橘境子は知っている 2




 境子は、己の身の程をよく知っている。

 境子は昔から、なんでも出来た。勉強は得意で、不得意な科目はひとつもなかったし、高校の時は陸上部で県大会に出場した。器用で料理や軽い日曜大工もこなす。一人暮らしをして困ったことは特にない。顔立ちも、誰もが振り向くような美人ではないけれど、悪いわけではない。恵まれている、と言っていいだろう。
 ──ただ、そのどれもが、「平均、あるいは、平均よりやや上」という程度に過ぎないことを、境子はよく知っていた。
 弁護士になるために境子は相当努力したが、同期の中には大学在学中に司法試験に合格するような子もいて、彼らと話していると、自分とはまるで出来が違うのがよくわかった。
 境子が何十回と繰り返して覚えたことを、彼らは一度でさらりと覚える。境子がどれだけ考えても出てこないようなアイディアを、パッと出してくる。
 同じ話を聞いていても、同じものを見ていても、彼らの目や耳に入ったものと、自分のそれが同じだとはとても思えなかった。
 高校に進学して。大学に進学して。就職して。──公安の、協力者になって。
 それぞれの段階で、その都度、境子は自分が凡人であることを実感してきた。
 自分はせいぜい優等生というレベル。
 本当に出来る人間は、頭のいい人間は、世間にたくさんいて、そして、年齢は関係ない。
 ──だから境子は、「高校生だから」という理由で、服部平次を侮るつもりは微塵もなかった。



 服部が予約を入れたというお好み焼き屋は、繁華街から少し離れた所にあった。
 古いお店で、観光客向けというよりも地元のお客さんが多いような、そんなお店だ。
 服部は慣れた様子で店の戸を開けると、店員と一言二言話して、奥に向かった。
 店の中はそこそこ混雑している。こんな所で話が出来るのかなと思いながら進むと、奥は靴を脱いで上がる座敷で、襖で区切られていた。家族客が使うのだろう。
 四人向けの部屋に案内されて、服部が店員に注文をする。

「──あ、頼むもん、勝手に決めて大丈夫でしたか」
「ええ、おすすめで問題ないわ。あ、私、生ビールひとつ」

 テーブルの上のお品書きに目を落として、店員に追加注文する。

「服部くんは、ウーロン茶でいい?」
「ハア」
「以上です」

 境子がにっこり笑ってそう言うと、店員は注文を復唱して去って行った。

(──さて)

 境子は、正面に座った服部に向き合う。
 和葉は、この場にいない。一対一で話をしたいからと、外してもらったのだ。
 少し踏み込んで話をしたい。その話を、和葉に聞かせることを服部が良しとするか、わからない。服部が聞きたいことは、多分和葉がいては聞きにくいことだ。
 そう、率直に伝えると和葉は複雑な顔をしたが、しかし、あっさりと一時間後に合流するという条件で引いてくれた。

「ちゃんと後で平次に、話せることは話してもらうんで」

 和葉はそう言って笑った。
 いい子だ。
 腹を割って話せとアドバイスしながら、彼女の心配事を増やすような真似をして申し訳ないと思う。
 橘境子は公安事件専門の弁護士。和葉にとっては、不安要素のひとつであることは、承知している。

 ビールとウーロン茶が運ばれてきた。

「じゃあ、お疲れ様ってことで」
「何がお疲れなんかわかりませんけど」
「事件を解決してきたんでしょう?」

 境子は「お疲れ様ー」と勝手に乾杯すると、グラスをあおった。

「はー、生き返る。──恋愛相談なんて、日頃されないから緊張して疲れちゃった!」

 ぶ、と服部がウーロン茶を吹きかける。

「れ……な、」
「うん?」

 首を傾げると、服部はもごもご歯切れ悪くたずねてくる。

「……和葉のやつが、なんか」
「ええ、でも個人的な相談だから……。服部くんには、ね」

 境子はゴクゴクと半分ほどビールを飲んで、肩をすくめて見せた。
 服部は顔をしかめる。境子はわざとらしく胸を押さえた。

「久しぶりにピュアな子とお話しして、パフェ食べて、胸がいっぱいで、私。ビールの一杯でも飲まないとやっていられなくて」
「パフェ? お好み焼きの前に……」
「デザートは別腹でしょ」
「それは飯食うた後の話ちゃうんかい。なんでお好み焼きの前にパフェ……」

 服部は呆れたようにぶつぶつ文句を言っている。そこに、お好み焼きの材料が運ばれてきた。

「あ、生ビールもう一杯」
「……まだ飲むんですか」
「服部くんも大人になったら、昼から飲むお酒の美味しさがよくわかるわよ」

 境子は肩をすくめて、服部が鉄板を確認する様子を眺めた。

「セルフ?」
「は? ああ……焼くんはオレがするんで」
「じゃあお任せしようかな。大阪に来た人には、お好み焼き食べてもらうものなの?」
「そりゃ、大阪に限らず、地元のうまいもん食わしてやるのがオモテナシってやつやろ」
「なるほど」
「ま、何度来ても忙しゅうて食い損ねる奴もおるけど」

 話しながら、お好み焼きが焼けるのを眺める──が、服部の手つきは頼りない。どうにもきれいにまとまらないのを見かねて手を差し出せば、服部は大人しくコテを境子に譲った。
 ビールを飲み干してコテを受け取り、なんとかリカバリーに成功する。二枚目に取りかかりながら、境子は気まずげな服部を見て苦笑した。

「大阪の人って、みんなお好み焼きとタコ焼きが作れるのかと思ってた」
「そんなわけないやろ」
「それは堂々と言うことなのかしら……? いつもは遠山さんが焼いてくれてるの?」
「……別に。店の人とか」
「ふーん?」

 もう一枚も鉄板の上に広げて、しばらく置いておいても良さそうだと判断したところで、せっかくだから写真でも撮っておこうと、バッグを手に取る。仕事用と違って小さめのバッグは、スマホと文庫本と、ポーチを入れたらそれでいっぱいだ。
 底に入り込んでいたスマホを出すためにカバーのかかった本を引っ張り出すと、服部がそれに目をとめた。

「何読んどるんですか」
「これ? 青崎有吾」
「へぇ。和製エラリー・クイーンやな」

 服部は口の端を上げた。
 たしか作家がデビューした時のキャッチコピーだったなと思い出す。
 ミステリーは読むし風見よりはマシだが、熱心な読者かと言われると違うと答える、境子はその程度だ。
 スマホでお好み焼きを撮影しながら聞く。

「高校生探偵さんは、ミステリーが好きなの?」
「そらまあ。橘サンは、国内ミステリ専門ですか?」
「そうね。それも、専門って言えるほどは読んでないけど。服部くんは、海外?」
「何でも読むけど、一番はやっぱりエラリー・クイーンやな」

 その名前に、図書館で会った風見のことを思い出す。
 少し考えて答える。

「名前は聞いたことある。何書いてる人だっけ」
「国名シリーズとか、Yの悲劇とか」
「ああ……なんだっけ、『ローマ帽子』、かな。それだけ、読んだことあるような」
「他には? 海外の作家は全然ですか」
「全然。読んだことあるのは、定番過ぎて恥ずかしいけど、アガサ・クリスティとか……。実は、シャーロック・ホームズもほとんど読んでないくらいなの。ちょっと古い気がして」

 スマホを置いて、そろそろ頃合いだろうとお好み焼きをひっくり返しながら言えば、服部はふきだした。

「そんなん聞いたら、工藤が卒倒するわ」
「工藤くん? 東の高校生探偵さんは、ホームズが好きなの?」
「そりゃもう。何読んだんです?」
「スタンダードに、長編を最初から二つほど」
「ますます激怒や」

 服部は愉快そうに言って肩をすくめた。

「にしても、さすがにそれが最初ってことはないやろ。まだらとか、赤毛とか、短編を学校の図書館で読むんがセオリーちゃいます?」
「あー、私、小学生の時は江戸川乱歩派だったのよね……」

 境子は香ばしい匂いがしてきたお好み焼きの様子を注視しながら答える。

「橘サンのとこは、ホームズか明智小五郎か、ですか」
「他にも選択肢があるの?」
「オレんとこは、ホームズとルパンの二択やったな」
「ああ、なるほど。ルパン……ルパンは無かったかな……。覚えてないわ、二十年近く前のことなんて。服部くんは、その二択だとホームズだったのよね、きっと」
「まあ、そうですね」
「遠山さんは? 一緒に読んだりしたの?」
「そんなんせんわ。『人が死ぬ話なんて野蛮や!』ってぷりぷり怒っとったから、あいつ」
「それは、服部くんが和葉さんを無視して本に夢中だったからじゃない?」

 からかうように言うと、服部はむすっと口をへの字に曲げた。その目の前に、焼き上がったお好み焼きを滑らせる。

「どうぞ」
「すんません、お客さんにさせてもうて……。──ソースとか、かつお節とか、そっちにあるんで」
「どういたしまして。ソースは……これね。了解」

 コテを置いて、同時に焼きあがったお好み焼きにソースとマヨネーズをかける。ついでにかつお節と青のりも景気よく振りかけて、境子は「いただきます」と手を合わせた。
 割り箸を割って、一口。
 出来たてのお好み焼きは、美味しかった。

「美味しい! お好み焼き久しぶり。自分で作ると尚更美味しく思えるわね」
「……そら何より」
「あー、ビールが欲しい……」
「はぁ」

 そこに聞いていたようなタイミングでビールのおかわりが届いた。
 服部が無言でお好み焼きを食べるのを眺め、ビールで口を湿らせてから、たずねる。

「──で? 遠山さんにもらった時間は一時間だけど。私に何が聞きたいの?」

 正面からそうたずねると、服部は視線を上げた。
 その目を見て、小細工は無駄だったなと悟る。
 唐突に和葉を外したことも、彼女からの恋愛相談をほのめかしたことも、一時的な動揺は誘えたが、彼はそれを引きずるタイプではなかった。
 学生の彼の前で、昼から酒を飲むような真似をしてみても、こちらを侮ってもくれない。

(元々、分の悪い賭けではあったけど)

 それでも、少しでも形勢有利に出来るなら打てる手は全て打つ。それが境子のスタイルだった。
 気弱で頼りない弁護士を妃親子の前で演じていたのだって同じこと。服部相手にそれをしなかったのは、同業者の妃と違って、学生にはそもそも、弁護士という肩書きが一定の警戒をされるものだからだ。特に服部のようなタイプには、下手に出来ないふりをする方が疑われるとも思った。
 多分それは正しかった。そして、小細工も通用しなかった。
 一瞬で変わったまなざしを見ればわかる。
 つまり、形勢はこちらの不利。
 服部平次は、有名な高校生探偵で、公安の風見裕也が対等かそれ以上に見ている相手でもある。境子では敵うはずがない。
 敵うはずはない──が、それでも、ただ負けるつもりもない。

(情報を、引き出すこと。それを風見さんに渡すこと)

 それが境子の目的だ。
 境子はにっこりと笑って見せた。

「聞きたいことがあるなら、何でもどうぞ?」
「風見裕也を知っとるな?」

 服部が前置きも何もなく、ズバリと切り込んでくる。
 境子はうなずいた。

「勿論。警視庁公安部の刑事ね。階級は、警部補だったかしら」

 お好み焼きを箸で切り分けて、口に運ぶ。
 焼き上がって、温度が落とされたばかりの鉄板は、まだ熱を保っている。少し熱いお好み焼きを、ビールで流し込む。──美味しい。
 お好み焼きとビールを堪能してから、口を開く。

「毛利さんの事件の担当は風見刑事だったから、勿論、証拠の確認でやりとりしたわよ」

 それ以上でも以下でもない、という口調で答えれば、服部はじっと境子を見てから、お好み焼きを大きめに切り分けて口に入れた。
 ここで言葉を重ねてこないのは、上手い。
 境子は、服部の反応を不思議に思っているような素振りをしてから、思い出したように付け足す。

「そういえば。──さっき和葉さんから聞かれた。多分、風見刑事かなって特徴の刑事を、知ってますかって。……服部くんと付き合いがあるみたいだけど、大丈夫な人なのか知りたいって。──私は、よく知らないし……そもそもあそこの人たちが大丈夫か大丈夫じゃないかって言ったら……ね?」

 肩をすくめて見せる。

「無責任なことも言えないし、知らないふりしといたから」
「──そら、どうも」
「どういたしまして」

 あまり心配をかけるなよ、という目で服部を見て、境子は喋りすぎないようにせねばと思いながらビールを飲み、残り少なくなったグラスを軽く振って、店員を呼んでおかわりを頼んだ。
 服部が「何杯飲むんだ」という目でこちらを見る。軽く首を傾げて見せてから、たずねる。

「それで? つまり、あなたはこの前の事件に興味があるの? それで私に話を聞きたい、ということでいいのかしら」
「まあ、そうやな」
「既に解決した事件だと思うけど、聞いてどうするつもり? ……探偵の好奇心ってやつ?」

 境子は呆れた様子を作って、肩をすくめて見せた。

「感心しないわね」
「……何がや」

 顔をしかめる服部に、境子は物わかりの悪い子どもに言い聞かせるような口調で告げる。

「あなたも知っての通り、あの事件は公安案件よ。素人が好奇心を理由に下手に嗅ぎ回っても、いいことはない」

 服部の目に一瞬反発が浮かぶ。
 若い反応だ、と思ったが、その目はすぐにこちらを探るような落ち着いた色に変わる。
 油断は禁物だ。境子はため息に見せかけて呼吸を整えた。

「……あの事件では、毛利さんも被害者の一人だった。それは確か。でも、逮捕が公になったわけでもなく、起訴されたわけでもない。結果として、毛利さんたちはこれまで通りの生活に戻れた。だから──『何もなかった』。そういうことよ」

 服部は黙って境子の言葉を聞いてから、お返しのように肩をすくめた。

「権力に阿るような考え方には賛成出来へんけど、確かに、当事者のオッサンや姉ちゃんが『何もなかった』ことにするっちゅうなら、オレがわざわざ大阪から首突っ込んで引っかき回す理由はないな。──本来は」
「大人しく出来ない理由が、なにかあるとでも?」
「そのために、あんたと話をしとる」

 境子は真意を探るように服部を見つめる。
 服部が危険を承知で首を突っ込む理由。──それは、風見の話を信じれば、あの少年のため、なのだろう。
 あの事件であの子が利用されていたことを察して、そして、これ以上の危険が及ばないか、探ろうとしている。それは立派なことだが、しかし、無謀でもある。
 あの少年は、服部にとってそれほど大切な存在なのだろうか。
 服部は、黙って境子の視線を受け止めている。
 ふと、和葉の顔が思い浮かんだ。

『……平気な人なんかなって』

 不安げにそう言って、ろくにパフェを味わうことも出来ていなかった彼女。
 風見のことを境子にたずねた和葉と、あの子のことを探ろうとしている服部は、同じではないか?
 そう気づいて、不意に気持ちが尖って、境子はそれをごまかすために目を伏せた。

(なら、同じように対応すればいいだけ)

 彼女を安心させるために嘘をついたように、服部に対しても、彼を安心させるような嘘をつけばいいのだ。
 隠して。ごまかして。何も言わずに、相手を守るために。
 あの少年が「服部を巻き込みたくない」と思っていることを考えても、きっと、それが正解なのだろう。
 そんなことを考えながら視線を戻すと、バチリ、と目が合った。
 服部はまっすぐに境子を見ている。

「……」

 境子はわずかに残っていたビールを飲み干して、たずねた。

「──それは、遠山さんを不安にさせても、しなければならないことなの?」

 一瞬、服部の眉間にしわが寄る。間を置いて、しかし服部はきっぱりと答えた。

「そうや」
「……勝手ね」

 挑発するような嘲笑に、しかし、服部は冷静だった。

「そんなもん、何十回も何百回も考えた。──これがオレの独りよがりやっちゅうことも、知っとる。それでもこれは、オレにとって重要な案件で」

 服部はそこで言葉を探すように一度口を閉ざした後で、堂々と言い切った。

「和葉の件とは、『別腹』や」

 ──別腹。

「……あのね」

 脱力する。
 境子は額を押さえた。
 もう少し、言い方というものがあるのではないか。
 そう忠告をしたかったが、何をどう言えばいいのか思い浮かばず、ため息をつく。

「……いえ、もういいわ。話を聞くくらいは、しましょう。出来れば、私まであの人たちに目をつけられないように配慮して欲しいものだけど」
「そら、その必要があるなら勿論」

 服部はさらりと答えた。
 この先の話が、行って欲しくはない方向に行くことは間違いなさそうだ。
 境子はまたため息をついて、「あるに決まってるでしょ」とお好み焼きに箸を突き立てた。

「それで? 何の話をしてたんだっけ?」
「あの事件の話」
「そうそう、そうだったわね。あの事件の、何が知りたいの?」

 ため息まじりにたずねると、服部はあっさりと答えた。

「あの事件で、毛利小五郎が逮捕された理由。──あれは、仕組まれたことや」
「それは、そうでしょうね」

 境子は同意した。あれが誤認逮捕だったということが明らかになったいま、そこは誰にも否定できない。
 服部は境子の反応に怯むことなく続けた。

「けど、真犯人の日下部っちゅう検事が、捜査の目をそらすためにあのオッサンをスケープゴートにしたわけやない。もしそうなら、オッサンが逮捕された後に新しい事件起こす理由がない」
「そうね」
「なら、誰が、なんのためにオッサンを逮捕したか、や」

 そこで店員が生ビールを運んできたので、境子は空になったグラスと交換で受け取ってから、たずねた。

「それで、あなたの考えは?」

 促せば、服部は話し出す。

「オッサンの逮捕に何の意味があったか。──オレは単純に、あの件を事件化したかっただけやろうと思っとる。最初のニュースじゃ、事故の可能性もあるっちゅう論調やったしな。──でも、それやと困る奴らがおった」

 服部は、お好み焼きを食べながら、一語一語、境子に聞かせるようにゆっくりと言う。
 境子は黙って続きを促すようにうなずく。

「それは、誰か。さらに、そんなことが出来るのは、誰か。──警察や。そんで、毛利のオッサンを選ぶっちゅうことは、捜一の連中やない」

 服部はそこで言葉を区切って、境子を見た。視線でボールを投げられ、境子は仕方なく口を開く。

「……なら、あの人たち、でしょうね。最初のテロで身内に死者も出たし、面子の問題もある。あと、犯人が公安検察の日下部検事だったことから帰納的に導けば、早期に身内の誰かの犯行を疑っていた検察側、あるいは公安警察が、身内の目を欺きながら真犯人を逮捕する証拠を集めるまでの時間稼ぎをした……って可能性もあるかもしれない」

 服部はうなずいた。

「犯人の目星がついとったのか、ついとらんかったのか、それはわからん。──けどどちらにせよ、問題になるんは、『なんで公安の連中が毛利小五郎を選んだのか』や」

 境子は口を閉ざす。
 この件に関して、境子は何も知らない。聞かされなかった。ただの協力者がそれを知っている必要は、なかったからだ。だから、聞きもしなかった。
 しかし、いまとなれば何となく、察するものはある。
 でも、そんなことが本当にあり得るだろうか。──あんな、子どもが関係しているなんて。
 彼が特別な少年であることはわかっているが、それでも、小学生だ。彼はたまたま巻き込まれて、理由は他にある。そう考えるのが自然だ。
 考えながら、口を開く。

「単純に考えれば、強力な証拠になり得る指紋が入手しやすくて、かつ身内ではない人間が、毛利さんだったってことじゃないかしら」
「そんな人間、他にも山ほどおるやろ」
「……そうね」

 公安には、こういう時に罪をなすりつけるにふさわしい人間なんて、リストで管理するくらいたくさんいるだろう。

「なら服部くんは、どう考えてるの?」

 たずねると、ふっと、服部の口の端が上がる。

「『何故毛利小五郎だったのか?』──そんなん、実際オッサンを逮捕してから起きたことを考えればええ」
「毛利さんを逮捕してから、起きたこと……?」

 境子は眉間にしわを寄せた。

「逮捕されて、起訴寸前まで行って、そこで新しい事件が起きて、毛利さんの起訴は取り下げられた。──毛利さんを逮捕することで、日下部さんが動く……と考えた? 彼ら、知り合いだったかしら。……まあ、元警察官なら、接点があってもおかしくはないけど」
「残念やけど、あの二人に過去接点はない。だからその線はなしや」
「調査済みってことね。──ではもっと瑣末なことに注目した方がいいのかしら? そうね、毛利さんが逮捕されて、娘の蘭さんと配偶者の妃先生が悲しんだ」

 ふざけた軽い口調で言って、服部が口を開く前に、思いついて付け足す。

「そして、東の高校生探偵──工藤新一くんが、捜査に乗り出した」

 服部がわずかに目を見張った。
 
(──やはり、ここには何かあるのか)

 そっと呼吸を整える。
 境子は、正直工藤新一をめぐるいまの状況を、よくわかっていない。だから、どこまでが触れて良い話題の範囲か、判断がつかない。
 行方不明になっている、と風見からは聞いた。でも、一般的には「最近話題を聞かないな」くらいの認識が普通だろう。実際、境子だって風見に聞かなければそんなことになっているなんて、知らなかった。和葉と初めて会った時にだって話題に出たし、あの事件で妃親子とあの少年の近くにいる時に、「新一」という名前を聞いたのは確かだ。工藤新一の話をするのがおかしいということはない。

(それに、もしかしたら風見さんが知りたい──いえ、あの人が目をそらしている何かに、つながるかもしれない)

 境子は覚悟を決めて、何でもない素振りで続ける。

「何故、毛利小五郎だったか。──『毛利蘭の父親だから』って理由が、考えられるかもね。彼女、工藤新一くんの友人なんでしょう? それとも恋人なのかな。……それは知らないけど、親しくしている子の父親の危機に、力を貸さないわけがないんじゃない?」
「……工藤が、あの事件の捜査をしとったって?」
「違うの? あの時彼の姿を見たわけではないから、実際どうだったのかは、知らないけど。服部くんは何も聞いてないの? 知り合いなんでしょう?」
「別に、いちいち何の事件に関わったか話すほど、べったりしとるわけやないからな」
「愛読書は知ってるのに」
「それはそれや」

 ふうん、と境子がうなずくと、服部は「それで?」と続きをうながした。境子は肩をすくめる。

「ただの思いつきだし、これ以上のことは別に……。でも、『日本警察の救世主』なんて言われてるくらいだから、彼は当然、警察とは知り合いなんでしょ? 実力は、警察内でもよく知られているはず。公安は、毛利小五郎を逮捕すれば、工藤新一が解決に乗り出すとふんだのかもしれない。そうかんがえると、もしかしたら、毛利さんのポジションには蘭さんがいた可能性もあったかもしれないわね。サイバー犯罪で逮捕される人間の中には、驚くほど若い子もいるし、むしろ、毛利さんが犯人だっていうより自然かも。いまの時代、たとえ十三歳の子どもが殺人鬼だったとしても、昔ほどの驚きなんてないし」

 服部は顔をしかめた。境子は笑ってビールを飲む。

「まあ、あの人たちもさすがに女子高生に無実の罪を着せるのはためらったのかな。──って、全部ただの妄想にすぎないけど」

 しかし、これはあり得るかもしれない。
 風見の口から彼の名前が出たことを考えれば、可能性は高いと言えるのではないか。彼と江戸川少年がどんな関係なのかは知らないが──もしかしたら、助手のようなものなのかもしれない。明智小五郎と小林少年のような。
 そう考えると、しっくりきた。──いや、しっくりきたというよりも、「まだ境子の常識の範囲内に収まる」──が近いが。
 何かをごまかそうとしているような据わりの悪さを頭を振って払い、ニコリと微笑んで服部を見る。

「この推理はどうかしら? 高校生探偵さん」
「悪ないな」

 服部はあっさりと、そう言った。

「でしょう」
「──問題は、あんたがどこで、工藤の名前を聞いて、今回の件に関わっとると思ったのか、やな」

 境子はお好み焼きにのばしかけた箸を止めた。
 頭の中で、いままでの会話を高速で振り返りながら、答える。

「名前は、裁判に関するやりとりをする中で、蘭さんたちから」
「直接?」
「ええ」
「嘘やな」

 服部は即断した。
 境子は無言で、お好み焼きを口に運ぶ。
 ──実際、それは「嘘」だ。
 風見にも特に説明はしなかったが、境子が新一の名前を知ったのは、妃の事務室に仕掛けた盗聴器からだ。
 服部はゆっくりと説明する。

「工藤はいま、面倒な事件を抱えとって、周りに影響が及ばんように身を隠しとる。せやから、姉ちゃんたちは身内以外の人間がおるところで、工藤と連絡を取っとるような発言は、絶対にせん。名前も極力、出さんようにしとるはずや」

 自分が見聞きしたことを振り返り、境子はそっとため息をついた。

「……そうね。確かに、工藤くんの名前を直接聞いたわけではないわ」
「なら、どうやって知った」
「立ち聞き」

 ビールのグラスを手に取り、短く答える。

「褒められた真似じゃないことは、わかっているわ。でも、彼らは毛利さんの身内だから……何か重要なことを、隠しているかもしれない。もし、その隠しごとが裁判の時に暴かれたら、不利になる。だから、私が席を外している時に何を話しているか、こっそり聞いていた。……工藤くんの名前が出たのは、その時ね」

 真実が半分。言っていないことが半分。
 盗聴器を仕掛けたのは、風見の指示とは関係なく、境子の事情だ。自分の思うようにことを運ぶために、情報が欲しかった。
 盗聴器はあの後、書類の確認を口実に妃の事務所を訪れて、回収している。

「あんたが姉ちゃんたちをコソコソ探っとった理由は、それだけか?」
「勿論」
「それも、嘘や」
「何を根拠に、そんなことを言っているのかしら」

 服部はじっと境子を見つめた後で、口を開く。

「毛利のオッサンの件は、あえての誤認逮捕や。毛利小五郎が有罪になる前に、真犯人は逮捕される。そう、あるべきや。ただし、すぐ逮捕出来るかわからんかったら──当然、保険をかけるやろ。万が一毛利小五郎が起訴されても、上手いこと裁判を長引かせられるように。それがコントロールできる、弁護士っちゅう立場に、自分とこの手のモン仕込んどくのは、当たり前のことやないか?」

 服部の目が、まっすぐに境子を射貫く。境子は服部の言葉をゆっくりと咀嚼し、目を瞬かせた。

「……つまり、私が怪しい、と? ああ……だから風見刑事のことも、わざわざ話に出したの? 私とあの人がグルじゃないかって」

 境子は口の端を吊り上げた。
 なるほど、そういう道筋で境子に至り、元々境子を怪しんでいたということか。
 鋭い子だ。高校生探偵の名は伊達ではない。
 毛利小五郎の誤認逮捕を知っていること。彼個人と風見とのつながり、そして毛利家やあの子とのつながり。──服部が持つ情報は確かに多いが、それでも、風見と境子に関係があると推測するのは簡単なことではないだろう。
 やはり、彼は手強い。
 背筋が震える感覚をおぼえながら、しかし、境子はにっこりと笑った。

「ものすごい想像力ね。──探偵ではなく、作家にでもなった方がいいんじゃない?」

 服部は顔をしかめた。

「それ、犯人の定番セリフやけど、自白と受け取ってもええんか?」

 境子は笑った。

「ごめんなさい。一生に一度言えるかどうかって台詞を言う、絶好の機会だったから。でも事実、あなたの話は想像に過ぎない。それとも、何か証拠があるの?」
「ないな」

 あっさりした答えに、境子は大げさに目を見開いて肩をすくめた。

「お話にならないわね。──それに、君は妃英理って弁護士を全然わかっていない」

 境子は残り半分ほどになったビールグラスを見つめる。
 チラリと店の時計に目を向ければ、四十分が経過したところだった。
 和葉が現れるまで、時間はあまりない。

「妃英理はね、法曹界では有名な『無敗のクイーン』なの。優秀な人間が揃っている弁護士の中でも、特別に優秀。今回、確かに妃先生は直接弁護が出来なかったけど、代わりに誰が弁護につこうと、それこそ、私みたいな裁判で勝ったことがないダメ弁護士が担当になろうと、バックに妃英理がいるなら、完敗はありえない。相手が公安でもね。──妃英理っていうのは、そういう弁護士」

 一気に話して、ひとつ息を吐く。

「なんで毛利小五郎だったか? ──あなたの言うように、時間稼ぎが理由なら、それは『妃英理の夫だから』じゃないかしら? 彼を逮捕すれば自動的に、日本一優秀な弁護士がついてくるんだもの。何も言わなくても、仕込みなんてしなくても、時間なんていくらでも稼いでくれる。元警察関係者、あるいは、あの人たちがスケープゴートに仕立てられる人たちの中に、一体何人、弁護士を配偶者に持つ人間がいる? しかも、妃英理クラスの有能な弁護士を」
「──一理あるやろうな」

 服部はうなずいたが、反論する。

「でも、本人は弁護に立てん。──そもそも、目的が時間稼ぎだけやなかったら、どうや。例えば、毛利小五郎をそのまま真犯人にしてしまえって話になった時、今度はその妃英理や、妃英理の言うままに動く弁護士が、厄介な障害になる」
「……それは、公安側が真犯人の公表を良しとしなかったらってこと?」

 顔をしかめると、服部は肩をすくめた。

「十分あり得るやろ。日下部っちゅう検事は、幸い検察にとって切って問題ない人間やったけど、もしあの組織の中で重要な人物やったらどうや。そんな人間がテロ起こしたなんて、公安の面子にかけて言えんっちゅうことになったら? そうする時のためにも、いざって時には必ず妃英理を裏切る弁護士が必要や」

 あり得ないとは言えない。
 境子はため息をついて同意した。

「……そうね」

 もし本当に、そうなっていたら。その時は、毛利小五郎の知名度が上手く利用できただろう。
 『あの有名な名探偵・毛利小五郎がテロの実行犯だった!』なんて記事が一度でも出たら、本人や弁護士が何を言おうと、実際どうであろうと、世間が勝手にヒートアップして、あることないこと暴き立てる。そして、人々の記憶には毛利小五郎が真犯人であることが「事実」として残る。──真犯人から目をそらさせるには、これ以上ない隠れ蓑だ。
 実際。風見たちは、それも考えていただろうか。そもそも、真犯人について何をどこまで掴んでいて、あの行動に出たのかは、わからない。
 風見のあの様子から考えれば、そこまでのことは考えていなかっただろうと思うが──どうだろうか。公安の考えることなんて、想像出来たことも、理解出来たこともない。
 境子は余計な思考を振り払うように、首を振る。

「でもそんな保険、そもそも、毛利小五郎をスケープゴートに選ばなければ必要ないんじゃないの? 犯人だと一度公表してしまえば、毛利さんみたいな有名人でなくても、世間の目はそちらに向く。むしろ、力のない一般人を犯人に仕立てた方が、いつまでも騒がれるリスクを減らせるはず。公安だって、後ろ暗いことは早々に風化させたいはずだもの。そうなるとむしろ、毛利小五郎という選択肢は最悪よ」

 服部は黙って聞いている。境子は続けた。

「最悪の時のことを考えていたにせよ、いなかったにせよ、ただ時間稼ぎがしたかったなら、わざわざ毛利小五郎を引っ張り出す必要はない。誰かを適当に犯人に仕立てて、自分たちで優秀な弁護士を手配すればいいだけ。それに、毛利さんの知名度は、諸刃の剣よ。あんな有名人を逮捕して、もしどこかで情報が漏れたら? 今回はたまたま何もなかったけれど、真犯人にたどり着く前に毛利小五郎の逮捕がマスコミに漏れる可能性は、十分にあった。そうなったら、捜査どころじゃない。リスクが大きすぎる。──『時間稼ぎがしたい』は、『何故毛利小五郎だったか』という問いの答えにはなり得ないわ」
「せやな。それは、理由やない」

 服部はあっさりとうなずいた。

「そして、だからあんたが公安の関係者やないっちゅう説明にもならん」
「それは、その通りね」

 境子はうなずいた。

「でも、あなた、私のことを調べたんじゃないの?」

 境子がカードを切れば、服部は一瞬気まずげな顔をした。

「……羽場二三一のことなら、知っとります」
「彼が、私の恋人だったことも」
「……その話も、一応」

 境子は嗤った。

「なら何故、私が公安警察と繋がりがあるなんて、馬鹿なことを考えるの?」

 服部は頭を掻き、ひとつため息をついた後で、答えた。

「──橘サンと羽場が付き合うとった、ちゅう話は伝聞やった」
「なるほど。実際にはどうだったかわからない、と?」

 ビールを飲み干してグラスをやや乱暴に置くと、服部は気まずげに目をそらした。

「……半々、や。あり得る可能性は全て考える。それが探偵や。橘サンと公安がつながっとるなら、羽場を危険人物として近くに置いて監視しとったって考えられるけど、結果としてあんたは事務所をたたむ羽目になっとる。もっとも、これは世間の目をごまかすための一時的なことで、裏で支援を受けてたのかもしれん。せやけど、あんたらが恋人同士で、橘サンは取り調べで不審死した恋人のことがきっかけで公安に恨みを持っている──っちゅう話も自然や。事務所たたんで、心機一転ケー弁としてやり直して……毛利小五郎の弁護を引き受けたんも、自分の恋人と同じようにありもしない罪被らされた人に同情したからかもしれん」

 境子は少し笑った。
 実際は、そのどちらもが絡み合った、複雑な状態が真実だ。
 どちらもが正解で、だから、どちらも正しくない。

「半々と思いながら、それでもあなたは前者だと考えた。それは、どうして? ──私が、恋人を殺された恨みを抱えて生きるような、ロマンチックなタイプには見えないから?」

 露悪的な問いに、服部はあっさりと答えた。

「あんたが、事件後に休職しとるから。──後者……あんたがあの件に、表に出とること以上に関与しとらんなら、あの事件の後そうする理由がない」

 境子は目を瞬かせた。そして、思わずハハッと笑う。
 確かに、その通りだ。一足す一が二であるのと同じくらい、シンプルな計算。
 境子があの時したことと、その理由。複雑に絡まったそれを、服部がわかるわけがないのに、それでも彼は真実に近づいている。
 雁字搦めに入り組んだ境子の葛藤なんて、端から見れば、単純なものなのかもしれない。けれど。

「理由、ね。──事務所をたたんだのは、禊みたいなもの。毛利小五郎の弁護を引き受けたのは、妃先生に興味があったから。休職しているのは──」

 指をひとつずつ折りながら答え、そこで言葉を切って、にっこりと微笑んで言う。

「気分転換、よ」

 服部は目を細めた。
 境子は店員を呼んで、ウーロン茶を頼む。

「人が何を考えて行動するかに、一から十まで整合性のとれた理由なんてない。世の中、そんなものじゃない? ──さて、リミットはあと五分だけれど」

 境子は時計に視線を向けて、たずねた。

「時間稼ぎは毛利小五郎を逮捕した理由ではない。──なら、理由は何? あなたは、誰がそれを目論んだのか知りたかったみたいだけれど、まさか私だと思っているの?」
「まさか」

 服部はあっさりと否定する。

「なら、風見刑事?」
「それも、違う」
「なら誰が、何のために? そして、それを聞いてあなたは何がしたいの? 無辜の市民を利用した、その罪を償うべきだと、糾弾するつもりなのかしら?」

 風見と境子に関係があることを、服部はほぼ確信している。明確な答えをやるつもりはないが、しかし、そこは知られていたとしても、大きな問題にはならないはずだと、境子は考えている。
 風見だって、そこを知られたくないと思っているわけではないはずだ。彼が知られたくないと考えているのは、もっと別のこと。
 脳裏に、少年の顔が浮かぶ。──そして、羽場と最後に話をした時に、少年─江戸川コナンが口にした、「あの人」。
 服部はじっと境子を見つめて、何かを決意したような目で、口を開いた。

「オレは、知りたいだけや」
「……何を?」
「あの件の黒幕。風見サンの、上にいる人間が誰か」

 境子はテーブルの下でぎゅっと拳を握った。

「糾弾するつもりも、罪を問うつもりもない。ただ、あいつを巻き込んで──あいつに助けを求めたのが誰なのか、知りたい。オレの知る限り、そいつは、あいつの敵やない」

 服部は境子を見据えて、続ける。

「そいつが、オレの考える人間と同じ人間か。──オレは、知っておきたい」

 服部は、スマートフォンを取り出して、一枚の写真を表示した。
 明らかに隠し撮りとわかる、不鮮明な写真。
 それでも、中心に写った人物の顔は見て取れる。喫茶店、だろうか。カウンターと、エプロン。人の良さそうな笑顔。
 ──間違いなく、あの日警視庁の屋上で見た、あの少年の隣にいた男だ。
 こんな格好をしているところを見ると、特殊な任務についているのだろう。

「この男を、あの事件に関わる中で見たことあるか。……答えてもらえませんか」

 境子は服部を見つめた。
 あいつ、というのは工藤新一のことだろうか。彼は、工藤新一と、彼と関係がある少年を、守ろうとしている。そのために、この男が敵でないことを、確認したいと思っている。
 いや、「守る」というのは、少し違うだろうか。
 江戸川コナンは、服部平次を公安に関わらせたくないと思っている。なぜなら、危険な目に遭うかもしれないから。──それはつまり、江戸川少年自身が、危険な目に遭う可能性があるということだ。服部も、それを承知している。そして、少年と、おそらくは工藤の決意が固いことも、わかっているのだろう。だから、自分で動いて、彼らを助けようとしている。そのための情報が欲しいと、彼は言っている。
 境子は、江戸川コナンという少年のことを、ほとんど知らない。工藤新一には、会ったこともない。当然、服部平次とどんな付き合いをしていたかも、知らない。
 それでも、遠山和葉が服部平次のことを大切に思っていて、服部も彼女のことを大切に思っていることを、知っている。そして、服部がそんな和葉が心配することを承知の上で、それでもやらなければならないと思ったことがこれなのだと、理解していた。

(彼は多分、今日これまでの会話を正しく理解しているはず)

 考えた時間は、多分一瞬だったはずだ。
 境子は写真をもう一度見て、服部の目をまっすぐに見て、きっぱりと答えた。

「いいえ。一度も、見たことないわ」

 服部は、詰めていた息を吐いた。

「……そうですか」

 その時、店員がウーロン茶を持ってやってくる。ビールグラスを回収してもらったところで、店員の後ろから和葉が顔を出した。
 ──タイムアップだ。

「遠山さん。時間ピッタリね」

 心配そうな顔をしている彼女に笑って声をかけると、和葉はホッと息を吐いて頷くと、服部の隣に座り、きゅっと眉根を寄せて服部を見上げた。

「……話、終わったん?」
「おう、丁度いまな」
「ごめんなさいね、お腹空いたでしょ? 何食べるか選んで。……と、私ちょっと失礼してお手洗いに」
「あ、ハイ」
「三杯も飲むからやろ」

 服部が呆れたように言う。和葉が目を丸くした。

「え。そうなんですか」

 せっかく和葉にフォローする時間を作ってやろうとしたのに、服部は少しデリカシーがないのではないか。境子は内心でため息をついて、わざとらしく目を伏せた。

「ええ、服部くんの質問が厳しいから、緊張してつい、お茶ばかり飲んじゃって……」
「は? 茶って」

 服部が目を丸くし、テーブルの上から消えたビールグラスと、代わりに乗っているウーロン茶のグラスに気づいて顔をしかめた。

「あんたな、」

 何か言おうとした服部の頭を、和葉が叩く。

「平次! なんちゅう口のきき方しとるん! 境子さんに失礼なことしたんちゃうやろな!」
「いや、」

 境子は内心笑いを堪えながら和葉をなだめた。

「遠山さん、大丈夫よ。私が勝手にあれこれ緊張してただけだから。お好み焼き焼いたのも初めてだったし、しかも地元の人に食べてもらうなんて……」
「きょ、境子さんに焼かせたんですか、このアホ!? ほんますみません! 平次、このアホ! お店の人に頼めばええやろ!」
「ぐ、いや、せやかて」
「言い訳はええから!」

 堪えきれずに吹き出してしまう。
 服部と和葉が気まずげに顔を見合わせた。境子はにっこりと笑った。

「さて、少し席を外すわね。──服部くん、遠山さんに話せることは話してあげてね」

 そこまで言えばさすがに通じたのか、服部は顔をしかめてうなずいた。
 カバンを手に席を外す。
 和葉が少しでも安心できるような説明が、服部に出来るといいのだが。

(──後は)

 この件を、風見に報告するだけだ。

「……何か、成果があればいいんだけどね」

 境子はつぶやいて、カバンの中のICレコーダーの録音ボタンを止めた。



 和葉が加わって和やかな空気のまま食事は終わり、二人と別れる時間になった。

「また、遊び来て下さい」

 名残惜しげな和葉の言葉に、境子はうなずいた。

「ええ。私で相談に乗れることがあったらいつでも乗るから、連絡してね」
「はい! アタシ、ほんまに連絡しますよ」
「待ってる」

 半ば社交辞令的にそううなずくと、和葉は境子の手を取って言った。
 
「ほんまに、ありがとうございました。話聞いてもらえて、次やることわかった気ぃします」

 そう、まっすぐにこちら見つめる和葉の言葉に、境子は一瞬、言葉に詰まった。
 細い指にきゅっと力がこもる。
 それをおそるおそる握り返すと、和葉は微笑んだ。つられて微笑む。

「──何か、力になれたなら嬉しいけど……心配も、かけてしまったわね」
「それは、これから平次締め上げるんで大丈夫です!」

 元気に言う和葉の後ろで、服部が嫌そうな顔をする。境子は笑った。

「こちらこそ、ありがとう。──服部くんも、あまり遠山さんに心配かけないようにね。今回はあまりお役に立てなくて、ごめんなさい」
「いえ。──ありがとうございました」

 服部はペコリと頭を下げる。
 境子は笑って、二人に「またね」と手を振ると背を向けた。
 人ごみをかき分けて駅の改札をくぐり、やってきた新大阪行きの電車に乗って、息を吐く。
 まだ少し、和葉の手の感触が残っているような気がした。

(──いい子だった)

 新大阪駅でコインロッカーに預けていた荷物を回収して、スマホから予約した新幹線の時間を確認する。
 少しためらって、しかし予定通り本文にも件名にも何も書かずに、風見にデータを送りつけた。それから、電話をする。

『──はい』

 風見は昔と同じように、ワンコールで電話に出た。

「橘です」

 通話相手の番号は表示されているだろうから、無意味だなと思いつつ短く名乗って、用件を伝える。

「申し訳ありません。手違いで私的なデータをそちらに送ってしまったので、私が一分ほど前に送ったメール、開かずに削除していただけないでしょうか」
『……ああ、わかった』

着信を確認したのか、風見は短く答えた。
 白々しいやり取りだ。
 しかし、私的に録音した会話の音声データは、本人が所持する分には記録の範囲で問題ないが、他人に渡すのは問題がある。だから、「間違えて送った」ことにするし、相手も「聞かずに消した」ことにする。──これでセーフだなんてどちらも思ってはいないが、汚い大人の建前というやつだ。
 ため息をつくと、珍しく風見がたずねてくる。

『いま、駅か? これからまた移動するのか』

 背後の、駅のアナウンスが聞こえているのだろう。

「ええ。旅行は性に合わないって気づいたので、東京に戻ろうかなと」

 別に正直に答える必要はなかったが、何となく素直にそう答えると、風見は「そうか。気をつけて」と短く言って、通話を切った。
 ──変わらない。
 最小限のやり取りにどこか懐かしさをおぼえて、そんな自分に呆れる。
 もう既に終わったことだ。そして、これで本当におしまいだ。

「……さて、行くか」

 やるべきことは、終えた。境子はカートを持ち直して、新幹線に乗り込んだ。
 土産を買うのを忘れた、と気づいたのは、新幹線が出発して、名古屋を発車した時だ。
 豚まんかチーズケーキでも買おうと思っていたのに、すっかり忘れていた。一人暮らしで旅行の報告をする相手がいるわけでもないから別に構わないのだが、こういうところ、やっぱり旅行に向いていないと改めて思う。
 読み終えたカーの新訳を閉じて、スマホを手に取れば、メールが一通届いていた。
 何気なくそれを開いて、境子は顔をしかめた。



 風見が指定した店は、東京駅から境子の住むマンションの路線上にある、こじんまりとした居酒屋だった。
 橘の名前を告げると、個室に案内された。そこで初めて、今日はワンピースを着ていることを思い出す。風見の前ではいつも仕事着のパンツスーツだったので、私服で会うのは落ち着かない。
 しかし、軽いを引き戸を開けた先で既に飲み始めていた風見は、境子を見ていつも通り平坦な表情で「お疲れ」と言った。急に馬鹿馬鹿しくなって、持っていた紙袋を押し付ける。

「何だ?」
「お土産です」

 案内してくれた店員に焼酎を頼んで、向かいに座る。
 風見は袋の中を見て、眉を寄せた。

「……ひよ子に見えるが」
「ひよ子ですから。なんですか、他のものが良かったとでも?」
「いや。……ありがたくいただこう」

 風見は東京銘菓の入った紙袋を脇に置いた。境子は勝手にメニュー表を手に取り、焼酎を待ってきた店員に、魚料理中心のラインナップから適当に数点注文した。焼き鳥屋に行って焼き鳥だけ頼む風見が、いまテーブルの上にある刺身以外のものを頼んでいると思えない。文句が出なかったところを見ると、当たりだろう。
 店員が出て行き、境子はグラスを手に取った。

「それで? お呼び出しの理由は」
「帰ってきたら飲もうと言ったのは君だろう」
「その日のうちに、なんて一言も言ってませんけど。なにか、急ぎで釘でも刺さなきゃいけないようなこと、ありました?」

 ちびちびと焼酎を飲みながら問えば、風見はため息をついた。
 ──どうやら疲れているようだ。この男が疲労を見せるのは珍しい。単に多忙だったか、境子の送りつけたデータに問題があったか、あるいはその相乗効果か。
 服部平次がどうやら、風見たちが知られたくないことまで情報を掴んでいるらしいことは確定的で、それは面倒なことかもしれない。

(でも、あれは私と話したからどうこうって感じじゃなくて、前から察してたっぽいし。私が怒られる謂れはないわよね)

 店員がエイヒレを持ってきて、またすぐ出ていく。閉じた扉に目をやって、風見はエイヒレをつまむ境子を見てビールを飲むと、やっと口を開いた。

「服部平次に見せられた、写真か何かか? 何が写っていた」
「あの日、屋上にいた金髪の男性が。喫茶店? 飲食店かな? そんな感じのところで働いているところ。不鮮明でしたけど」
「……そうか」

 わかっていたのか、風見は頷いて、マグロの刺身をつまむ。
 風見が人を呼びつけておいて沈黙するのはいつものことだ。もう萎縮する理由もないので、次は日本酒にしようかなと、エイヒレと刺身を食べながらメニュー表をめくる。
 不意に風見が言った。

「あの話の最中……江戸川くんの名前を一度も口にしなかったのは、わざとか?」

 境子はメニュー表から顔をあげ、タコワサを持ってきた店員に日本酒を二合とお猪口を二つ頼んで、頷いた。

「ええ」

 風見はため息をついた。
 そう言えばタコ焼きを食べ損ねたな、と思いながらタコワサを口にして、黙ったままの風見に肩をすくめる。

「探るって言ったって、私が彼から何か聞き出せるとも思えなかったので。あの子が何か隠してるのは、彼も知ってるんでしょ? なら、あの子の名前を出したら警戒されるかなって。あとは、あの子の名前を出さないままあの事件の話をすることで、何か気づくことがあるかもしれない──まぁ、一切何の情報も得られないリスクはあるから、賭けでしたけど。そのご様子だと、何か有益な情報がありましたか?」

 ニッと笑うと、風見は顔をしかめた。

「……確実な証拠と言えるものは何一つ」
「それは残念」
「だが」

 風見はビールを一気に飲み干した。

「突飛な妄想を補強する話はあった」

 境子は目を瞬かせた。
 日本酒がきたので、ついでに風見にもついでやる。風見は大人しくお猪口を受け取って、酒を一気にあおった。

「それは、前に言っていた、突飛で信憑性に欠ける仮説の話?」
「ああ」
「それを否定するどころか、補強する話が出てきたと? ……それはそれは」

 境子は思わず笑った。

「ざまぁ見ろだわ」

 風見は顔をしかめた。

「ご機嫌だな」
「当然でしょ。風見さんの嫌そうな顔以上の酒の肴って、ある?」

 風見は無言で境子のお猪口に酒をついだ。

「どうも。でもこれ以上は手酌で結構」

 境子はそう断って、公安警察様につがせた酒を飲んだ。

「あー、良かった。わざわざ大阪まで行ったかいがあった! 修学旅行生の引率に間違われたり、女子高生の恋愛相談にのったり、高校生探偵に尋問されたりで大変だったんですから」
「それはご苦労だったな……」
「別に風見さんに労われる理由もないですけど」
「そういえば、何故服部平次に嘘をついた?」

 不意にたずねられて、境子はタコワサをつまむ箸を止めた。

「何の話です?」
「エラリー・クイーンなんて一冊しか読んでいないというあれだ」
「ああ」

 境子は肩をすくめた。

「もしかして、風見さんに『エジプト十字架』をすすめたの、彼ですか?」
「ああ」
「やっぱり。あまりあの話を広げると、私が知らないはずのことまで口にしちゃいそうだったので。……もっとも、彼は私と風見さんに何らかの関係があることを確信してたみたいなので、意味はなかったかもしれないですけど」
「なるほど」

 風見はうなずいた。その顔を観察したが、何を考えているか──全て見通しているのかは、わからない。
 再びタコワサに箸を伸ばし、食べ切ってしまったところで、風見が口を開いた。

「……橘は」

 風見はそこで言葉を切って、しばらくして「なんでもない」と自己完結した。
 境子もそのまま黙って、箸を進める。
 風見は、自分から口を閉ざしておきながら少し居心地が悪そうな様子で、境子が押しつけたエイヒレを咀嚼して、飲み込んだ後でまた口を開いた。

「……聞かないのか?」
「何をです」
「あの子のことだ」
「……ああ」

 江戸川コナンの秘密。風見が、境子と服部の会話で気づくことがあったというならば、境子にも少し考えればわかるのかもしれない。──あの子どもが、何者なのか。
 少し考えて、首を振った。

「私は、賢明な一般人なので。あなた方が調べているような厄介な案件に、首を突っ込むような真似はしません。──彼には義理があるけど、そこまでの思い入れもない。前に、そう言ったでしょう」
「……今回の件は、十分余計な関与だと思うが」
「嫌がらせですから。目的を達したので、撤退します。──風見さんも、私に構っている暇はないのでは?」

 風見の表情がげんなりしたものになる。

「服部平次からなら、すでに夕方連絡があった。来週、こちらに来るそうだ」

 境子は感心する。

「あの子、行動的ですよね。お小遣い足りてるのかしら」
「さあな」

 投げやりな言い方に思わず笑うと、風見は何か意外なものでも見るように、境子を見た。

「……何か?」
「いや。──そういえば今日は、見慣れない格好をしているな」

 いまか。境子は呆れてため息をついた。

「休職中で、仕事じゃないんで。私も私服くらい持ってるんですよ」
「ああ、私服……なるほど」

 ここで褒め言葉の一つでも付け加えるのが、格好に言及した側の礼儀なのではないかと思ったが、風見は特に何もコメントはせず、店員を呼んで別の日本酒を頼んだ。
 褒められても何様のつもりだと思うだろうが、何も言われないのも腹が立つ。しかし、褒める要素が特にないことくらいわかっているし、それでこそ風見だという気もする。さらりと女性を褒める風見裕也なんて、正直見たくない。
 むすっと黙り込んだ境子が何に機嫌を損ねているのか全くわかっていない風見は、やや困ったように新しく来た日本酒を自分でつぎ、海鮮サラダを取っていた境子に「飲むか」とたずねる。
 うなずくと、風見はガラスの徳利とお猪口を境子の方へ滑らせた。手酌でいいと言ったのを律儀に守っているらしい。
 酒は、香りが良く口当たりも良かった。少し機嫌が上向く。

「──私、酔ってるから言うんですけど」
「まだ三杯しか飲んでいないようだが?」
「昼にもビール三杯飲んだんです」
「……なるほど」

 棒読みの相づちを無視して、続ける。

「いろいろ、考えて。休むの、全然向いてないし。そろそろ仕事復帰しようかと」

 風見はじっと、境子を見つめた。

「復職、か」
「ええ。……まだ、私でも新しく始められるかもしれないと、思ったので」
「そうか」

 風見はホッと息を吐いた。肩の荷がやっと下りたような、しかしそれで良かったのだろうかと思っているような、複雑な表情だった。多分、明日にでも、公安の監視員から連絡があるだろう。
 公安の監視下で働くだなんて、最悪だ。けれど、それが自業自得であることは十分承知していたし、境子はいま、弁護士という仕事と再び向き合いたいと思っている。
 風見が境子の空になったお猪口に酒をつぐ。
 目を丸くした境子に、風見が自分のお猪口をかかげる。

「……なんですか」
「復職を祝って」
「別に、あなたに祝われるようなことじゃないですけど……」

 境子はそう言って、しぶしぶお猪口をかかげた。

「──これからも、風見さんの苦労が続くことを願って」

 境子の憎まれ口に、風見は苦笑して「乾杯」と言った。
 一気に飲み干した酒が、カッと胸を熱くする。
 今日のこの決断を、明日の朝には後悔しているかもしれない。けれど、自分で選んだ道だ。
 今度こそ、後悔なんてするものか。そう決めて、境子はお酒のおかわりを選ぶために、メニュー表を開いた。