……君にはすでにだいぶグッときてると思うが」

 答えると、コナンはチッと舌打ちした。

「風見さんのケチ」

 正直に答えたのだが。この子は、というかこの子も、かなり面倒臭いな、と風見はため息をついた。
 風見を眺めていたコナンが、不意に言う。

「……風見さん、そんな急いでパクパク食べなくても、それ全部風見さんにあげるから、持って帰って食べれば」

 言われて、またクッキーを食べようとしていたことに気づく。もう何枚食べたか覚えていない。

「……ああ、すまない」

 ものすごくお腹が空いていたみたいではないかと恥ずかしくなって口元を覆う。
 コナンはまじまじと風見を見た。そしてこぶしを握る。

「──風見さん、いまボク結構、グッときたよ! 安室さんも見たらグッとくると思うな。報告しておこうか」
「いややめてくれ。したら絶交だ」
「えーっ絶交は嫌だからやめておくけど。安室さん喜ぶと思うけどな」

 そう言って、コナンはふむ、と小首を傾げ、にっこりと笑った。

「じゃあ、参考にするだけにしとく」
「……なんの参考にするんだ」
「秘密っ」


 本家本元を久しぶりに聞いたがやはりあざとい、としか言えなかった。降谷視点では可愛さも加味されるのだろう。
 コナンはアイスティーを飲み干して、カバンからまた袋を取り出した。

「これ、お土産ね」
「どうもありがとう」

 礼を言って受け取る。以前のお土産同様、小さな袋だ。
 あけると、貝殻に組紐がついた、キーホルダー、というよりは根付だった。

「手作りできるやつなんだよ。みんなで作ったから」
「いいのか、そんな貴重なもの」

 言うと笑われた。

「そんな貴重じゃないよ。ボク器用だし、時間内にいくつか出来たからさ」
「ちなみにこれも降谷さんとお揃いなんじゃないだろうな」
「勿論、お揃いだよ」
「なるほど」

 では財布につけたりしないで、また胸ポケットにしまっておこう。早速胸ポケットに入れてしまう。
 コナンはふふっと笑うと立ち上がった。

「じゃあボク、先に出るね」
「ああ。ありがとう」
「本、読んだらまた感想教えてね」
「ああ。──君は、ここで何か借りていくのか?」

 コナンは目を瞬かせて、首を振った。

「ううん。ここの貸出カードは持ってないから」
「そうか」

 じゃあね、とコナンは手を振って去って行った。
 その小さな背中を見送りながら、考える。
 ここの貸出カード、と言ったが、彼はどこかの図書館の貸出カードを、持っているのだろうか。
 ──正確に言えば、作れるのだろうか。
 小さな背中は、あっという間に視界から消えた。

 江戸川コナンには、戸籍がない。
 それが、彼をしっかり調べ始めて一番最初に知ったことだった。





 服部の発言について調べることの前に、風見は江戸川コナンの基本調査を行った。
 まず基本的な、住所や親のことや生まれた場所、そういう来歴についてを押えておこう──と、ごく自然に彼の戸籍を調べようとして、ない、という事実に目を疑った。
 前回調べた時は、手近なところにあった警察の調書を見て、かつ、その量が膨大だったためにその先を深堀しなかったのだが、これは全く、失態と言って良かった。
 調べたうちに入らない、と降谷なら言うだろう。もっとも、前回は風見個人の興味だったため、出来る範囲で調べただけではあったのだが。
 戸籍がない、ということは、外国籍で、何か事情があってこちらに一時的にいるだけなのだろうかと思ったが、そもそも彼には渡航履歴が一切なかった。
 いったいどこから少年の存在がふってわいたのか。一切説明がつかなかった。まさかこんな初手からつまずくとは、である。

 実際のところ、無国籍の子どもは、いないわけではない。
 外国人が日本で出産した場合。法律上の問題または家庭の事情で出生届が出されなかった場合。様々な理由で、国籍を持たぬまま日本で生活している人間は、一万人以上存在している。
 江戸川コナンも、その一人ということなのだろうか。
 彼は小学校に通っているが、義務教育期間中ならば、学校に通うくらいはなんとでもなる、というか、道はある。
 問題は、それにはどうしても大人の助けが必要である、ということだ。
 居候先の毛利。あるいは発明家の阿笠。二人のどちらか─普通に考えれば毛利だろうが、彼はどうも違うようだ。
 怪しいのは、阿笠の方だ。
 江戸川コナンの愛用する探偵道具の数々は彼の発明だし、IoTテロの時にも、降谷はコナン経由で阿笠に協力を依頼している。
 彼は江戸川コナンの特異性を承知している、ということだろう。
 阿笠博士。発明家。変わり者として有名らしいが、複数の特許も持つ天才だ。同居している少女についても、先日服部が言及していたことだし、彼女ともども、コナンに深く関わっていると見ていいだろう。

 そして、服部の言葉については、阿笠を調べる過程であっさりと、謎が解けた。
 彼はおそらく、くどう、工藤と言っていたのだ。
 工藤家は阿笠家の隣家で、著名な小説家の工藤優作と、引退した元天才女優藤峰有希子夫妻の邸宅だ。
 現在は、彼らの一人息子、工藤新一が住んでいるらしいが、行方不明。死亡説も流れている。
 この工藤新一は、風見も名前は聞いたことがある、有名な高校生探偵だ。──そう。服部と同じ。
 「東の工藤、西の服部」と並んで扱われることも多かったらしい。
 しかし、問題は、服部がなぜコナンを工藤と呼ぶのか、ということだ。
 新聞で見た工藤新一は、コナンと兄弟のようによく似ていた。だから……というのは、根拠が薄い。似ているからと他人の名前で呼ばれることを、あの少年が良しとするわけがなく、服部もそれをすぐ改めない理由がない。
 可能性の一つは、コナンが本来「工藤」姓である、ということだ。なんらかの理由で工藤夫妻がコナンの出生届を出しておらず、コナンは江戸川姓を名乗って生きている。理由は何か、と言われると──それはわからない。
 ──もう一つ、考えられるのは。
 以前、風見は考えたことがある。この少年がたとえ、降谷と対等にやり合うだけの頭脳を持っていても、例えばIQ400の天才児だったとしても、悪い組織に改造された改造人間だったとしても、少なくとも、彼の見た目は、体は小学一年生の子どもで、本来、守られるべき存在だ──と。
 改造人間、というのはものの例えだったが、もしかしたら、近かったのではないか。例えば、クローン。死亡した工藤新一の、クローンとして生み出されたのでは。それならば、服部が彼を工藤と呼ぶのも理解できる──。
 そこまで考えて、風見はため息をついた。
 さすがにそれはフィクションの見すぎ、考えすぎだ。
 お隣に怪しげな発明家がいるとしても、分野が全然違うし、第一計算が合わない。

 少年の影響で読んだホームズによれば「不可能なものを除いていって、最後に残ったものが、どれだけあり得ないものに思えても、それが真実だ」──という。
 しかしおそらくまだ、風見はすべての必要情報を得ていないし、不可能なものも除去しきれていない。
 ため息をつく。
 おそらくこれくらいのことは、降谷はとうに考えているだろう。そしてその先を行っているはずだ。

 ──降谷はもう、答えを見つけているのだろうか。

 服部の漏らした言葉については、まだ報告していない。もう少し、少年の隠していることの全貌が見えてからでないと、何を報告していいかすら判断が出来ないからだ。
 服部からは、あの後不気味なくらいに連絡がない。
 もう用はない、ということなのか、それともまた何か別の理由があるのか。
 そして、江戸川コナン。
 彼は風見の動きに気づいているだろうか。彼に関しては、予兆がなくとも、その前提で構えていた方がいい気がする。少なくとも、降谷が相手ならばそう考えるし、ならばコナン相手も同じように考えた方が良いだろう。
 図書館で会った時、コナンの様子にいつもと違うところはなかった。気づいていてあの態度なのだとしたら、大したものだ。
 元々、彼にはいざという時にはそうすると言っている。だから当たり前、想定済みのことなのか。それとも、風見がどう動こうと、彼にはどうでもいいこと、なのだろうか。
 そう考えて、風見は自嘲した。
 裏でコソコソ探るような真似をして、それでも好意を持っていて欲しい、というのは随分虫のいい話だ。
 しかし、降谷の部下で彼を第一に考えて動くのが風見の信念であることが事実であるように、風見が江戸川コナンを好きなこともまた、事実なのだ。
 ひとつ、息を吐いて区切りをつける。
 通常業務の降谷への報告書を作成しなければならない。
 そしてコナンとのやりとりを報告する際には、あまり彼の発言を斜に見ないように忠告をした方が良いのかもしれないと、考えた。





 数日後、風見は読んだ本を返却しに、図書館を訪れた。
結局、ここを他の協力者との密談には利用していない。最初に考えたより密会に向いていないというのも理由だが、コナンとは次もここで会う予定だから、他で利用しない方がいいだろうと考えたのだ。
 本を返して、何か本を借りようか、コナンがいる時はエラリー・クイーンが借りられないからそちらを何か借りようか、と書架に向かう。
 服部とのつながりは、こうなると、コナンに言わないで良かったような気がする。例外はあの西の高校生探偵が何かたくらんでいた時だが──そこは引き続き警戒するしかない。
 多分、服部はコナンを守ろうとしている。彼がコナンの味方なのは言うまでもない。であれば、こちらとしても出来れば敵対はしたくない相手だ。次に接触する時には、出方をよく考えた方がいい。
 そんなことを考えながら、エラリー・クイーンの並ぶ棚の前で、何がいいのかと首をひねっていると、横から細い指が一冊、本を抜いていった。
 この棚に用がある人がいるならと、身を引き、何となくそちらに目をやり、風見はギョッとした。
 風見の肩よりも低い位置にある頭が、上を向き、鋭い目がこちらを射抜く。
 パシ、と軽く、棚から抜かれた文庫本が風見の胸を叩いた。

「これ、もう読んでいらっしゃいます?」

 到底、本をすすめるような声ではない、低く抑えたトーンで、橘境子は風見にそうたずねた。



 橘境子は、風見の元協力者だ。
 IoTテロの一件を機に、協力者からは解放されている。
 奇遇ですね、少しお時間いいですか、とちっとも偶然さを感じさせない平坦な声でそう言う橘に、うなずく以外の選択肢はなかった。
 突きつけられた本を借りて、先日コナンとも話をした喫茶室に行き、それぞれアイスティーとアイスコーヒーを買って、隅の席に移動する。

「いまは、元気でやっているのか」
「ご存知でしょう、そんなこと」

 橘は素っ気なく答えた。協力者時代はもう少し愛想が良かったのだが、あんな終わり方だったのだ、それも仕方ない。
 そして、橘の動向を把握しているのも、事実だった。
 彼女は、数年とはいえ、公安の協力者だった。その事実が漏れれば、公安に良からぬ思いを抱く人間が彼女に近づいて来ないとも限らない。
 利用されないように守る、といえば聞こえはいいし、そういう配慮もあるのは事実だが、実際のところ、彼女を利用されては、公安が困る。特に彼女の場合、公安に恨みを抱いて指示を逆のことをしようとしていたのだ。控えめに言って、「要監視対象」というのが正しかった。
 彼女は現在、無職状態だ。
 公安側からは、都内の法律事務所の職を斡旋していた。
 事務所の所長は、公安の協力者だ。彼に彼女を監視させようという目論みで、いわば、橘に羽場を監視させていた時と同じ状況になる。
 この道を選べば法曹界に残れるぞ、という話だが、逆に言えば、選ばねば妨害するということで、実質的には、監視下に置かれるか弁護士をやめるか選べという、二択の要求だ。
 彼女は風見の予想通り、提案を突っぱねた。
 突っぱねて、弁護士を辞めるのかと思えば、何をするわけでもない無職の状態で、ここ数ヶ月過ごしているという。
 監視担当に定期的に同じ話を持っていかせているが、彼女が頷く様子はないらしい。
 話を受けるのは嫌だが、弁護士、という職業には未練があるのだろう。
 彼女が弁護士になるためにどれだけ努力していたかを、風見は知っている。橘が風見の協力者になったのは、ややイレギュラーな事情からで、付き合いが深いとはとても言えなかったが、彼女の事情は、よく知っていた。
 ちょっといいかと言っておきながら橘が口を開こうとしないので、風見は仕方なく口を開いた。

「羽場とは、あの後会ったのか」

 答えが返ってこないことも覚悟していたが、橘はしばらくして、口を開いた。

「──私からは会いに行ってません。もらった連絡先は、あの店のトイレのゴミ箱に捨ててきましたから」
「羽場が君に会いに来たのか」

 橘はため息をついた。

「──ええ。毛利探偵事務所のあの子のお節介で」

 あの子、というのは間違いなくコナンだろう。思わぬ名前に目を見開く。

「一度話をしないと後悔するよって。あんな子どもに言われると、腹が立つより先に気が抜けるものね。話をして、円満に」

 両手を開いて肩をすくめる仕草。終わった、ということだろう。
 羽場は、降谷の手で死んでいる。いまの彼は、羽場二三一ではない、公安に作られた別の存在だ。付き合いを続けるにも困難は多い。
 それにしても、と風見はため息をついた。
 あの後、風見は橘に対して、羽場の連絡先を伝える以上のことを、しなかった。保護という名の監視をしてはいたが、彼女が不審な動きをしていないかの確認を、間接的にしていただけだ。
 羽場に対しては、特になにも。降谷もおそらくはそうだろう。
 それとも、彼が羽場が橘に会いに行くように、コナンに協力でも依頼したのだろうか。その可能性は、十分にあると思えた。
 とにかく、風見が橘にこれ以上踏み込むことを怖れて何もしなかった時に、コナンが彼らのフォローをしてくれたのだということは、事実だ。
 おそらく、風見には同じことは出来なかったし、風見が何を言っても彼女は頑なになるだけだっただろうが、それでも、やはり自分は至らないという情けない思いがあった。
 橘はまた沈黙したが、今度は風見が何か言う前に、口を開いた。

「あの子」
「……江戸川くんか」
「ええ。……変わった子。妃先生のところにいた時から、思っていましたけれど。──少し気味悪くもある」

 それは、フラットな意見だろう、と思う。風見自身、彼に最初に感じたのは恐れだった。
 未知の存在に対する、恐怖。
 橘はアイスコーヒーを口にして、かすかに眉をひそめた。

「あの時、あんな場面にあなたたちと一緒にいた理由はわからないけど。……あの子は、あなたたちとは全く違う立場で、信念を持った子だわ」
「──そうだな」

 アイスティーを口に含み、考える。
 気味悪い、と言いながら、しかし橘はおそらく、江戸川コナンに好意的な感情を持っている。
 ならば、橘がわざわざ、憎い公安の風見に声をかけてきた理由は、ひとつだ。

「ここで、彼を見たのか。君の聞きたいことは、それだろう」
「相変わらず、話が早くて結構なことだわ。毛利さんを利用したあなたたちが、まだあの子と付き合いがあるなんて思いもしなかった。──あなたたち、まさかあの子を利用しようとしているんじゃないでしょうね」

 低く、しかし鋭い声。
 予想された問いだったので、風見はすぐに答えた。

「公安の人間として付き合っているのは確かだ。ただ、彼は協力者ではない」
「監視対象」
「ある意味では」

 そこで口を閉ざすと、橘は大きく息を吐いた。

「相変わらず、必要なこと以外は話さないのね。あなたはいつもそうだった」

 確かに、彼女にとっては到底、実りのある会話になったとは言えないだろう。しかし、風見にも当然ながら言えることと言えないことがある。

「私が何をどう思っていようと、あなたたちには関係ないんでしょうし、なんの影響もないんでしょうけれど。あの子は、小学生だわ」
「──小学生だが」

 風見は口を開いた。

「彼は、私の友人でもある」

 橘は眉間にしわを寄せる。
 じっと、真意をはかるように風見を見つめ──しばらくして、息を吐いた。

「一緒にお茶を飲む程度の仲なのは、見たわ」

 前回か、その前か、ここで話をした時のことだろう。
 もっとも、と橘は顔をしかめてコーヒーを飲み干し、立ち上がる。

「あなたと私も、こうして一緒にお茶を飲む程度のことは、するわけですから」

 失礼します、と小さく頭を下げた橘に、思わず、声をかける。

「あ、」

 立ち去りかけていた橘が顔だけ振り返る。
 言葉に詰まる。特に何かあって、呼び止めたわけではなかった。
 思わず、今日押し付けられた本を手に取る。

「これは、きみのおすすめ、というやつか?」

 橘は訝しげに顔をしかめ、そして口の端を上げた。

「私が読んだクイーンの中で、一番、退屈な本」

 そう言って、橘は立ち去ってしまった。




 橘と接触したことは、当然の義務として、降谷と、知っているだろうが、彼女の監視担当にも報告をした。
 話の内容までは触れず、こちらにいまだ敵意がある様子であることを伝える。降谷には、別途補足が必要だろうと思っていたところで、定時連絡があった。
 いつものやりとりの後に、橘境子のことだが、と話が出る。

『羽場については何か言っていたか』

 その話が出るということは、やはり降谷からの働きかけだったのだと納得する。

「会って話をして、円満に終わったと」
『──そうか』
「江戸川くんを仲介に使ったのは、降谷さんの案ですか」
『どういうことだ』

 降谷は思いもしなかったことを言われたという様子で問い返してくる。風見は慌てて答えた。

「彼女が、あの子のお節介で、羽場と会うことになったと。一度話をしないと後悔するよと、そう言われたそうです」
『……こっちは、羽場に彼女の連絡先を伝えることしかしていない』

 では、どこでコナンが出てきたのか。
 彼は厄介事を引っかける能力があるから、どこかからなにか引っかけたのかもしれないし、もしかしたら、あの場にいた彼は彼で、橘を気にかけていたのかもしれなかった。
 降谷は小さく息を吐いた。

『なんにでも首を突っ込むな。あの子は』
「彼女は、感謝しているようでした」
『そういうところが、あの子の怖いところだ』
「仰る通りです」
『その件は、こちらでも確認してみる』
「はい。──そういえば、先日江戸川くんからクッキーのおすそ分けをもらいました。とても美味しかったです」
『なんだ。珍しく持って帰っていいかなんて聞くから何するのかと思えば、お前か』
「美味しいと思ったものを共有してくれたんですよ。ああそうだ、彼の感想は、素直に受け取った方が良いかと」
『……何を聞いた』
「言ったら絶交されてしまうので、黙秘します」
『いい度胸だ』

 舌打ちの音の後で、声のトーンが下がる。

『先日の件、進捗状況は』

 この流れでそれか、と風見は額に手を当てた。降谷の神経はどうなっているのだろう。

「情報収集は、滞りなく。しかし、ご報告すべき案件に、まだあたっていないのと……ご報告すべきか判断がつかない案件があります。もう少し、時間を下さい」
『踏み込んでまで探る必要はないと言ったのはこっちだ。──頼む』

 プツリ、と通話は切れた。





 一週間後、風見はまた図書館を訪れた。
 返却を終え、館内をうろつく。自習スペースには、平日の今日もそれなりに人がいた。
 時間が半端だからか、喫茶室には老齢の三人組がいるだけだ。
 そこを離れ、書架の間をうろついていると、奥の棚のところに、橘の姿が見えた。
 ──彼女の監視担当曰く、彼女は週に一度、ここの図書館に通っているらしい。
 調べものなら、近くの大きな都立図書館に行くだろうし、法律関連の専門図書館だってある。彼女の目的は調べものではなく、別のこと─単純に、自習室利用にあるようだった。

「人が多いところじゃないと集中出来ないことがあって」

 風見はかつて、彼女がそう言っていたのを、聞いたことがあった。
 監視担当は初め、誰かと接触するのではないか──と疑ったそうだが、その様子はないらしい。
 それに本気で何かするつもりがあるなら、毎週同じ曜日に同じ場所に行くなどと、わかりやすい行動を取るわけがない。彼女は公安との付き合いでその手のやり方を熟知している。
 おそらくは単なる習慣だろうと、その監視担当の言葉に風見もうなずいた。

 橘境子は、従順な協力者だった。
 理解も早く、要求したことをその通りきっちりとやるタイプで、風見との間に私的な付き合いを望むわけでもない。理想的な協力者だった、と言っても良い。
 風見は複数、協力者を持つが、その中で一番手がかからない、というか、気を払わなくても良いのが橘境子だった。──結局、それは全くの見込違いだったわけだが。
 羽場の件があって、注意はしていた。けれど、彼女が一人であんな復讐を目論んでいるとは、思いもしなかった。
 実際のところ、彼女がいかに毛利を有罪にしようとしたところで、そうなることはなかっただろう。あれは、彼女一人でどうにかなるような案件ではなかった。
 そもそも、公安という組織を相手取った時に、人一人が出来ることには、限りがある。
 ──彼女は無力だった。
 そう断じる自分たちの組織の大きさと、傲慢さを、あの時彼女の背中を追いかけながら感じた。
 羽場を愛したのも風見を裏切ったのも、自分の判断だと、彼女は言った。それでも、彼女の判断の変化によって、公安が変わることはない。
 彼女が、公安の協力者の任務として羽場と出会い、公安の思惑で羽場が「死亡」し──そんな風に、どうしようもなく振り回されたのとは、対象的に。
 思いあがるなと、あの時叫んだ彼女だって、きっとそのことをわかっている。
 あの言葉が空しく感じられるくらいに、公安は、大きな権力を持った組織だ。
 ただ──風見がそんなふうに、己の所属する組織の負の面を、折に触れ考えるようになったのは、橘の件があったからで、そして、江戸川コナンと出会ったからだ。
 彼は、自分たちとは違う。彼はおそらく、その時出会った人、一人一人の痛みを考える人物で、自分と敵対した人間のことすら、「何故」を考え、理解しようとする。
 小さくため息をついた。
 棚の向こうに見えていた橘の姿は、消えていた。自習室にでも戻ったのだろう。
 まだ彼女と話をする資格も、その覚悟もなく、何を話したいのか、考えもまとまり切っていない。
 いい加減業務に戻ろうと、風見は棚から身を離す。
 書架を抜けようとしたところで、横から出てきた人影に進路をふさがれた。

「先日は、どうも」

 橘だ。どうやら、気づかれていたらしい。降谷にバレたら公安失格とお仕置きをうけるところだ。
 橘は険しい顔で風見に詰め寄る。

「何の用」
「用はない、ので、帰るところだ」
「言っておきますが、私の方は、先日お話したことが全てですから。あなたに関わろうなんてこれっぽっちも思っていませんので」
「よくわかっている」
「じゃあ一体何のためにコソコソこちらをうかがってるの」

 抑えた声だが、抗議のトーンと出入口での押し問答は人目を引く。
 じろじろと他の利用者が視線を向けてくるのに舌打ちすると、橘は風見の腕を掴んで、喫茶室まで引っ張って行った。

「すまない、配慮に欠けた」
「それは、気づかれるような観察の仕方をしてすみませんでしたってこと? ふざけた話」

 橘は購入したアイスコーヒーをまた顔をしかめて飲んでいる。

「……なぜわざわざそのまずいアイスコーヒーを頼むんだ?」
「は?」
「ああいや、江戸川くんが、大層お気に召さない様子だったから、まずいんだろうなと」
「癖で。苦いだけの水ね、これは。……あなた、小学生にこんなものを飲ませてるの?」
「最初に、彼が自分で頼んだんだ」

 橘はため息をついた。
 そのまましばらく、何も言わずに黙っていたが、やがてぽつりとつぶやく。

「……ボクもコーヒーが好きなんだって、言ってたわ。小学生らしくないけど、って」
「毛利さんの家では、飲みにくいんだろう」

 橘は、ぎゅっと唇を引き結んだ。伏せられた目が、暗い色のコーヒーを見つめる。

「……あなたたちほどではないけれど、私は、毛利さんに迷惑をかけようとしていた。私利私欲のために、たまたまあなたたちに利用されただけの無実の人を、有罪にしてやろうって。ただあなたたちへの復讐のためだけに、関係ない毛利さんを利用しようとした。──なのにあの子は、私を許したんだわ。あんな、非道なことをしようとした人間を。……実際やったあなたたちほどではないけど」

 それを言われると言う言葉がない。風見は黙ってアイスティーを口にした。

「私はあの家の人たちを陥れようとしてたのよって、言ったら、あの子なんて言ったかわかります?」
「──いや」
「その頭が飾りじゃないなら、少しは考えてみればいかがです」

 そう言われて、仕方なく考える。
 そんなことは気にしない──いや、彼ならば、別の言い方をするだろうか。

「出来なかったじゃない、とか」
「それは私への嫌味?」
「いや、そういうわけでは」

 慌てる風見に、橘は息を吐いた。

「でも、似たようなことね。──『どうせ、失敗してたよ。ボクが、必ず証拠を見つけて、おじさんを無罪にしたから』……って。小学生に何が出来るのよって、思うけど……不思議ね。あの子なら、きっとそうしただろうって、思う」
「そうだな。私も、そうなっただろうと思う」

 橘はふっと自嘲するような笑みをこぼした。

「強い子」
「……そうだな」

 橘は、今度は呆れたように、苦笑した。

「風見さん、雰囲気が変わったって言われませんか」
「いや、特には……言われないが。何か変わっただろうか」
「前より、話がしやすい、っていうのかしら。話を聞いてくれているっていう感じがする。以前のあなたは、何を言われても返す言葉なんて既に決まっているみたいに見えた。目の前にいると萎縮するばかりで。いまの仕事、向いていないんじゃないかしらって、正直思っていたくらい、話のしにくい人だった」

 確かに、会話は得意な方ではない。尋問は苦手ではないが、誘導は苦手。そういうタイプで、降谷に固すぎる、真面目過ぎると言われるゆえんだ。

「正直に言えば、そういうところ、親近感が少しありました。弁護士なんてやってても、人と話すのが苦手で。知り合いだと特にそう。知らない人相手の方がまだマシ。だから、上手くしゃべらなくていいかって、思ってた。やりづらいとか、言う気もなかった。ただ言われたことを遂行して、結果を出して、伝達する。それが協力者の私に許された範囲だと思っていた」

 橘と、会話が弾んだ記憶は、一度もない。お互い口下手だったなら、そういうものだろう。
 彼女とのやりとりはいつも事務的なもので、彼女が感情を見せたのは、羽場を助けてくれないかと、助けを求めにきた時だけだった。

「羽場に会って思ったけれど、私には、誰かのために命をかけるなんて無理。あなたのためなんて、論外だわ。協力者との関係は強いって、聞いたことありますけれど、私たちが少しドライだったのかしら」
「私の協力者に、私のために命をかける人間はいないだろうから、まあ、私の問題だろうな」
「そう」

 橘は目を伏せ、苦笑する。

「他の人にもこんなだったのは、意外。私のことは特に苦手なんだろうと思っていた」
「苦手……ではないが、そうだな、異性だからと、距離をはかっていたところはあるだろう」
「それは、なんとなく。プライベートな話は、しないように心がけてたから。──おかしな話ね。あなたがミステリーを読むとか、協力者でなくなって初めて知った」
「ああ、そういえば先日の本。確かに前に読んだ本ほどスリリングではなかったが、普通に読めたぞ」

 面白かった、と付け加えると、橘はぽかんとした一拍後に、目をむいた。

「……は? 前にって、何を読んだの」

 服部にすすめられて読んだ本のタイトルを答えると、「他には」という問い。

「君にすすめられた本、だな」
「……以上?」
「以上だ」
「信じられない」

 橘はガン、と荒くアイスコーヒーをテーブルに置く。

「な、なにかまずかったか」
「ダメージを与えるにもタイミングと順序っていうものがあるの。まったく……そもそも、風見さんミステリーに向いていないわ」
「……それはまあ、薄々感じてはいた」
「何故お忙しい身で、わざわざ慣れないジャンルに手をだしたんです」
「江戸川くんにホームズをすすめられたのがきっかけだな」
「……彼とは、本当に友だちなのね」
「お互いの立場をわかった上で、という前提がつくが」
「変わったわけ、わかった気がします」

 橘は両手を広げて肩をすくめた。その仕草に、思い出す。

「──羽場のことだが」
「なにか」
「彼がいま難しい立場なのは事実だが、一緒に生活できるようにはからうことは……いや、助力することは、出来るが」
「どんな言い方をしようとあなたの方が立場が上なんですから、いつもの通りで結構。そして、そのお申し出についても、結構。円満に終わったと、言ったでしょう」
「彼の立場以外に、何か問題が」
「色々と、ありますけど。一番は、もう気持ちが離れてしまったから」

 彼女はあっさり、そう言った。

「二三一……羽場は、私にないものをたくさんもった人だった。そこに惹かれていたのは、事実。たぶん、あっちもそう。でも、彼は逮捕された時に、自分のことより、私のことより、協力者として日下部さんを優先した。ずっと、一年間、無理な取り調べで殺されたんだって思っていたけど、そうじゃなかった。彼は、日下部さんのことを話さないことを選択して、そのために、取引に応じた」

 そこまで言って、息を吐く。

「隠し事をされていたから? 自分以外の人間を優先したから? そのために、羽場自身を犠牲にすることを選んだから?
 どれが許せないのかって、心が離れた理由は何かって言われたら、そのひとつひとつはどれも理由ではなくって、でも、その全部が、理由なんです。気持ちが離れてしまった。一年間、私の中にあった『なんで』の答えを得て、私はそこにいなかったと、理解してしまった。愛していると言ってくれたことが、嘘だったとは思わない。でも、あの人の大事な、核の部分には私は存在していなくても良かった。私では、存在する場所がなかった。私は、それでも私に出来ることがあるならって思えるほど強くないし、あの人がいないと生きていけないほど、弱くもない。──だから、必然」

 橘はふっと笑った。

「それに、あなたたち経由で知り合った男なんて縁が切れて丁度いいでしょ」

 言ってから、ふと、橘は顔をくもらせた。

「羽場はいま、あの人の協力者なのよね」

 彼女が言うのは、降谷のことだろう。風見は首を振る。

「それはわからない。知っているだろうが、誰がどんな協力者を抱えているかは、同僚であろうと知らないものだ」
「そう」

 橘は視線を落とした。

「……彼は、一本気で、情に篤いところがある。日下部の立場と、自分のことを救って……と、言っていいかはわからないけど、拾ってくれた相手ならきっと、協力者として出来る限りのことをするんでしょうね。それこそ、命をかけて」

 実際のところ、羽場の現在の処遇については、風見も知らない。全く関係ないところにいる可能性はあるが、降谷のもとにいる可能性もある。
 羽場の一本気な性質は扱いにくいが、降谷ならば、彼をうまく「使う」だろう。どう使うかは、わからないが。
 わからないが、しかし、降谷は自分の責任の及ぶ範囲でそれを行うはずだ。
 人ひとり。それは単純に一という数字ではなく、個々人は、それぞれ莫大な経験や感情やつながりを持っている。
 橘境子一人に対しても、ろくになにも出来ない風見が心配をする立場ではないが、それでも、あの強い覚悟をもった上司が、これ以上に重たいものを背負わないようにと、願ってしまう。たとえ降谷が自分でそれを選ぶのだとしても。
 ふと、視線を感じて顔を上げると、橘が観察するように風見を見ていた。

「なんだ」
「いいえ」

 そう言って肩をすくめる。

「本当に、あなた変わった」
「そんなに話しやすくなっただろうか」
「自惚れないで。前が絶望的だっただけで、言うほど変わっていないですから。そこではなくて、全体的な雰囲気の話」

 橘は、コーヒーを飲み干した。

「──これからはどうするつもりなんだ」
「私も、変わらないと。そろそろ充電期間も終わりでいいかもしれない。でも、どうするかは、もう少しだけ考えてみるつもりです。あなたたちの思惑通りになるのは、やっぱり嫌ですから」
「希望があるなら、私の出来る範囲で相談にのろう」
「だから、あなた方に相談することなんて、ありません」

 橘は素っ気なく言って、カバンを取って立ち上がった。
 彼女が公安との関わりを拒絶するなら、話が出来るのも、最後かもしれない。
 風見も立ち上がった。
 彼女と何を話すか決め切れていなかったが、言わねばならないことは、ひとつある。

「──ずっと、言えなかったが。私の協力者になってくれたこと、感謝している。ありがとう」

 橘の目が、丸く見開かれる。
 今更、と思われることは覚悟の上だし、終わるまでの経緯を思えば、謝罪の方が、ふさわしいのかもしれなかった。
 しかし、彼女の人生を結果的に弄んだことを謝罪してしまえば、それはそこで終わりになってしまうようで、出来なかった。
 これから何が出来なくとも、何が出来ただろうかと考え続けることが、風見の責任だろう。
 ぎゅっと、カバンを持つ手に力がこもる。
 あの日のように怒鳴られても仕方がない、と思ったが、橘はうつむいて、はーっと長く、溜め込んだ何かを吐き出すように息を吐いた後、ハッと笑った。

「……橘?」
「いえ。……ほんと、あの子怖い子だわ」

 何故ここでコナンが出てくるのかと、面食らう。橘は顔を上げた。

「さっき、どうせ失敗してたよって言われた話、したでしょう。あの時に、あなたたちの話もしたんです。毛利さんは、あなた方の罠にはめられたわけだから。
 あの子、言っていた。私のしようとしたことは駄目だけど、もっと許せないのはあの人だって。大きなことのために必死になるのはいいけど、それを大義名分にして誰かを犠牲にするのは許せないって。それは自分の信じるものと違うって。──でも」

 橘の表情が、少しゆがむ。

「自分が、自分たちが、あなたたちに助けられたのは、本当のことで、大きなものを、この国を守ろうとしているのも、本当のことで。許せないけれど、許すつもりもないけれど、でも、ありがとうを、言わないといけないことがあるって。きっと、あっちも好きでやったわけじゃなくて、どうしようもなくって、でも、やったことは変わらないから、あの人は、きっとごめんなさいは言えないんだろうけど、そのことを、知っているんだって」

 コナンが橘と話をしたのは、降谷と和解する前、だろうか。あの、話をした日を思い出す。
 橘は、息を吐いて、顔を上げた。

「謝ったりは、しないで下さい。この先もずっと、絶対に。あなたたちを恨む気持ちが消えるわけではないですけど、私は、私の判断であなたの協力者になって、羽場を愛して、あなたを裏切った。私が決めたこと。それが真実。そのことだって、わかっているんです」

 そう言って、彼女は小さく笑った。

「協力者だった時に、あなたと今日みたいに話せなかったこと、残念に思います。──それだけ」

 小さく頭を下げると、橘は立ち去っていった。




 橘が立ち去ってから三十分ほどしてから、風見も図書館を出た。
 公安に配属されてからの研修で散々聞かされたし、至極当たり前のことではあるが、人と人との関係には、様々な形がある。
 風見はよく、降谷とコナンの関係を複雑で面倒臭いと言っているが、本来、誰かとの関係なんて、単純なものの方が珍しいのかもしれない。

 警視庁に戻って仕事をしなければならなかったが、足はふらりと米花町に向かう。
 コナンと最初に話をした公園へ向かい、なんとなく、あの日と同じように缶コーヒーを買った。
 江戸川コナンに、工藤家と何らかの関わりがあることを、どのように報告するかは、悩ましい。
 そして、何かを隠し、何かを報告するとして、それは、降谷が把握していない、あるいは本来把握できない内容であるべきだと思う。
 降谷の知らぬ服部の言葉がきっかけだったとはいえ、阿笠に注目すれば、工藤家の情報は出てこなくもない。

 ──あと一歩。何か。

 降谷の守備範囲外となると、やはり話のきっかけとなった、服部だろうか。
 スマホを取り出して、暗い画面を見つめる。
 連絡するきっかけは、なくもない。たとえば橘に言われて読んだ本のこと。

「風見さん?」

 不意に声をかけられて、ハッとして顔をあげる。
 いつの間にか、ごく近くに、コナンの姿があった。考え込んでいて気づかなかった。ランドセルを背負って近寄ってくる姿に、もうそんな時間かと時計を見る。

「どうしたの、こんなとこで。何か用だった?」

 言いながら、スマホを取り出して確認している。風見は首を振った。

「いや、近くまで来たから休憩していただけだ。学校帰りか」
「うん」

 コナンは風見の隣に座って、心配そうに顔をのぞき込んできた。

「どうかしたの。難しい顔して」
「いや」

 ためらってから、口に出す。

「橘境子と会った」
「境子先生、元気にしてた?」
「ああ。君のおかげで、羽場と話が出来たと言っていたぞ」

 コナンは、バレてるのか、とばつ悪げに肩をすくめた。

「お節介、するつもりじゃなかったんだけど。羽場さんが、会ってもらえないって、困って博士のとこ訪ねてきたから」
「ああ」

 そう言えば、羽場は阿笠たちと面識があったか、とうなずく。

「──それで、ちょっと落ち込んでたの? 何か言われた?」
「落ち込んではいない。改めて、考えることはあったが」
「そう」

 コナンはうなずいて、それ以上は何も言わなかった。

「色々言われはしたが……ああそうだ、彼女は、私がこの仕事に向いていないんじゃないかと、ずっと思っていたそうだ」
「風見さんが? へぇ」

 コナンは楽し気に笑って、言った。

「ボクは、そうは思わないけどね。
──風見さんは、隠し事が上手だ。何かを隠してること、本人の前でもチラリとも出さないで、普通にしていられるの、すごい才能だよ」

 風見は、コナンを見つめる。コナンは、ニヤッと笑った。

「だって、あの安室さん相手に、ボクと話したこと隠し通して、お店に引っ張り出したじゃない。結局、病院でばったり会うまで、安室さんに確信させなかったわけでしょ。皮肉じゃなく、警察向きの才能だよ」

 彼が話しているのは以前のことだが、しかし、そのことだけではない。
 なるほど、やはりすべて察知されているらしい。
 風見はため息をついた。

「……結局バレているなら、意味はないんじゃないか」
「そんなことないよ。時間稼ぎが出来る」
「稼いだ時間内に何かを成せなければ、意味はない。結局、降谷さんに怒られない策は考えられなかったからな」
「それで、カウンターパンチ食らったんだっけ?」
「君も、食らわせにきたのか」
「そうじゃないよ」

 あっさりと、コナンは首を振った。

「風見さんがいま何をしているか、わかってるよ。ボクのこと、調べてるんでしょ。でも、そのこと自体はさほど重要なことじゃないんだ」

 思わず顔をしかめる。コナンはそれに構わず、言葉を続けた。

「出来るわけがないって思ってるわけじゃないよ。ボクは風見さんがどれくらい安室さんと情報を共有しているか知らないから、もしかしたらの可能性だって考えてる。勿論、知られちゃまずいから隠してるんだけど、でも、風見さんは他と事情が違うからさ──そうだね。知って欲しいのか、知られたくないのかは、よくわかんないんだ」
「……それは、降谷さんに対してもか」

 コナンは顔をしかめ、ベンチの端に足を引っかけ、膝を抱える。

「知られたら面倒なことは確かだから、知らない方がお互い良いんじゃないかと思うけど。あの人はそうはいかないよね」

 その違いはやはり、降谷が組織に潜入していることと関係しているのだろう。
 組織の人間に知られてはまずく、一般人は知らぬ方が良く、しかし公安ならば問題はない。──そんなこと、山ほどあるが。

「いや、でもそれは、私だって、知ったら面倒なことになるんじゃないか」
「でも風見さんだし。風見さん、あの人の右腕な時点ですでに十分に面倒な立場じゃん」
「いま面倒だからもっと面倒になってもいい、というわけではないんだが」
「じゃあ、止める?」
「……あいにく、それを選択できる立場ではないんでな」
「じゃあ、頑張って」
「──それでいいのか、君は」

 風見が調べること自体はさほど重要ではない、と言っていたし、知られてもいいのかもしれないというような発言もあったが、しかし、それでもそれは、彼にとって重要でな秘密なのだろう。
 降谷との関係が続くことを確信出来ない原因。それが、軽いものなわけがない。
 問うと、コナンはうーんとうなって、膝を抱えたまま首をひねる。

「……風見さんが、知って何をどう思うかはわからないし、安室さんに何をどこまで言うかわからないから、そこのところはどうでもいいとは言えないし、怖いよ。でも」

 コナンは風見を見上げた。大きな瞳が、風見をとらえる。
 そして、小さな唇が、きれいに、しかしどこかはかなげな、笑みのかたちを作る。

「風見さん前に、ボクがどんなでも、ボクのこと好きだって言ってくれたでしょ。それをね、信じてるから。──風見さんなら、あばいていいよ」

 ぐ、と言葉に詰まる。

「……そ、ういうことは、降谷さんに言ってやってくれないか??」

 声が悲鳴のようになったのは、仕方ないだろう。至近距離であれを食らってダウンしなかったことを褒めて欲しい。
 それに少年はあっけらかんと答える。

「あの人にはあばかれると面倒なんだってば」
「巻き込まないでくれ……」
「首突っ込んできたのはそっちじゃん」

 コナンは澄まして答えた。

「この間、阿笠博士の家調べてたでしょ。蘭姉ちゃんがたまたま見かけたみたいで、怖がってたんだから」

 なるほど、いまのはその制裁らしい。怖ろしい子だ。

「ボクの身近な人たちに何かする気なら、それ相応の覚悟しといてね」
「──了解した。迷惑をかける気はなかったし、危害を加える気も、まして先日のような逮捕・拉致・監禁・尋問のような公安の力を使った違法行為をする気は無いと、その点は誓おう」
「そうして」

 コナンはぴょん、とベンチから飛び下りた。

「じゃあボク帰るね。お話出来て良かったよ」
「待った。あばいていいなら、話してしまう気はないか?」

 言うと、コナンは笑った。

「やだな。調べるのが、風見さんのお仕事。でしょ? ズルしちゃ駄目だよ」

 いつかと同じことを言って、コナンはまたね、と走って行った。

 その背中を見送る。
 わざわざ気づいていると告げたのは、毛利蘭のことがあったからの牽制と──そして、おそらく風見への配慮も、含むだろう。
 そう思うのは、甘い考えだろうか。
 しかし、風見が、コナンへの情と降谷の指示板挟みになって悩むことも、それでも最終的に降谷を取ることも、彼になら予測がつくはずだ。
 端から彼に察知される可能性を考えてはいたから、何かがやりやすくなるわけでも、やりにくくなるわけでもないが、知られていることで、気持ちは少し、軽くなったかもしれない。
 ひとつ、息を吐く。

 ──先ほど彼は、「阿笠博士の家を調べていただろう」と言った。

 実際には、隣家の工藤家だったわけだが、つまり、彼はまだ風見が工藤新一にたどり着いたことは、把握していないらしい。そこから推測されることは、いくつかある。
 結局のところ、公安的な調査というのは対象に気づかれるまでにどこまで何を探れるかが肝であり、少年の言う通り、風見の性質は時間稼ぎに役に立つ面がある。
 阿笠家の少女と、服部平次、工藤新一についての調査報告は、少しずつ、集まりつつある。
 この筋が正しいかわからないが、宣言したことで防御を固めきられる前に、突き詰めるしかない。
 周囲の人間に関する調査だ、あまり強引な手段を取ると逆効果になりかねないから、そこは慎重に。

 ──信じてるから。

 ふと、少年の言葉を思い出して、気づき、風見はうめいた。
 彼が今日、風見に話をした真意が、見えたからだ。
 配慮なんて、とんでもない。
 ──あの子は、呪いをかけたのだ。
 風見の好意を、自分自身の好意を、あの子と風見がこれまでに築いてきた関係を逆手に取って。好意を理由に、風見が、コナンの嫌がる調査を出来ないように。
 彼からすれば、おまじない程度の気持ちかもしれない。
 少し手心を加え、足を緩めることを期待する程度の。彼は、風見が降谷の部下であることを、よく、知っている。そこは揺るがないと思っているだろう。けれど実際は、効果は絶大だった。
 そしてもう一つ。
 彼は先ほど、風見が「安室さんに何をどこまで言うかわからないから」、と言った。風見が、私的なやりとりだろうと関係なく、全て降谷に報告する部下だと、知っているはずなのに。そして、以前、花火大会の件の後に話したことをわざわざ持ち出してきた。
 つまりそれは、風見が、降谷とコナンの関係継続を願っていることを、出来る範囲で援護すると約束したことを思い出させ──降谷への報告内容を考えろと、それを願うなら協力しろと、いう意味だ。
 風見は思わず苦笑した。

「──本当に、なんて子だ」

 そして、あのふたりはふたりして、風見に対する要求が大きすぎる。
 止めて欲しい。まだ事の全貌も見えていない風見に、自分たちの行く末とか、そんな重すぎるものを預けるのは。
 今更、差し出がましく言いたいことは言っていく、と言ったことを若干、後悔する。
 しかし、言ったことの責任は、取らなければならないだろう。

 鬼が出るか蛇が出るか。
 何がわかるのか、まだわからないが、自分で対処できるレベルのことであるようにと、いまは祈るしかなかった。