敵味方の区別 2
沖矢昴。東都大学大学院工学部に籍を置く大学院生。現在家主不在の工藤邸に居候している。
人付き合いはよく、ご近所の評判は悪くない。工藤家の隣にある阿笠家との交流が深く、コナンたち少年探偵団のお兄さん的ポジションでもあるらしい。降谷とは険悪な仲。──そしてこの男も、明確に身元の確認が取れていない。要するに、表面的なこと以上は、何一つわかっていないわけだ。
もしかしたらこの男もお仲間で、降谷との不仲もそう見せているだけかもしれないと、一瞬考えたが、よく考えれば、コナンが深く関わっているらしい「工藤家」に住み着いている点から、それはないと考えていいだろう。
もしそうなら、降谷とコナンの二人が沖矢昴を接点に水面下で協力していることになるが、そういうことが出来ないから、あの二人が「ああ」なのだということは、風見が誰よりもよく知っていた。
降谷が気にする、気にならずにはいられない人間。
工藤家が、家主不在の自宅を預けるに値すると考える人間。預ける……いや、あるいは、匿う、だろうか。
(──となると、高確率で組織がらみ)
降谷とコナンの共通点に、例の組織があることは、知っている。組織のことがあるから、素直に協力関係になれないことも。
沖矢昴も組織の人間……いや、元、組織の人間だろうか。であれば、降谷が気にする理由もわかる。つまりコナンは、組織を抜けた沖矢を匿っているのだ。
しかし、それだと少し違和感もある。
コナンはあの家に、沖矢昴を一人で住まわせている。工藤家と阿笠家を調べた時の、沖矢の買い物量から見ても、あの家に、他に人はいないと推測出来る。組織から逃げている人間を一人で、保護もなく、置いておくだろうか。
一人と見せかけて罠を張っている様子でもない。そういう作戦は短期決戦になるものだが、それにしては沖矢の居候期間は長い。
つまり、沖矢昴は、保護対象ではない。一人でも大丈夫だと、そうコナンが判断している。──おそらくは、自分で自分の身を守れるから。
そこまで考えて、風見は眉間にしわを寄せた。
元組織関係者で、己の身を守れる実力を持った人間。
あの組織に、世界各国の警察機関・諜報機関から捜査員が潜入していることは、知っている。公安で把握していたNOCリストが奪われて大きな問題になったのは、忘れられない失態だ。
──元、潜入捜査官。
一つの名前が頭に浮かぶ。
FBI捜査官──赤井秀一。
組織を抜けた後、ある時期から表に出て来なくなり、殺されたと言われていたが、実は生きていたのだと、極秘で情報が回ってきたのは、少し前のこと。
彼は死亡したように思わせて、どこかに潜伏しているらしい。
もしかしたら、それは案外近くなのかもしれない。──都内。米花町。あるいは、いま、目の前。
固く断ったのに、風見は半ば無理矢理、図書館の喫茶スペースに連れ込まれた。
沖矢は奥の席に風見を導いて、座るようにうながすと、自分もその前に座り、購入したアイスコーヒーを口にする。
その顔がわずかにしかめられる。不味いのだ。
(ざまみろ)
風見はその反応を見て少しばかり溜飲を下げ、アイスティーを口にする。
沖矢は、アイスコーヒーを置いて、「さて」と風見を見つめた。
「お怪我はありませんでしたか」
「ええ、幸い」
何をどう切り出してくるか。何が目的か。検討はつくが、確信はない。
(この男が本当に、赤井秀一なのだとしたら)
無論、降谷はそれを知っているのだろう。知っている、あるいは証拠が掴めていないまでも、察している。
風見が沖矢を赤井ではないかと推測したのは、飛躍を含んだ想像に基づく当てずっぽうだが、根拠がないわけではない。
風見は記憶を掘り返す。
風見の知り得る限り一度だけ、降谷が潜入後に公安を大きく動かしたことがある。大きな捕り物になるはず、だった。
都内と、他県で二つに分かれたその作戦に、風見が関係するとすれば都内の方だったのだろうが、あの日風見は参加しなかった。
都内の作戦の指揮を降谷が自ら執っていたからで、風見は、表に出て動く降谷に組織の目が向かぬように、裏で陽動する役割だった。
あの日、何があったかを、風見は明確には知らない。
関与した人間はそれなりに多かったが、何が目的だったかを正確に知らされた人間は少なく、知り得た人間は口を閉ざしている。
しかし、何があったかを、想像することは出来る。
都内と他県で動かされた公安の人間。前後に降谷の周りであったこと。自分に出された指示。出されなかった指示。
その件の後に極秘に共有された、組織に関わると思われる一丁の拳銃と、赤井秀一の生存情報。
──あの日あったのは、FBI捜査官赤井秀一の捕縛作戦だろう。
降谷は赤井の生存を確信し、あわよくば捕らえようとした。理由はなんとでもなる。不審な事故や銃撃戦にFBIが絡んでいるらしいという話は公安も掴んでいたし、バーボンとしてのあの人にとっても、赤井の存在は「使える」ものだっただろう。
おそらくあの日、降谷は思惑通り、赤井の生存を確認した。しかし、捕らえることは失敗した。
(あの日、降谷さんは都内……米花町にいた)
しかし、あの後話をした都内組の同僚は、赤井秀一の生存を知らなかった。風見が収拾した情報から推測するに、赤井秀一の生存を確認したのは、他県の、来葉峠に派遣された公安チームだ。
降谷の性格からして、赤井の捕縛を他人に任せて他の押さえに入ることは、ありえない。つまり、赤井は都内に潜伏していると、降谷は見ていた。だから、そちらのチームの指揮を執った。──しかし、裏をかかれた。
おそらく、あの日起こったのはそういうことだ。
(降谷さんは、沖矢昴を赤井秀一だと推測していた……はずだ)
それは、あの日おそらく否定され……しかしきっと、間違いではなかった。
風見は、降谷という人間の能力をよく知っている。別に、何一つ間違えることのない完璧人間だと思っているわけではないが、あの人が何かしらの行動に出る時には、そこに確信がある。
だから、あの日、どうやってかはぐらかされたのだとしても──この男は、赤井秀一なのだろう。
風見の「根拠」はそれで十分だ。
もう一歩、踏み込んで考えれば。
あの日降谷がしてやられたのは、単純に降谷が、赤井に一対一の駆け引きで競り負けたのでは、ないのかもしれない。
赤井は工藤家にいる。工藤家に一人いることを許されているならば、赤井秀一は、工藤家の側の人間だ。つまりそれは、あの家と縁の深い、江戸川コナンの側の人間で、コナンが味方についていることと同義である。
(それは確かに、分が悪い)
風見はため息をついた。
最初に言葉を交わした時にコナンが言っていた、「単純に敵味方ではなく、譲れないことで対立してもいるのだ」という言葉の意味が、やっと、腑に落ちる。
(本当に恐ろしい子だな、あの子は……)
沖矢の視線を感じて、風見は一つ息を吐いて口を開く。
「お名前を、うかがってもよろしいでしょうか」
沖矢は、楽しげに口の端をあげた。
「失礼。沖矢昴と申します」
「沖矢さん。風見です」
「存じています」
「何故か、うかがっても?」
「そりゃあ、自分の家の前をうろちょろしている人間のことは、気になりますから」
それか。まあ、潜伏中のFBI捜査官なら、気づかない方がおかしい。コナンも気づいていたが、あれはこの男からの情報だったのだろうか。
あの時コナンは、「阿笠の家を調べていただろう」と言ったが、それは、コナンの判断だろうか。それとも、この男の判断だろうか。風見が工藤家を調べていたことは、実際、この男にどこまでばれているのだろうか。
風見はひとつカードを切る。
「その件に関しては、江戸川くんとの間で話がついています」
だからあなたには関係ないことだ、と突き放せば、沖矢は緩く首を傾げた。
「コナンくんですか。──彼とは、どのようなご関係で」
「友人です」
友人、というには少しばかり複雑な関係であるが、降谷を挟んだ彼との関係について、この男に細かく説明する必要もない。
「彼とは、合意が出来ています。気になる、とおっしゃるのであれば、あなたが気にならないように、気をつけましょう」
沖矢はコーヒーを手に取りかけ、味を思い出したのかそれを止めて、手を組んだ。
「止める気はないと」
「その点についても、彼の合意を得ています」
沖矢は細い目を更に細めた。
そして、低く問う。
「──ご主人様の合意は?」
反射で、肩が震えた。
声を荒げずとも恫喝にしか聞こえない。誰のことかととぼけられるような雰囲気でもなかった。
嫌でも理解する。この男は、風見の所属を知っているだけでなく、降谷の──安室透の正体を知っているのだ。
コナンとのつながりからそれは半ば予想していたが、もしかしたらあの日の捕り物も関係しているのかもしれない。
(互いに、秘密を押さえたのは同じということか)
そして、そうであるならば、降谷の部下である風見が、たとえ沖矢の正体を知っていたところで彼に不利なことが出来ないことも、承知の上というわけだ。
(……これは、接触禁止を厳命されるわけだ)
己に有利な点が見当たらない。この男から得られる情報はなく、むしろ、こうして対面しているだけでこちらが取られている情報の方が多いに違いない。
多分、色々バレてはいるのだろうが、この男も明確に赤井の名や降谷の名を出したわけではない。害意がないことを伝えて、後はこれ以上状況が悪化しないようにしらを切るしかない。
風見は降参の意を込めて片手を肩口で挙げた。
「あなたを調べているわけではないんです。調べる気もありません」
沖矢はクッと笑った。
「判断が早い。──しかし風見さんとは、ハイキングコースでお会いしたことはないように思いますが」
意味不明の言葉に顔をしかめ、一拍置いて、理解する。
あの日の来葉峠での捕り物に参加していなかっただろう、自分のことをどこまで知っているのか、という探りだ。
公安の参加メンバーまで調べているのか。あるいは、覚えているのか。
「──登山の趣味はありませんので」
何も知らずわかっていない態で答えを返す。
実際、降谷から何か聞いていたわけではない。赤井秀一の生存が公安の一部に知られていることと、降谷が沖矢昴をマークしていることを、結びつけて考える必要はない。普通は。
ごまかした風見を黙って見つめて、沖矢は「なるほど」とどこか楽しがるような口調でつぶやいた。
「それは残念。山道を走るのは気晴らしにはうってつけだ。お会いできたら楽しかったでしょう」
「ハイキングで走るんですか? お元気ですね。そういう健康的な趣味が持てればいいんですが……生憎多忙で余裕がないんですよ」
あくまでも知らぬふりでとぼける風見に、沖矢は「そうですか」とうなずいた。
「私としては、あなたへお願いしたいことはただ一点です。──お姫様を怖がらせないでいただきたい」
お姫様。
突飛な言葉に、風見は目を細めて男を見つめた。
(お姫様……? ……毛利蘭のことか?)
蘭姉ちゃんが怖がっていたと、コナンが言っていたのを思い出す。
毛利蘭は、この男の何なのだろう。
毛利探偵事務所の一人娘。帝丹高校に通う、空手で全国的にも有名な女子高生。
彼女を泣かせたと、日下部の一件でもコナンには怒られていたが。
彼女は工藤新一の幼なじみと聞く。工藤新一にとって大事な人間なのだろうが……この男にとっても、そうなのだろうか。
(きれいで善良なお嬢さんだったからな……しかし年が離れすぎていないか)
毛利家との関係から、赤井のこともなにかわかるだろうかと、頭の隅で考えながら、風見はうなずいた。
「その件については、江戸川くんからも重々、注意を受けています」
「私からも、重ねて、お願いします」
微笑みながら、低い声で沖矢は言う。
先ほど図書館入り口で無理矢理捕まった時以上の圧を感じて、思わず身を引きかけたが、今度はすんでのところでこらえ、答えた。
「承知しました。──こちらも、ご迷惑をおかけするのは本意ではありませんので」
「お話のわかる方で良かった」
にこり、と沖矢は微笑んだ。
話は以上だろうか。ほんの数分なのに疲労困憊だ。頭の中で、すでに降谷への報告書にどう書くかを考えながらアイスティーを飲み干す。
「──ところで風見さん。『四つの署名』を読んでどう思われましたか」
「は?」
唐突に出てきた書名に目を丸くする。
コナンに言われて読んだ、彼の一番のお気に入りの本。
何をどう答えるのが正解なのかと、沖矢をうかがうと、沖矢は肩をすくめた。
「単純に、感想をうかがいたいだけですよ。私も、コナンくん同様シャーロキアンなんです。彼にすすめられたんですよね? 私も、何をおすすめすればいいか相談を受けたんです」
コナンが風見に本をすすめたことを、知っている。それくらい近いところで情報共有しているのだという、牽制だろうか。
(その相談なら、降谷さんも受けたと言っていたがな)
心の中で対抗して、全く無意味なことだとため息をつく。工藤家にいるこの男の方が、降谷よりコナンに近いのは、間違いないだろう。
(ああそれは、降谷さんが気に食わないはずだ)
とはいえ。風見がいくら降谷寄りの人間であったとしても、風見にこの男と対立する理由はない。FBIという組織と公安も、単純に敵味方ではなく、色々と利害が衝突することはあるだろうが、それと同じことだ。
風見はため息をついた。
『四つの署名』。
服部平次と話した時のこと、そして橘と飲んだ時のことが頭をよぎる。
「……そうですね。ワトソン博士が結婚したことに驚きました。ホームズとコンビで、同居しているイメージがあったので」
いかにも素人臭いことを口にすると、沖矢はなるほど、と笑った。
「……仕事柄、身につまされる言葉もいくつかありましたが」
「ほう。例えば?」
「『僕は決して当て推量はしない。当て推量はとんでもない悪習で、論理的な能力を損なうだけのものだ』……でしたか。あとは、『何より大切なことは、相手の個人的資質によって、その相手への判断を狂わされないようにすることだ』」
「記憶力が良くていらっしゃる」
「いえ、ごく普通です。覚えているのは、もう一つくらいですよ。今後の指針にするつもりです」
そう言って、立ち上がる。
「ちなみに、沖矢さんのおすすめは何ですか」
沖矢はにっこりと笑った。
「私のおすすめも、コナンくんと同じですよ」
沖矢はあっさり帰って行き、風見は無事庁舎に帰還した。
自分の好きなものを知ってもらいたい相手は、好きな相手である──という服部平次理論からすれば、沖矢昴の回答は「おすすめを紹介するような好意など微塵もありません」ということになるだろうか。
ただ、その理論を採用するなら、橘は多少なりとも風見に好意があることになる。いや、おすすめをたずねて一番つまらなかった話を紹介されたのは、嫌悪感ゆえか。
疲れたついでに、風見は服部にカーを一冊読んだ報告と、何か他におすすめはないかをたずねるメールを打った。
返事はすぐ来る。「いまの気分は?」という質問に、「気楽に読めるやつがいい」と返すと、すぐにいくつか著者名とタイトルが戻ってきた。
『近々東京に行くから、感想はまたその時に』
その一文に、橘がそっちに遊びに行くんだろうにと一瞬考え、その後なのだろうとあてをつける。いつ来るのかと返せば、来週か再来週という回答。となると、再来週だろう。
風見はメールを見つめた。
──橘から何か探って、その結果を持ってこちらにくるつもりでいるならば。
こちらも、そろそろ彼との決着をつけた方が良いのかもしれない。
(彼から、何か確定情報が取れるか──)
取れたとして……自分は、どうするべきだろうか。
降谷の意志は、どうやら彼を守ることのように思える。けれど……それは、風見の意志と微妙に異なるものだ。勿論、コナンのことも心配している。けれど、風見はやはり、降谷零の部下なのだ。
その時ふと、思い出した。
『あの人の味方でいることは、止めないで』
そう、コナンに言われたことを。
風見は苦笑した。
あの二人は、結局。素直に味方と言えず、沖矢昴─赤井秀一やその他のことで駆け引きをする間柄でもあるけれど、それでもお互い、相手のことを気にかけているのだ。
(……双方私に託そうとするのは、いかがなものかと思うが)
特に、降谷だ。
風見は一つ息を吐く。
その時、スマホが鳴った。
降谷だ。
「はい」
『お前何やってるんだ』
いきなりだ。そういえば、接触禁止のお達しに返事をしていなかった。
「申し訳ありません。……大学院生を名乗る当たり屋に絡まれました」
降谷は沈黙した。
そこで今更ながら、盗聴器の類いが仕掛けられていないか確認する。──無い。
ホッとしたが、ではあの男はたまたまあのタイミングで現れたのかと思うと、いささか気味が悪い。
気を取り直して、口を開く。
「念の為に確認しますが、あの当たり屋ビュロウですね」
『……ほのめかすようなことを言われたのか?』
「私の勝手な推測です」
『ほー』
少し感心したような声。やはり正解か。風見はため息をついた。
「……そういうことは事前に教えて下さい」
『確証が取れていなかったんだ』
過去形だ。風見はもう一度ため息をつく。
そして、声をひそめてたずねる。
「──あちらもゼロのことを承知している。それも間違いないですか」
沈黙。その後に、いさかか気まずげな声。
『……それも推測か?』
「そうです」
答えると、降谷はひとつため息を吐いてから、是と答えた。
先ほどからため息しか出ない。しかし、これは言うべきだろうと口を開く。
「──そういう大事なことは、共有をお願いします」
『うかつにあちらと協力体制を取れる立場にないことはお前だってわかっているだろう。いまの僕にとって連中が味方になり得ないことに変わりはない』
「あなたにとっては、そうでしょう。でも、私にとっては違います」
言い切って。気づく。
(──そうだ)
風見は、降谷の部下だ。コナンは言った。「ボクは単純にあの人とは敵味方という関係ではなくて、だから風見さんだって、ボクにとって単純に味方とは言えない」と。それは、その通りだ。降谷と風見は同じ公安の人間で、目的や考えも同じだ。
けれど。風見と降谷は完全にイコールではない。降谷の味方ではない人間が、風見の味方になることだって、状況によっては、あり得るのだ。
「彼らがあなたを『ただの組織の幹部』と見ているのか、それともその裏の立場を知っているのか。その情報の有無で、状況次第では、私は判断を変える必要があります。いえ……変えられる、可能性がある。彼らとは利害が衝突することもありますが、大きな目的は同じはずです。あなたをサポートするために、彼らに助力を願うのがベストであれば、私はそうします。それが出来るのならば、強力な選択肢になる。私は、自分の選択肢を把握しておきたい」
言いながら、コナンとの話や、今となっては随分昔のことのように思える羽場の一件を思い出して、息を吐く。
「……勿論、これは私の希望です。私がその情報を持つことで、降谷さんに何か不利益が生じると判断されていたのであれば、それは仕方ないことです。……知ってしまいましたが」
『──すまない』
何に対してだかわからぬ、謝罪。しかし、降谷が謝罪を口にするのは珍しい。
何と返せばいいのかわからず、黙る。
しばらくの沈黙の後、降谷は小さくつぶやいた。
『……そうだな。情報共有で避けられる悲劇は、あるだろうな』
苦い、声だった。
降谷は気持ちを切り替えるように息を吐いた。
『風見の言う通りだ。改善する』
「あ、はい……」
思わぬ素直な返答に戸惑っている間に、降谷はいつも通りの口調に戻る。
『それで。あの男は何を』
「詳しくはまたご報告しますが、釘を刺しに来たようです。あの子のことを探る過程で、阿笠邸と工藤邸の調査をしたので、その際に目についたようで」
ふん、と電話の向こうで鼻を鳴らす気配。
『わかった。まあ、あの男が何かわかっているなら、今後はお前の判断で、出来る範囲で動け』
「はい。──あの、降谷さん」
『なんだ』
「あの男、『お姫様を怖がらせるな』と、言ったのですが」
『は?』
「お姫様、というのは……毛利蘭さんのことですよね? あの男、彼女と何かつながりがあるんですか」
すると、しばらくの沈黙の後でため息が返ってきた。
『折角少し見直したのに、やっぱりお前はまだ詰めが甘いな』
「……違うんですか?」
『違う。隣の家にいるだろう。小さなお姫様が』
小さな。
風見の脳裏に、隣家の阿笠家に住むコナンの同級生の姿が浮かぶ。
(──そっちか)
灰原、哀。もしかして彼女も、組織の関係者なのか。しかも、FBIが気にかけるほどの。
『彼女についてはこちらも調査中だが、彼女の警戒度は高い。周囲の守りもな。注意しろよ』
「……はい」
だからそういうことは事前に言っておいてくれ、と言いたいのだが、すぐにあの少女のことを指摘してくれたのは今回の進言があってのことと、前向きに考えることにする。
風見の短い返事に、降谷は続けて言った。
『前にも言ったかもしれないが、お前のことは一応信用しているんだ。無茶な調査はしないし引きどころも心得ている。それに、何か動く前に僕に報告を入れるだろう』
「過分なご評価、痛み入ります」
『……拗ねるなよ』
あんまりなことを言うので思わずふきだす。
「拗ねてませんよ。私も自分の程度は理解しています。それに、降谷さんの判断を信じていますから」
『……』
電話の向こうの降谷は、若干不満げだ。風見は笑った。
「まあでも、はい。……おかげさまで色々と、見えてきました」
橘境子のこと。服部平次と何を話すか。
──正しく、この人の味方であるために、出来ることは何か。
一度、深呼吸する。
「例の件、近々、進展がご報告が出来るかもしれません」
『──了解した』
一瞬間を置いて、降谷が答える。
「では、本日の報告書は、一時間後にお送りします」
『頼む』
「はい」
通話を終える。
「……さて」
これからやることを頭の中で整理する。
とりあえず、早々に報告書を片付けて、また本を借りに行かねばなるまい。
服部のメールをもう一度確認して、風見はスマホをポケットに仕舞った。