優先順位の問題




『空き巣を捕まえました。ちょっと手首をひねりましたが、大した怪我ではありません』

 そんな連絡が高木から来たのは、週末の、午前中のことだった。
 無論、江戸川コナンのことだ。
 メッセージアプリで届いた文章の主語が省かれているのは、誰かに見られた時のことを考えての、高木なりの配慮なのかもしれないが、これだけ見ると、まるで先輩に自分の手柄を報告しているかのようだと思う。
 風見と高木はそんな気安い間柄ではないし、そもそも、高木は同じ警視庁に所属しているが、部署が重なったこともないので、「後輩」という意識はあまりない。
 見ようによっては親しげにもみえるメッセージに微妙な納まりの悪さを感じつつ、返信文書を打ち込もうとしたところで、続きが届く。

『安室さんが一緒ですよ! 聴取は終わりましたので、もしお時間あるなら、いらっしゃいませんか』

 ──行けるか。

 高木はどうも、安室とコナンの組み合わせを「可愛い」と好ましく思っているようなのだが、珍しい動物が迷い込んできたのを見に来いと誘うような気軽さで、公安の人間を刑事部に呼ぶのはどうなのか。
 素早く返信を打ち込む。

『連絡ありがとう。会議が入っているので、残念ながら顔は出せない。江戸川くんに、よろしく伝えて下さい。捻挫は甘く見ていると悪化するから、数日は大人しくしていた方が良いと思う』
『そうですか、残念です。折角二人揃っているので、と思ったんですが。
了解しました! 捻挫の危険性については、いま安室さんが懇々と言い聞かせているところですから、大丈夫でしょう』

 風見は苦笑する。
 降谷はあれで、心配性だ。コナンが無茶をするのは半分諦めているようではあるが、怪我をするたび律儀に叱ることは、コナンから聞いて知っている。
 部下に対しても同じようなもので、怪我をするたびに嫌そうな顔をされるが、風見に対しては最近は、「お前は頑丈だな」で済ませることが多い気がする。風見的には、本人ももう少し、気をつけて欲しいところだ。

『今度、話を聞かせて下さい』

 高木にそう返したのは半分、社交辞令である。すぐに返信があった。

『もちろんです。風見さん、よろしければ今日お昼ご一緒しませんか?』

 ランチのお誘いである。
 またも微妙な据わりの悪さを感じつつ、風見は頭の中でスケジュール帳をめくった。



「最近、カツカレーがメニューに入ったんですよ」

 二度ほど一緒になった例の定食屋へ向かいながら、高木はそう言った。

「これがまた、うまいって評判なんです」
「何故今更カレーなんだ。随分長くある店なんだよな?」
「そうですね、自分が入った時にはもうありましたし、その頃から警部の行きつけだったはずですからね。……心境の変化とか?」

 時間をずらしたからか、店はさほど混んでいなかった。
 折角だからと、カツカレーを注文する。

「あの後、ここ来られましたか?」
「この前君と一緒になって以来だな」
「じゃあ随分空いてますね」
「──まあ、そうだな」

 一ヶ月以上空いていれば高木的には「随分前」なのかもしれないと、お冷を口にする。

「先日も気になったんだが、君のところは昼は一緒に食べに行ったりしないのか」
「うちですか? 大抵、誰かと一緒ですよ。ただまあ、外に出てることが多いですからね。組んでいる先輩と一緒に取ることが多いんですが……中にいる時は、佐藤さん、女友達とランチに行くことが多いので」
「ああ、なるほど」
「そういう風見さんのところは、どうなんですか。……って、こういうこと聞いて大丈夫でしょうか」
「それくらい問題ない。うちもだいたいそちらと事情は同じだが、単独行動もあるからな」

 高木は深追いせず、なるほど、とうなずいた。
 カツカレーがやってくる。
 トンカツ定食で出てくるカツがそのままドカンと乗っていて、かなりボリュームがある。
 写真を撮ると、高木も同じように写真を撮っていた。

「……一度食べたんじゃないのか?」

 聞くと、高木は苦笑した。

「ハハ。風見さん見てたら、なんとなく。日頃食事の写真なんて撮らないんですけどね。そういえば、報告は続けてるんですか」
「抜き打ちなんだ」

 答えると、高木は笑った。スプーンを手に取って、いただきます、と口にしてから食べ始める。
 評判通り、美味い。昼からこんなものを食べていると、なんだか学生時代に戻ったような気がしてしまうが、学食のカレーより味は数段上だ。

「今日の件、あまり深刻な事件ではなかったんだよな」
「ええ。どうも最近仕事をクビになってお金に困っていたようで、衝動的に……って感じで、計画性もなしの初犯でした。登校中のコナンくんに見つかったのは、不運というか、なんというか」
「例の、安室さん、がいたというのは?」
「出勤途中だったみたいですよ。コナンくんが犯人を追跡していたところに、ばったり、って」

 それは、コナンも不運というかなんというか、だ。

「犯人が振り回した腕を避ける時にこう、バランス崩して、受け身取り損ねたそうで。救急箱持って行ったら、安室さんが手際よく、テーピングしてくれました。探偵って、ああいうのも慣れてるんですねえ」

 身振り手振りの説明になるほど、と曖昧に相づちを打つ。

「でも風見さん、今日来れなくて正解でしたよ」
「? 何かあったのか?」
「ええ。──コナンくん、お迎えを阿笠さんに頼んだんですが、阿笠さんの車、車検に出しているところだったそうで。代わりに沖矢さんが来たんですよ」

 風見は目を細めた。

「……その人も、江戸川くんのお兄さん的な人だったか。確か、阿笠さんのところに下宿しているんだよな?」
「いえ、阿笠さんのお隣の家の、居候です。東都大の院生さんで、穏やかな、いい人……なんですがねぇ」
「その人が、何か」

 高木は頬張ったカレーを飲み込んで、苦笑した。

「どうも、安室さんと沖矢さん、あまり仲が良くないようで……なんというかこう、冷めた応酬をした後で、沖矢さんがコナンくんを連れて行って、安室さんは一人で帰っていきました。風見さん、沖矢さんはご存知……ないですよね」
「ああ。名前は、江戸川くんの周りで何度か聞いたが」
「ですよね。沖矢さんも安室さんも、いつもと雰囲気が違うんでびっくりしちゃいました。間に挟まれたコナンくんがちょっとかわいそうだったな」

 降谷と、不仲。
 なるほど、と風見はため息をついた。

 工藤新一と阿笠博士と灰原哀。この三人を調べ始めて出てきたのが、沖矢昴だった。
 工藤家に住み着いている大学院生。親戚か、と調べてみれば、出てくるのは最近の、学生としての実績だけで、こちらも戸籍が見つからない。
 追って調べようか──と思って一度手を止めたのは、刑事の勘、としか言えない。
 工藤家に関する警察内資料には、どうも、「身内」の─公安の手が入った感触があった。さらにいえば、「ゼロ」の痕跡だ。具体的に何がどう、というものではないが、なんとなく身内にはわかる。降谷のことなら尚更だ。
 降谷は業務の全てを風見に共有しているわけではない。右腕ゆえに、あえて外す案件もあるだろう。共有がなかったのは、降谷が不要と考えたからだろうが──状況は変わっている。まずは降谷に工藤新一と沖矢昴を調べる旨を告げておこうと思っていた、のだが。
 その判断は、正しかったようだ。
 高木と風見がつながっていて、コナンについて報告を受けていることは、降谷も知っている。今日の件をきっかけに、そこまでは報告を入れるべきだろう。
 カレーを食べながら、頭の中のやることリストに書きつける。
 沖矢昴。
 工藤家に住み着いていて、降谷が敵愾心を抱いているらしい、となると普通の人間ではあるまい。
 カレーを食べ終えた高木がスプーンを置いて首を傾げた。

「ほんと、何なんでしょうかね。コナンくんの憧れのお兄さんにはどちらがふさわしいか、争ってるんですかねぇ」
「────そうかもしれないな……」

 そんな、ほのぼのした理由ならどんなにいいだろう。いや、あの少年が絡んだ時の降谷の大人げなさを考えると、もしかしてもしかすれば、あり得るだろうか。

 ──そんなわけ、ないだろう。

 風見は己の現実逃避的な思考に頭の中でつっこみを入れて、ため息をついた。



 高木と別れ、職場に戻って一通り書類を確認した後、コナンに『手首は大丈夫か』と連絡を入れると、すぐに『大丈夫だよ』と返信が来た。
 高木と風見につながりがあることは、コナンも承知済だ。何故知っているのかと問われることもなく、続けてメッセージが届く。

『安室さんが手当てしてくれた』
『それでも、数日は無理しないように』
『もう聞いた! 何度も!』

 これは、相当ねちねち降谷に説教されたらしいと苦笑する。

『利き手だからちょっと不便なんだけど、ノートは探偵団のみんなが手分けして写してくれた』
『利き手なら、学校以外も色々と不便だろう。家の人にもちゃんと言って、助けてもらいなさい』

 迎えの連絡を阿笠に入れたのは、おそらくは毛利が仕事で不在だったからだろうが、もし毛利親子に隠しておこうという意図があるなら、釘をさしておかねばなるまい。
 そう思って送ったメッセージに、少し間をおいて返事が来る。

『うん、給食とか不便だった。お夕飯は風見さんが、あーんしてくれる?』
『降谷さんにやってもらいなさい』

 即座に反射で返信してから、しまった、と舌打ちする。
 このやりとりもまた、降谷に報告するものだ。しかも報告は本日。
 相性が悪いらしい沖矢と会って機嫌が悪い降谷がこれを見たら、きっと嫌味を言うだろう。風見に。
 コナンは報告周期を把握している。これは、わざとだ。また何か入力される前に、続けて送信する。

『江戸川コナンくん』
『はーい。ごめんなさい。蘭姉ちゃんにもちゃんと言って、今日は安静にします』

 メッセージを打ちながら、笑っている少年の顔が見えるようだ。ため息交じりに返信を打つ。

『そうして下さい』

 既読マークがついた後、メッセージは途絶えた。
 再び、ため息をつく。
 一区切りついたので、同僚に声をかけてから、外に出た。
 これまでの調査結果。
 沖矢昴。
 確認した書類。
 本日の降谷への報告内容。
 ──整理しなければならないことが、多い。こういう時には、こもらずに外に出た方が良い。

 足は無意識に、図書館に向かった。
 一度ついた読書の習慣は、なんだかんだ、続いている。橘境子には、ミステリーに向いていない、と言われたし、実際コナンや平次のように、熱心に誰かにすすめようというほどのめり込んでいるわけでもないが、謎があって答えがある物語のフォーマットは、わかりやすくて好ましい。ごちゃごちゃと複雑な案件に関わっていると、最終的にシンプルな答えに帰結するミステリーを読むことは、ストレス解消になった。

 図書館は夕刻で人が多かった。仕事を終えた会社員も、いるようだ。
 いつもより人の多い図書館の、棚の間を移動しながら、何を読もうかと考える。
 服部にすすめられた本は読んでしまった。ホームズは、端から読んでいるところだ。
 今日はホームズという気分ではないんだよな、と思いながら、ミステリーの棚と向き合う。
 そういえば、先日橘は「エラリー・クイーンの中で一番退屈な本」をすすめて、否、押し付けてくれたわけだが、彼女は何が一番好きなのだろうか。
 最後に話をして以来、風見は、橘が立ち寄る日には図書館を訪れないようにしている。橘もまた、報告書によると、最近図書館に来る習慣が途絶えているようだった。
 風見が出入りしている場所に、立ち寄りたくないのだろう。悪いことをした。

 ──謝ったりは、しないでください。この先もずっと、絶対に。

 彼女の言葉を、思い出す。
 何があろうと許すつもりはない、という言葉であると同時に、あれは、精一杯の許しの言葉であったとも思う。
 棚を眺めていると、思考があちこちに流れていく。
 元々、ミステリーには詳しくないのだ。選ぶ基準も何もないから、目が滑るのは仕方がない。
 服部にたずねてみて、ついでに様子をうかがうか、とスマホを取り出す。
 その時ふと、そばで立ち止まった人の気配を感じて、風見は何気なく顔を上げた。
 顔を向けた先に、もう顔を合わせることはないと、ついいま思った、橘の姿を見とめ、固まる。

「……どうも」

 橘もまた、気まずげだった。
 何を言えばいいか咄嗟に思い浮かばない。
 他の利用者が、気まずげに固まった風見たちを不思議そうにちらちらと見ながら通り過ぎて行く。
 その視線に押され、考えがまとまらぬまま、口を開く。

「すまない。あー……おすすめを一冊、教えてもらえないだろうか」

 風見の言葉に、橘は目を丸くした後で、顔をしかめた。

「──まだしょうこりもなくミステリー読んでるんですか」

 悪態をつきながら、橘は風見の隣で棚を見上げた。

「無性に読みたくなることがあるんだ」

 橘は、そうですか、と関心なさげに相づちを打って、さっさと一冊取り出して、風見に手渡す。

「海外のミステリーなら、私は断然カー派」
「色々、派閥があるんだな……?」

 服部は、エラリー・クイーン派だと言っていた。
 手渡された本の裏にあるあらすじを見て、ミステリーなのか?と若干首を傾げつつ、貸出手続きを取る。
 なんとなく並んで図書室を出た。

「……助かった。何を読んだらいいかさっぱりだったから」

 橘はため息をつく。

「たまたま、久しぶりに、日をずらして来た時に、遭遇するなんて。思ってもみませんでした」

 すまない、と言いかけて口を閉じる。

「──まあいいわ。丁度、お話することもありましたし」
「話……? 私にか」

 予想外の言葉にまじまじと見下ろすと、橘は嫌そうにうなずいた。



 とりあえず場所を移動することにして、夕刻でほとんど人のいない喫茶室に入る。
 学習したのか、橘も今日はアイスティーを頼んだ。
 隅の席に座ってすぐ、橘は簡潔に言った。

「しばらく東京を離れることにしました」
「……そうか」

 なんと言えばいいか、咄嗟に判断できず、ただうなずく。

「といっても、とりあえずは旅行のつもりですが。関西に。報告は、行くんでしょうけれど」
「知人でもいるのか」
「ええ、まあ」

 ためらった後でたずねる。

「もう、弁護士を続ける気はないのか」
「別に、弁護士って仕事に未練があるわけではないんです」

 橘はそう言って、目を伏せた。

「──いえ、未練がないって言ったら、嘘になる。でも私は、弁護士として褒められたことをしてきたわけではないから」

 その片棒を担がせたのは、自分だ。風見は口を閉ざす。

「その上、私利私欲で、無関係の他人の人生を滅茶苦茶にしようとした。誰に命じられたわけでもなく、私の意思で。私の判断で。弁護士という立場と、力を利用して。それを自覚しているのにさっさと弁護士に復帰するほど、厚顔無恥ではないつもり。……だからそもそも、あなたたちの提案を受けるべきか迷っていたわけではないんです」

 橘はため息をついた。

「最初の、判断が。間違っていたのかもしれない。弁護士になる、っていう。──ただの、私の意地だったもの」

 橘境子が弁護士になった理由は、少しばかり、特殊だ。風見の協力者になった経緯も。
 風見は、公安に配属された当時、先輩刑事と担当した案件を思い出す。
 橘境子が使用していた事務所の、元の持ち主。彼女の肉親と公安の関わりも、彼女の家庭の事情も、彼女が公安に協力することになった経緯も──過去の話だ。
 ただ考えてみれば、彼女はこれまでの人生を、ずっと公安に振り回されいたと言って、間違いはない。
 振り回し、利用し、彼女の感情を甘く見積もっていたのは、自分たち──否、自分だ。
 とにかく、風見には橘の判断に口を出す権利はない。

「ひとつ、厄介事が片付いたと思えば? まあ、すぐ監視対象から外れるとはこっちも思ってませんし、一々痛くもない腹を探られても鬱陶しいですから、定期確認くらい素直に応じます。自分の浅慮の代償として」
「別に、君の件を厄介だと思っているわけではない」
「そう? 随分と景気の悪い顔をしていらっしゃいましたけど」

 風見は顔をしかめた。
 厄介事を抱えているのは事実だが、はたから見てわかる程なのは、問題だ。

「まあ、私にはもう関係のないことですが。ひとつ最後に独り言を言いますけれど、もう小さな子どもを巻き込まないようにした方がいいわ」

 眉間のしわが深くなる。
 知らないからといって随分勝手なことを言ってくれる。
 風見はいままさに、その子どもによって、厄介事に巻き込まれているのである。

「──折角だから、少し意見を聞きたいことがあるんだが」
「は?」

 若干自棄になってそう言うと、橘はぽかんと口を開いた。風見が何も言わないので、警戒するように眉間にしわを寄せる。

「……それ、相談料は出るんですか」
「休職中なんだろう」
「図々しい」

 忌々しげなつぶやきに、それもそうだとうなずく。
 風見は時計を見上げた。

「では、そうだな……この時間だし、食事でもどうだ」

 橘の顔が、さらにしかめられた。
 冗談じゃない、と怒鳴られる覚悟もしていたが、橘はいまいましげにアイスティーを飲み干すと、言った。

「風見さんからそんな言葉を聞く日が来るなんて、明日は台風でも来るんじゃないのかしら。最悪」

 遠回しの了承と受け取って、風見もアイスティーを飲み干して、立ち上がった。



 たまに他の協力者と話をする個室の店に入り、何でもいいぞ、と言うと、橘は顔をしかめておしぼりを手にした。

「……すごい違和感」

 メニューを手に取る様子がないので、とりあえず適当に注文をすることにする。

「ビールでいいか。食べられないものは?」
「いいです。ないです」

 簡素な返事にうなずき、ビールと焼き鳥を注文する。
 注文したものが来て、個室の扉が閉まった
 乾杯する理由が何一つないので、とりあえず「いただきます」と口にしてビールに口をつける。橘もつられたように小さくうなずいてから、ビールのグラスを手に取った。その後で、嫌そうに口を開く。

「……それで、相談とは」
「戸籍のない人間がいる。外国籍を疑ってみたが渡航履歴はない。一般的に考えられる理由は、何だろうか」

 橘は一拍置いて答える。

「あなた相手に一般的な話をする意味があるのかわかりませんけど……まあまず、そもそも出生届を出していなくて戸籍を作っていない事例。理由としては、出し忘れ、または出せない事情があった。出し忘れ……は、出す意思があれば後から何とかなるケースが多いから……。出せない事情と合わせて考えてしまうと、まずは金銭的理由。産科で出生証明書を発行してもらえなかった。虐待。育児放棄。あとは、レアケース、とも言えないのが、親自身が無戸籍で、子どもの出生届が出せないケース。あとは、いわゆる『離婚後三百日問題』によるもの。ついでに一般的ではない理由を考えるとしたら、実は不法入国。そんな感じでしょうか」
「そうだよな」
「……この程度のことなら、別に弁護士の知識がなくてもわかるでしょう」
「親が誰か、というところから不明の場合は?」
「まあ……そういうこともありますね。何故自分に戸籍がないのか、本人もわからないケース。親が亡くなっていたり、没交渉だったりすると、たどるのにも限界がありますから。──戸籍を取得したい、という話ですか?」
「いや、そうではない。戸籍がない理由を、知りたいんだ。ちなみに、本人に知られずに探りたい」

 橘は、ようやくとれた眉間のしわを早々に復活させて、ビールをあおった。

「公安の仕事には関わりたくないんですけど」
「公安の仕事に関わっていないわけではないが、プライベートでもあるんだ」
「どういう理屈よ」

 橘は大きく息を吐く。そして、何かに気づいたように、顔をしかめた。

「……待って」

 言いかけて、言葉にして良いのか迷ったように、口をつぐむ。そして険しい顔をしたまま黙り込んだ。
 風見も黙っていると、橘は焼き鳥の串を手にした。そして箸を使って、串から肉を外しはじめる。
 ──そういう食べ方をする人間を初めて見た。風見はなんとなく感心して眺める。
 なるほど、手や口元が汚れない、理にかなった食べ方だ。焼き鳥の風情、のようなものは損なわれる気がするが、女性はそれより、汚れるのが気になるのかもしれない。
 あんまり畏まった店に連れて行って警戒されても困るからと、一番気をつかわなくて済むような店にしたのだが、これはこれで気をつかわなさ過ぎただろうか、と少し反省する。
 だから風見はもてないのかもしれない。もてよう、という気力もないけれども。

「人が真剣に考え事をしている時に、ボケっと何を考えていらっしゃるんですか」
「え。ああ……すまない、店の選択を間違えたかもしれないと反省していた」
「は?」

 橘は、串から解放されて皿の上に転がった鶏肉を箸でつまんだ。

「そういえば手を付けていらっしゃいませんけど、焼き鳥お嫌いなんですか?」
「そうではない」

 答えて、まあいいかと説明を諦める。橘は別に焼き鳥が嫌いではないようだから、セーフということにする。

「何を真剣に考えていたのか、聞いても?」
「どこまで口にしていいかわからない」

 橘はあっという間にビールを飲み干して、勝手に呼び出しボタンを押すと、店員にビールの追加を頼んだ。2つ頼まれてしまったので、風見も半分ほど残っていたビールを飲み干す。
 混雑している時間帯だからか、次はなかなか来なかった。
 橘は一串分食べ終わると、次にねぎまの解体を始めた。

「──私、この焼き鳥のネギが好きじゃなくて。中途半端に加熱したネギ類って、食感が良くないと思いません?」
「あまり気にしたことはないな。食感で言うなら、レバーが苦手かもしれない」
「ああ、あれ変な密度ですもんね。私は好きですけど」

 ビールが来て、また個室の扉が閉まる。
 橘はため息をついた。

「私、江戸川くんのことは、よく知りません。毛利さんのところの、居候。それだけ」

 公安の仕事ではあるがそれだけではない、という風見の言葉から、橘は正確に彼を連想したようだ。ためらった様子を見せた後、続ける。

「変な子だとは、思いましたけど。私が接していた期間、彼の両親については、誰も話はしていなかった。でも……特に家庭に問題があるような子とも、思わなかった。勿論、問題が全て目に見えるわけではない。でも、家族に何かしらわだかまりを抱える人間は、同類にはわかるものだわ。あの、父親が誤認逮捕されて、弁護士の母親と、家族一丸で父親を助けようとしていて──そんな場にいて、何も『出ない』なんて無理だもの。あの子は、その手の問題を抱えているような子ではないし、家庭に問題があったとして、それに気づかないほど周りが見えない子どもでもない。──私見ですけど」

 橘は、嫌いだと言ったネギを口に入れて、顔をしかめた。
 なんだか、まずいものを口にして嫌な顔をしているところをよく見ている気がする。

「いえ、ただの勘、だけでもないか。彼、お兄さんがいますよね?」
「お兄さん?」
「ええ。確か、新一兄ちゃん、だったかしら。蘭さんとも知り合いみたいだったけれど。打ち合わせの時に名前が出たから」
「……工藤新一か」

 やはりそこに行きつくか。つぶやくと、橘は目を丸くした。

「それ、高校生探偵の? 最近、名前を聞かないですけど」
「行方不明になっている」

 橘はまたネギを口に入れて、顔をしかめた。

「……最近、というか、あの事件の間に連絡を取り合っていたような印象を受けましたが」
「そうか」
「江戸川くんと、どういう関係?」
「それは、こちらも知りたい」

 工藤新一。そして服部平次。
 集まった情報を、見聞きした情報を、まとめて、考えた。しかし、導き出した仮説は、到底、現実的なものとは言えなかった。
 それもまた、悩みのひとつだ。

「出来る限りの情報を、全て集めた。その人物の抱える事情について、ひとつひとつ、可能性を検討して、否定して──よく言うだろう? 不可能なものを除いていった結果、残ったものが、どれだけ突飛で信じられないものであっても、それこそが真実だと」
「ホームズ」

 風見はうなずく。

「しかし、あまりに突飛で信じられないものしか残らなかったので、どうしても真実だと思えない。それに、情報を全て集めた、と言ったが、実際全ての情報を漏れなく集めることなんて、無理だろう。全て集めたなんて、どうやったって、判断できない。つまり、まだこちらが手にしていない情報があるのかもしれない」

 橘は微妙な表情になった。

「……それを言い出すときりがないんじゃないですか。──まさかあなたの口からその話が出てくるとはね」
「その話?」
「古典的な話なんです。ミステリー、あるいは数学的な意味で」
「そうなのか」

 興味がわいたが、深く話すつもりはないらしかった。橘はビールを飲む。

「虚構の世界であろうと、現実の世界であろうと、『完全』なんて、無理な概念。完全も、完璧も、ありえない。あなた一応刑事なんだから、足でかせいで、その目で見たものを信じたらいいんじゃないですか。もっとも、ないことだってあることにするのが、あなたたちのお得意な作業でしょうけど」
「──大義もなく無闇矢鱈と違法作業をするわけではない」
「大義があれば、するわけでしょう」

 全くその通りなので、風見は沈黙する。橘はため息をついた。

「片棒担いでいた私が言うことではないですけどね」

 ますます、コメントのしようがない。

「高校生探偵……ね」

 橘はぽつりとつぶやいた。そうして、メニューを手に取り勝手にサラダと出汁巻き卵と漬物と、またビールを2杯追加注文する。
 つぶすつもりか、と一瞬思ったが、風見は生憎そう酒に弱い方ではない。橘もどうやらそうらしい、というのは初めて知った。

「二三一……羽場は、あまり飲まない人で」

 急に話が変わった。羽場のことはよく知らないので、そうか、とうなずく。

「かと言って、私が飲むことにとやかく言う人でもなかったけど。風見さんは、女性の飲酒に意見があるタイプ?」
「いや。自分の限度を知っていて適切な量を飲む分には、いいんじゃないか。男と違って、酔っぱらってその辺で倒れるわけにもいかないから、その点不便だと思うが」
「不便」

 橘は繰り返し、ふん、と笑った。

「男の人だって、酔っぱらってその辺で倒れるわけにもいかないでしょ。特に、あなたたちみたいな人たちは」
「そうだな。無論、そこは弁えている」
「……飲めなかったら、注文、止めて下さいね。人とお酒を飲むの久しぶりだから、ちょっと、付き合え、って気持ちになってるのかも」
「わかった」

 うなずいてから、風見は首を傾げる。

「酔っているか? 顔色は変わらないが」
「体質なんです、そういう。でも、まだ酔うほどではないです」

 そう言いながら、橘は今度はレバーを串から外し始める。
 注文したビールが来る前に、前のビールを飲み干す。

「高校生探偵が、何か?」

 先ほどのつぶやきについてたずねると、橘はレバーを口に入れた。しばらくして、嚥下するように喉が動く。

「──私は、自分に公安の監視がついている理由を理解していますし、仕方のないことだと思いますけど……そうね。改めて、私自身が持っている情報ってやつがあるんだなと、思って」

 それはそう、だろうが──今更なんだ、と顔をしかめる。

「言うまでもないことですけど、私、あなたたちが嫌いです。だから、あなたたちの味方なんて死んでもしたくない」
「……そうだろうな」

 それも、今更だ。

「ただ……わけもわからず利用されるのも、気分が良くない。そもそも利用されようとしてるのか、それすらよくわからないけれど。どっちが、『正義』の味方なのか。どっちも違うのか……私には判断がつかない」
「……橘。話が見えない」
「でしょうね、そういう風に話してますから」

 しれっと言ったところに、追加注文分が届く。橘はにこやかな表情を作って、店員から料理を受け取る。
 風見はそれを見ながら、考える。
 今日の彼女の言動。──何を言っていたか。何をすると言ったか。
 店員が出て行く。
 その瞬間に、理解した。
 工藤新一ではない高校生探偵。関西。

「──服部平次か」

 橘は、卵焼きに箸を入れながら、聞いてくる。

「どういうお知り合いなんですか、風見さんと彼」
「逆に、君と彼はどういう知り合いなんだ」

 接点などないだろう。否、あると言えばあるか。
 江戸川コナン。あの少年。
 風見と服部が、あの少年でつながったように、橘と服部の接点もそこしかない。しかし、橘が服部とつながる理由がわからない。
 アルコールの入った頭は、微妙にだが、接続が悪くなる。
 服部は服部なりに、風見がコナンと関わった、IoTテロの件を調べていて、それで橘境子に行きついた──ということか。毛利家と交流があるのだ。そこは不可能な話ではない。

「知り合ったのは、たまたまです。彼と知り合ったというより、先に、ガールフレンドと知り合ったの」
「……遠山和葉か」

 しかし、遠山和葉と橘の接点だって、ないだろう。

「風見さん、あの子たちと対立してるんですか」

 橘は、こちらの問いに答える気はないらしい。とりあえず、問われていることに回答する。そこがクリアになれば、引き出せる話もあるはずだ。

「対立はしていない、つもりだ。最終的な目的──はどうだか知らないが、優先すべきものは、合致していると、考えている。ただ、話が出来ることと出来ないことがお互いにあり、互いにそれを探っているということだ」
「よくわからないけれど、ますます、立場を決めかねるわね」

 橘はサラダを自分の小鉢に取り分けて、首を傾げた。風見もサラダを取る。

「大阪には、何をしに行くんだ」
「言ったでしょ、観光ですよ。アタシ案内します、って言われたから、気分転換にいいかなと思って。──と、私はそういうつもりだったわけですけど、和葉さんのボーイフレンドの方の意図は、わかりませんね」

 服部が知りたくて、橘が情報を持っているもの。──公安の……降谷についてだ。
 降谷の正確な役職を、橘は知らないが、あの場のやりとりを見れば、公安の人間で、しかも風見の上役だということは一目瞭然だ。
 それに、彼女は先日羽場と話をしている。そこで降谷について羽場から何を聞いたか、わからない。羽場も降谷の詳細は知らないだろう、とは思うが、確かではないのだ。
 そして、服部が江戸川少年側の事情をどの程度承知しているかは知らないが、そちらの情報と合わせて考えれば、降谷の本来の立場に行きつく可能性は、ゼロではない。
 そこまで行きつかずとも、降谷が公安の人間だとばれることが、そもそも、まずい。
 風見は顔をしかめた。
 それは、コナンの望まぬことだろう。少なくとも、先日まではそうだったはずだ。そしてまた、降谷と風見にとっても、好ましい事態とは言えない。
 降谷の身の安全、そして服部自身のことを考えても、知られない方が良い。
 ただ、と風見は、既に半分になったビールを片手に、メニュー表を見ている橘を見つめる。
 降谷のことを漏らさないでいてくれ、という公安の要望を、彼女が聞く義理はない。こちらがそう望めば、逆に動く可能性だって高い。
 それが、服部自身のためになるのだ──というのが事実だとして、それが彼女の判断基準になるのか、また疑問だ。彼女は遠山和葉には、少なからず好意を持っているようだが、服部に対しては、判断を保留しているようだ。
 ふと、橘が視線を上げて、風見を見る。
 正面から視線があって、たじろぐ。橘はメニュー表を閉じて、卵焼きの乗った皿を風見の方に押し出した。

「さっきから、食事が進んでませんけど、ちょっとは食べたら? 私が話している間に」

 そう言って、橘はあっさりと数日前のことを、話し始めた。



 たまたま、っていうのは、本当なんです。偶然入ったコーヒーショップで、本当にたまたま、隣の席に座ろうとしたのが、和葉さんだった。
 ──え? ああ、一週間前です。東京に遊びに来たんだって、言ってました。いつも毛利さんのところに泊まってるんですってね。それは、後で知ったんですけど。
 丁度、五時くらいで、一番お店が混雑してる時だった。私が座っていた席の隣が空いていて、そこに、カウンターでコーヒーを買った和葉さんが来た。その時、席を立った人と軽くぶつかって、コーヒーがこぼれちゃったの。──私の席の上に。



「ごめんなさい!」

 この世の終わりのような声で、少女が叫んだ。

「どないしょ、すみません、弁償します。クリーニング代も」

 ぶつかった方の男性は、気づかなかったのか、面倒事を避けたのか、店から出て行ってしまっている。うろたえる少女に気づいた店員がおしぼりをいくつか持ってきてくれて、境子は礼を言って机の上を拭いた。
 幸い、そこまで派手にこぼれてはいない。服も、パンツに少しこぼれたが、元々黒い生地だったので、さほど気にはならない。
 高校生、だろうか。ひとまわりほど年が下に見える女の子を、笑顔を浮かべてなだめる。

「大丈夫。元々色が黒いから、乾けば全然目立たないわ」
「でも」
「本当に、気にしないで。あなただけのせいでもないし、洗えば落ちるから」
「ほんまに、すみません」

 しゅんとした女の子に、苦笑する。
 気にするな、と言っても無理なようだ。それならば、と提案する。

「……乾くのを待つ間に、コーヒーもう一杯飲めそうね。ごちそうしてもらえるかしら。それでチャラってことで、どう?」
「すぐ! 買うてきます!」

 女の子はあっという間にレジに走っていった。──と思いきや、追加のおしぼりを持ってすぐに戻ってくる。

「これ、服拭く用に。あとアタシ、アイスかホットかも聞かんで……アイスでええですか」
「ありがとう。ええ、じゃあ、アイスで」
「はい」

 にっこりと笑った顔が、可愛い。頭で揺れるポニーテールを見送り、境子はおしぼりで汚れた太ももの部分を叩く。
 おしぼりに移る茶色がほんの少しずつ濃くなるのを見ながら、無心にトントンと叩いていると、お待たせしました、と女の子が戻ってきた。

「これ、お詫びです。甘いん、平気ですか」

 トレーには、二つずつ、コーヒーとドーナッツが置かれている。苦笑しながら、うなずく。

「コーヒーだけで良かったのに。でも、ありがとう。甘いものは好きよ」
「良かった。アタシも、大好きなんです」

 席を外しているうちに、隣の席には他の客が座ってしまっていたので、向かいの席を手で示せば、頭を下げて座る。

「なんや、すみません」
「こちらこそ、ごめんなさい。席、見てれば良かったわね」

 コソコソ話をして、笑みをかわす。

「でも、用があるなら、こっちは気にしないでね」
「ハイ。待ち合わせしてるんですけど、まだ来ないので。いつものことやけど」
「お友達?」
「友だちゆうか、幼なじみです」
「幼なじみ? 本当にいるのね。自分には縁がないから、マンガの世界みたい」

 大げさに目を丸くしてそう言うと、少女は首を傾げた。

「お姉さん、ちっさい頃に引っ越しとかしたんですか」
「それもあるけど……小学校、中学校、高校って進むごとに付き合う子も変わってしまって。ずっと同じ学校でも、気が合わないと疎遠だし」
「そういうもんなんや。アタシの周り、幼なじみ同士で仲ええ子多いから、意外です」
「楽しそうね。──生まれは、関西なのよね? こっちに来たのは、結構前?」
「あ。こっちには、遊びに来てて。いまも関西です」
「ああ、そうなの。連休……ってわけではないわよね」

 休職中だと、どうも曜日感覚が曖昧になる。それもあって曜日を決めて図書館通いをしていたのだが、最近足が遠のいていた。

「こっちに知り合いがおるんで、しょっちゅう、来てるんです。今回はなんや、調べものがあるゆうて……無理しとらんといいけど」

 少女は眉を下げた。

「──って、ごめんなさい。愚痴ゆうて」
「ううん」

 事情はよくわからないが、謝られるようなことでもない。
 その時、店の入り口をチラチラと気にしていた少女がぴょこんと立ち上がった。

「平次!」

 こっち、と手を振る少女に応えて、野球帽をかぶった高校生くらいの男の子が片手をあげる。
 なるほど、幼なじみのカップル。しかも美男美女。
 ますます少女マンガの世界だなと感心していると、こちらを見て、平次と呼ばれた男の子が訝し気に首を傾げた。足早にやってきて、少女を小突く。

「なにしたんや、和葉」

 彼女は、かずはちゃん、というらしい。和葉は口をとがらせた。

「なんでアタシが何かしたって決めつけるん」
「あほう。そうでもない限り、人見知りのお前が知らんお姉さんと仲良う一緒に茶ぁ飲むなんてことせんやろ」

 和葉はむうっとふくれたが、隣に座った幼なじみに再度小突かれて、ごにょごにょと事情を説明した。

「お前はほんま鈍臭いな。──どうも、すんません」

 頭を下げられ、苦笑する。

「いいのよ、お詫びはしてもらっているから」
「いやいや、お詫びちゅうても、コーヒーとドーナツじゃ割に合わんわ」
「うっさい、偉そうに」

 和葉が噛みつく。仲が良いことだ。
 コーヒーもドーナツも、まだ半分以上残っている。さりげなく、しかしせっせと残りを消費しているうちに、二人は賑やかに話を始めた。

「そんで、探してる人見つかったん」
「駄目や。ぜーんぜんなーんも、見つからんかった。事務所は随分前に閉まっとったし、電話はつながらんし。協会の人とビル清掃のおばちゃんにも聞いたけど、みんなよう知らんて。詰んだわ」
「顔見知りの人とか、お友達とかもおらんかったん」
「さっぱりや。友だちおらんかったんちゃうか」
「だからアタシも手伝うてゆったやん」
「お前こっちで姉ちゃんと会う約束あったろうが。だいたいお前ひとりいたところで何が変わるっちゅうねん」
「……人を探してるの?」

 思わず、声をかける。和葉がうなずいた。

「そうなんです。平次、こう見えて探偵なんです」
「そうなの? まだ学生さんだと思ってた」
「あ、高校生です。高校生探偵ちゅうて、気取ってるんです」
「誰が気取っとるんや」
「高校生探偵……って、ええと、工藤新一みたいな?」

 境子が知る高校生探偵の名前をあげると、平次は顔をしかめ、和葉はふきだした。

「ほらみい。世間様では工藤くんのが有名なんや」
「あほ、ここは東京やろうが。東の探偵のお膝元や。そっちの名前が通っとるのは当ったり前やろ」
「ええと、あの、ごめんなさい。何か……」
「ええんです、ええんです。平次は工藤くんの、自称ライバルで親友やから。平次も大阪では、西の高校生探偵って、いちおう、有名なんです」
「……西の高校生探偵」
「服部平次や」
「あ、アタシは遠山和葉ていいます」
「なんやお前、まだ自己紹介もしとらんかったんか」

 またもめはじめた二人に、境子は慌てて言った。

「ごめんなさい、私も自己紹介がまだだったわ。──橘境子と言います」

 それを聞いて、平次がピタリ、と固まった。

「橘、境子、さん」
「え? ええ」
「境子さん、て言うんや。お仕事、OLさんですか。アタシ勝手に、ちょっと先生っぽいなーって気ぃしてたんやけど」
「あ……ええ。先生と呼ばれることもあるかな。弁護士なの。休職中なんだけど」
「え、すご! かっこええなあ! 蘭ちゃんのお母さんと同じや」

 和葉の出した名前に、目を丸くする。

「え。蘭……て、もしかして毛利蘭さん? お母さまって、妃先生……?」
「え。境子さん、蘭ちゃんと知り合いなんですか?」

 和葉と顔を見合わせて、そして、うろたえる。毛利家に対しては、後ろめたいことがあり過ぎる。
 その時、平次が唐突に言った。

「橘さん、ここじゃなんやし、良かったらオレらと夕飯でもいかがですか。ツレの失礼の詫びに、ごちそうしますんで」
「へ」
「はあ? 平次、いきなり何ゆうとるん」
「ええから黙っとけ。特別にお前の分もおごったるわ。鈍臭いけどここぞという時に活躍するオレの大事な幼なじみやからな。日頃の感謝や」
「は、はーあ? いきなり何なん。ま、まあ、おごりなら、別にええけど!」



 風見は出汁巻き卵を飲み込んだ。

「それで、高校生におごってもらったわけか」
「ちゃんと支払いました!」

 ガン、と空のグラスがテーブルに叩きつけられる。

「……次、何する」
「焼酎、二つ」

 付き合うのか、とため息をついて、風見は呼び出した店員に水割りを追加注文した。横から橘が、ロック、と訂正する。

「酔っぱらわないでくれよ」
「あなたの前で酔っぱらうほど腑抜けてません」
「つまりまだ飲めるんだな……」
「ビール三杯で酔うのは難しいでしょ」

 橘は漬物の盛り合わせに手を出した。つまみにこれを食べる人間は飲む人間だ。
 風見はため息を飲み込む。

「それで、食事に行ったと」
「ええ、大阪に帰らないといけなくって、新幹線の時間があるからって、東京駅でちょっとだけですけど」
「その時に、遊びに行く話になったと」
「例の件は二人とも知っていたみたいで。弁護を担当しようとしていたけれど結局役に立てなかったって、それだけ……だけど、なんだか親近感持たれたみたいで。暇してるならいっぺん是非って」
「服部平次はその時何か」
「特には。──でも、彼の探していた、友だちもいない探し人っていうのが、私のことかもっていうのは、その時の話でなんとなく……勘ですけど」
「心当たりは」
「それを、あなたが私に聞く?」
「……というかつまり君は今日、私にその件の探りを入れたかったんじゃないか」

 思い当って指摘すると、橘は嫌そうな顔をした。
 図星らしい。どうりで、風見を見つけても黙って立ち去ることなく、声をかけてきたわけだ。
 東京を離れる件の報告、というのを一応そのまま受け取っていたが、彼女がそこまで義理堅く振る舞う理由はないのだから、何か他に理由があって当然だ。
 同時に、風見の懸念もひとつ解消した。
 橘の監視担当から、橘の行方を捜している若い男がいる、という報告があったのだ。公安と関係ない昔の依頼者か、それとも何か別の目的を持った人間か……と考えていたのだが、服部とは。
 すっきりして、ため息をつく。

「割り勘でいいか」
「ケチくさ……私いま、無職なんですが。公安って薄給なの?」
「所詮はしがない公務員だし、君はもう協力者ではないから領収書も切れない」
「公安の経費計上時に領収書とか必要なんですか?」

 風見は沈黙で答えた。
 焼酎がやってくる。
 さて、と風見は焼酎で口をしめらせながら考える。
 ずっと大人しくしているだろうと楽観視していたわけではないが、実際に動き出していることを確認すると、ため息が出る。
 橘境子に何をどう言うべきか。降谷が公安関係者であることは、隠しておきたい。そのためには、何をどう言うのが、一番いいだろうか。
 実際問題、情報漏洩のおそれがある橘を─マイルドに表現すれば─軟禁することが不可能かといえばそうではない。ただ、それは得策ではない。
 橘と公安の微妙な関係。江戸川コナン。服部平次。遠山和葉。
 ベストは、服部に「橘は降谷について何も知らない」と思わせることだが、さて、何をどう言えばうまく働くだろう。

「風見さんのやりにくいところは」

 橘が唐突に言った。

「そうやって、相手を気にせず黙り込むところです。何を考えているのか、何かミスをしたか……落ち着かなくなる。意図してやっているところ、ありますよね」
「早いレスポンスを求められる相手と、そうではない相手がいて、君は後者だというだけの話だ」
「棋士の話を、聞いたことがあるんですけれど」

 橘の話は、癖なのか意図的なのかわからないが、よく飛ぶ。

「将棋の、棋士ね。棋士が次の一手を考える時間は、自分の持ち時間の間だけじゃなくて、相手が考えている時間もそうだって。ただ待っているだけではなくて、相手が考えている間にも、相手の次の手と、それに対する自分の手を考えている。風見さんの場合、沈黙を作って強引に、相手に次の一言を考えさせて、その間に、相手が何を言って自分がどう返すかも考えているんだわ」
「そこまで意識したことはなかった」
「私もいままでそんな風には思ってませんでしたけど。……風見さん、いまの仕事向いているわ」
「この間と逆のことを言うな」
「あなたのこと、全然知らなかったので」
「いまは知っていると?」
「一週間前よりは、一時間半分」

 時計を見ると、ここに来て一時間半が経っていた。

「枝豆頼んでいいですか」
「何故ここに来て許可を取るんだ? 割り勘というのは冗談だ」
「わかってますし、払う気もありません。なんとなくです」

 橘は、枝豆を注文する。

「そもそも最初に焼き鳥の盛り合わせしか注文しないのが謎なんですけれど」
「盛り合わせはここのおすすめなんだ」
「──なるほど」

 橘は呆れたようにうなずいた。

「いきなり食事に誘ってきたのは、西の探偵さんのことを知っていたから?」
「彼を特定していたわけではないが、君を探している人間がいたことは耳にしていた」
「最悪のパターンでなくて良かったですね。いえ、これも考えようによっては、最悪のひとつかしら?」
「君の出方による」
「公安の大義名分のもとに、あなたが私をどうしようと、私にはどうしようもないですけれど。──西の探偵さんのことを知る前に、あなたが江戸川くんの話をしたのは何故?」
「君が彼のことで釘をさしてきたからだ。彼こそが厄介事だということを、知っておいてもらえればと思ってな」
「首を突っ込んできたなら巻き込んでもいいか、って? 残念ながら、あの小さな探偵さんにそこまでの思い入れはないです」
「そうか」

 焼酎になって少しペースが落ちる。
 橘が手をつけなくなった焼き鳥を黙々と食べていると、橘はため息をついた。

「──思い入れは、ないですが。恩義はあります」
「気に食わない公安刑事に、わざわざ話しかける程度には」
「その通り」
「そこにつけ込ませてもらうが、あの子は、服部くんたちを公安に関わらせたくないと思っている。服部くんが危険な目に遭って、遠山さんが泣くことになるのは嫌だ、と」

 橘は浅漬けをつまんで、なるほど、と言った。

「ごくごく、当たり前のことね」

 そう言って、もう一度、なるほど、とつぶやく。

「──なんとなく、わかりました。あなたが私に、どのあたりに警戒して欲しいと思っているのかは」

 風見は橘を見つめる。

「少し疑問に思ったんだが」
「ええ」
「何故、知り合ったばかりの高校生の誘いに乗って、遊びに行こうと思ったんだ」

 想定外の質問だったのか、橘は目を丸くした。
 しかし、そこが引っかかっているのだ。風見の知る橘境子は、あまりそういうことをするタイプではない。
 彼らとは、年も離れているし、顔を合わせるのが気まずい、毛利家の知り合いでもあるのだ。知り合ったからと言って、気軽に付き合いを続けたい相手ではないだろう。
 橘は、嫌そうな顔をした。

「──言いたくないなら、別に構わないが」
「言いたくないですね。言いたくないです」

 二度、そう言ってから、橘は焼酎を一気に飲み干した。

「……同じのでいいか」
「ええ」

 枝豆を持ってきた店員に、同じものを注文する。

「──私、酔っぱらっているんで、言うんですけれど」
「……ああ」

 全く素面に見える、どころか、さめ切った顔で、橘は頬杖をついた。

「友だちがいないじゃないですか、私」
「……そうなのか」
「そうです」

 まあ、橘境子に親しく付き合っている友人知人の類がいるようには見えなかったのは事実ではあるが、それがいま何の関係があるのだろう。

「関西弁の探偵さんが言う通り、私、ろくに友だちも、それどころか、毎日仕事をしていた事務所そばでの顔見知りもいないんですよ。先日、気づいたんですが」
「先日」
「今更か?って言いたいんでしょう。でも、それが……何があっても相談する相手なんていないのが当たり前だったんだもの。羽場と付き合っていた時は、まあ、ちょっと違ったけど。──一人で何でも出来るのが、ちゃんとした人間なんだって。ずっとそう思ってきたので」

 なんと相づちを打つのが正しいのかわからなかったので、沈黙する。橘は続けた。

「別に、それを全部否定しようってわけじゃないです。風見さんにはわからないでしょうけど、女が社会で生きてくには、大なり小なりそういう意識はいるんです。特に、私みたいな仕事をしていると。……育った環境も、ちょっとはあるかもしれないですけど、それだけじゃない」

 小さく、付け足すようにつぶやいて、ひとつ息を吐く。

「ただ、私には違う視点が必要だったって、あの後思った。理由はあった。でも、身勝手だった。考えが、凝り固まっていた。──日下部さんだって」

 追加注文した焼酎がやってきて、橘はそれで口を湿らせ、浅漬けを口に入れた。
 それを咀嚼し、飲み込み、言う。

「──つまり結局、友だちはいた方がいいなって」
「うん? ああ」
「服部くんが言ってた探し人ってもしかして私のことか?って気づいた時に、納得したんですよね。ああ私、確かに友だちいないよなって」
「……彼はそこまで深い意図があって言ったわけではないと思う」
「それはそうでしょうけど、天啓? そういう感じですよ」
「だから、声をかけてくれた子の誘いに乗ってみようと?」
「そうです。わかってるじゃないですか」

 橘は肩をすくめた。

「今更交友範囲広げようって言ったって、取っかかりをどこにしたらいいかさっぱりだし。渡りに舟、というやつです」

 風見は顔をしかめた。
 しかし、橘同様仕事関係以外の知人などほとんどいない風見に、人のことは言えない。

「こちらからも、質問をしたいんですが」
「なんだ」
「さっき、服部くんと優先するものは合致しているはずだって、言っていましたけれど。それは、あちらもその認識なんですか」
「──おそらくは」

 話をした時のことを、思い出す。
 風見と服部は、お互いに、気にかける人間がいることを知っている。
 最低限の信用を得るためではあったが、少しばかり話し過ぎたあの時の行動が、正しかったかどうか、いまでも少し、悩んではいるけれども。

「服部くんは、江戸川くんが公安とつながっていることを不安に思って、詳細を探ろうとしているけれど、今以上のことを知られるのは、江戸川くんを含むあなたたちの本意ではない。──この認識で合っていますか」
「そうだな」
「お互いに探っていることがある、と言っていましたけど──あなたがたは、江戸川くんの身元を調査していて……もしかしたら、服部くんが何かを知っているかもしれないと、思っている?」

 やはり、理解が早い。酒の影響などまるでないようだ。
 無言の風見に、橘は小さくうなずいた。

「──なるほど」

 そう言って焼酎を飲んで、状況はわかりました、と言う。
 そして、枝豆を口に入れ、飲み込む。

「あなた方の思い通りになるつもりはひとつもないですけど、江戸川くんの意思は尊重します。公安に関わっていいことがないのは事実ですし」
「そうか」

 内心ホッとする。こちらの意に沿うようなことを言っておいて実際は──という可能性もないではないが、今回については、大丈夫だと思っていいだろう。
 とはいえ、服部と橘に接点が出来ることには、若干の不安がないでもない。コナンには一言、言っておくべきかもしれない。
 あるいは、服部本人に、だろうか。
 しかし、彼は橘と公安のつながりを、知らないはずだ。コナン経由で話があった可能性はゼロではないが、あの件は降谷の存在抜きに説明するのが難しく、であれば、公式発表にそった説明だけをしている可能性が高い。
 そうなると、橘はあくまでも、「何か知っているかもしれないあの事件の関係者」に過ぎない。橘に接近したことで風見が動くのは、藪蛇だ。
 敵ではないが、面倒な相手だと改めて思う。
 本当に、目的が合わないわけではないのに、何故こうなるのか──お互い、後ろ暗いところがあるからだが。
 しかし、橘とは。調べればあの事件の元になったNUZU不正アクセス事件から羽場に、そして橘に気づくことはあるだろうが、存外捜査方法が地道で堅実だ。
 彼は、刑事に向いているかもしれない。

「もうひとつ、質問してもいいですか」
「なんだ」
「江戸川くんと風見さん、友人だって言っていましたけれど。それと彼の素性を探ることは、矛盾しないの」
「──しない、と考える。彼も知っていることだし、事情があって探っているが、彼や服部くんを傷つける意図があるわけではない」
「知ってるんですか、あの子」
「彼にも自分が胡散臭い自覚はあるようだからな」

 橘はふっとふきだした。
 ひどく久しぶりに見る、思わずこぼれたような自然な笑みは、すぐに咳払いとともにかき消えた。

「あの子にとっても、風見さんは友人?」
「約束を破ったら絶交、というのは、現在交友関係があるから成り立つ言葉だと思う」
「絶交」

 橘は繰り返した。そしてしばらく風見をながめる。
 目を伏せて、焼酎を飲んで、橘はひとつ息を吐いた。

「後期……いえ、最初の話に戻りますけれど」
「戸籍の話か?」
「いえ、情報を集めて、仮説を立てたけれど、というあれです」
「ああ」
「風見さんの言う通り、情報が完全に出そろうことなんて、あり得ないです。何かが欠けていて、何かを見逃している。それでも、風見さんは仮説を立てた」
「突飛で信憑性に欠けた、な」
「でも、理由があるんでしょう? その、到底信じられないような仮説を立てた、理由が。何か」

 橘が視線を上げ、風見を見る。

「公安の刑事様相手に講釈を垂れる立場ではないですけど……それが、風見さんだけが持っている、風見さんがあの子とのやりとりの中で得た情報なのだとしたら──それを否定する、他の、欠けた情報を探そうとするのは建設的なやり方ではないと、私は思います」

 風見が答えずにいると、橘は息を吐いた。

「さっきのあれは、相談じゃないですよね。誰かに話して考えを整理したかったわけでもない。そして勿論、私への嫌がらせでもない。──何でもいいから、否定する何かが欲しかった。まるで、そんな風に見えます。……私見ですが」

 痛いところを突かれた。

 風見が得た情報。風見だけが持っている、風見がコナンと重ねたやりとりの中で知ったこと。そこから導き出された、仮説。
 ──江戸川コナンは、工藤新一なのではないか。
 風見が立てたのはそういう、あまりにも非現実的な仮説だ。

 彼らを結びつける情報は、多々あった。
 しかし、単純にイコールなのではないかと、そう思ったのは、服部の態度と、そして、コナン本人の発言が大きい。
 以前もちらりと考えた通り、服部の「工藤」呼びも、親友を名乗る態度も、コナンが工藤新一だとすれば、納得がいく。先ほど橘の話の中で、服部が工藤のことを「ライバルで親友」と言っていたが、それもまた、仮説を補強するものだ。
 そして、コナン本人の発言。

 ──体目当てっていうのはたしかにあれだけど、あの人にとって、ボクが小学一年生だっていうのは、結構強い要素なんじゃないかと思うんだよね。

 あの時は、上司にあらぬ疑いがかかっているのではと焦っただけだったが、考えてみれば、おかしな発言だった。
 小学一年生の体であることが、降谷がコナンを評価する際の重要なポイントなのではないか、というコナンの考えそれ自体は、一度置くとして、彼の発言は、まるで、本来の彼は小学一年生の体ではないかのようにも取れる。
 あの子は、到底小学生とは思えない能力を持っている。
 ──それは、彼が事実、小学生ではないからなのではないか?
 工藤新一は、高校生だ。高校生だとしても、常人以上という評価に変わりはないが、小学生が、というよりはまだ、納得がいく。
 一度そう思ってしまうと、それ以外にないような気がして──風見はうろたえた。
 非現実的だ。
 高校生だと思っていた子が、実は四十手前の成人だった、という話ではないのだ。単純に若く見えるという話ではない。
 江戸川コナンは明らかに、小さな子どもの体をしている。
 ファンタジーではないのだからと却下した、クローンか何かでなければ、成り立たない話だ。
 そう、そんなことは、普通ありえない。風見はまだ、そんな非現実的なことが起こり得る理由を見つけていない。それが見つからない限り、これはただの風見の妄想だ。
 ──そう、考えていた。


「それは、そんなに信じたくない仮説なんですか」
「……信じたくない、というわけではない、と、思う」

 橘は、風見を見つめた後で、焼酎のグラスを空けた。
 そして、唐突に言う。

「──関西、一週間ほどいる予定なんですが。戻ってきたらまた、食事に行きませんか」
「……は?」

 ギョッとして橘を見つめる。
 一瞬、何を言われたかがわからなかった。

「また、お食事にでも行きませんかと、言いました」

 橘は殊更にゆっくりと、繰り返す。

「服部くんから、何を聞かれて、何を聞いたか。お話しますよ。どうせ、公安的には気になるところでしょう?」
「……なにが目的だ」
「あら、目的なんて。自分の浅慮のつけは払うって、痛くない腹探られるのは面倒だって、さっきそう申し上げたでしょう」
「それはそうだが」

 橘は、口元だけでにこりと笑った。

「服部くんと話したこと全部──江戸川くんについて、工藤新一について、どんな話をしたか。彼が、何をどんな風に言ったか。細大漏らさず、ご報告差し上げます。
その中に、あなたが目をそらしている真実に、向き合わざるを得ない何かが、あるかもしれないでしょう?」



 橘の申し出は、多分に風見への私怨を含んでいたが、しかし、結果的に風見に協力するという申し出とも言えた。
 無論、橘の側にそんなつもりはなく、嫌がらせなのだろうが──結果として、服部のところへスパイを送り込むも同然の状況と言える。
 拒否することも出来ず、連絡先を交換して、全く酔った様子のない橘と店の外で別れ、風見は警視庁への道を歩き始めた。
 暗い道を歩きながら、改めて、考える。

 ──信じたくないわけではない、というのは、我ながら歯切れの悪い回答だった。
 そんなことがあってたまるか、という気持ちは、信じたくない、と言い換えられるのかもしれないが、あの少年の中身が高校生であることが受け入れられないのかと言われれば、それは違う。
 その方が色々説明がつくのは事実だ。それにもし、そうなった原因があの組織にあるというならば、あの少年があの年で、組織に関係があることも、納得がいく。
 そう、どうやって、という点に目をつぶれば、江戸川コナン=工藤新一説は、コナンの周りのあらゆる「不自然」を説明出来るのだ。
 それでも、「そうでない」可能性を探しているのは、自分の中の常識の、足掻きだ。
 第一、この仮説はあまりにも色々なことが説明出来てしまって─非常識ではあるが─都合が良すぎる気もする。
 仮説の根拠が、コナンの発言なのもまた、懸念点のひとつだ。
 彼は、風見がそういう疑いを持つように、誘導したのではないか。
 ──でも、だとすればそれは何のためか。
 真実を知って欲しいからか。それとも……真実から遠ざけたいのか。あばいてもいい、という彼の言葉を、そのまま受け取ってもいいのか。
 そう思うのは、この仮説が事実だったとして、風見に出来ることが何なのか、さっぱり、思い浮かばないからだった。
 風見はただの公安の刑事で、科学者でもなんでもない。保護を求めているならともかく、彼にそのつもりがあるとは思えない。降谷に関することも……何をどうすればいいというのか。本当にこれが、彼が先のことに不安をおぼえる理由なのか。
 そう、そして降谷だ。
 降谷は何をどこまで知っているだろう。
 服部の言葉やコナンの言葉を聞いていない降谷が、風見と同じ仮説にたどり着く可能性は、あるだろうか。
 もし組織が関与しているならば、組織側の情報からたどり着く可能性はある。しかし、コナンのいまの状況が明確に組織によるものだとしたら、風見に「秘密を探れ」と指示する必要はない。
 つまり、組織のごく一部の人間しか知らないことで、降谷はそれを探っていて、コナンの事情には薄々察しをつけているがしかし──というところか。
 風見は顔をしかめた。
 頭が痛い。
 服部を探れという指示を受けた時に考えたことを、思い出す。降谷の指示の意味は何か、風見に何を求めているのか──そのことを。
 仮説が正しく、また降谷も薄々察しをつけているのが事実だとすると、「事情を把握した上で、公安の立場で、組織から江戸川コナンを守れ」ということだろうか。──降谷本人が、出来ない代わりに。
 それはあり得る気がする。
 もしそうならば、降谷に工藤新一について報告を入れるのは、間違い、ということになる。
 正解は、表向き「なにもわかりませんでした」ということにして、少年を守ることだ。
 しかし。
 少年を風見に託して、そして、自分はどうするつもりなのか。

 ──あなた自身は、どうするんですか。降谷さん。

 他人の怪我ばかり心配して、自分のことはろくに顧みない。降谷はいつもそうだ。
 江戸川コナンは風見の同士で、友人だ。彼を守ることに、否はない。彼を守ることが、降谷の懸念を払拭することにつながるなら、それだってサポートには違いない。
 わかっているが、しかし風見は、降谷の、右腕なのだ。
 何が一番降谷のためになるか。それをずっと、考えてきたけれど、降谷本人のために風見が何かすることを、降谷は望んでいないだろうか。

 風見は多分、早い段階で、この仮説と降谷の目的に察しをつけていた。
 それなのに突飛だなんだと目をそらして、否定する材料を探そうとして、そんなことが起きる証拠が見つかるまでは妄想だと、そう思おうとしていたのは、この仮説が馬鹿な妄想であってくれれば、降谷が風見を少年の側に向けて一歩突き放したことを、ただの悲観的な想像だと笑えるからだ。

 警視庁まで戻ってきたところで、見ていたかのようなタイミングで、スマホが震えた。
 着信。──降谷だ。

「はい」
『まだ庁舎にいるか?』
「ええ、ちょうど戻ってきたところです。すみません、定時報告資料は、これから作成予定です」

 無人のフロアでパソコンを立ち上げながらそう言うと、意外そうな声が届く。

『出ていたのか』
「はい。ちょっと、飲み会で」
『珍しいな。……これからだって言うなら、急ぎじゃないものは後日でいい。ほのぼのメールとかな』
「最重要書類じゃないですか」
『仕事の優先順位付けが出来ていないようだな』

 軽口に、嫌味が返ってくる。

「……優先順位、ですか」

 思わずつぶやく。

『……どうした』
「降谷さん。例の、件ですが」

 電話の向こうで、降谷が息を詰める。風見は、息を吐いた。

「鋭意、調査中です。調査中ですが……ひとつ。私は、あなたの右腕なので。好きなように使っていただいて構いません。……でも、叶うなら、あなた自身を守るために、使って下さい」

 長い長い、沈黙が落ちた。
 しばらくして、低い声が届く。

『──要望として、受理しておく』

 そのどこか困ったような声に、風見はふっと笑う。

「失格ですか」
『……お前、酒を飲んでいるな?』
「飲みましたが、業務中に酔うほど飲みませんよ」
『どうだかな』
「私の仕事はサポートですから。ご迷惑をおかけすることはしません」

 降谷は大きなため息をついた。

『そう願っている。右腕は、一本しかないからな』
「はい」
『書類、どのくらいかかる』
「一時間程」
『では、またその頃電話する』
「はい。お手間おかけします」
『まったくだ』
「ああ、そうだ、降谷さん。報告資料は、これから送りますが。江戸川くん、利き手を捻挫して食事をするのに介助を希望していたので、降谷さんを推薦しておきました」

 電話の向こうから舌打ちが聞こえた。

『風見お前、いま何時だと思っているんだ。毛利家の夕飯は、一時間半前に終了している』

 言われればその通りだが、やたらと詳細だ。
 今日、毛利は仕事で不在だったようだ。もしかしたら遠方への出張で、今日コナンは蘭と二人、ポアロで食事をとったのかもしれない。
 普通に考えれば、毛利蘭が手伝ったのだろうが──人目のある場所だ、コナンが恥ずかしがって拒否した可能性は高い。そうなると。

「ちゃんとつけ込めましたか?」

 問うと、舌打ちが返ってきた。

『三十分後だ』

 通話が切れた。
 時間が半分になっている。
 ため息をついて、さてどちらだったのだろうかと想像する。
 降谷ならば、素直になれずに傍観している様子がまず想像されるが、「安室透」ならば、あの胡散臭い笑みを浮かべながら少年をからかい倒したかもしれない。
 結果は、少年から聞けば良い。
 ──とりあえず。
 風見の現在の状況と、要望は、降谷に伝わった。
 あとは、この仮説を裏付けるものを何か、得ておくべきだろう。
 そう考えれば説明がつく、というのが事実だとしても、突飛でおかしな仮説だということに変わりはない。何かしら、裏付けが欲しい。
 服部平次については、とりあえず橘境子に一任するとして。
 灰原哀。あるいは、沖矢昴。
 沖矢昴については、降谷に一言言っておくべき──かもしれないが、不仲という新しい情報を元に、もう少しだけこちらで調べてみた方がいいかもしれない。
 不仲は演出かもしれず、そうなると、「身内」という可能性もある。もしかしたら降谷の協力者かもしれない。
 ──それもまた、希望的観測か。
 風見はため息をついた。
 真実がどうであれ、話は想像以上に、厄介なものになりそうだ。風見の手に余る可能性がかなり高い。
 関係者も微妙に増えている、気がする。
 まずは降谷のこと。そしてコナンのこと。二人の希望。──そして、風見自身が、どうすべきだと考えるか。
 優先すべきものを、見失ってはいけないものを、確認する。

 とりあえずは、報告書を作成しなければならない。
 風見はひとつ息を吐いて、パソコンに向き直った。