特別なのか違うのか
ランチタイムの波が引き、午後の休憩で訪れる常連たちが顔を出し始めるには少し早い昼下がり。客足の途絶えたポアロの店内で昼の片付けを終えた榎本梓は、ぐっと大きく伸びをした。
慣れてはいるが、立ち仕事は疲れる。休憩時間まではあと少しだ。
カウンターの中では、バイトの同僚である安室透が、午後の仕込みを終えてまたすぐに、別の作業に取りかかっていた。
やることも無いので、何となくそれを眺める。
安室は家から持参した小さなタッパーをいくつか取り出して、手際良く調理を始める。
──最近、安室はすごく機嫌がいい。
リズミカルにクリームを泡立てる様子を見ていると、鼻歌を歌っていないのが不思議なくらいだ。
名物イケメン店員の愛想が五割増しなので、女性のお客様中心に客もどこか機嫌良く見えるし、フードメニューの売上も伸びている。安室効果はすごい。
安室の手元で固まっていくクリームを見ながらつぶやく。
「──コナンくん、もうそろそろですかねぇ」
「そうですね」
「今日のおやつは何ですか?」
「今日は栗のパフェです」
「栗! そうかー、もうすっかり秋ですねぇ」
「ですね。梓さんも食べますよね?」
「勿論! ……と、言いたいところなんですけど」
梓はため息をついた。
「最近太っちゃって。しばらく間食は控えようと思ってるんです」
「太った?」
安室は手を止めて梓を見ると、上から下、そしてまた上へ視線を走らせて、コメントする。
「そうは見えませんけど……」
「見えなくても太ったんです! それにじっくり見ないで下さい! セクハラですよ!」
注意すると安室は苦笑した。
「すみません。でも、太ったって言われたら見ちゃいますよ、どうしても」
「う、それは……まあ……」
確かにその通りなので、梓は顔をしかめた。
「──とにかく。残念ですが、今日はおやつは結構です。元々それ、コナンくんのために作ってるものなんですし。いつもいつもお裾分けしていただくのも申し訳ないですから」
「申し訳ないなんて、そんなことないですよ。一人分って、作るの難しいので、食べてもらえて助かってたんですが」
「つまり残り物処分だったと? ──なんて、冗談ですけど。安室さん、真面目ですよね……うちで出すケーキ、買い取って出せば楽なのに」
安室はいま、上の階に住む毛利小五郎の指示で、江戸川コナンに毎日おやつを提供している。
江戸川コナン、というのは毛利探偵事務所に居候している小学一年生だ。コナンは年齢の割に小さい、というか細い上に、何かに夢中になると寝食を忘れるという、小学生らしからぬ悪癖があるらしい。
それを保護者の毛利が心配して、夏休み、安室に「コナンのための栄養バランスの良い昼食」を依頼した。安室は本業が探偵とは思えぬほど料理が上手だし、探偵業では毛利の弟子にあたる。食事について相談がしやすかったのだろう。
依頼は給食のない夏休み期間中──だったのだが、夏休みが終わって、何故か今度はおやつを提供するように依頼が……というよりも、指示があったらしい。安室の話では「ペナルティ」とのことで、依頼として費用が出ていた夏休みのランチと違い、自費での提供だ。
コナンはちゃんと食べるようになったし、体調も良くなったと言っていたから、依頼を達成出来なかったわけではないはずだ。それなのに何がペナルティなのかは知らないが──休憩時間に調理場を借りて、わざわざコナンのために店で出すのとは違うお菓子を作っている安室を見ていると、ペナルティにはとても見えない。
安室は小さめのパフェグラスを出して、刻んだ栗やクリームを盛り付けていく。
「お店のものだとバリエーションにも限りがありますし。かといって、このためにお店のお金で食材を仕入れて品数を増やすのもいかがなものかと」
「すごく今更な気がしますが……」
いまのポアロのフードメニューは、八割方安室監修だ。安室がいる日にしか出ない(出せない)メニューだっていくつもある。
梓の指摘に安室は苦笑した。
「こうして調理場や調理器具を借りているだけで、かなり甘えさせてもらっているので、最低限のけじめってやつですかね。──それに、コナンくんのおやつはコナンくん向けなので……ここでお客様に出すものとは作る時の観点が違います」
「……なるほど?」
確かに、子ども向けに作るおやつを、大人の客が多いポアロで出すのは難しいかもしれない。
「ちなみにそのマロンパフェ、どのあたりがコナンくん仕様なんですか?」
「どこだと思います?」
「え? うーん……成長のための栄養バランスを考えてってことなら……ずばり、プロテインが練り込まれている!」
「……梓さん。小学一年生にプロテインは飲ませませんから」
「冗談です。えーと、ベタに『お酒を使ってない』、とかですかね」
「正解です。大人向けだと栗を煮る時やマロンクリームに洋酒を入れるんですが、これはほとんど入れないで作ったんです」
「栗、お家で煮てきたんですか?」
「作っておけば保存もききますし、そんなに手間ではないですよ」
「はぁ……そうですか」
そんな話をしていると、店の外にコナンの姿が見えた。
「あ、噂をすれば」
カランカラン、とドアベルが鳴って、コナンが入って来る。
「こんにちは……」
「いらっしゃい、コナンくん」
「いらっしゃいませ」
最近涼しくなった、といってもまだ昼間は気温も高い。ハンカチで汗を拭って、コナンはいつものカウンター席に座った。
「はい、おしぼりとお水。今日は外、暑い?」
「ちょっとだけ」
「もう少し待っててね。すぐ出来るから」
安室は作りかけだったパフェの仕上げをする。それを見て、コナンは何か言いたそうに口をもごもごさせ、一度きゅっと口を引き結ぶと、顔を上げた。
「あのさ、」
「はいコナンくん。今日はマロンパフェだよ」
コナンが声をかけたのと同時に、小さなパフェが完成してコナンの前に置かれる。
外が暑い、と聞いたからか、アイスも盛り付けられて美味しそうだ。
栗とアイスとマロンクリームと。間に挟まったジュレは何味だろう。オレンジ色が鮮やかでとても美味しそうだ。
コナンは難しい顔で、それを見つめた。安室は首を傾げた。
「ごめん、さっき何か言いかけてたね。──どうかした? もしかして栗、苦手だった?」
「苦手じゃない……」
コナンはスプーンを手にして「いただきます」とお行儀良く言うと、マロンクリームをすくって口に入れた。
パッと目が輝き、しかし次の瞬間、何とも言えない複雑な表情になる。
「ええと……美味しくなかった?」
安室が困った様子でコナンに尋ねる。コナンはため息をついた。
「美味しいよ。美味しくないはずないじゃん」
「ならどうしてそんな顔するのかな」
「……」
コナンは恨めしげに安室を見上げた。
「……あのさ」
「うん?」
「安室さんが、夏休みの間お昼作ってくれてたでしょ。それに最近毎日毎日、美味しいおやつ作るじゃん」
安室が戸惑いながら相づちを打つ。
「うん。そういう約束をしたからね……?」
「おじさんが変な心配して、安室さんはそれに巻き込まれただけだっていうのはわかってるけどさ。でも!」
ぎゅっと、スプーンを握る手に力がこもる。
「──おかげでボク、太っちゃったんだよ!」
安室と梓は、目を丸くしてコナンを見下ろした。
丸い頭から小さな肩、細い腕と薄い腹──椅子に座った小さな子どもの体を眺め。
梓は思わず、ふはっとふき出してしまった。
「──梓さん」
「梓姉ちゃん!」
安室がたしなめるように言い、コナンが抗議の声をあげる。
「ご、ごめんなさい。だってコナンくん、全然太って見えないんだもの」
なのに、まるで大人みたいにませたことを言うから、微笑ましいというか可愛らしいというか、まあ、おかしくなってしまったのだ。
コナンは梓をにらむ。
「でも太ったんだよ。一キロも!」
「ええ? 一キロなんて誤差だよ」
「大人の人はそうかもしれないけど! 大人の人の一キロと、子どもの一キロじゃ全然重みが違うんだよ」
コナンはぷりぷり怒りながら言う。
「……それはまあ、確かに……」
コナンは見たところ、二十キロあるかないかくらい。その体重における一キロと、梓や安室の一キロとは、確かに違う。
コナンは丸い頬をもちもちとつまみながら嘆く。
「安室さんが美味しいもの作るから、ボクこんなになっちゃったんだ」
安室はぱちぱちと瞬きした。コナンがキッと安室をにらむ。
「安室さん、何笑ってるの?」
「えっ、いや、笑ってないよ。……太ったって言われても全然そうは見えないけど」
安室はコナンをじっと見て言う。
コナンは顔をしかめて身を引いた。
気持ちはわかる。梓は「セクハラですよ」と注意した。さっき自分も見てしまったが、それはいま置いておく。
「セ……いや、まあとにかく。コナンくん、あのね。体重が増えるのと太るのとは、また別の話だよ」
「……どういうこと?」
「元々コナンくんはちょっと細めだっただろう。少し増えたくらいじゃ太ったなんて言わないよ」
「そうだけど……」
「それに、筋肉と脂肪だと、筋肉の方が重いって言うだろう? コナンくんは太ったんじゃなくて、筋肉がついたのかもしれないよ」
「え」
コナンが目を丸くする。
「筋肉?」
「そう」
「……ほんと? 筋肉ついた? ボク」
コナンは腕を曲げて力こぶを作るポーズをしたが、子どもの細い腕にそんなものが出来るはずもない。
可愛くてまた笑ってしまいそうになったが、梓は頑張ってこらえた。安室も引き結んだ口元が少し震えている。
安室は咳払いして続けた。
「余計な脂肪がついた、いわゆる太った状態になった時にはね、見た目でわかるから。体重が増えただけで、誰かに太ったって言われたわけじゃないんだろう?」
「でもおじさんが、『順調に肥えてるな』って」
「毛利先生は、コナンくんが細すぎるって心配していたんだから、丁度良くなったってことだよ」
「そうかなー……」
「そうだよ。だから気にせずおやつ食べて。アイス溶けちゃうよ」
「……うん」
納得したのかはわからないが、出されたものを駄目にするのは悪いと思ったのか、コナンはスプーンを持ち直すと、マロンパフェを食べ始めた。
「う……美味しい……マロンクリームの栗の味が濃厚……でも甘さがくどくないからバニラアイスとよく合う……」
難しい顔でグルメレポーターのようなことを言う。
「あ、このゼリー何味だろう。さっぱりしてて酸味があって……食べ飽きずに下の層に向かえる」
「柿のゼリーだよ。ちょっとレモンで酸味を加えてるんだ」
「柿! すごく美味しい……」
「だろう?」
安室はニコニコとコナンを見守る。
「これからの季節は柿、美味しいよね。柿はシャーベットにしても美味しいし、パウンドケーキに混ぜてもタルトにしても美味しいし……でもタルトと言えばこれからの時期はやっぱり林檎かな。梨もぶどうも美味しくなるし、イチジクも美味しい時期だよね。今日出した栗もそうだし、さつまいもとかも」
「……全部美味しそう」
コナンが悲しげな目で安室を見上げた。安室はにっこりと笑った。
「何でも作ってあげるよ。太るのが気になるって言うなら、バターとかクリームとか、なるべく控えるし。そもそも果物だから、太るとか、そういうことはあまり気にしなくても大丈夫だよ」
「……ほんと?」
「本当だよ。毎日おやつ食べたって太らないよ」
とどめをさすようにキラキラを振りまいて安室が微笑む。
コナンもにっこりと笑った。
「そっかー! ──ところで安室さんは、毎日おやつ食べてるの?」
「……え? 僕?」
安室は目を瞬かせる。
「えっと……仕事があるから、食べたり食べなかったりだけど……」
「じゃあ、根拠ないじゃん!」
コナンが抗議の声をあげる。
うっかり、美味しそうな秋の味覚に頭を占拠されていた梓も我に返った。
「確かに……! 危ないところでした……安室さんのキラキラ笑顔に騙されて危うく『果物無罪!』って言いながらむさぼり食うところでした。コナンくんありがとう」
「もしかして梓姉ちゃんもダイエットしてるの?」
「うん。夏バテしないようにしなきゃって、毎日しっかり食べてたら、食べ過ぎちゃって」
てへへと笑うと、コナンが「ボクもだよ」とうなずく。安室が慌てて割って入ってくる。
「待って下さい。コナンくんも、梓さんも、二人とも全然太ってないんですから、ダイエットなんて必要ありません」
「でもこれからの時期、美味しいものがいっぱいお店に並びますし、秋は期間限定チョコとか増えますし……天高く馬肥ゆる秋って言うじゃないですか。馬が肥えるなら人も肥えますよ」
「確かに」
「肥えません。無計画に食べるならともかく、ここで僕の作ったおやつを食べて太るなんてこと、絶対ありませんし、させません」
安室は堂々と言う。
梓とコナンは視線を交わし、じとっと安室を見た。
「ほんとに?」
「本当ですかー?」
「当然です」
「誓う?」
「誓うよ」
「じゃあもしボクが太ったら安室さんが責任取ってくれるの?」
「取るよ、勿論」
安室は気軽に請け負う。
責任なんてどうやって取るというのだ。梓は呆れたが、コナンは満足したようだ。
「わかった」
「じゃあ明日からもちゃんと、おやつ食べに来るんだよ?」
「うん。あ、梓姉ちゃんも一緒に安室さんのおやつ食べるでしょ? 責任取ってくれるって」
「え? おやつは食べたいんですけど、下手に責任を取られてもちょっと……。炎上が怖いので私は遠慮します」
梓は辞退する。そもそも、これはコナンのためのおやつだったわけで、梓は関係ない。
「だって。安室さん、信用ないね」
「ひどいなぁ」
安室は眉を下げたが、大して傷ついていないようだ。
コナンは、季節の果物がどれだけ体に良いか、若い人のダイエットがどれだけ体に悪いかという安室の解説をBGMにパフェを食べ終えると「遊ぶ約束があるから」と帰って行った。
その後すぐ、マスターが出勤してきたので、休憩に入る。
安室はさっきコナンにおやつをあげていた時間が休憩時間だったのだが、マスターに「お客さん少ないから」と言われて一緒に休憩を取ることになった。
まかないで遅いお昼を食べて、おやつに柿のジュレをおすそわけしてもらう。「これくらいなら大丈夫ですよ」とすすめられたのを何度も断るのも悪いし、パフェじゃなくてゼリーだからセーフだ。多分。
「美味しい! 柿のゼリー初めて食べました」
「そんなに作るの難しくないですよ。後でレシピ教えます」
「やった。──でも良かったですね、安室さん」
「何がですが?」
「コナンくんですよ。もうおやついいって言われなくて」
「ああ……そうですね。ああは言ってましたけど、コナンくんまだまだ細いですからね……ここで言い負かされて止めてしまったら毛利先生に怒られます」
「それもそうですけど、安室さん、お菓子作るの楽しんでるでしょ」
「──まあ……そこそこ」
安室はパフェに使った残りだというアイスを口に入れ、少し考えた後でうなずいた。何故か不本意そうで、思わず笑う。
「何ですか」
「いいえー、何でもありません」
安室は、料理から接客から何でも完璧に出来る同僚だ。仕事仲間としては楽だが、正直、出来すぎていて近寄りがたいところがある。私生活もよくわからなくて謎めいているのも一因だ。でも、コナンと一緒にいる時は少し違う。大人げなかったり楽しそうだったり、二十九歳という実年齢より若く見える顔が、ますます若く見えて面白い。
(安室さんはコナンくんのことお気に入りなのよね。今日もあの小さなパフェひとつのために栗の他に、こんなゼリーまで用意して)
コナンの方は、そんな安室をやや警戒している素振りがあるが、興味を持っているのは間違いない。店にいる時はよく安室を観察しているし、何だかんだと頼りにしている感じもする。
安室が手料理をご馳走している印象が強いからか、ここ最近のコナンと安室を見ていると、気位の高い猫とその猫を手懐けようと頑張って餌付けしている人──みたいに見える。
そんなことを考えながらにこにこしている梓に、安室は言い訳でもするように言った。
「……まあ、確かにやりがいはありますよ。目に見える成果がありますから」
「成果ですか?」
「ええ。例年夏バテしていたのにしなくなった、だとか、ちょっとふっくらして健康的になったな、とか。色々調べて作ったかいがあるじゃないですか」
「ああ、なるほど。努力が報われる感じはありますね、それ」
「そうなんですよ」
同意すると、安室は我が意を得たりとばかりにうなずいた。
「おやつよりはお昼の方が断然、その辺はコントロールしやすかったんですが……給食があるなら仕方ないですね。それにそれを言い出すと朝晩も管理出来た方がいいわけで、言い出したらきりがないですから」
梓は目を丸くして安室を見た。
コントロールに管理と来た。カロリーコントロールや管理栄養士なんて言葉があるのだから別におかしなことは言っていないが、安室が言うとやり過ぎというか、大げさ感があるのは何故だろう。
可能ならば朝も昼も夜も食事を作りたいと言わんばかりだが、面倒ではないのだろうか。正直、梓は自分一人分だって面倒になる時がある。
これまで安室のことは、失礼ながらナルシスト寄りの凝り性……と言うとあれだが、自分のことは自分で完璧にやるが、他の人にはそれを要求しないしどうでもいい──というタイプだと思っていたが、実はお世話したい、尽くしたい人なのだろうか。
「……意外だなー」
「何がですか?」
「いえ、安室さんって意外と、面倒見のいい人なんだなって」
「……僕がですか?」
安室は眉間にしわを寄せる。
「そういうタイプではないと思いますが。薄情なつもりもありませんけど」
「私もそう思ってたんですけど、コナンくんの健康事情を真剣に考えているのを見て、違ったのかなって。お世話したいとか、尽くしたいタイプだったのかなと」
お菓子作りは好きだから楽しんでいるのだろうと思っていたし、先月お昼ご飯を作っていた時も、面白そうなお題だし、ちょっと気になるコナン相手だから、引き受けたんだろうなと思っていた。でも実はその時から真剣に、コナンのことを考えていたのかもしれない。
安室は少し戸惑った様子で、コーヒーを一口飲む。
「それは……頼まれましたから」
「依頼だからってことですか?」
「ええ。依頼ですし……おやつについては僕へのペナルティですし。真面目に取り組むのが当然かと」
「なるほど?」
「勿論、コナンくんの健康も心配してますが……面倒見がいいとかお世話したいとか、まして尽くしたいとか、そういうのとは違います」
あくまでも頼まれたからだと言うわけか。
それは違うのでは? と思ったが、安室が難しい顔になってしまったので、梓は「そうですか」とそれ以上は追及せずに話を切り上げた。
そんな話をした、数日後。
そろそろコナンが来るな、という時間におやつを準備しながら、安室がおもむろに口を開いた。
「──考えてみたんですが」
「え? 何をですか?」
「先日、梓さんが言っていた『面倒見がいい』って話です」
「ああ」
そういえばそんな話もしたなと梓は相づちを打つ。すっかり忘れていた。
安室は器用に洋梨の皮をむきながら口を開く。
「この国の未来を背負って立つ子どもが健やかであれと願うのは、大人としてごく普通の感情だと思うんです」
きれいにスライスされた洋梨が、一度焼いたタルト生地の上に並べられていく。
タルト型が大きめなので、ワンホールだと当然、コナン一人では食べきれない。
これは、マスターと梓にヘルプがかかる。──仕方ない。協力してあげなければならない。
一度はお断りしたが、何だかんだ三日に一回はお裾分けをいただいてしまっている。食品を無駄にするわけにはいかないし、せっかくのデザートは美味しい時に食べてあげないと可哀想だし、考えてみれば別に責任を取られなければ何も問題はないのだ。
太る可能性については、自己責任でウォーキングなどをして潰せば良い。タルト一切れだと、遠回りして帰るくらいでは足りないか。筋トレも要るかもしれない。
「──梓さん、聞いてますか?」
「えっ」
タルト一切れの代償を考えてぼーっとしていた。
ため息をつかれて、慌てて記憶をさかのぼる。
「聞いてましたよ! 面倒見がいい話ですよね」
「面倒見がいいわけではなく、子どもの成長を願うのは大人として当たり前の感情ではないかという話です」
タルトがオーブンに入れられる。
「温かいミルクティーが合いそうですね……いえ、健やかな成長の話でしたっけ。まあ、仰るとおりかもしれませんが。コナンくんや歩美ちゃんたち見てると、このまま元気いっぱい、何の憂いもなく育ってくれって思いますからね」
「でしょう」
「でも、そうは思っても実際何かしようとは思いませんよ、私は」
「僕だって、依頼されていなければ何もしませんよ」
「はぁ」
梓は首を傾げた。
確かに、それはそうかもしれないが、安室は何に引っかかっているのだろう。
「……面倒見がいいと、何か困るんですか?」
「え? ……いえ、困るわけではないですが」
「別に、『安室さんって面倒見いい人だったんだ、じゃあこれもお願いします!』なーんて、お仕事押しつける気はありませんよ? 日頃急なお休みで仕事を押しつけられているのは私の方ですし……最近は真面目に出てきてますけど……」
「……休憩の時にはロイヤルミルクティーをつけたタルトを提供します」
「代打くらいいつでも引き受けましょう。──それはともかく。面倒見がいいって、悪い評価ではないですよね? と、私は思っているので……何か気に障ってしまったならごめんなさい」
「すみません、そういうわけではなく」
安室は慌てて否定するように手を振った。
「……そんな評価をもらえるようなことはしていないなと、思ったもので。あまり他人のことを気にする性格ではないですし、ここでメニューを開発したり、毛利先生に言われてお昼やおやつを作ったりしているのも、僕の趣味の延長ですから」
「それも勿論あるんでしょうけど……」
梓も、本来安室はそういうタイプなんだろうな、と思っていた。
マスターや梓に対する態度からは、面倒見がいいなんて思わないし、たまに少年探偵団の子どもたちと話しているのを見ても、当たり障りなく接しているな、と思うくらいだ。
「──でも、コナンくんはちょっと違うじゃないですか。……あ、安室さんにとってコナンくんが特別なのかな」
「え」
安室は目を丸くした。
チン、とオーブンが音を立てる。
同時に、カランカラン、と店のドアベルが鳴った。
「こんにちはー!」
「コナンくん、いらっしゃい」
「いらっしゃい。いいタイミングだよ」
安室はいつも通りの笑顔を浮かべて、オーブンを開けた。
「わ、今日は何?」
「洋梨のタルト。──もうちょっと待って。仕上げにジャムを塗って、少し冷ますから」
「はあい」
コナンは良い子の返事をしてカウンター席に座る。
「急に寒くなったねぇ」
お水を出しながら話しかけると、コナンは頷いて羽織ったカーディガンの袖をつまんだ。
「寒くなるから着ていけって、今朝おじさんに着せられたけど、帰り走ってきたらちょっと暑いくらいだったよ」
「風邪引かないか心配してるんだよ、毛利さんは」
「そんなすぐ風邪引かないんだけど……」
ふくれるコナンに、安室がミルクティーを出しながら言う。
「昼間はともかく、朝晩は気温が下がるから。どこかで脱いで忘れてきたりしないように気をつけて。──はい、これ先に飲んでて」
「ありがと。……ミルクティー?」
「体が温まるように。牛乳は体にいいしね」
「走ってきたって言ったじゃん。ぽかぽかだよ」
文句を言いながらも、コナンは大人しくミルクティーを飲む。
安室はそれをじっと見ながら、何か考えている。
まだ何か引っかかっているのだろうか。
(私、余計なこと言っちゃったかな……?)
変に気にしてしまわなければいいのだが。
ハラハラ見守っていると、視線に気づいたコナンが顔をしかめる。
「何? ボクの顔何かついてる?」
「いや……今日も元気かなって」
「は?」
コナンは不審げに安室を見上げた。
「……元気だよ、普通に」
「うん。それはいいことだ。体重は最近どう?」
「一キロ増えた後はそんなに変化ないよ。減ってもないし増えてもない。……おじさんは毎日『ちょっと重くなった』って言うけど」
「先生が、毎日?」
「最近おじさん、朝起きたらこう、ボクを持ち上げて体重はかるんだ」
両手で何かをつかんで持ち上げるジェスチャーをして、コナンはため息をつく。
「止めて欲しいんだけど。その後体重計に乗るから意味ないし」
「……そう」
安室はうなずいてタルトを切ると、コナンに出した。
「はい、お待たせ」
「ありがとう! いただきます」
コナンはパッと表情を明るくして、早速タルトにフォークを入れる。
「──美味しい!」
「良かった」
「この甘酸っぱいの、何のジャム?」
「アプリコットだよ。この季節のってわけじゃないけど、定番だから林檎にも洋梨にも合うんだ」
「ふーん。洋梨も美味しいね。ボク洋梨の食感好き」
「タルトに乗せる前の洋梨もあるよ。食べる?」
コナンは少し迷うそぶりで安室を見上げた。
「えっと……でも、ひとつは食べられないから」
安室はにっこりと笑った。
「大丈夫だよ。残りは僕が食べるから」
「ほんと? じゃあ、お願いします……」
「はい」
安室はすぐに洋梨をむいて、二切れほどコナンに出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
タルトを食べ終わったコナンは洋梨にフォークを刺す。
しゃくしゃくと洋梨を頬張るコナンを、安室はまたじっと見ている。
コナンは梨を飲み込んで安室をにらんだ。
「あのさ、安室さんさっきから何?」
「……いっぱい食べてるなぁって思って」
「安室さんが出してるんじゃん」
「もっと食べる?」
「え? 食べないよもう。お腹いっぱい」
「そっか」
安室は少し残念そうにうなずいた。
コナンは不審げに安室を見つつ、ミルクティーを飲み干した。
「ごちそうさまでした。──食べ過ぎちゃったから、博士んちまで走っていかないと」
そんなことを言いながら、コナンは店を出て行った。
静かになった店内で梓はため息をつく。
「……安室さん。コナンくんのこと不躾に見過ぎですよ」
「ぶしつけ……そうですね、すみません」
安室は困ったように眉を下げた。
「私に謝られても。大尉の食事を見守るマスター思い出しちゃいましたよ」
「……心情的には近いものがありますね」
「と、いいますと?」
首を傾げる。安室は顔をしかめつつ、もごもごと言う。
「こう……懐かなかった猫が自分から寄ってきて餌を食べてくれた時の充足感のような……いや、コナンくんを猫だと思っているわけではないんですが」
「…………気持ちはわかります」
梓も、猫を手懐けようと頑張ってる人みたい、と思っていたのだ。コナンには申し訳ないが、そのたとえはよくわかる。
「思ったんですが」
「今度は何ですか」
「僕にとってどうとかではなく、コナンくんが、特殊なんじゃないでしょうか」
「と、いいますと?」
「ほら、毛利先生も、あまり面倒見がいい方ではないでしょう。でもコナンくんのことはすごく気にかけてる。──そうですよ。あの子は元気が良すぎて危なっかしいし、他にも色々……あんな子を気にせずにいる方が難しいのでは」
「だからお世話したくなってしまうと?」
「……お世話したいわけでは」
「本当ですか? 毎日三食プラスおやつを食べさせて、体重と体調チェックしたいと思ってませんか?」
「お……」
「お?」
「……思ってませんよ。そんな。……それに毎日なんて、僕には無理ですしね」
安室は頭をかいてため息をついた。
「明日と明後日は、お休みさせていただきます。仕事があって、顔も出せませんし。──ということで、明日明後日のおやつは作り置きしたものを置いていくので、それを食べさせてあげてくれませんか」
「あら、お休み久しぶりですね」
夏休みの一ヶ月と九月に入ってからの半月ほど、土日を除けばほぼ毎日、安室はポアロか毛利探偵事務所に顔を出していたはずだ。
しかし本来、安室はこんな感じで不定期に休みをとりがちな人だった。最近がイレギュラーだったのだ。
コナンについての言い訳じみた見解に対する突っ込みは胸に納めて、梓は作り置きのパウンドケーキの置き場所を確認し「今度は長引かないといいですね」と言った。
別にフラグを立てたつもりではなかったのだが、安室は予定していた二日の休みを過ぎても、ポアロに復帰しなかった。
「まあ、いつものことって言えばいつものことなんだけどね」
梓がため息をつくと、おやつを食べにきているコナンが苦笑する。
「探偵のお仕事って、期限がはっきり区切れるものばかりじゃないからね」
さすが探偵事務所の居候。子どもらしからぬ理解を示して、パウンドケーキを頬張る。
安室が残していったパウンドケーキは、毎日一切れ食べれば一週間ほど保つ量で、保存のきくものだったのも、量も、これを想定していたのかもしれないなと少し思う。
今日の一切れは最後の一切れだ。
「ごちそうさまでした」
「コナンくん、明日からどうする? ポアロのケーキなら出せるよ」
「え、いいよそんな。これは安室さんとボクの……っていうか、おじさんの約束だし。お店に迷惑かけられないよ」
「ケーキ代、安室さんのバイト代から引いちゃえばいいと思うけど」
「そんなことしたら、バイト代残らないんじゃない?」
「うーん、ギリギリかなー」
冗談めかした問いに冗談を返せば、コナンはくすくすと笑った。
「大丈夫。あとで安室さんにたくさんごちそうしてもらうから」
「……そっか。それに、明日帰ってくるかもしれないしね」
「だといいけど」
コナンはぽつりとつぶやく。
少し心配そうだ。
「──コナンくんはさ、太るの気にしてたけど、どうして安室さんに付き合ってあげてたの?」
「え? それは、おじさんがうるさいから」
「毛利さんに言われたから付き合ってあげてたってこと?」
「まあ……安室さんのお菓子美味しいからっていうのもあるけど」
コナンは歯切れ悪く、誰かさんと似たような反応をする。
「ポアロのメニューと違うの出てくるし、食べないと勿体ないっていうか……折角作ってくれてるし。……どういうつもりかはわかんないけど」
「どういうつもり……って?」
「だって、おじさんに言われたからって言ってもさ、面倒じゃん」
「まあ、そうだねぇ」
「なのになんで毎日お昼作ってくれてたのか、おやつ作ってくれるのか、よくわかんないなって」
気温が低いようだったらこれを飲ませてあげてください、と言われていたメープルシロップ入りのホットミルクのカップを両手で抱えて、コナンはため息をついた。
「だって、安室さんにいいことないでしょ? 何か他にメリットがあるか、嫌がらせかとかならわかるけど」
「嫌がらせ?」
「ボクをぶくぶくに太らせるつもりとか」
「……そんな嫌がらせはしないんじゃないかなぁ」
安室が気の毒になって、思わずフォローする。
「日本の未来を背負って立つ子どもに健やかであれと願うのは大人として当たり前だって言ってたよ、安室さん」
コナンは目を瞬かせた。
「……日本の……」
そして、苦笑する。
「ブレねーな、あの人」
梓は首を傾げた。
コナンは何故か少し不機嫌そうだ。
「……えっと、安室さんに悪気はないと思うよ? それに、コナンくんのこと考えてるんじゃないかな」
「ボクのことっていうか、日本のことじゃない」
「え?」
「ううん、なんでもなーい!」
コナンはニコッと笑うと、ホットミルクを飲み干した。
「そうだ、ボク明日はおじさんたちと出かけるからおやつ食べにこれないんだ。ちょうど良かったかも」
「明日……土曜日だっけ。そっか、わかった」
安室さんが戻ってきたらまた来るね、と言って、コナンは帰っていった。
その次の日。安室はあっさり復帰した。
「良かった~。パウンドケーキなくなっちゃったからどうしようかと思いました」
「すみません、ご迷惑おかけして」
戻ってきた安室は、頬にやや擦り傷を作っていたが、元気そうだ。たまに腕に包帯を巻いていることもあるから、今回は怪我が軽い方だ。探偵の仕事はそんなに大変なのだろうか。毛利が怪我をしているのは見たことがないが、その辺は駆け出しとベテランの差なのか。
「あ、そう言えばコナンくん、今日は来れないって。毛利さんたちとお出かけするみたいですよ」
「そうなんですか。……今日は事前の仕込みが出来なかったから、良かったかな」
安室はやや残念そうに言う。
「パウンドケーキはちゃんと食べてくれました?」
「ええ、初日はレポーターばりに、果物の配置がどうとか、練り込んだピューレがどうとか言ってましたよ。その後も毎日ちゃんと食べてました」
「コナンくん、妙に舌が肥えてますよね」
安室は笑った。ホッとしたような顔をしている。
昨日、安室の台詞に微妙な反応を見せたことを言うか言わないか、少し迷う。
ちょっと不機嫌そうに見えた、というだけで不快だと言ったわけではないし、何故あんな反応をしたのかわからないから、上手く説明出来る自信がない。気のせいと言われたらその通り、という気がする。
迷っていると、マスターが「そうだ」と二人に声をかける。
「安室くんがいるなら、買い出しお願いしてもいいかな」
「勿論です」
今日は土曜だししばらくそう忙しくもならないからと、マスターが一人店番で残り、安室と梓が買いだしに行くことになった。
安室の車に乗り、少し離れた場所にあるショッピングモールに向かう。
車中でも、どうしようかなと迷っていると、安室が声をかけてきた。
「何かありましたか? 先程から、何か言いたげですが」
「え。あー……その、大したことではないんですが」
聞かれてしまったので、思い切って昨日コナンに安室の発言を伝えたことを話す。
安室は苦笑した。
「なるほど。──コナンくんが何を考えたかは、わかりますよ」
「あ、じゃあもしかして、なんでコナンくんが不機嫌になったかもわかりますか?」
「不機嫌?」
安室は目を丸くした。
「ええ。不機嫌、っていうか、ちょっと面白くなさそうな感じでした」
「……」
安室は眉間にしわを寄せた。
「安室さん?」
「──都合のいい推測は、出来ますが」
安室はつぶやいて、しばらく黙って車を走らせる。
話しかける雰囲気でもないが、かといってスマホを取り出して何か見ていようか、という雰囲気でもない。
(……怒って、る?)
何故だかはわからないが、安室は少し苛立っているように見えた。
コナンが不機嫌になったという情報で、なぜ安室が怒るのか。わけがわからない。
「あの」
「はい」
「いきなり不機嫌になられても困るんですが……私、なにかまずいこと言いました?」
「ああ、すみません」
安室は微塵も悪いと思っていないことが丸わかりのあっさりした謝罪を口にして、ふっと笑った。
「梓さんは何も。──それにしてもコナンくんは、本当に何もわかってないな」
「え?」
「──気づいたんですが」
「え、え? また何ですか」
「彼が誰にとっても特別な子だというのはその通りなんですが、その自覚が薄いのも──こちらだけあれこれ気にしているっていうのも、しゃくですね」
「はっ?」
安室はものすごく良い笑顔で、ハンドルを切り、楽しげにつぶやいた。
「──どうしてやろうかな」
「ひぇっ」
勢いよく車が曲がり、梓は慌ててシートベルトをつかんだ。
ご機嫌なのか不機嫌なのかよくわからない笑顔を浮かべた安室とのドライブをなんとか終え、休日で人の多いショッピングモールに入る。
食品売り場も混雑していたが、何とか目的のものは全て購入出来た。
「……やっぱり買い出しは平日がいいですねー」
車中での気疲れと混雑の中で買い物をした疲れで、梓はため息をついた。
「荷物持ちましょうか?」
既に両手に荷物をぶら下げている安室に言われて、慌てて首を振る。
梓が持ってる荷物なんて、軽いものだけ、しかも一袋だ。
「いやいや、安室さんもう荷物いっぱい持ってるじゃないですか! 私のは軽いので大丈夫です」
「そうですか?」
「はい。早くお店帰りましょう。いくら休日でも、お昼に一人だとマスターが大変です」
ランチタイムに来る会社員が今日はいないとはいえ、客がゼロのはずもない。
足を速め、梓はふと、顔を上げた。
出口近くは大きな吹き抜けになっていて、二階から上の階もよく見える。いま、二階に何か見えた気がしたのだ。
隣で安室がつぶやいた。
「コナンくん」
「え? ──あ、ほんとだ」
安室の視線を追い、吹き抜けのガラス手すりに背中を預け、つまらなさそうにスマホをいじっているコナンの姿を見つける。
「隣は毛利さんですね。お買い物って、ここだったんだ」
このショッピングモールは、一階は大型スーパー、二階はファッションと雑貨のフロアだ。コナンたちがいるのは、女性向けのお店が並んでいるエリアだから、蘭の買い物を待っているのかもしれない。
「あはは、二人とも退屈しちゃって。男の人って、女性の買い物に付き合うのほんと嫌いですよねー」
小五郎とコナンが揃ってうんざりした様子なのがおかしくて笑ってしまう。──と。
キャア、とかすかに悲鳴が聞こえた。
驚いて声がした方に目を向けると、数メートルむこうの人混みを、人にぶつかりながら走って行く男の姿が見えた。「私のカバン!」という声が聞こえる。
ひったくり、という言葉が頭に浮かんだ次の瞬間。
「コナンくん!」
安室の声がして、見上げると、手すりの上に飛び乗りサッカーボールを抱えたコナンの姿が見えた。
あの高さから落ちたらどうするのだとゾッとして、梓は思わず手で口を覆う。
コナンは走って行く男を見て一瞬眉間にしわを寄せ、安室を見下ろすと、次の瞬間、手すりを蹴って宙に飛んだ。
周りから悲鳴が上がる。コナン、という毛利の叫び声が聞こえた気がした。
コナンは空中でくるりと回ると、そのままサッカーボールを蹴った。
勢いよく蹴り出されたボールは、走って逃げていた男の後頭部に命中する。
男が倒れたのと同時に、落下地点に駆け込んだ安室がコナンの体をキャッチした。
「──!」
勢い余って倒れ込んだかと思った安室がゆっくり立ち上がり、その腕にちゃんとコナンが抱えられているのを見て、ようやく肩の力が抜ける。
梓は安堵のため息をついて、安室が放り投げた荷物を回収して駆け寄った。
「大丈夫ですか……!?」
「ええ」
「梓姉ちゃん。荷物大丈夫だった?」
「え、え? えっと、うん、大丈夫だよ。割れ物は買ってないから」
安室の腕の中から呑気な質問をしてくるコナンにつられてエコバッグの中を確認したが、特に被害はなさそうだ。
「そうだあの男」
「あっちは、ほら、近くの人が取り押さえてるから大丈夫」
安室が指す方を見れば、ボールが直撃して昏倒した男は、被害者の女性や近くにいた人に取り押さえられていた。警備員も駆けつけている。
コナンはホッと息を吐いた。
「良かった」
「──良かった、じゃねーこの馬鹿!!」
怒鳴り声に振り返ると、毛利が息を切らせてかけつけていた。
「いきなり飛び降りて何やってんだ!」
耳を引っ張り怒鳴りつける毛利に、コナンは顔をしかめて言い訳する。
「だって。あの位置からだと角度的にボールが当たらなかったから……」
「だってじゃない! だからって飛び降りるな! 危ねーだろ!」
「ごめんなさあい」
コナンは小五郎のお小言から逃げるようにぎゅっと安室の首にしがみついた。
安室が戸惑って、小さな背中に置いた手をどうしたらいいのかわからないというように、微妙に浮かせる。毛利が顔をしかめた。
「──安室くん」
「はい」
「お前もこいつをそそのかすな」
「すみません」
安室は素直に謝る。コナンが慌てて顔を上げた。
「待ってよおじさん、今回安室さんは悪くないよ」
「うるさい! あんな、『いるぞ』と言わんばかりに呼んだらお前が飛ぶのわかり切ってるだろーが!」
「「……」」
二人は沈黙し、視線を交わして、目が合うと気まずげにそらした。
「それは……」
「まあ……」
「飛ばすな投げるなと注意したばかりだろ。もう忘れたのか」
「……飛び降りて、受け止めたんじゃん」
「同じだ馬鹿!」
毛利はコナンの頭に拳骨を落とす。コナンが「痛い」と悲鳴を上げた。
毛利はガシガシと頭をかいてため息をつく。
「ったく、お前らは……。──安室くん。受け止めてくれたのは、助かった。礼を言う」
「いえ。……申し訳ありません。仰る通り、呼んだのは僕ですから」
「コナン、お前もちゃんと礼言っとけよ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
その時上の方から「お父さーん? コナンくん?」という声がした。買い物を終えて二人の不在に気づいたのか、ショッパーをさげた蘭が二階できょろきょろとあたりを見回し、奥の方へ行ってしまう。
「オイ、蘭! ──しゃーねーな。蘭捕まえてくるからお前はここで待ってろ」
毛利は慌てて二階へつながるエスカレーターに向かって行った。
コナンが安室を見上げる。
「……えっと。もう下ろしてくれていいんだけど」
「ああ……コナンくん軽いから、全然気にならなかったよ。太ったっていうのは、やっぱり気のせいだったんじゃないかな」
安室がにっこりと笑って言うと、コナンはむっと眉間にしわを寄せて安室の腹を軽く蹴った。
「せっかく太ったのに、誰かさんが手抜きするから、減ったんだよ」
「え?」
「……おやつが毎日パウンドケーキじゃ、栄養偏るんじゃないってこと! 責任とってよ」
「……」
安室はぱちぱちと目を瞬かせ、コナンを見つめた。
「何。何か文句あるの」
「──ううん」
安室は小さく笑って、ぽんぽんとコナンの背中を撫でた。
「取るよ。ちゃんと責任もって、今日からまた、君のためだけのおやつを作るよ」
コナンがむうっとふくれる。
「……調子良いこと言って。そうだよね、ボクは、大事な日本の宝だもんね?」
「この国にとってもそうだろうけど。──僕にとっても君は特別な子だから。じゃないと、こんなことしないよ」
安室の言葉に、今度はコナンがぱちぱちと目を瞬かせた。
安室はコナンを見つめて、にっこり微笑む。
「君はそれを、ちゃんと、思い知っておくように」
「……え、っと?」
圧力を感じる笑顔に、コナンが困惑したように身を引く。
安室は空いた距離を縮めるようにずいっと顔を近づけて言った。
「毎日おやつを食べに来て、今後は、土日や蘭さんがいない時も、なるべくポアロに食べに来るように。わかった?」
「う、うん……うん? え、なんで? 何がしたいの安室さん」
「それは、わかるまで自分で考えて。謎を解くのは得意だろう? 名探偵くん」
「はぁ? ……またそれ?」
顔をしかめるコナンに、安室は笑うと、コナンを下ろした。
「今日のおやつは、後で事務所に持って行くね。──ほら、先生が呼んでるよ」
蘭と合流した毛利が、コナンを呼んでいる。コナンはそれを見て、不満げに安室を見上げた後でため息をつくと、梓に手を振り、毛利たちのもとへ走って行った。
安室は毛利たちに会釈して、ふっとため息をつくと、梓の手から荷物を取った。
「──この間の話ですが」
「どの話ですか?」
「お世話したいのかって、話です。──したいですね。そして出来れば、僕の作ったものを食べないと物足りなくなるくらいになって欲しいです」
「……開き直りましたね」
「はい」
爽やかな良いお返事だが、言っていることはかなり怖い。
コナンも気の毒に。
「お世話したい」を自覚したハイスペックな完璧主義者は、何をどこまでやるつもりなのか。──いや、先程の様子を見ていると、案外この二人は割れ鍋に綴じ蓋で相性がいいのかもしれない。
相手の特別でありたい、という気持ちは、多分、コナンも持っているはずだし。
それに、隙が無くて近寄りがたいこれまでの安室より、コナンと一緒の時の安室の方が、梓的にも面白くて親しみやすい。
まあいいか、と梓はため息をついた。
「……そうですか。頑張って下さい。応援します」
「ありがとうございます」
「まあ、まず安室さんは、急な欠勤と長期の不在をなんとかした方がいいと思いますけどね」
「──頑張ります」
安室は肩をすくめると、神妙にうなずいた。
「では、帰りましょう。──今日はおやつ、何作るんですか。手抜きって言われちゃいましたから、適当なものじゃ駄目なんじゃないですか?」
「そうですね。名誉回復のために、豪華にフルーツタルトでも作ろうかな。コナンくんが美味しそうって言ったもの、全部入れて。……果物を買っていかないと。途中いつもの八百屋さんに寄ってもいいですか?」
「ええ、勿論」
梓はうなずく。
何の果物があるだろう、いいものが残っているだろうか──と心配しながら早足になる安室に、梓は笑って、タルトのお裾分けはもらえるかな、と考えながら後を追った。