親愛なる君に





 本を抱えて階下のポアロに行くと、店内はお客さんで八割ほど埋まっていた。

「いらっしゃい、コナンくん」

 ドアベルの音に振り返った安室が、ちらりと店内を見回した後「カウンターでいいかな?」と、カウンターの端の席を示す。コナンはうなずいてそこに座った。

「ケーキセット下さい」
「はい。今日は、蘭さんと待ち合わせ?」
「ううん。今日は一人」
「そう。──ケーキは何にする?」
「今日は、ショートケーキ。飲み物は、カフェオレでお願いします」

 注文を聞いた安室は瞬きし、少し間を置いた後で、「はい」と答えた。
 ちょうど席を立った隣の客のカップを片付けてカウンターの中に戻っていく安室を見送り、コナンは持ってきた本を開いた。
 表紙の、パイプをくわえた男の絵を指でなぞる。
 何度も何度も、暗記するほどくり返し読んだ本だが、今日という日は絶対に、この本を読むと決めているのだ。

 『シャーロック・ホームズの冒険』

 一番最初に読んだ、ホームズだ。
 今日は、五月二十二日。五月二十二日は、ホームズの作者アーサー・コナン・ドイルの誕生日なのだ。
 コナン・ドイルがこの世に生を享けなければ、敬愛する名探偵シャーロック・ホームズは存在しなかった。盛大にお祝いしてしかるべき重要な日だ。
 もっとも、だからと言って周囲を巻き込んで大騒ぎするつもりはない。
 一人で、お祝いのケーキを食べて、本を読む。それが、ホームズに出会ってから続けている、この日の儀式だった。
 夢中になって読んでいると、ケーキとカフェオレが置かれた。

「どうぞ。カフェオレこぼさないように気をつけて」
「ありがとう」

 読むのを一度中断する。
 運ばれてきたショートケーキには、つやつやの大きないちごが乗っていて、コナンは目を輝かせた。
 好きなケーキは、と聞かれれば「レモンパイ」と答えるが、誕生日には、やっぱりこれだろう。
 本当はこれをコーヒーと一緒に食べられたら最高──なのだが、小学生の体では、ブラックは注文出来ない。今年は妥協だ。
 コナンはフォークを手に取ると、一八五九年のこの日に生まれた偉大なる作家への敬意を心の中でつぶやいて、一口、ショートケーキを食べた。

「……うま」

 思わずつぶやく。
 ものすごく、美味しいショートケーキだ。
 ポアロでショートケーキを食べるのは、そう言えば初めてかもしれない。安室はまめにケーキの品揃えを変えていて、中には季節限定のものもある。そうなると、どうしてもそちらを優先してしまう。定番のショートケーキは、「いつでも食べられるだろう」と後回しにしていたのだ。
 目を丸くするコナンに、安室はさらりと「口に合って良かった」と言った。

「合う合う。……ポアロに来て正解だった!」

 今日。コナンは、どこでお祝いをしようか、少し悩んだのだ。
 事務所では、蘭にバレる。体が縮む前、新一のこの習慣を呆れた目で見ていた彼女に、コナンが同じことをしているのを見られるのはまずい。
 阿笠のところも、今日は駄目。阿笠は灰原をつれて外出予定だ。
 そうなると、残るは自宅。沖矢も、お隣の予定に合わせて出かけるかもしれないが、場所を借りるだけだし、一言言えば問題ないだろう──と、思ったのだが。今日は生憎、お隣のことは他の人に任せて、ジョディたちと大事な会議をする予定があるとのことだった。
 こちらが打診する前に、ジョディたちを招く許可を取られて、駄目と言えるわけがない。こちらの予定は、故人の誕生日祝いで、ただの趣味。FBIの仕事とでは、重要度は比較対象にもならない。
 赤井は同じシャーロキアンだ。暇だったら一緒にお祝い出来るかも……と少し期待していたので、やや残念だが、仕方ない。
 毛利家も阿笠家も自宅も駄目──となると、残りはポアロだ。
 ポアロではコーヒーが飲めないが、ケーキは間違いなく、美味しいはず。混んでいる夕方なら、適度に放っておいてももらえるだろう。──その見込みが、期待以上に当たったわけだ。

「ポアロのショートケーキはじめて食べたけど、美味しいね」

 もう一口、二口と食べて、カウンターの中の安室に声をかけると、安室は「ありがとう」と笑った。

「五月は本来いちごの旬の時期だからね。いまはハウス栽培が盛んでもっと早い時期に出回るけど……商店街の八百屋さんが仕入れてるところは、露地栽培なんだって」
「ふうん」

 よくわからないが、要は使ってるいちごがいいんだよ、ということか。何にせよ、美味しいケーキが食べられてラッキーだ。

「良かったですね、安室さん」

 隣にいた梓が言う。

「ちょっと前から、ショートケーキの改良頑張ってましたもんね」
「そうなの?」
「うん。定番だけど、注文数が伸び悩んでたからね。リニューアルが必要かなって」
「……へぇ」

 一体何をやっているんだこの人は、と呆れる。安室の本業は、ケーキ職人ではないはずなのだが。凝り性なのかもしれないが、特に最近は忙しかったはず。こんなことをやっている場合ではないだろう。

「あ、そういえば、安室さんと会うの今月はじめてじゃない?」
「ああ……うん、そうだね。お店には、一昨日から出てたけど」
「ほんっっと今回急でしたよね! いっつも急ですけど! 連休前に、『しばらくは大丈夫ですよ~』とか言った次の日に! 舌の根の乾かぬうちっていうのはこういうことを言うんだって、私、実感しましたよ」

 梓ににらまれ、安室は眉を下げる。

「すみません。ご迷惑おかけしました」
「……お仕事、忙しいの?」

 コナンがちらりと見上げてたずねると、安室はにっこりと笑った。

「──いや? そんなことはないよ」

 コナンもにこっと笑う。

「ほんと?」
「もちろん」
「……」
「……」

 にこにこ微笑みあうこと、数秒。
 コナンは諦めてため息をつき、ケーキに戻った。

(……ま、何があっても言うわけねーか)

 ともあれ。敬愛する作家の誕生日祝いに美味しいケーキが食べられたのだ。文句を言う必要はない。
 ケーキを半分食べて、もったいないからちょっと本を読んでからまた食べようと、ホームズを手に取る。
 この本には、有名な、コナンも大好きな話がたくさん入っている。

(父さんの本も、新名先生の左文字シリーズも好きだけど……やっぱホームズは別格だよな!)

 そうして。
 少しだけ──と、思っていたのに。夢中になって、気づいたら一冊読み切ってしまっていた。
 ハッと顔を上げると、ポアロの店内にはもう他に人がいなくなっていた。店員も、梓が帰って安室一人になっている。

「やべ」

 時計を見上げると、ギリギリ、夕飯前だ。
 慌てて、放置してしまったケーキを食べる。少し乾いて口当たりが変わってしまったような気もするが、大丈夫、まだ美味しく食べられる。
 そうは言っても、作り手に少し申し訳ない気持ちで、冷めたカフェオレを飲みながら視線を上げると、安室と目があった。

「随分夢中になってたね」

 笑って言われ、ホッとする。
 どうやら、頑張って改良したケーキを放置していたことは、さほど気にしていない様子だ。

「何を読んでたんだい?」

 聞かれたので、「これ」と本を手渡す。安室は受け取って、ふっと笑った。

「ホームズか。でも、コナンくんにとっては今更なんじゃないのかい」
「なに言ってんの。ホームズはいつ、何回読んだって、いいんだよ」

 ふうん、と楽しげに相づちを打ちながら、安室はぱらぱらと本をめくった。

「安室さん、ホームズに興味あるの?」
「そりゃあ、僕も一応探偵だから」

 最後の方までめくって──安室はふと、手を止めた。コナンは首を傾げる。

「どうかした?」
「あ、いや。偶然だなって。見て、著者の誕生日が今日だ」

 安室は、本を広げて、奥付にある、著者情報を指して見せた。

「『アーサー・コナン・ドイル。一八五九年五月二十二日、イギリス生まれ』──って。ね」
 
 ──ここでコナンが取るべき正しいリアクションは、知らなかったふりをして「へえ」と言うか、あるいは、当たり前のことのようにただ「そうなんだよ」と言うことだった、だろう。
 しかし、想定外の指摘を受けて、コナンは反射で、顔を赤くしてしまった。
 顔を真っ赤にしたコナンを見て、安室の目が丸くなる。
 まばたきを数回。そして。

「……へえ」

 その、どこか楽しげな声に、完全にバレてしまったことを察して、コナンは頭を抱えた。
 いつもは頼まないショートケーキは、お誕生日の定番。普段オレンジジュースを頼む小学生が少し背伸びをして頼んだように見える、カフェオレ。それらの特別を揃えた場所で、読み慣れたはずの本をわざわざ再読する意味。

「~~もう、本返して!」

 コナンは椅子に乗って身を乗り出し、安室の手から本を取り返した。
 絶対、絶対馬鹿にしている。
 大好きな作家の誕生日をお祝いしているなんて、子どもっぽいと思っているだろう。
 からかわれる前に帰ろうと椅子から飛び降りると、「待って」と慌てた声に止められた。

「……なに」

 照れも混じって、にらみつけるように見上げると、安室は「まあ座って」とコナンを抱き上げて元の椅子に座らせて、自分も隣に座った。

「──ごめん、からかうつもりはなかったんだ。……ただその、コナンくんにも可愛いところがあるんだなって……」
「子どもっぽくて悪かったね」
「そうは言ってないだろ」

 安室は困ったように眉を下げ、コナンが抱えた本を見つめた。

「……君は、本当に好きなんだな、ホームズ」

 黙っていると、安室はため息をついた。

「悪かった。君の密かな楽しみを、あばくつもりはなかったんだ。……本、もう一度見せてもらってもいいかな?」

 どうやら、安室は真剣に反省しているらしい。
 少し冷静になる。勝手に変な反応をしたのも、迂闊だったのも、こちらの方だ。
 許す言葉の代わりに、黙って本を差し出すと、安室はホッとした顔で「ありがとう」と言った。
 長い指が、今度はゆっくりと、ページをめくる。
 しばらくして、安室は口を開いた。

「これが、君が一番好きな本?」
「一番、は違うけど。最初に読んだ、ホームズの本……」
「そっか。……僕は、『まだらのひも』だったかな。図書館にあった児童向けの。この本にも入ってるね」
「……短編集は、やっぱり『冒険』だよ。『まだらの紐』も『赤毛組合』も、それにあの『ボヘミアの醜聞』も入ってるし」

 安室が昔のことを話すのは珍しい。答えながら、思わずじっと見つめる。安室は視線に気づくと、コナンに本を返して、にこりと笑った。

「ところで──『コナンくん』って名前は、コナン・ドイルから取ったの?」
「っ、う、ちの親も、ホームズ好きだから、ね!」

 反省タイムはあっという間に終わったらしい。にこにこと詰めてくる安室に、慌てて答える。

「ふうん、そうなんだ」
「そう、だよ? あれれ、前に言ったことなかったっけ……」
「そうだっけ? 忘れちゃったな」

 むすっと黙り込むと、安室は笑って立ち上がった。
 そのままカウンターの中に戻り、何か作業を始める。
 ──これ以上追及する気はない、ということだろうか。
 ため息をついて、そろそろ本当に帰らなければと椅子から降りる。

「ごちそうさまでした」

 そう声をかけると、安室は「ちょっと待って」と言って、作業を終えると、また出てきてコナンに紙の箱を手渡した。
 ケーキのテイクアウト用の紙箱だ。

「これ。残りで悪いけど、ショートケーキ。三つ入れたから、先生たちと食べて」
「え。でも……」
「もうこの時間だと廃棄になっちゃうしね。折角だから、今度はパサパサになる前に食べて欲しいな」

 付け加えられた言葉に頬をひきつらせる。やはり、ケーキを放置して本を読んでいたことを怒っていたのか。
 安室は苦笑した。

「なんてね。僕からの、誕生日祝いだよ。──名探偵と、名探偵の生みの親への、ね」

 受け取った白い箱に目を落とす。
 名探偵と、名探偵の生みの親。──ホームズと、ドイルのことか。
 でも、安室の言い方では、「名探偵」と「その生みの親」、二人の誕生日祝いだと言っているように聞こえる。

(ホームズは、誕生日不明なんだけどな……作者の誕生日が今日だからって、ホームズの誕生日も今日だって誤解するのもおかしいし)

 そこで、ふと気づく。
 今月誕生日の「名探偵」。──五月は、他ならぬ自分の、誕生月でもあった。
 半信半疑でおそるおそる視線を上げると、少し気まずげな顔をした男と目が合う。
 反射で、パッと目をそらしてうつむく。
 頭の隅で、「改良頑張ってましたもんね」という梓の言葉が勝手に再生されて、いやいやそれとこれとは関係ないだろうと首を振る。

(……関係、ない……よな?)

 でも。──もし。
 安室が自分の誕生日を気にしてくれていたとして。そのために、ケーキを改良してくれていたとして。
 急に、何か任務が入ってしまって。誕生日から随分経ってから、復帰して。タイミングを逸して出番が無くなったショートケーキを、何も言わずに店で出し続けていた……なんて。そんなこと、あるだろうか?
 もしそうなら、今日がコナン・ドイルの誕生日ではなくて、コナンがケーキを注文しなかったら……どうするつもりだったのか。──コナンのためのケーキを、他の人に食べさせて、それで安室は満足だったのだろうか。
 考えると、何だか腹が立ってきて、コナンは持っていたホームズを半ば叩きつけるように安室に押しつけた。

「なに、」
「これ。貸してあげる」
「……え? ああ、うん……?」

 戸惑う安室に、早口で言う。

「ホームズは人類みんな読むべきだから、安室さんだって読まないといけないし。この本は、すごくいいし。……安室さんも、今日コナン・ドイルが生まれたことを、もっと、感謝した方がいいよ」

 本を受け取って目を瞬かせた安室は、コナンの言いたいことを理解したのか、眉を下げて笑った。

「そうだね。──彼のおかげだ」

 素直にうなずかれてしまうと、調子が狂う。
 コナンはケーキの箱をぎゅっと抱えて、ぼそぼそとつぶやいた。

「……ケーキ、ありがと」
「どういたしまして」

 短い答えに背を向けて、店を出る。
 ドアベルの音がして、扉が閉まると、コナンは大きく息を吐いた。
 なんだか、走り出したい気分だった。でもケーキを抱えていてはそれも出来なくて、気持ちばかりそわそわと落ち着かないまま、中のケーキを倒さないように階段をのぼる。
 小五郎と、蘭と、三人で。
 安室はそう言ったし、結局そうするのだろうけれど──何だかそれはもったいないような、全部ひとりじめして食べてしまいたいような、そんなくすぐったい気持ちがじわじわと胸の奥にたまる。
 その気持ちを吐き出すように、コナンは玄関の扉を開けると、笑って「ただいま」と大声で叫んだ。