それでも立派な猫をかぶりたい




 スマホのアラームを止めて、起き上がる。
 小五郎を起こさないようにそろそろと窓に近づいて、カーテンの隙間から外をのぞく。

(――晴れてる)

 よし、と笑って洗面所に向かうと、蘭はもう起きていた。

「コナンくん、おはよう」
「おはよう蘭姉ちゃん」
「今日、晴れて良かったね」
「うん!」

 今日は、待ちに待った動物園の日である。
 キャンセルの連絡は入っていないし、安室は昨日もポアロにいて「明日は絶対大丈夫だから」と言っていた。今回は仕事でどこかに潜ってしまって連絡が取れないということも、ないはずだ。

「おにぎり作ったから、食べてね」

 そういう蘭は、今日も部活の練習だ。
 着替えておにぎりを食べていると、珍しく早い時間に小五郎が起きてきた。

「おはようおじさん」
「おー」

 くわっとあくびをして、小五郎は窓の外を見る。

「晴れたな」
「うん」
「はしゃぎ過ぎて途中でスタミナ切れないように、ちゃんと食ってけよ」
「はあい」
「お父さんは今日、いつも通り仕事? お昼何か作っていく?」
「いや、安室君がこいつ迎えに来る時に何か持ってきてくれるってよ」
「ほんと? あとでお礼言っとかないと」
「夕飯食ってってもらえばいいだろ」
「そうだね。何にしようかな。メインは買い物して決めるとして……」

 毛利親子の会話を聞きながら、もくもくとおにぎりを食べる。テーブルに置いたスマホは静かだ。
 安室が迎えに来るまで、あと一時間ほど。
 小五郎は新聞を読みながらおにぎりを口に運ぶ。
 ――おそらく、だが。もし安室に急用が入ったら、代わりにコナンを動物園に連れて行ってくれるつもりなのだ。
 小五郎は、コナンが動物園に行きたがっていると思っている。間違ってはいないが、大事なのは行先ではないので、「万が一」の時には、競馬でも連れて行ってもらおうかな、と思う。
 蘭が出かけて、十五分ほどしてから、玄関のチャイムが鳴った。
 待ち合わせの時間には、少し早い。
 玄関に顔を向けて動かないコナンに、小五郎が声をかける。

「安室君じゃねーのか?」
「うん……」

 早く来てしまっただけならいいのだが、「もしかしたら」を考えてしまって、立ち上がるのを躊躇していると、小五郎が立ち上がり、玄関に向かった。
 おはようございます、という挨拶が聞こえてくる。安室の声だ。
 しばらくして、小五郎は安室を連れて戻って来た。先日一緒に買った服を着ている。店員がすすめていた白にしたようだ。
 安室はにっこりと微笑んだ。

「おはよう、コナンくん。ごめん、まだ食事中か。ちょっと早く来過ぎちゃったね」
「ううん、もう終わる」

 どうやら中止ではないらしい。ホッとして、急いでりんごを口に入れる。

「焦って喉詰まらせんなよ」

 言いながら小五郎が頭にポンと手を置いた。その拍子に喉に詰まらせそうになって、小五郎をにらむ。

「これ、先生の昼食です」

 安室がランチボックスを取り出して、置いた。

「悪いなぁ、俺の分まで」
「いえ、ついでですし、お休みの日にコナンくんをお借りするわけですから」
「そんなもん、こっちが子守代払わないといけねーだろ、本来」
「子守なんてとんでもないですよ」

 話している大人を置いて食器を洗って片づけ、出かける準備をする。

(まずは、おさらいだ)

 本日の目標。
 まず、可愛い動物との相乗効果で己の可愛さをアピールすること。
 あとは、動物園に来ている親子連れ、特に若いママたちに安室が囲まれないように注意すること。
 そして、動物園に癒しを求めているらしい安室に楽しんでもらうことだ。

(あとは……いつもの安室さんと違う顔が見れたら完璧なんだけどな)

 ただ、何をすればいつもと違う顔が見られるかわからないので、そこは臨機応変に。
 荷物を持って居間に戻ると、小五郎にコーヒーを入れていた安室が振り返る。

「準備出来た? じゃあ行こうか」
「うん」
「気をつけろよ。あんま安室君に迷惑かけるなよ」
「わかってるよ」
「では、お預かりします」
「行ってきます」

 家を出て、駅に向かう。今日は電車だ。

(安室さんと二人で電車って、不思議な感じ)

 他に同行者がいる状況でなら、一緒に電車に乗ったこともあるが、二人というのは初めてではないか。
 休日で、当然電車は混んでいる。とはいえ、動物園の最寄り駅までは一時間もかからない。少しの辛抱だ。

「はぐれないようにね」
「大丈夫。安室さん、荷物重くない?」
「お昼だけだから、大した量じゃないよ」

 駅に停車するたびに乗客は増える。大人が多いと周りに壁でも出来たようだ。小さいのは不便だよなと、ため息をつくと、安室がうまくスペースを確保して引き寄せてくれた。

「ありがとう」

 礼を言うと、笑みが返って来る。
 イケメンは真下から見上げてもイケメンなんだな、と妙なところに感心してしまう。鼻の穴が見えていてもかっこいい。

(今日はいつもと格好が違うからっていうのもあるかもな。……うん。やっぱこの服いいな。黒も良かったけど……まあ、黒はちょっと組織思い出すし、雰囲気硬かったもんな。うーん、でもこれはこれで雰囲気柔らかすぎて女子高生とか騒ぎそうな……)

 いまも電車内の女性がちらちら安室を見ている。いつものことと言えばいつものことだが、なんだか普段より視線が多いような気がして、ちょっと気に食わない。

(動物園で逆ナンされそう)

 動物園は遊園地と違って親子連れが多いとは思うが、友達同士で来ている女子だっているだろう。

(お洒落されると余計な心配が増える……普段着で来られても何か腹立つけど……)

 本日の目標のひとつは、安室が囲まれてしまうのを避けることだ。
 コナンは安室の指を引いた。

「どうしたの? 気分悪い?」
「安室さん」
「うん、なに? 一度降りる?」
「大丈夫。――それより安室さん、今日は、ボクのことちゃんと見ててね」

 安室は目を丸くした。それを見上げて、続ける。

「よそ見したらその隙にボク、転んだり、いなくなったりしてるかもしれないよ。注意してね」

 念を押して、ぎゅっと指を握ってみたが――ノーリアクションだ。
 走って転んだり、目を離すといなくなるのはいつものことだから、脅しとして弱いだろうか。それとも、今日は安室が選んだ安全性の高い服を着ているので、転んだところで膝を擦りむいたりしないから別にいいと思っているのか。

(ん? いや待て、これ、また真顔になってるだけか? なんでいま。何隠そうとしてんだ。……脅されて腹立ててるとか? これくらいで怒るとも思えねーけど……)

 しかし、早起きして弁当を作って、子ども連れで荷物を持って、混雑した電車に乗っていたら、イライラすることもあるだろうし、そんな時に妙なわがままを言われては腹が立つかもしれない。

(謝っとくか)

 コナンは上目遣いに安室を見上げ、安室の指をきゅっと握った。

「えっと……ごめんなさい」
「……」

 安室はにっこりと、笑みを浮かべた。そしてコナンの手を拘束するようにしっかり握る。

「余計な心配をしなくても、君から目を離すなんて危険なことはしないから、安心するように」
「ほんと?」
「……心配なら、本気で首輪つけるよ」

 低い声での脅しに、思わず叫ぶ。

「児童虐待!」
「洒落にならないことを大声で叫ばない。……君ね、本気で心配をしてるなら、自分のことを全然わかっていない」

 ちらちらと向けられる視線に、安室はため息をついて小声で言う。「ごめんなさぁい」と謝って、周りへの大丈夫ですよアピールで安室の足に抱き着いておく。
 コナンは安室を見上げ、首を傾げた。

「自分のことを……って、いや、わかってるよ。ボクほど不審な子どもはそういないってことでしょ」
「……君は確かに不審だけどね」
「だけどさ。安室さん、放っておくとすぐ女の人に捕まっちゃうんだもん。今日は特にかっこいいから、危ないよ。安室さんこそさ、自分のことちゃんとわかってる? お店でにこにこ愛想よくするのは仕方ないのかもしれないけど、今日は仕事じゃないんだよ?」

 これは、一対一の勝負なのである。安室だって、首を洗って待っていろと言ったではないか。

「安室さん、いつも危ないから猫は自分だけにしろって言うけど、だったら安室さんだって、危ないからボクだけにしてよ」

 にらむと、安室はまた何とも微妙な顔をして、何か言いかけて結局止め、大きなため息をつくと、コナンの頭を撫でた。

「――わかった。よくわかったから……駅に着くまでどっちが長く口を開かないでいられるか、競争しようか」

 黙っていろ、ということか。馬鹿にしている。コナンはムッとして、安室の足をえいえいと踏みつけてやった。





 安室とコナンは、動物園の入場口で立ち止まり、ゲートを見上げた。

「……動物園だね」
「動物園だよ」

 ついに、だ。ここにたどり着くまでに数ヶ月かかっているので、妙に感慨深い。
 しかし、ここは文字通りスタート地点だ。ここで達成感にしみじみしている場合ではない。

「よし、行こう安室さん」

 親子連れ中心に、人はたくさんいたが、大混雑という程でもない。赤ちゃんパンダが生まれた、とニュースになったのは少し前のことなので、来場者数も落ち着いたのだろう。そう考えると、時間が空いて良かったのかもしれない。

「安室さんはチケット買うでしょ」

 安室は「買っておいた」とチケットを取り出した。

「小学生は無料なんだね……動物園なんて久しぶりに来たから初めて知ったよ。お詫びに僕が出すよって、言おうと思ったのに」

 冗談めかして言われて、ふきだす。

「そんなの、お弁当で十分だよ。じゃあ、まずはパンダ!」

 方向は看板を見なくてもわかる。ほとんどの人がまずそこに向かうからだ。

「まずはパンダ見なきゃって人、多いみたいだね」
「開園後が一番、赤ちゃんパンダの目撃率が高いらしいよ」
「へぇー」

 列に並びながら相づちを打ったが、そこはコナンも調べていた。

(安室さんも調べたんだ)

 調べるのはこの男の得意分野なのかもしれないし、習慣のようなものかもしれないが、安室も動物園を楽しみにしていた証拠のようで嬉しい。

「パンダ見て、ゾウ見て、お昼食べて、爬虫類館行って、ハムスター……?」

 今日の予定を確認する。最初の相談から月が替わってしまったので、爬虫類館とハムスターの順番を入れ替えた。合間合間に移動しながら他の動物を見れば、そこそこ回れそうだ。

「そうだね。順調にいくと、ふれあいコーナー終わったら三時過ぎくらいかな。どこか見てもいいし、お土産選んでもいいかもね」
「あ、そうだ。蘭姉ちゃんたちにお土産買って帰らないと。パンダの赤ちゃんのぬいぐるみが欲しいんだって。園子姉ちゃんのと、二つ」

 お金も預かっている。園子には、「安室さんとデート? いいなぁガキンチョ」と盛大に羨ましがられた。

「ああ、じゃあどこかで一度早めにお土産見に行こうか。人気あるみたいだから、帰る直前だと売り切れてるかも」
「うん」

 列は順調に進み、パンダ舎に入る。小学生のコナンがいるため、二人は待機列でも前列側に並べている。上から流れてくる、フラッシュ撮影や大きな音は禁止、という注意放送を聞きながら、ふと気づいた。

(あ、ってことは、「抱っこして」作戦は難しいのか)

 有希子と立てた作戦は、パンダが見えないこと前提だ。案の定、たどり着いたガラス越しのパンダの部屋は、コナンの身長でも隅から隅までよく見えた。動物園の気遣いが行き届いている。――今回は余計だが。

「あれ……でも、部屋の中、いないね」
「外の運動場かな」

 大人のパンダは部屋の中にいて、ごろごろする姿が見えた。

「おじさんみたい」

 コナンの感想に、弟子は大人しくノーコメントを貫いた。

「そういえば、おじさんが服のお金本当に足りたのか気にしてたよ?」
「僕も聞かれた。アウトレットだからって言っておいたよ」

 言っておいた、とはどういうことだ。やっぱり予算を超えていたのだろうか。
 費用が実際に資金を超えていたのかどうかは、正直コナンにはわからない。そもそも軍資金がいくらだったのかも知らないし、服が総額いくらだったかもわからないのだ。服は買ってもらうものなので、買う時に値札を見る習慣がないのが災いした。安室にもやたらといっぱい買わせてしまったが、いくらかかったのだろう。

(多分結構かかったけど……どれも似合ってたからいいよな?)

 着せ替えは本当に楽しかった。またやりたい。出来れば今度はスーツも着てもらいたい。かなり嫌がっていたから難しいかもしれないけれど。
 列が進み、屋外施設の前にくると、木や草むらが増えてやや全体は見えにくくなった。大人のパンダは見えやすい位置で食事中。しかし、肝心の子どものパンダはいない。
 いないね、と周りで見ている人たちも残念そうだ。

「小さいから、物陰にいると見えにくいって言ってたもんね……奥で寝てるのかもしれないし」
「うん。……あ、コナンくん、あそこ!」
「え?」

 安室の指す方向に視線を向ける。

「ほら、見える? 木の陰に小さいパンダがいる」
「ほんと? ……見えない」

 安室の言葉を聞いた周りの人も、そちらに注目し始める。長く止まらずに進んで下さい、というアナウンス。

(あ、いまここが「抱っこして」の使いどころでは)

 ひらめいて安室を見上げ、はたと気づく。
 安室はお弁当の入った、やや大きなカバンを提げている。これで、抱っこなんて出来るのか。
 安室なら物理的には可能かもしれないが、弁当を作らせて、持たせておきながらさらに抱っこを要求するのはどうなのか。――ない。
 安室が首を傾げる。

「コナンくん?」
「な、なんでもない!」

 慌てて首を振る。

「あそこの木の陰だよね。草むら揺れてるね」

 揺れている草しか見えないが。まあ大きなパンダは見れたし、これも運だから仕方ないか、と諦めたところで、頭の上から小さなため息が聞こえた。そして、急に抱き上げられる。

「わっ」
「ほら、見える?」

 慌てて、示された方向に視線を向ける。上から見ると、小さな白と黒がコロコロとひっくり返って遊んでいるのが見えた。

「――見えた」
「そう、良かった」

 進んで下さい、という誘導に従い、パンダ舎を出る。
 出たところで下ろされたので、礼を言う。

「えっと、ありがとう」

 安室は苦笑した。

「どういたしまして。君一人くらいそんな負担にならないから、遠慮しなくてもいいよ」
「だって安室さん、荷物いっぱい持ってるしなって思って」
「さっきも言ったけど、中身はお弁当だけだよ。そんなに気にするほどのものじゃない」
「そうかもしれないけど……」

 安室はしゃがんでコナンと視線を合わせた。

「遠慮される方が悲しいよ。せっかく二人で遊びに来たんだから、二人とも楽しくないと、だろう?」

 どこかで聞いたようなことを言ってにっこりと笑った安室に、うぐっと言葉につまる。

「パンダ、ちゃんと見えた?」
「……見えた。ちっさくてコロコロ動き回ってた」
「コナンくんみたいだったね」
「は? どこが?」
「うーん……落ち着きのないところ、かなぁ」

 顔をしかめると、安室はふきだした。

「ごめんごめん。でもあんな、人に見えないところでちょこまかしてるから、可愛いなって」

 可愛い。コナンは目を丸くした。

(可愛いって、いうのは…………パンダのことか。――パンダのことだな)

 一瞬だけ自分のことかと思ってしまったが、冷静になる。文脈で考えれば明らかだ。赤ちゃんパンダより自分の方が可愛いだろうと主張するほど図々しくはないつもりだが、面白くない。

(確かに可愛かったから、仕方ないけど。――ん……? 待てよ。可愛い動物と相乗効果、とか思ったけど、オレが食われてたら意味ないんじゃ)

 そんなこと考えもしなかった。子犬の時はうまくいったし、当然他でも同じように上手くいくだろうと思ったが――甘かったかもしれない。というか、自信過剰だったかもしれない。
 パンダと並んで可愛く、ハムスターと並んでなお可愛くというには、自分は力不足なのではないか。
 むむ、とうなるコナンに、安室は首を傾げた。

「どうしたの。パンダ、もう一回見るかい?」
「いい」

 キッパリと答える。

「それよりゾウ見に行こう、ゾウ! 安室さん、好きなんでしょ」

 手を引っ張って、ゾウのコーナーに向かう。
 ここは不利だ。
 敵前逃亡とかではない。戦略的撤退というやつだ。

「待って待って、コナンくん。そんなに急がなくてもゾウは逃げないから」
「でも、餌やり始まっちゃうよ」

 見たいと言っていたのだから、ちゃんと見せてやりたい。それに、ゾウならさすがに可愛さで負けることはあるまい。
 やってきた「ゾウの森」と書かれたエリアでは、丁度餌やりが始まったところだった。
 日に何度か餌やりの時間があるので、見物も分散すると踏んでいたのだが、そこそこ人がいた。最前列はコナンよりさらに小さな子どもたちで埋まっている。
 コナンは今度は遠慮せずに安室に手を伸ばした。

「安室さん」
「はいはい」

 安室は心得たように抱き上げる。

「わ、よく見える」

 高い位置からは、ゾウの足元まで良く見えた。

「餌、たくさんあるなぁ」

 コナンは近づいた安室の横顔を見つめた。真横から見ても顔がいい。――それはともかく。

(さて、抱っこしてもらったわけだけど)

 抱っこしてもらった時に、効果的な行動。先程は急だったので何も出来なかったが、色々考えてきたのだ。
 実家での作戦会議を思い出す。


「やっぱりさりげないボディタッチだと思うのよ。普段あんまり人に触られることがないところとか」
「……有希子さん」
「あ、でも警戒心の強い子相手だと、あんまり積極的に行くと逆効果かもね。……そうねえ、横顔をじーっと見つめて反応を待ってみてもいいかも」
「有希子さん」
「あら何、秀ちゃん」
「沖矢です。……それはいかがなものかと思いますが」
「見つめるだけじゃない。あ、手ぬるいってこと?」
「違います」
「そうね、それなら耳にこう、ふーって息を吹きかけてみるとか」


 有希子にふうっと息を吹きかけられた時のことを思い出して、コナンはぞわっと背筋をふるわせた。

(いや、あれは危険だろ。うっかり落とされたらどうすんだ)
「コナンくん? どうかした?」
「ううん。――ゾウ、大きいね!」
「そうだね……? ……あ、ほら、りんご食べてるよ。知ってる? ここの動物園のゾウの中には、王林しか食べないゾウがいるんだってさ」

 安室はそう言って指をさす。
 ゾウが餌を食べているだけなのだが、あれこれ豆知識を披露しながら、たくさん食べるなぁと、楽しそうに見ている。
 癒されているようで何よりだ。本日の目的がとりあえず一つはクリア出来そうでホッとする。

「――あ、もう終わりか。ゾウなんて久しぶりに見たよ。……ところで、コナンくん」
「うん?」
「……ちゃんとゾウ見てた? つまらなかった?」

 安室が困ったような顔で言う。コナンの視線に気づいていたのだろう。

「見たよ」
「……ほんとに?」

 疑わしげに再度問われ、肩をすくめる。

「ほんとだよ。……まあ、半分くらい安室さん見てたけど」
「半分……」
「えっと、八割くらいだったかも……」

 安室は何とも言えない微妙な顔をした。

「……動物園は動物を見るところだからね、コナンくん」
「でも、動物とたわむれる安室さんが見たいって、最初に言わなかったっけ」
「それはいいから、自分のことを見てればいいって言ってなかった?」
「安室さんも、ボクと動物、好きな方を見ればいいでしょ」
「それは」

 安室は言いさして、顔をしかめた。そしてつぶやく。

「……だまされないぞ」
「何が?」
「何でもない。次行こうか」
「え、もう終わりでいいの? ゾウはゆっくり見るんじゃないの」
「十分見たから、次に行こう」

 そう言って、コナンを下ろす。

(あ、抱っこもう終わりか)

 しまった。特に効果的なことも出来ないまま終わってしまった。

(でも、ふーってすんのは無しだし、安室さん警戒心強いから下手に触るのもな。楽しそうなとこ見れたしいいか)

 その後一通り、ライオンだの猿だの、定番の動物を、安室のガイドを聞きながら見て回っていたら、昼になった。あっという間だ。

「じゃあ、お昼ご飯にしようか」
「うん!」

 腕によりをかけて作る、と言っていたお弁当だ。
 天気もいいので、屋外の休憩スペースに場所を確保し、お弁当を広げる。

「……すごい」

 ランチボックスの中を見て、思わず感嘆の声がもれた。
 サンドイッチは色とりどりの具材で見た目も鮮やか。唐揚げも美味しそうだ。フルーツたっぷりのデザートのボックスには寒天ゼリーのようなものも見える。

「すごい。……時間かかったんじゃない?」
「そんなことないよ。慣れてるからね」

 しかし、ポアロで出てくるシンプルなサンドイッチとは違い、挟んであるのはベーコンだったり海老カツだったり、卵もオムレツと言っていいボリュームのものだったり、手間がかかっているように見える。野菜も、トマトやキュウリ、レタスだけでなく、具だくさんのポテトサラダやキャベツや人参や……とにかくたくさんだ。そんないろんなサンドイッチが、ちょっとずつ並んでいるのである。時間がかかったに決まっている。

「気にせずに食べて。お詫びの気持ちもあるって言っただろう」

 手をつけるのを躊躇するコナンに、安室は苦笑する。

「お詫びとかは、気にしなくっていいんだけど……でも、すっごく美味しそうだから早く食べないとね。いただきます!」
「どうぞ召し上がれ」

 具だくさんのサンドイッチを、こぼさないように気をつけながら食べる。

「……美味しい!」
「良かった」

 安室は笑って、自分もひとつ食べる。

「……うん。まあまあかな」
「安室さん、料理上手だよね。うちでもご飯作ってるの?」
「まあね。……うちには招待しないからね」

 ねだる前に釘をさされた。

「えー絶対にダメ? お詫びの気持ちっていうならボク、そっちがいいんだけど」
「駄目」

 安室はコナンの口に唐揚げを放り込むと、ポットからコーヒーを注いだ。
 もぐもぐと急いで咀嚼して飲み込み、「でもさ」と続ける。

「この前買った服着てるとこも見たいし」
「それはポアロに着て行くから」
「駄目だよ、ポアロで仕事する時にあんまりおしゃれしてると、また女子高生が大騒ぎだよ。それにほら、最初に着た服は、ポアロには着て来れないでしょ」
「……ああ、あの大きいやつね」
「そう。可愛いから、危ないよ」

 コナンは真面目に注意した。安室はかっこいいが、赤井と違って男臭さが薄いから、ちょっと大きめサイズなんて着たら可愛さが引き立つのである。
 可愛いが、安室の場合脱いだらガッシリしているわけで、そんなものポアロで披露しようものなら阿鼻叫喚の大騒ぎだ。

(母さんが言ってた、脱いでドキッとさせる技だな)

 あれは女性だから有効な手では、と思っていたが、そうではないのである。

(オレだって元に戻れば……ちょっと鍛えた方がいいかもしんねーけど。――がんばろ)

 コナンはうなずく。

「あれはね、部屋着にした方がいいよ」
「……そうさせてもらおうかな」
「でも、部屋着だと、家に行かないと見られないよね……」
「雑な誘導をしない。駄目なものは駄目」
「せっかく選んだ服なのに……」

 安室は無言でコナンの口にサンドイッチを突っ込んだ。海老カツが挟まれたサンドイッチはボリュームがある。一口食べて手に持ち、飲み込んで、口を開く。

「――あのさ。ボクが安室さんに服を選んだ意味、わかってる?」

 途端、安室がむせた。

「ちょっと、大丈夫?」
「ゴホッ……いや、大丈夫、だけど」
「コーヒー飲めば?」
「君の話を最後まで聞いたらね」
「ボクの話?」
「服を選んだ意味が何だっていうのかな」
「ああ。そんなの、『見たいから』に決まってるじゃん!」
「…………なるほどね。確かにね。僕も勿論そうだよ」
「でしょ? 今日は今日で、うん、満足だけど。他のも見たいなぁって思って当然じゃない?」

 安室はため息をついた。そして少しためらいがちに言う。

「……じゃあ、また出かければいいだろう」

 コナンは瞬きした。

「また……?」
「そう」

 安室はうなずいて、やや早口に続けた。

「また、動物園でも、映画でも、買い物でも。この前行けなかったケーキ屋さんに行ってもいいかもしれない」
「……本屋も」
「そうだった、本屋もね。――一緒に行ってくれる?」

 一緒に。コナンはくすぐったい気持ちをごまかすように海老カツサンドをもぐもぐと食べて、いいけど、と返す。

「今度は、延期にならないならね」
「努力する」
「あ、無理はしなくていいけど」

 忙しいのは、知っている。前にもこんな話をしたなと思って、最初に動物園の約束が駄目になった日か、と思い出す。
 気にしなくてもいい、と言ったコナンに、安室は物分かりがいい、と言った。あの時の微妙な反応を思い出すに、あんまり物分かり良く、ドタキャンされても気にしませんよ、という態度なのは良くないのかもしれない。
 そこで補足する。

「ええと、忙しいのはわかってるから、無理してまで一緒に出かけてくれることはないけど、っていうか、疲れてる時は休んで欲しいけど、無理じゃないなら一緒にどこか行けると嬉しいな……ってことなんだけど」

 安室は固まった。
 あ、またこれは何か隠そうとする顔か、とじぃっと見つめると、安室はたじろぎ、微妙に顔を赤くしてうめいた。

「……いま僕は反省している」
「え? 何に?」
「――フードの有用性に気づいた。確かに、フードがあるといざって時に役に立つ」
「うん? そうだね。……あ、寒いの? 移動する?」
「大丈夫」

 全然大丈夫には見えない疲れた様子で、安室は額を押さえる。
 朝早くから弁当を作って、人ごみの中子ども連れで移動して、その上所々で抱っこまでして、疲れたのだろうか。

「イチゴ食べる? 安室さん。ビタミンCを摂った方がいいよ」
「ありがとう……」

 安室の口にイチゴを押し込んで、休憩時間はゆっくり取るかと提案すると、安室は首を振った。

「大丈夫。次は爬虫類館だし……」

 どれだけ爬虫類を楽しみにしているのか。打ち合わせをした時には、コナンを可愛いものから引き離したいのでは、と疑ったが、これは本気で爬虫類が好きなのかもしれない。
 少し考えて、提案する。

「……あのさ、ふれあいコーナー、やっぱり一時にしない?」
「え? なんで? 一時はイグアナで、ハムスターじゃないよ。ハムスターがいいんだろう?」
「イグアナも、かっこいいかなって……」

 安室のこともある。あるが――それよりパンダ舎でのことを考えて、ハムスターに勝てるかどうか自信がなくなってきたのである。
 安室は不思議そうに、というよりも、疑わしげにコナンを見た。

「どうかしたの? あんなにハムスターがいいって言ってたのに。イグアナの後に爬虫類館行ったら、午後は爬虫類尽くしだよ」
「安室さん、その方が嬉しいでしょ」
「いや……そこまで爬虫類が好きなわけではないから」

 あっさりと首を振る安室に、なんだと、と顔をしかめる。どういうことだ。
 安室は更に言う。

「ハムスターがいいんじゃなかったの?」
「うーんと、それはそうなんだけど……どっちでもいいかなあって」
「なら、ハムスターにしようよ」

 安室はあっさりと言った。――おかしい。
 以前はあんなにイグアナを推していたのに。爬虫類が好きなのかと思えばそこまでではない、と言うし、あんなに微妙そうだったのにハムスターにしようと言う。コナンとハムスターの組合せを警戒していたのではなかったのか。
 そこで、ピンときた。

(……さっきのパンダだ)

 そうだ。安室も気づいたのだ。最初に見たパンダで、可愛い動物と合わせ技になろうと、コナンなど恐るるに足らずと思ったに違いない。

(……なるほど。……なるほどな)

 コナンはふっと笑った。
 なめやがって、と反発心が頭をもたげる。
 先ほどまで、勝てるかわからない、と弱気になっていたことも忘れて、コナンはやる気をみなぎらせた。

(パンダは、遠かったし! ハムスターは手の中だ。前回の子犬と条件は同じ。なめてかかると痛い目見るってことを教えてやろーじゃねーか。ぜっったいにハムスター補正で家に来てもいいって言わせてやる!)

 心の中でそう気合を入れると、コナンは顔を上げてにっこりと笑った。

「うん! じゃあ、ふれあいコーナーはハムスターね! ボク、楽しみだなぁ!」
「そうだね……?」

 急に態度を変えたコナンに、安室は首を傾げる。
 うっかり弱気になったりほのぼのしたりしてしまったが、これは勝負。勝負だったのだ。
 負けるものかと改めて気合を入れて、しっかり腹ごしらえしなければと唐揚げにかぶりつく。

「急いで食べなくても、時間はあるからね……?」

 安室は不安げにコナンを見ながら、そう言った。




 さて、改めて気合を入れ直して、午後。
 勝負はふれあいコーナーとして、この爬虫類館も、ただのんびりと見るだけではいけない。

(母さんから伝授されたことがどれだけ効くかはわかんねーけど。やるだけやらないと)

 そうして入った爬虫類館は、薄暗い施設ではなく、温室のような作りで、むしろ明るかった。

「今更だけど、コナンくんヘビとか大丈夫?」
「大丈夫だよ」

 きょろきょろ館内の様子を見ながら、他と比べて子どもが少ないように思える順路を進む。

(黙って手を握れば勝手に誤解してくれる……だっけ?)

 しかし、暗くて怖い、という雰囲気でもない。
 昼を食べて荷物が軽くなったことだし、ここでまた「抱っこして」をやってみてもいいかもしれない。水槽が高くて見えにくいものが一部あるから、不自然ではないだろう。

(でも、そればっかっていうのもなー)

 しかし、では何をしようか――となると難しい。
 考えてみれば。有希子がより具体的な案をあげようとするたびにいつも、昴が邪魔してきた気がする。

(――次は、昴さんがいない時に会議しよう)

 コナンはうん、とうなずいた。
 とりあえず、コナンが実践出来そうなアドバイスは、指をつかむ、じっと見つめる、抱っこしてもらう、くらいだ。

(指……は電車でやっちゃったじゃん。じっと見るのもゾウでやったし)

 安室は、ぐるぐると考えるコナンには気づかず、水槽を見ながら静かな声で説明をしてくれる。

「ここはこの前、リニューアルしたって言っただろう? リニューアルの目玉が水槽でね」

 コナンはじっと安室を見上げた。
 安室は、今日はこんな調子でずっとあれこれ説明してくれている。その話がまた、雑学知識は幅広く収集しているつもりの自分でも「へぇ」と思ってしまうものなのだ。つい聞き入ってしまう。

(……安室さんて、ほんと完璧だよな)

 だから、崩れた、いつもと違う顔が見たいと思うのかもしれない。
 安室は目の前の水槽の中にいるサンショウウオの話をしている。話は面白いし、サンショウウオの話をしていても顔がいいので、周囲の親子や女性の二人連れがガイドの話でも聞くようにそばで話に聞き入っている。
 コナンは安室の横顔を見つめ、無意識に手を伸ばした。

(こっち――)

 そう思ったタイミングで、安室がコナンに目を向ける。

「コナンくん?」
「あ、」

 口を開いた、瞬間。
 キャーッという悲鳴が、爬虫類館の少し湿った空気を切り裂いた。
 一瞬で意識が切り替わる。

「! 事件か!?」

 パッと、声のした方に駆け出す。

「コナンくん!? ――ああもう、君って子はまったく!」

 背後から、慌てた安室の声が追いかけてきた。





「日頃の君のことを考えれば、十分に想定される事態だったな……この前の買い物が何事もなく済んだのが、奇跡だったのかもしれない」
「……いや、ボクのせいじゃないでしょ」

 しみじみと言う安室に、ボソボソと抗議する。
 パトカーの赤色灯が目に痛い。
 ――悲鳴は、爬虫類館の水槽内に突然現れた死体を見た客のものだった。
 そこからは、いつも通りというか、何というか。
 警察の到着を待ち、証拠を探して犯人を割り出し、今回素直に協力的だった安室に推理を披露してもらって……とやっていたら、終わった頃には閉園時間になっていた。
 コナンは、結局たどり着かなかったふれあいコーナーに目を向ける。

「ハムスター……」
「そんなにハムスターに触りたかったの?」

 安室が苦笑する。

「……違うよ」

 人の気も知らないで。コナンはため息をついた。
 事件が起こって、そちらに夢中になった自分が悪いのだが、結局、今日の一番目的が達成出来なかった。

(ハムスターを味方につけて、アピールする予定だったのにな……)
「珍しいな、君がそんなにしょげるのは。……また来ればいいだろう?」

 なぐさめるように言われたが、余計に気持ちが沈む。

「……安室さんは、全然わかってない」

 今日が、重要だったのだ。
 またどこか行こう、と言っていたって、忙しい安室のことだ、次はきっとしばらく先になるだろう。だから、今日出来ることをしたかったのだ。

(でも多分、安室さんにとっては、また今度、で済む程度のことなんだな)

 考えてみれば、準備の段階からそうだ。例えば服。元々、安室はコナンの服を買おうとしていただけで、それは赤井への対抗心から。多分自分の分はついでだっただろうし、実際、買い物の時だって乗り気ではなかった。今日も、買ったから新しい服を着ているだけで、それがなければきっと普段と同じ格好だっただろうし、だいたい、一緒に買った服だって、バイトに着てくるというくらいだ。全然、特別ではないのだ。

(やっぱり、温度差があるよな……)

 そもそもの、互いの猫かぶりの演技の効果の差。相手に対する好意の差。今日という日に対する気合の差。

(――あ。そっか……)

 ふと、気づく。つまり自分はずっと、その差が気に入らなかったのかもしれない。相手が、自分と同じように思っていないことが。
 ちょっとした表情ひとつ、行動一つで心を乱されるのが、自分だけなことが。
 うつむいたコナンの前に、安室が目線を合わせるようにしゃがみ込む。

「コナンくん。――今日、つまらなかった?」
「……つまらなく、なかったよ。楽しかった。パンダ見れたし、ゾウとか、色々話してくれたの面白かったし。他も」
「それは良かった」

 安室は微笑んだ。そして、少しためらう様子を見せた後で、言う。

「なら、必死に予習したかいがあった」

 コナンは顔を上げ、目を瞬かせた。

「……予習?」
「そう。この前の買い物の時みたいに、君を振り回して疲れさせちゃいけないって、反省したんだよ」

 安室は気恥ずかしげに言った。
 予習。コナンは口の中でその単語を繰り返す。
 安室は今日、いろんな話をしてくれた。それは――パンダ館に詳しかったのも、動物の豆知識が豊富だったのも、爬虫類館の改装事情に詳しかったのも、この日のために予習したからか。

「お昼も、すごく頑張って作ったしね。早起きしたんだ」
「……安室さん、今日楽しみにしてた?」
「してたよ、勿論」
「楽しかった? 今日」
「楽しかったよ。――まあ、せっかく予習したハムスターの豆知識を披露出来なかったのは、残念だけどね」

 冗談めかして言われて、コナンはつられて笑った。安室がホッとしたように笑う。

「ようやく笑ったね。――まあ、事件が起きたものはしょうがないし、事件が起きたら君も僕も放ってはおけない性質だから……そこはお互い様で仕方ない。気にしないでいいよ」
「……そうじゃなくてさ」

 安室が楽しみにしてくれていたのは嬉しかったけれど、やっぱりわかっていないと、コナンはため息をついた。

「そこも反省してるけど。……ボク今日、なんにも出来てないんだもん」
「何も、って?」
「目標があったんだよ。なのにパンダの赤ちゃんに可愛さで負けるし、ハムスターで挽回しようと思ったのに失敗するし」

 安室は、なんとも言えない微妙な顔をした。

「パンダに負けた……っていうのはちょっとよくわからないけど、ハムスターで挽回して何をしようと思ったんだ」

 何を。
 コナンは言葉につまる。
 ハムスター補正をかけた猫をかぶって、お願いをきいてもらおうとした。うちに来てもいいよ、と言わせようと思った。猫かぶりを極めようとした。

(でもそれは、本当は、そうじゃなくて)

 自分がしたかったのは、同じ気持ちを返してもらうことだ。
 認めて欲しい。自分と同じように、動揺して欲しい。仕方ないなと、この人可愛いなと思っているのと同じ気持ちを、一緒に過ごしたいなと思う気持ちを、安室にも持っていて欲しい。
 でもそれを何と伝えたらいいのだろう。伝えたところで、同じになんて、なるはずないのに。

「コナンくん」

 安室が顔を覗き込んでくる。多分みっともない顔をしているはずだ。顔をかくしたいのに、帽子もフードもない。安全性の高い服なんて、馬鹿みたいだ。
 コナンの顔を見た安室が、戸惑った表情になる。

「どうしたの。……なんでいま、その顔してるの」

 その顔。安室がそう言うのは、あの顔のことしかない。でもいま、そんな顔をしているわけがない。そんなはずがない。
 こんな、何をどう言えばいいのかわからなくてどうしようもなくなっている顔が、「大好き」なわけがない。

「安室さんは、全然わかってない」
「え」
「これは、そんなんじゃないし。とっておきも、そうじゃないのも、見分けがつかないし」
「そ、れは」

 安室がうろたえる。

「心配してるって、可愛いと思ってるって、言うけど。ちょっとは、そう思ってるかもしれないけど。でもそれ、全然足りないよ。もっと、ボクと同じくらい、困って。同じくらい、可愛いって、仕方ないなって、思って。もっとちゃんと、よく見てよ」

 安室の目が、丸く見開かれる。
 しばらくして、安室は少しかすれた声でつぶやいた。

「……同じくらい、って?」
「それ、は。ボクが安室さんに思ってるのと、同じくらい、だよ」

 安室は呆然とコナンを見つめる。
 言ってしまえと、勇気を振り絞って、安室の手を取った。
 真正面にある顔を見つめて、言う。

「――もっと、ボクのこと見てよ。お願い、安室さん」

 小さな震えを隠すように、ぎゅっと手に力を込める。
 握った手が、震えた。目の前で、安室の顔がじわじわと赤くなる。
 安室は、喘ぐように口を開閉し、やがて呻くような声をあげて、膝に額を押し付けた。

「…………参った」
「――え?」

 いったい何だとのぞき込むと、安室はゆっくりと顔を上げる。
 困ったような、照れたような、仕方ないなと諦めたような、でも、優しい顔。
 安室はコナンの手をきゅっと握り返した。

「思ってるよ。そんなの、ずっと思ってる」
「――うそ」
「嘘じゃない。だいたい、一番最初にドタキャンした時、全然平気そうだったのは君だったと思うんだけど」
「あれ、は。仕事じゃ仕方ないと思ったから」
「うん。でも僕は、もっとガッカリして欲しかったんだ」

 安室は苦笑した。

(――あ)

 物分かりがいいことが、良いけど良くない、と言っていたことの意味を、やっと理解する。さっき、自分がそう思ったばかりだ。
 安室は息を吐いて、言いにくそうに続けた。

「それにね、見分けがつかないっていうのは……嘘なんだ」
「嘘?」
「見分けは、つくよ。つくけど、普段の君も、とっておきの猫をかぶった君も、どちらも同じく、可愛く見えるから。……同じに見えるっていうのは、そういうこと」

 コナンは目を丸くして、言われたことの意味を頭の中で咀嚼する。

「――わ、かりにくくない!?」
「ごめん。誤解されるだろうとわかってて、わざとそういう言い方をした」
「何で」
「だって」

 安室はコナンを見つめる。

「思う通りの反応を返す、簡単な大人に、君は関心を持たないだろう?」

 目を見張るコナンに、安室は苦笑する。

「他と同じはごめんだっていう、僕の下らない意地だ。……だからね、コナンくん。僕はとっくに、君に負けてるんだよ」

 そんなはずがない、と思うのに、記憶の中からは、安室の言うことが本当だという証拠が次々と出てくる。あれも。これも。コナンが誤解していただけだったとしたら。
 そんなコナンを見て、安室は続ける。

「世界一、可愛いと思ってるから、あんまりよそで可愛い顔をして欲しくないんだ。――わかった?」

 とびきりきれいな顔でこちらをのぞき込まれて、今度はコナンが赤くなる。

「わ、わかった……」
「本当に? どうしてよそでして欲しくないかも、ちゃんとわかってる?」
「ど、して」

 たずねられたが、うまく頭が回らない。
 安室は苦笑した。
 柔らかい、甘い顔。初めて見る、まるでとても愛おしいものを見るような。
 待って欲しい。いきなりでキャパオーバーだ。
 なんでこんなことになっているんだっけと、うろたえるコナンを抱いて立ち上がり、額をこつりと合わせると、安室は「ところで」と続けた。

「さっき君は、違うって言ったけど……本当にそう? それは、本当にあの顔じゃないの? そうだといいなって、僕が思ってるだけかな」
「え」
「それと、さっき同じがいいって、言ったけれど。――自分の気持ちと同じものを相手に返して欲しいっていう気持ちを、何て言うのか、コナンくん、わかっている?」

 じっと至近距離で見つめられて、コナンははくはくと無意味に口を開閉した。

「うん?」

 じっと、至近距離で見つめられ、立て直せるわけもなく、完全にパンクする。

「……わ、」
「わ?」
「わ、かんないよ。安室さん、ばか……」

 必死の、無茶苦茶な、反撃になっていない反撃に、しかし安室は目を丸くして口を閉ざした。
 しばらくして、はーっと大きなため息をつくと、コナンの肩に額を当てる。

「あ、むろさん?」
「まったく……ずるいな、君は。計算してない時が一番凶悪なんだ」
「え?」
「――なんでもないよ。僕も大人げなかった。……うん、ゆっくりいこう」

 そう言って、コナンを下ろす。
 ホッとしたような、寂しいような複雑な気分だ。
 見上げるコナンに向かって、安室は手を差し出した。

「帰ろうか、コナンくん。ちゃんと家まで、送って行くよ」







 店のドアを押すと、ドアベルの音の向こうから、いらっしゃいませ、という声が聞こえてきた。安室が振り返ってコナンに気づき、ほんの一瞬、柔らかく笑う。

「いらっしゃい、コナンくん」

 その言葉が終わった時には、もういつものポアロのアルバイト店員の顔になっていた。
 ――安室はあの動物園の日以降、こんな風にたまに、コナンに向けて柔らかく甘い顔を見せるようになった。
 その日最初に会った時だったり、話をしている時に不意にだったり。タイミングはまちまちだ。でもこの顔は、ドキドキするので心臓に悪い。本当に、とても、悪い。
 そう抗議すると、安室は笑いながら言った。

「これは、君が可愛いなぁって思った時にしてしまう顔だから……コナンくんが、可愛いのを控えればいいんじゃないかな」

 可愛いのを控える。どうすればいいのだ。
 だいたい、出会いがしらに「可愛いの顔」をされては対策のしようがない。いつも変な顔をしていればいいというのか。困る。
 そんなコナンの反応を見て、「正直に生きるって楽だな」と安室は楽しげだ。腹が立つ。
 先日、自分はとっくにコナンに負けているのだ、などと言っていたけれど、どう考えたって、負けているのはコナンの方だと思う。

(猫も全然通じなくなるし……ていうか結局通じないままだし)

 見逃して欲しいことがあったりお願いがあったりする時に、たまに使ってみているのだが、安室は「可愛いね」とコメントした後に「駄目」と言うのである。
 駄目と言われるなら、可愛いと言われても意味がない。

「そうは言うけどね、コナンくん。僕は本当に君を心配しているから、心を鬼にして、駄目だって言っているんだよ。まあいいかって思えるようなお願いだったら、ちゃんと屈してるよ」
「嘘だ。……じゃあ、安室さん。ボク、安室さんのお家に遊びに行きたいな。ダメ?」

 上目遣いで、捨てられた子猫をイメージしつつ、さらに迷子の犬を抱っこしているような気持ちでじいっと見上げると、安室はにっこり笑った後で、「駄目」と言った。

「ほら!」
「それは、まあいいかって思えるようなお願いじゃないから」
「家行くだけじゃん」

 公安の潜入捜査官の家に、そうそう人を招くわけにはいかないのだろうが、しかし、一度は「いいよ」と言ったではないか。

「駄目だよ。危ないからね」

 安室はそう言って、にっこりと笑った。

「そうだな……『わかんない』が、わかるようになったら、来てもいいけど」
「……」

 コナンはむうっと安室をにらんだ。
 意地の悪いことを言う。
 あの日は容量オーバーで「わからない」と返してしまったが、それが何かなんて、昔から鈍い鈍いと言われていた自分でもさすがにわかる。
 我ながらちょっと信じられない気持ちではあるが――まあ、そういうことなのだろう。そこは認めている。
 でも、これを先に自分が言うのは、「完敗」という感じがして、嫌なのだ。
 だいたい、いま口にするのが正解なのかも、わからない。多分安室だって、本気でいま、その言葉を聞きたいとは、思っていないような気がする。
 安室は、それを全部わかっていて、こんなことを言っているのだ。

「……ずるいよね、安室さんは」
「君に言われたくないよ」

 ため息をつくと、安室は笑った。

「まあ、ゆっくりね。とりあえずは『お出かけ』から始めようか。――コナンくん、ケーキ屋さん、いつ行こうか」

 お出かけのお誘いだ。コナンは少し考えて、答えた。

「本屋とセットがいい。安室さんが、半日以上お休み出来る日」
「了解」

 安室はうなずいて、いつ頃になるかな、と考えるように一瞬視線を斜め上に向けた。
 本当に、いつになるだろう。ほとんど毎日ポアロで会えているから、とりあえずはそれで十分で、急かすつもりはないけれど、二人で出かけるのはやっぱり特別だから、楽しみだ。
 ――そうやって、約束して、出かけて。それを何度か繰り返したら、保留にした言葉を、伝えられる日が来るかもしれない。
 理想はあちらから、だが、どうなるだろう。そこは、これからの駆け引きなのかもしれない。

(そしたら、やっぱり技は色々磨いておかないと)

 そうして今度こそ、優位に立つのだ。
 コナンはジュースを一口飲んで、言った。

「安室さん、季節が変わっちゃったらまた服買うところからだからね」

 あまり待たされたくはないので、そう釘をさしておく。
 でも、多少待たされたとしても、また着せ替えが出来ると思えば許せる気がしなくもない。その間に、有希子にも色々アドバイスをもらおう。

「……そんなには待たせないよ。多分」

 少々自信なさげに言う安室の困った顔が可愛くて、コナンは笑った。