橘境子は知っている




 海外から日本に帰ってくると、空港で醤油のにおいを感じると聞いたことがある。
 海外旅行の経験はあるが、それも学生時代のこと。そんな話を聞いてもそうなのかとしか思わない。
 ──たかだか新幹線で二時間半程度の移動でそんなことを考えてしまうのは、仕事に就いてからはほとんど都内から動かず、国内旅行もろくにしていなかったからだろうか。
 降り立った大阪の地は、当然、東京と比べてにおいが違うということもなく、まして言葉が通じないわけでもない。
 それでも何となくアウェーに来たような落ちつかなさを、首を振って振り切ると、橘境子はエスカレーターのいつもとは反対側に、キャリーバッグを乗せた。
 出張者も多いのか、駅は混雑していた。人ごみをすり抜けて在来線に乗り換え、シャトルバスに乗って滞在するホテルにたどり着く。

「御用があればお気軽にお申し付け下さい」

 荷物を運んでくれたコンシェルジュに笑顔を返し、部屋のドアが閉まると、境子はため息をついた。
 上着を脱いで椅子にかけ、セミダブルのベッドに寝転がる。
 ──天井が高い。
 奮発して予約した部屋は、これまで使ったことがあるビジネスホテルとは違い、広々としていた。

(部屋の中で側転が出来そう)

 やらないし、そもそも出来ないけれど。
 このまま転がっていたら寝てしまいそうな気がして、「よし」と声をかけて起き上がる。
 大型のテレビの前のソファと、少し離れて設置された四、五人で囲めそうなテーブル。その上の生花。
 カーテンが開いたままの大きな窓からは、ターミナル駅が見えた。
 東京と比べると空が広く見える──と思うのは、自分自身の気持ちの問題だろうか。

「……ほんとに来ちゃった」

 ぽつりと呟く。小さな声は、広い部屋で空しく響いた気がした。
 転がって乱れた髪をかき上げ、スマホを手に取る。
 家族もいない、友人もいない境子のスマホには、連絡など滅多に来ない。
 ダイレクトメッセージをいくつか削除すれば、最新のメッセージは出発前に届いた風見からのものだった。
 鼻を鳴らし、画面を閉じる。
 ──うだうだしていても、仕方ない。
 大口を叩いてここまで来たのだ。風見の嫌な顔が見られるような何かを持ち帰らなければ。

(とりあえず、行動するのは明日から)

 境子は立ち上がり、ホテルに来る前に買ってきたテイクアウトの夕食を袋から出した。



 遠山和葉に誘われて大阪に行く──と風見には言ったが、実際のところは少し違う。
 「もし大阪に来ることがあるなら案内させて下さい」という和葉の言葉は、おそらく社交辞令だっただろう。それに、「なら、今度関西の知人に会いに行く用事があるから、お言葉に甘えようかしら」と答えたのは、服部平次が「さてこれからどうしよう」と和葉の陰で難しい顔をしていたのが、面白かったからだ。予想外に、和葉が「ほんまですか。絶対やで」と乗り気の反応だったことは、たしかに、後押しになったけれど。
 境子を探していたらしい服部は、結局あの日、毛利小五郎が逮捕された時のことを世間話程度に聞いてきただけだった。
 境子は表向き、毛利小五郎が不起訴になった時点で舞台からおりている。なので、彼にもそのように話をした。ただ頷いていた服部は、おそらくもっと違うことを聞きたかったのだろうが──聞いてこなかったのは、和葉がいたからか。
 数時間でも、幼なじみだという二人の仲の良さはよくわかった。服部が何か探っているとして、それに大切な幼なじみを巻き込む気は、なさそうに思えた。



 テレビでは、見たことのないアナウンサーが、馴染みのない地域のニュースを紹介している。
 ビールの缶をあけて、折角だからと部屋備え付けの高そうなグラスに移す。都内でも買えるクラフトビールは、当たり前のことだが、いつもと同じ味がした。

「……向いてない」

 一口飲んで、顔をしかめる。
 本当に、向いていない。
 折角いつもと違うところに来たのだから、食事くらい地元の店ですればいいのに、デパートに入っている全国どこにでもある店の惣菜を買って、全国チェーンのコンビニでビールと明日の朝食を買って。普段泊まらないようなホテルに泊まっているのに、ホテルのレストランで食事をするのも億劫だからと部屋にこもっている。──一体、何をやっているのか。
 一人だから、というわけではない。元々境子はそういう性分なのだ。
 旅行に行けば当然観光名所を見て回るし、名物も食べる。でも、一日中それをするのは気が向かない。どこかにいつもと同じを求めてしまう。──多分、向いていないのだろう。旅行とか、そういうものに。そもそも、どこかに出かけたいという欲だって、普段から薄い。
 こういう性格だから、友だちがいないのだろうか。
 境子はビールを飲み干した。

「──さて、と。明日はどうしようかな」

 あえて声を出して、惣菜の入っていたプラスチックの容器を片付け、もう一本ビールをあける。
 「案内します」という和葉の言葉を、そのまま受け取るほど、境子も図々しくはない。
 人は良いが人見知りしがちだという女子高生を、べったり観光に付き合わせるのは気が引けるし、こちらも気を遣う。関西旅行の間に一度、食事でも一緒にするくらいが適当だろう。
 服部平次がその時に何か言ってくるか、それとも和葉のいないところで呼び出しを受けるか、どこかで待ち伏せをされるかはわからないが、大阪にいると告げた三日のうちのどこかで、何かしら接触はあるはずだ。

(今日は、さすがにないか)

 スマホには特に連絡はない。連絡先を交換したのは和葉だが、そこから服部が境子の連絡先を入手することは容易なはずだ。
 こちらが、探されていたことに気づいたと察しているかは、五分五分といったところ。であれば、和葉と会う約束をしている明後日の、後で接触してくる可能性が高いかもしれない。

(高校生探偵ね……)

 キャリーバッグからノートパソコンを取り出して、起動する。
 服部平次については、一通り調べた。調べたし、あの非常識極まる無神経な公安警察からも簡単な資料が送られてきた。個人情報を何だと思っているのだろう。
 とにかく、服部が大阪府警本部長の息子で、「東の工藤、西の服部」と、工藤新一と並び称される名探偵だと言うことは、事実だった。高校生ながら、いくつも難事件を解決していることも。
 境子はほぼ都内から出ずに暮らしていたから、工藤新一のことは知っていても、服部のことは知らなかったわけだが、資料を見れば、なるほど、あの時の苦い顔もよくわかるなと思える、工藤に引けをとらない活躍ぶりだった。

「……そして、工藤新一」

 高校生探偵。父親は世界的に有名なミステリー作家で、母親は元女優。そんな経歴もあって、話題になりやすかったのはあるかもしれない。ファンサイトなんてものがあるのも、そうだ。
 ──あの事件の時、江戸川コナンと、やりとりをしていた人物。
 直接声を聞いたわけではないし、発言は常に、コナン経由の「新一兄ちゃんがこう言ってるんだけど」という伝聞だった。
 彼はいま行方不明だと、風見は言っていたが、連絡がつけられるなら、行方不明ではないのではないか。
 ──わからない。
 あの日の風見の曖昧な発言を思い返して、境子はため息をついた。
 風見が工藤新一を気にしているのは、江戸川コナンと関係があるからだろうが、実際、二人はどういう関係なのだろうか。
 兄弟ではないらしい。では親戚か。でも、それならばどうやらコナンに戸籍がなく身元不明であることと矛盾する。

「……よく似てる、わよね」

 ネットで引っかけた工藤新一の記事の顔写真と、記憶の中の少年の顔を比べる。
 兄弟と言われても違和感はないくらい、よく似ていた。ここまで似ているなら、確実に血縁関係だと思うのだが。
 缶をあおり、グラスに移しかえるのを忘れたことに気づいたが、まぁいいかとグラスを端に除ける。
 こういうがさつな所も、一三二は笑って「境子らしい」と言ってくれた。ふと、そんなことを思い出す。

(──私らしい、って、なんだろ)

 可愛くない、とか、そういう否定的な意味で言ったわけではないことくらい、わかっている。
 でも、羽場は境子の何を知っていて、境子は、羽場の何を知っていたというのか。
 それは、今更わからないし──もう二度と、わかることもない。
 境子はビールを飲み干すと、パソコンを閉じた。

「明日は、適当に観光して、資料をもう一度読み込んで……」

 そして、ここにいる間に何か、服部から江戸川少年に関する情報を得る。
 それを風見に報告して。
 ──あの男の困る顔を見たら、溜飲が下がるだろうか。
 何かが、変わるだろうか。

(馬鹿馬鹿しい)

 そんなことをしたところで、境子が何も変わらないことなんて、わかっている。
 それでも、いまはそれしか、進むための道が見えないのだった。





 和葉たちとの待ち合わせは昼になった。
 大阪観光をした翌日、境子はゆっくりと支度をして、待ち合わせ場所に向かった。
 着慣れないワンピースのスカートが落ち着かない。いつもパンツスーツばかりだったから、どうも、スカートというもの自体に慣れないし、そもそも似合わない気がする。

(でも、高校生と休日に会うのに面談みたいに見えるのもかわいそうだし)

 昨日。いつもの格好で観光地を回っていたら、修学旅行生の引率に間違えられたのだ。それで慌てて、服を買った。
 正直、ワンピースに着替えたところで雰囲気が変わった気がしない。
 きつめの顔立ちはどうしようもないし、この顔に似合う服となると、ワンピースだって通勤着じみたデザインのものになる。
 それに、眼鏡だ。元々きつく見える目元は、眼鏡が乗ると相乗効果で固く見えるのだ。わかってはいるが、コンタクトは合わないので仕方ない。

(スーツよりはましだと思っておこう)

 無理矢理自分を納得させて、待ち合わせ場所につくと、すでに和葉がいた。
 可愛い子だから、目立ってすぐわかる。ショートパンツにノースリーブで、露出した白い肌が眩しい。いましか出来ない格好だなぁと考えながら、声をかける。

「遠山さん」
「あ。境子さん!」

 和葉はスマホから顔を上げ、パッと笑顔を浮かべた。

「お久しぶり。──服部くんは?」

 一緒だと思ったのに姿が見えないのでたずねると、和葉は顔をしかめた。

「それが、途中でなんや事件に巻き込まれたみたいで」
「あらま。じゃあ──」
「あの! 終わり次第来るてゆうてますから! 帰らんで下さい!」

 境子は目をしばたかせ、何故か必死な和葉を見つめた。

「……帰るつもりないわよ。私、服部くんじゃなくて、遠山さんに誘われたんじゃなかったかしら?」
「えっ。あ、そう、そうやった」

 口ごもる和葉に思わずふきだす。
 嘘がつけない子だ。
 彼女は多分、服部から探し人が境子だったことを聞いたのだろう。そして、何か確認したいことがあることも。
 和葉は眉を下げた。その様子が可愛らしかったので、境子は笑うのを止めて、和葉に向き直った。

「服部くんが来るまで待てばいいんでしょう? 休職中で暇だから、時間だけはあるの。気にしないで。──お昼、美味しいお好み焼き食べさせてくれるんでしょ?」

 和葉はほっとしたような、困ったような顔をして、うなずいた。

「もちろん。──あ、でもお店平次の行きつけで。ほんまあのアホは肝心な時に」
「うーん……そしたら、お好み焼きは服部くんが来てからにする? 幸い、私はそんなにお腹空いてないし」

 朝のんびりしていたので、お腹が空いていないのは本当だ。

「お茶か、軽いものでも食べて待ってるってことで、どうかしら」

 提案すると、和葉はうなずいて、ため息をついた。

「……ほんますみません。色々」
「全然」

 気にしないで、と笑うと和葉はますます眉を下げた。



 予約をしていたという店に時間変更の連絡を入れて、適当な店を探す。
 服部がいつ来るかわからなかったので、長居出来そうな所──ということで、二人はファミレスに入った。

「折角旅行で来てるのにすみません。あ、でもここのチェーン、一応関西のチェーンなんです」
「そうなの? うちの近くにもあるからこっちのお店だと思ってた」
「え。そうなんですか?」

 別の店にしようと言い出しかねない様子の和葉を制して、メニュー表を広げる。

「いいのいいの。むしろ、私らしくて丁度いいわ」
「へ?」
「こっちの話。──こっちでも、パフェが有名?」
「はい。……あ、マロンパフェやて。もう秋なんやなぁ」
「そうとは思えない気温だけどね」
「ほんまに」

 二人で季節のパフェを頼む。昼食前だが、まあいいだろう。
 店員が去り、さてと改めて二人で向き合うと、何となく沈黙が落ちる。
 端から見たら、自分たちはどう見えるのだろう。
 一回りくらい違うから、友人には見えないだろうし、境子はこんな美少女と姉妹に勘違いされるような容姿ではない。叔母と姪、そんなところだろうか。

「えと、あの……境子さん、平次が探してたん、知っとったんですか」

 気まずさを振り払うように、和葉がたずねてきた。
 随分ストレートだなと内心苦笑しながら、境子はややカルキ臭いお冷やで口を湿らせる。

「何となくね。あなたたちの話と、その後の服部くんの反応を見たら」
「ああ……」
「と、言っても、彼が私に何の用があるかは、見当もつかないんだけど。何か聞いてる?」

 探りを入れると、和葉は口をへの字に曲げた。

「知らない、です。アタシは、詳しいことはなんも。……平次は肝心なこと、何も言わんから」

 パフェが運ばれてくる。
 いただきます、とスプーンを手に取り、パフェを食べる。
 甘すぎず、好みの味だ。栗はほのかにブランデーの風味がした。
 こくりと栗を飲み込んで、和葉が口を開く。

「境子さん、公安事件専門の弁護士さん、なんですよね」
「多く担当したのは事実ね」

 公安という言葉に少し警戒をしながら、表向きは淡々と答える。
 何も聞いていない、と言っていたが嘘だったのだろうか。それとも、毛利蘭から境子について聞いたのだろうか。──後者の可能性が高いか。
 そんなことを考えている境子の前で、和葉はちらりと周囲に視線を走らせてから、ささやく。

「……そしたら、こ…その、そっちの刑事さんと会うたことも、あるんですよね」
「そりゃね」

 公安、と口にするのを避けたのだろう。真っ昼間の、家族連れもいるファミリーレストランで口にする単語ではない。
 和葉は少しこちらに身を乗り出した。

「なら、背ぇ高くて、いかつくて、ちょっと変わった眉で三白眼の、眼鏡かけた刑事さん、知りませんか。蘭ちゃんのお父さん、誤認逮捕した刑事さんらしいんですけど」
「……」

 風見のことだろう。
 脳裏に浮かんだ困り顔を振り払い、境子は少し間を置いて、首を傾げてみせた。

「さぁ……あの件に関わってた刑事はたくさんいるし、警察の人は大抵、体格が良くていかつい感じだから。眼鏡の人も珍しいわけではないしね。……名前は?」
「名前は、知らないんですけど」

 和葉はがっかりしたように体を引いて、椅子に背を預けた。

「その人が、なにか?」

 たずねると、和葉は少しためらった後で、ぽつりと言った。

「平次が、知ってる刑事さんらしいんですけど。……平気な人なんかなって」

 境子はパフェにスプーンを入れる。
 ココア味のスポンジがバニラアイスにからんで美味しい。

(──平気な人か、と言われると)

 返す言葉に困る。
 風見は公安の刑事で、公安の人間は目的のために手段を選ばない。犯罪ギリギリどころか、違法そのものの行為に手を染めることもある。到底、平気とは言えない。
 ただ、服部に関して言えば、風見は(彼の言うことを信じるなら)、彼を危険な目に遭わせないように注意をしているようだった。
 正しくは、服部が面倒なことに巻き込まれて和葉が泣くようなことになって欲しくないという、江戸川少年の意向に添う意思がある、か。

「平次とここで──あ、東京にある店ですけど、一緒にパフェ食べたり、お昼待ち合わせしたりしとったみたいで。悪い人やないみたいなんですけど……心配やし」

 ──パフェ。風見が、服部と。
 絵面を想像して、思わず顔をしかめる。それを瞬きでごまかして、境子は答えた。

「心配なのはよくわかるけど……服部くんは、事件で警察と関わることもあるんでしょう? あれから色々、新聞を見たけど、東京で密輸組織の検挙に関わったこと、あったわよね」
「あ、はい」
「あれはたしか、あそこの案件よ。それで少し関わりが出来たとか、そういうことじゃないかしら」
「あ……はい。そう、ゆうてました」
「なら、それだけよ。さすがに、あそこの人たちでも高校生を利用するようなことはないと思うわ」

 高校生どころか、小学生を利用していた疑惑があるが、そこは飲み込む。
 和葉はこくりとうなずいた。
 
(こんないい子に心配をかけて)

 ざくりとスプーンを入れると、くだいた栗の層に当たる。カリッとした、ほろ苦いキャラメル風味のフレークと合わさって、アイスとクリームの層と味が変わる。
 ──お酒が飲みたい。
 甘いものを食べているとたまに酒が飲みたくなるのは何故だろう。

(……ともかく。風見さんが服部くんと知り合いで、敵対はしていないっていうのも、この分だと本当ってことか)

 風見が服部について適当なことを言っている可能性も疑っていたので、少し安心する。
 ──いや。風見が言っていたことが本当なら、それはそれで厄介かもしれない。

「ありがとうございます。ちょっと安心しました」
「なら良かった」

 ぎこちなく微笑み合って、パフェを食べきる。
 ドリンクバーを追加して、コーヒーを飲み始める。
 ここに来て一時間と少し。和葉はスマホを気にしているが、服部からの連絡はまだないようだ。
 長期戦となると会話のネタに困るかもな、とぼんやり考えていると、和葉が「あの」と少し固い表情で境子を見つめた。

「……アタシ、境子さんに聞きたいことがあるんですけど」
「私に?」

 まだ何か、と首を傾げ、そういえばと思い出す。
 彼女は彼女で、何故か境子に興味があるようだった。
 おそらく、彼女が服部から探し人について聞いたのは、あの日境子と別れてからだろう。でも、彼女はその前から、境子が来阪することを歓迎していた。
 和葉は少しためらった後で、早口でつぶやいた。

「あの。弁護士って、なるの大変ですよね」

 想定外の質問に、境子は目を丸くした。和葉は慌てて手を振る。

「すみません! こんな、当たり前のこと聞いて。大変なんはわかってるんですけど、あの、何てゆったらええか」
「──遠山さん、弁護士に興味があるの?」
「いやっ! そうやなくて、いえ、そうなんですけど、ただその、どんなかなってくらいで……」

 弁護士という職業に、憧れる人間は少なくない。
 立派に見えるし、特別な、選ばれた人間にしかなれない職業に見える。
 実際、簡単になれるものではない。学生にとっては、「ごく一握りの、優秀な人間でないと目指せないもの」──というのが、弁護士という職業のイメージだろう。
 故に、目指していること自体を口にするのも気が引けると、思ってしまう子もいる。
 けれど、和葉のこの反応は、そういうものではなさそうだ。
 興味があるのは本当に見える。けれど、本気で目指しているわけではなさそう、というか。
 少し考えて、口を開く。

「弁護士なら、妃先生にお話を聞いた方が、ためになるんじゃないかしら」

 すると、和葉はビクッとし、じわりと頬を赤く染めた。

(──あー……。なるほど)

 そういうことか。
 問いの意味と意図を理解して、思わず口元がゆるむ。
 境子はコーヒーを一口飲んでから、言う。

「遠山さん。毛利さんと妃先生は、別居されてるから、ロールモデルとして適切かどうかは、再考の必要があると思うな」
「な」

 和葉は驚愕した様子を隠さず目を見開く。

「な、なんで」

 こらえきれずにふきだしてしまう。和葉がムッとした顔をしたので、慌てて「ごめんなさい」と謝罪する。

「でも、遠山さんわかりやすいんだもの」

 和葉が、境子と出会って弁護士という職業に興味を持ったわけがない。境子は弁護士らしいことなど一つもしていないのだ。
 ならば、和葉が弁護士に興味を持ったのには、別に理由がある。
 彼女の周囲にいる弁護士といえば、友人の母親である妃英理だ。勿論、他にも弁護士の知り合いがいないとは言えないが、知り合ったばかりの境子にこんな相談をするくらいだから、可能性は低いだろう。
 妃英理はあの年で個人事務所を立ち上げ、「法曹界のクイーン」と呼ばれる敏腕弁護士だが、そこに憧れているなら、妃本人に話を聞くはずだ。
 和葉が興味を持ったのは、敏腕弁護士としての妃英理ではなく──おそらく、毛利小五郎という「探偵」を夫に持つ人間としての、妃だ。そして、探偵を支える妻の職業として、弁護士がふさわしいものなのか。
 まだ拗ねた顔をしている和葉をなだめるように続ける。

「からかうつもりはないのよ。将来のことは、早くから考えるに越したことはないわ」

 すると和葉はますます口をとがらせた。

「……将来とか、アタシらはまだ、なんも決まったことないですけど」
「そうなの?」
「そうなんです!」

 和葉は自棄になったように紅茶を飲み干した。

「てっきり、幼なじみカップルだとばかり」
「ただの幼なじみです。……いまんとこ。だから、アタシが一人でこんなん考えてるの、アホみたいやけど」
「……そんなことないわよ」

 和葉は、まだ決まったことはなにもないと言った。でも、いずれはと思っているし、服部の気持ちが自分に向いていることも、何となくわかっているのだろう。だから、将来のことも考える。
 ──甘酸っぱい、というか、可愛らしい話だ。
 幼なじみでずっと仲良しなんて、マンガの世界みたいだと、彼らに会ったときにも思ったが、本当に、まるで少女マンガのような二人だ。
 お互い初恋同士だったりするんだろうなぁと考えている間に、和葉はドリンクバーのおかわりを取りに行って、今度はカフェオレを持って戻ってきた。
 暑いのに温かい飲み物を飲んでいるのはえらい。冷え性なのかもしれないが。──いや、冷え性ならまず、ノースリーブは止めるべきだと思う。活発なイメージの和葉にはよく似合っているが、服部は苦労していそうだな、と境子は他人事ながら同情した。
 落ち着いたようなので、話を再開する。

「もし、本当に弁護士を目指すなら、準備は早いほうがいいと思う。──でも、弁護士が必須なわけではなくて、高収入とか、安定した収入がのぞめる職業ってことなら……相談の答えも変わってくるかな」
「……ですよね」

 和葉はしゅんと肩を落とすと、ため息をついた。

「知りたいんは、ほんまはそっち。こんなん、ヨコシマやってわかってるんですけど……アタシがしっかりせなって、思うことあって。平次が探偵になりたいっていうのは、変わらんから」
「……まあ、探偵で食べていけるのなんて、一握りよね」

 調査専門で大きな探偵事務所を立ち上げている人もいるが、服部の目指す探偵はそういうものとは別だろう。
 それこそ、毛利小五郎のような、難事件を解決する探偵を目指すなら、生活に苦労することは覚悟しなければならない。

「アタシの希望は、ずっと一緒におれたらええなって、それだけなんです。先のことなんか、なんも考えてないし、覚悟もないし。でも、いまみたいに平次の後ついて回ってるだけじゃ、変われへん」

 進路相談から、本格的に恋愛相談になった。
 境子はどうしようかなと考えながら底が見えてきたコーヒーをちびちびとすすり、頭の中でこれまでの浅い経験を引き出しながら、口を開いた。

「──遠山さんだけ変わればいいって話では、ないんじゃないかな」
「え?」
「だって。二人で、ずっと一緒にいたいんでしょう? どちらかが一方の希望や言い分を全て受け入れて、何かを我慢するような関係は、長くは続かないわ。いまそれで成り立っているとしても、幼なじみから一歩進んだ関係になるなら、同じようにはいかない」
「でも、アタシ、平次にはいまのままでいて欲しいです」
「それを、あなたが心から納得して選ぶなら、それでいいけど……でも、それを、服部くんは望んでいるのかしら」
「平次が……?」
「そう。あなたに我慢させて、フォローしてもらって。それを良しとする子なのかな」

 和葉は目を見開いて否定した。

「それ、は! 違う、と、思います」
「うん」

 そうだろうな、と思う。ほんの少しの間でも二人と話したことがあればわかる。
 最後の一口を、飲み込む。

「なら、ね。一人で悩まないで、二人で話した方が、いいと思う。どうしたら、一緒にいられるか。対等に胸をはって、並んで歩いて行けるか」
「……対等に」
「ずっとパートナーとして生きていくなら、そうあるべきじゃない? ──って、ごめんなさい。これはあくまでも私の考えだから。参考程度に聞いて」

 真剣な表情に、慌てて手を振る。
 真面目なお悩みのようだったので頑張って考えてはみたが、恋愛相談なんて守備範囲外だ。難しい。
 独り身のくせに偉そうなことを言った、と少し後悔して、おかわりを口実に席を立つ。
 コーヒーのおかわりを持って戻ってくると、和葉はカフェオレのカップに目を落とし、考え込んでいた。
 しばらくして、つぶやく。

「……アタシ、前に言われたことあるんです。『こいつはオレの子分や』て」

 境子は目を丸くした。

「ええと……それは、服部くんに?」
「はい」

(──馬鹿なの?)

 口に出しそうになったのを、なんとか喉の奥に押し込める。
 照れ隠しなのか知らないが、女の子に子分はないだろう。西の名探偵が聞いて呆れる。
 顔をしかめた境子に、和葉は苦笑した。

「蘭ちゃんは、照れ隠しやって言ったし、アタシもそうやろなと思ったんですけど。……なんや、図星さされたような気ぃして」
「どうして?」
「……アタシ、子どもの時から平次について回ってばっかで。境子さんと会うた時も、平次が東京行くゆうからついてって。アタシの世界は、平次中心に回ってるんや。──でも、平次は違う。平次の興味は新しい謎に向いてて、ずっと広い世界に向いてる。……前、境子さん、幼なじみなんてマンガみたいやって、ゆうたでしょ」
「ええ」
「でもな、そんな、生まれた時に決まってた狭い中におるんは、アタシだけなんです。平次にはアタシが知らん友だちとか、知り合いとか、たっくさんおって、それに、頭もええから、工藤くんみたいな、特別な人やないと話も満足に出来んし、そっちとおる方が楽しいみたいやし」
「遠山さん、」

 うつむいてしまった和葉に手をのばす──と、和葉は勢い良く顔を上げた。

「それだけやないって、アタシもわかってますけど! アタシはアタシで、平次にとってそこそこ、大事な相手やって、わかってるんです。わかってるんですけど、やっぱり──ってことを、どーしても、ぐるぐる考えてまうから」

 和葉はふう、と息を吐いた。 

「平次がああなんも、アタシじゃ同じようには出来んのも、どうしようもないし。でも、いまのまんまは、アタシが嫌やから。何したいか、考えて、平次と話せな。──それ、わかりました」

 からりとした笑顔だ。

「うん。アタシがなりたいんは、弁護士さんとちゃうわ。わけわからんくなって迷走してました。すみません、アホな相談して」
「ううん」

 元気が出たようで、ホッとした。
 境子は笑う。

「後輩が出来損ねたのは残念だけど。向き不向きはあるし──正直、なれば稼げるってものではないしね。弁護士って」
「えっ、そうなんですか? 高給取りのイメージやったんですけど」
「人によるわね。妃先生レベルになればそりゃ、高給取りって言えるだろうけど、その分プライベートの時間なんてないくらいお忙しいだろうし、私みたいに事務所も持たずにお金にならない案件ばっかり取り扱ってる弁護士は、普通の企業に勤めてる人よりお給料少ないわよ」
「はー……弁護士さんも大変なんや。……あ、でも、境子さんは前に事務所持ってたんじゃ」
「維持できなかったの」

 そう、嘘をつく。とはいえ弁護士の稼ぎがピンキリなのは事実だ。
 変なこと聞いてすみません、と恐縮して謝る和葉に首を振る。

「まあ、その程度の弱小弁護士でもいいなら、これからも相談くらい聞くわよ。友だちもいない、独り身のアラサーだから、恋愛相談は正直不得手だけど」

 ニヤリと笑うと、和葉は気まずげな顔をした。

「アタシは進路相談のつもりで……。あと、平次の軽口は、まともに取り合うことないです。あのアホ、口悪いから」
「でも、遠山さんだって、子分って言われたの気にしてたんでしょう」
「そ、れは、そうやけど……」

 境子はふきだした。

「気にしないで。気にしてるけど、そこまでではないから。だいたい、事実だし」
「はあ」

 和葉は困った顔をして、境子を見つめた。

「そんな風には、見えんけどな。境子さん。優しいし、かっこええし。もてそう」
「そんなこと初めて言われた。お世辞でも嬉しいわ。──まあ、恋人がいたことがないわけではないんだけど、しばらくはいいかな」
「どんな人やったか……とか、聞いてもええですか」

 おそるおそるうかがう和葉に、肩をすくめる。

「面白い話は何も出来ないけど。……同業者、みたいなものだったかな。優しい人だった」
「なんで、あかんかったんですか」

 問われ、考える。

「──なんで、だったのかしらね」

 羽場と別れた理由。
 風見にも問われたが、理由なんて、一言では言えない。

「色々と、事情はあったけど……そうね。嘘を、つかれていたし……嘘を、ついていたから、かな」
「ウソ?」
「と、言うより隠し事、かな。……ああ、さっきのは、私のことだったのかも。私は彼に言っていなかったことと、言えないことがあった」

 公安の協力者であること。だから、羽場を雇い入れたこと。
 いま振り返れば、境子はそのことを羽場に告げようかと、悩んだことは一度もなかった。
 言うつもりなんて少しもなかった。そういう契約だったし、それが当たり前だと思っていた。
 それが、公安の協力者というものだ。
 世の中を良くしていくためには、きれいな手段だけ取っていればいいわけではなくて、そのために公安に協力することも、必要悪だと思っていた。そしてそんな汚い世界のことなんて、真っ直ぐで正義感の強い羽場は知らなくていいと、思っていた。
 世の中には、表と裏がある。人にも。──それは、当たり前のことだと。
 そして。
 羽場にも裏の顔があったことを、あの日知った。
 何故、と、裏切られた、と思って、そう思った自分を、愚かだと思った。
 橘境子には表と裏の顔がある。それが当たり前のことなら、羽場二三一にも裏と表があっておかしくない。
 裏切られた、なんて、羽場も同じ気持ちだっただろう。
 彼のことを、愛していた。それは本当だ。
 でも境子は結局、羽場のことを何も見ていなかったし、彼と一緒に生きていくためにすべきことを何一つ、しなかった。
 それを理解した瞬間に、目が覚めた。
 羽場が逮捕された一件がなくても、自分たちはきっといつか、終わっていた。終わりは、必然だった。

 羽場との終わりを話した後に、風見に「ありがとう」と言われたことを、思い出す。
 あの男が後悔をしていた、とは思わない。あの男は、職務に忠実で、覚悟もある。境子のことは、あの男にはどうしようもなかったことで、あの男はそのことを理解している。
 結局境子は公安の連中にとって駒の一つに過ぎなくて、狂った人生だって、掛け違えた感情だって、取りこぼした存在だって、彼らの大義の前では塵も同然。何の意味もない。
 風見も、自分が出来なかったことを、それによって、境子の人生が狂ったことを、意識して受け止めただけ。──きっと、そんなところだ。
 風見に出来ることなんて何もないし、謝られたところで、気が済むわけではない。
 ありがとう、と。言われても。
 何かが、報われるわけではない。
 腹が立った。でも、この怒りだって、塵の一つだ。
 ──あの時風見は、どんな顔をしていただろうか。
 ふと、大人びた子どもの、途切れ途切れの声を思い出す。

『あの時、あの人は他に、どうしようもなかったんだ。それを、ボクは知ってて。……でも、どんな事情があっても、やったことは変わらないから。あの人はきっと、ごめんなさいは言えないし、言わない。……そのことも、ボクは知ってるんだ』

 頑なになっていた境子を、羽場に会わせた子ども。ただの毛利家の居候のはずなのに、何故かあの時屋上にいた、あの場で謎解きの中心にいるように見えた子ども。
 江戸川コナン。
 そんなこと、境子だって知っている。
 コナンの言う「あの人」──あの場で彼の隣にいた金髪の男と同じように、風見がごめんなさいなんて絶対に言わないことを、言えないことを、知っている。
 協力者、だったのだ。
 親しくなんてなかった。事務的なやり取りばかりで、一緒に酒を飲んだのもこの前が初めて。
 それでも、彼がどうしてそういう態度を取っているかを、知っていた。
 己の職務を全うするために全力を尽くしていることを、知っていた。
 よくやる、と思っていたし、駒のように思われていることも知っていたけれど、境子はそれを受け入れていた。自分で、それを選んだのだ。──だから。
 風見は礼なんて、言う必要なかった。
 なかったけれど──でも、自分はあの時本当に、解放されて協力者ではなくなったのだと、彼にとって、礼を告げられる他者になったのだと、そう実感出来た。
 喜びなんて当然無く、悲しみもなくて、ただ、終わってしまったのだなと思った。
 すっと、終わりを理解した羽場との別れ以上に、あの時の方が気持ちが動いたかもしれない。
 これまで振り回されてきた「公安」という組織の象徴が、境子にとっては風見だったのだ。

「好きだったのよ、恋人のこと。それは本当。でも、どこかに私が守ってあげてるんだって、気持ちがあったのかも。泥も全部、自分がかぶって飲み込んで、何も知らないで真っ直ぐでいて欲しいって。……そのために、隠し事をすることを、当然だと思ってた。あっちも、そうだったのかもしれない」

 そこまで言って、境子はふと気づき、口を押さえた。

「……参ったわね。さっき言ったの、服部くんじゃなくて、全部私のことだわ。それで駄目になった、私のこと」

 二人で話をするべきだとか。どちらか片方が何かを押さえ込んだ関係は長続きしないだとか。
 全部、到底対等だったとは、胸をはって隣にいたとは言えなかった、自分たちのことだ。
 急に羞恥がこみ上げて、境子は額を押さえた。

「……忘れてちょうだい。ほんとに」
「えっ、そんな! 境子さん顔上げて下さい! めっちゃ勉強になりました。ほんまです」
「……いいの、反省させて」
「反省なんて、することないです。ほんまに、ほんまです。アタシ、ちゃんと平次と話します。──平次も境子さんと同じようなこと、考えてるかもしれんし」

 境子は、顔を上げた。
 ホッとした顔をする和葉を、いい子だなと思いながら、首を振る。

「服部くんと私は、違うと思う。だって、彼はあなたにちゃんと言ったんでしょ? 公安の刑事に会っていること」

 ぱちり、と和葉は瞬きした。

「え、と。……でも、それはちょっと強引に聞き出しただけで」
「それでも、話してくれたんでしょう? ごまかすことだって、出来たはずなのに」
「……それは。でも」
「詳しい事情は、教えてもらえなかった?」

 こくり、とうなずく。

「いままだ、言えんって」

 和葉はぎゅっと、膝の上で手を握った。
 境子は苦笑した。

「誠実ね。──遠山さんからすれば、中途半端に情報開示されても心配になるだけだって、思うかもしれないけど。でも、答えられることは答えるし、あなたに嘘をつきたくないってことじゃないかな。私たちの身勝手な隠し事とは、違う」

 ぱちり、ぱちりと、大きな目が考えを咀嚼するように瞬く。
 すがるように、境子を見てつぶやく。

「……そう、やろか」
「ええ。──私は服部くんのことよく知らないから、推測だけど」

 和葉はがくりと肩を落とし、こちらをにらんだ。

「最後までちゃんと保証して下さい」

 リアクションがわかりやすいのは関西人ゆえか。拗ねた顔をする和葉に、笑う。

「そこは、遠山さんが考えないと。彼のことを一番良く知ってるのは、あなたでしょ」
「……ハイ」

 和葉は口をとがらせ、しかし、うなずいた。

「──そう、やな。平次は、隠し事するけど、下手くそやし、嘘はつかへん。ごまかされとるなーって思うことあるけど……うん。それ、アタシもいまはごまかされといたるかって、思ってるんです」
「……そう」
「やっぱ納得いかんこともあるけど! でも、アタシ、考えます」

 きっぱり、和葉が言い切ったところで、スマホが鳴った。

「──あ、平次や」
「終わったって?」
「ハイ。いまからこっち来るて」

 和葉はすいすいと返事を打つ。 

「遠山さん」
「はい?」
「お願いが、あるんだけど」
「へ?」

 和葉は手を止め、きょとんと境子を見上げた。