月がきれい




 その日、コナンたち少年探偵団に来たのは、二年生の女の子からの「無くなったぬいぐるみを探して欲しい」という依頼だった。
 彼女はおばあちゃんに貰ったその小さなぬいぐるみをとても大切にしていて、家の中ではいつも一緒だったが、「汚れたら嫌だから」と外に持って出たことはなく、外出する時は玄関の靴箱の上で「帰りを待ってもらっていた」のだと言う。それが、昨日帰ったら無くなっていたらしい。

「お母さんは絶対触ってないって言うし……絶対、お家の中にあるはずなの。探すの手伝って」

 正直に言えばあまり気乗りしなかったが、同情した歩美に引っ張られる形で依頼を受けることになり、五人は女の子の家に向かった。 
 ぬいぐるみ探しくらい楽勝だろう、場所が限られて言えるなら尚更だ──と軽く見ていたのだが、甘かった。
 少年探偵団の五人と女の子、そのお母さんの総勢七人がかりでの捜索は、日が暮れるまで続き、そろそろ今日は切り上げなければという時間になってやっと、隣家の飼い犬の小屋の中で見つかった。隣家の奥さんは犬を連れてよく遊びに来るそうで、前回遊びに来た時に持って行ってしまったのだろう──とのこと。まさか隣の家とは、と脱力したが、ともあれ、見つかって良かったと少年探偵団の面々は喜んだ。

 依頼完了で女の子の家を出た時には、秋の日はとうに落ち、空には丸い月が浮かんでいた。
 暗くて危ないし、お礼をかねてと、依頼人のお母さんが車でみんなを送ってくれることになる。依頼人の家は学区の端の方で、コナンたちの家がある地区とは学校を挟んで反対側だ。歩いて帰るのは面倒臭いと思っていたので、少年探偵団はお礼を言って車に乗り込んだ。
 最後に車に乗り込もうとして、コナンはふと、視界の端に見慣れた大人の姿を見つけた。
 とっさに車から離れる。

「ごめん、オレ、おじさん見つけたからそっちに乗せてもらう!」

 そう言うと、灰原が顔をしかめた。

「乗せてもらうって……毛利探偵は車持ってないじゃない」
「今日はレンタカー借りてんだよ。尾行の依頼だって言ってた」
「まだ仕事中なんじゃないの?」
「だったら何か手伝えるかもしんねーだろ」

 コナンはまだ何か言いたげな灰原を車の中に押し込んだ。

「早く帰んねーと、夕飯間に合わねーぞ。──おばさんだって、お夕飯の準備あるよね?」

 運転席に声をかけると、そうね、遅くなったら親御さんも心配するわね、と返ってくる。

「ボクはお家の人と一緒だから、大丈夫。おばさん、みんなのことよろしくお願いします」

 頭を下げて扉を閉め、まだ不審げな顔をしている灰原と他の三人に手を振って、出発した車を見送ると、コナンはよし、とつぶやいてスケートボードを抱えた。

(方向はあっちだな。いまなら多分追いつく)

 先ほど見つけたのは、小五郎ではない。安室透だった。
 こんな普通の住宅街にいるのだ、たぶんカモフラージュで受けている安室透としての探偵業に違いない。

(ちょっと興味あったんだよな)

 あの男が、普段はどんな感じで探偵をしているのか。どんな依頼を受けているのか。
 安室は優秀な男だ。何かの参考になるかもしれない。それに、正体を暴いたとはいえ、まだまだ秘密の多い男だ。もしかしたら、何かわかることがあるかもしれない。

 そんな考えで、安室を見た方向へ向かい──コナンは十分後、首を傾げて元いたところに戻ってきていた。
 どうせあの目立つ車で来ているのだろうというあてが外れて、近隣の駐車場には安室の車はなく、その上どうやらどこか家の中にでも入ってしまったらしく、安室の姿を見つけることが出来なかったのだ。
 尾行失敗だ。

(……まあ、あの人が簡単に尻尾掴ませるとは思ってなかったけどな!)

 負け惜しみのように考えて小さく舌打ちし、スケートボードを置く。
 夕時の混雑した道路を通ることを考えると、ため息が出た。
 念の為もう一周、あたりを回ってみようとスケートボードに乗る。
 同じ学区で近所といえば近所だが、この辺には知人がほとんどいないので、馴染みは薄い。店もほとんどない住宅街に不審な気配は微塵もなかった。夕飯の準備をしているのだろう、いい匂いがそこここから漂い、時折かすかに子どもの声が聞こえてくる。平和だ。平和過ぎて、こんな時間に一人スケートボードに乗って外をうろついている自分の場違い感が際立つ気がした。
 大通りに向かおうと方向転換し、コナンはふと、一本の暗い道に気づいた。
 何気なくその道を進むと、明かりひとつついていない、建物がひとつ。
 カーテンやブラインドもないから無人のようだが、廃ビルにしては荒れた様子がなく、かといって人が出入りしている雰囲気も無い。個人の一軒家が多い界隈にはやや異質な建物だった。
 好奇心にかられて、少し手前でスケートボードをおりて、三階建ての建物に近づく。
 近づいて見ても、やはり明かりはついていない。横に回って窓から一階をのぞき込んでみたが、人はいなさそうだ。そのままぐるりと裏に回って、何気なく裏口の扉の鍵穴を少しいじると、ドアノブがあっさりと回った。
 少し考える。
 ちょっと中を見るくらいなら、さほど帰宅が遅れることはないだろう。特になにか危険な気配がするわけでなし、ザッと見て回るくらいなら大丈夫。
 そう判断して、スケートボードを扉の外に置くと、コナンは建物に侵入した。
 こういう時には、小柄な体は便利だ。外から見咎められる可能性が低い。
 腕時計のライトをつけると、一階はコンクリート打ちっぱなしのだだっ広い空間だった。前面にシャッターがあったし、倉庫にでも使っていたのだろう。二階まで吹きぬけだが、荷物もなにもないのでがらんとして見える。
 ほこりっぽさはなく、床や窓にもさほどほこりは積もっていない。外から見た時もそうだったが、荒れた印象がまるでなかった。

(出来たばかりって感じじゃねーし……引き払ったばかりか、売出し中で、元の持ち主が管理してるとか?)

 一階に見るものはなさそうなので、裏口のそばにあった階段をそっと上っていく。三階部分が、事務所スペースのようだ。
 階段を上りきると、扉がひとつ。
 ノブに手をかけると、あっさり回る。
 人通りがそこそこある住宅街で、この無防備さはいいのか。浮浪者が入り込んだりするのでは──いや、入る込んでいるのでは。
 そう思い至って、警戒をした瞬間。
 ドアが急に内側から開いた。

(しまった!)

 つかんでいたドアノブごと部屋に引きずり込まれ、体勢を整える前に、コツリと頭に硬い感触がする。

(──拳銃)

 ヒュッと息を飲んで、視線を上に向ける。
 そこにいた男は、見慣れた男だった。

「…………安室さん」

 コナンを見た安室は一瞬瞠目し、しかし銃口を向けたまま、冷たい目で膝をつくコナンを見下ろした。つばのある帽子を目深にかぶっていて、俯くと、薄暗い中で表情が見えない。

(安室さんがなんで……いや、待て。もしかしていまこの人は──)

 ──安室透ではなく、バーボンなのではないか。
 まさか組織の仕事だったとは。自分の迂闊さを悔やむ。
 しかし、まだ何かを目撃したわけでもないのだ。バーボンがここでコナンを殺す理由はない。
 それとも、いまからここで何か起きるのか。
 サッと視線を動かして観察したが、フロアには他に人がいる気配はない。床がカーペット敷きであることを除けば、階下と全く同じがらんどうの、机ひとつ、椅子ひとつない空っぽのオフィスだ。奥にドアが二つ。しかしそこはどちらも開け放たれていて、中のトイレが見えており、隠れるところは皆無だった。

「……ここで、なにしてるの」

 問うと、バーボンは小さく息を吐いて、低くつぶやいた。

「本当に詮索好きな子どもだ。──一度痛い目をみないとわからないのかな」

 コナンは黙って、冷たい目を見つめ返す。
 そのまま、数十秒。
 バーボンは小さくため息をついて、銃を下ろした。

「──もう遅い。ここには何もないから、帰りなさい」

 コナンは眉をひそめた。立ち上がって一歩近づき、ふと、不穏な臭いに気づく。
 ──血の臭いと、火薬の臭い。
 思わず目の前の腕を掴んだ。ビクリ、と男の腕が震える。

「怪我してるの」

 男は一瞬目を見張り、ふっと目をそらした。

「──僕じゃない」

 その答えに、眉を寄せる。
 男は面倒臭そうにコナンの手を振り払うと、そのまま扉のすぐ脇で、壁に背を預けてずるずると座りこむ。

「もういいだろう。帰りなさい」

 重ねて、男はそう言う。

「でも……誰が怪我したの」

 答えはない。
 目の前の男は、コナンなどまるで見えていないかのように、俯いている。
 戸惑った。
 ポアロで、あるいは小五郎や他の人たちと行動している時に見せる安室の顔ではなく、ベルツリー急行で垣間見た、あるいはベルモットと思しき女と行動している時のバーボンの顔とも違い、そして、IoTテロの時に見た降谷の顔とも違う。
 ならば、いま、この男は『誰』だろう。

「──あなたは誰?」

 ぽろりと、問いがこぼれた。ピクリと、わずかに男の肩が揺れる。
 少しの沈黙の後、ため息とともに答えがあった。

「さぁ…………誰だろうね」

 小さな、どこか途方にくれたような声。

「あむ、」

 声は急に腕を引かれたことでさえぎられる。そのまま両腕で拘束されて、コナンは固まった。
 ドッドッと、心臓が強く跳ねる音がうるさい。
 首でも締められるか、それとも床に引き倒されるかと覚悟をしたが、安室はそのまま動かない。
 拘束、というよりもこれでは、ただ抱きしめられているだけだ。
 そう、気づいて今度は戸惑った。
 しゃがみ込んだ安室に引き寄せられたから、顔の下に安室の頭が見える。背中と、足に回った腕は、コナンの行動をおさえる以上の力を感じない。
 鼓動が徐々におさまっていく。

「……安室さん?」

 コナンの胸に額を押し当てたまま、安室は動かず、反応もしない。
 冷たい腕だ、と思った。
 これまでに何度か、安室に抱き上げられたことはある。しかし、安室はこんなに冷たかっただろうか。
 まるで死体に抱えられているようだ。生きているのか不安になって身じろぎすると、押さえ込むように指に力がこもり、生きているとわかった。
 腕ごとまとめて拘束されては、麻酔針を撃ち込むわけにもいかない。蹴るにも不安定だ。
 打つ手なし。しかし、身の危険が迫っているわけでもない。
 コナンはとりあえず、されるがままに大人しくしていることにした。
 密着していると、また血の臭いがした。
 しかし、生々しくどこかからにじむ血の臭いではなく、これは確かに残り香だ。
 先ほどした火薬の臭いとあわせて考えると、何か事件があったか。──いや、先ほどこの男は、バーボンだった。

(──組織の仕事)

 一瞬、跳ねそうになった心臓を、唇を噛んで押さえる。
 安室が潜入している『黒の組織』の全容は、まだ見えない。
 しかし、ジンたちを見ているだけでも、人を傷つけたり、殺したりすることをためらうような連中ではないことは、確かだ。
 安室はそこに潜入し、幹部にのぼりつめている。『情報収集に長けた人物』という評からは、そうそう汚れ仕事をしているようには思えないが、それでもおそらく、一切関与しないというわけにはいかないだろう。

(何があった?)

 もしかしたらこの近くに、撃たれて怪我をした人がいるのではないか。
 安室の姿を見かけてから見失うまで、銃声は耳にしていないが、サイレンサーをつけていれば音が聞こえるはずがない。
 コナンの焦燥を見透かしたように、男がつぶやいた。

「……もう、君に出来ることはない」

 ため息が、ひとつ。

「ごめんね」
「……」

 それは、なにに対する謝罪なのか。
 しかしそれで、「出来ることはない」という言葉が嘘ではないとわかって、コナンは力を抜いた。
 誰が、どこで、どうして。──何が起こったのか。
 それが一切わからないので、不思議なほど感傷はわかなかった。

(──大丈夫。この人ならきっと、いつでも最大限出来ることをするはずだ。怪我をした人がいたなら、後から救急車を呼ぶとか、警察を呼ぶとか、絶対にしたはずだ。ジンたちみたいに、簡単に人を殺したりしない。──でも)

 あの組織は、裏切り者の気配に敏感だ。公安警察の任を負って組織に潜入しているこの男は、裏切り者と疑われないために、組織の中で信頼を勝ち得るために、繊細な行動を要求されているはずだ。彼がジンに疑われていることは、以前公安からノックリストが盗まれた際の騒動でも明らかで、幹部だからといって立場は盤石ではない。
 自分の命を守るために、仲間や公安警察、そして、この国を守るために──飲み込まなければならないことも、きっとある。
 そのためにこの男が相当の覚悟をしていることも、時には手段を選ばないことだって、コナンはもう知っていた。

(この人だけじゃない。水無怜奈も……赤井さんも)

 彼らと知り合い、接する中で、潜入捜査官とはどういうものかを知った。
 身近な人を、仲間を、亡くしていない人はいなかった。彼ら自身が死ぬかもしれなかったし、この先そうならない保証はない。
 ──彼らが誰かを手にかけることも、あったかもしれないし、あるかもしれない。
 ぎゅっと拳を握る。
 「嫌だ」「駄目だ」という思いが、胸に満ちる。
 同じことが自分に出来るのかと問われれば、否だ。自分には出来ない。きっと、自分の正義感ではその任務に耐えられない。耐えなくても済む他の方法を、きっと探す。探してしまう。
 ──でも。
 それでは出来ないことが、守れないものがあるのは、どうしようもない事実だった。
 ふと、思う。

『正義のためなら人が死んでもいいって言うのか!?』

 かつての自分の言葉を、この男はどんな気持ちで聞いただろうか。
 言ったことが間違っているとは思わない。そんなことあってはならないし、同じことを問われれば「否」と胸を張って言いたいと、思っている。──でも。
 あんなことを言う資格が、本当に自分にあったのか。
 もう、知っている。世の中が単純ではないこと。正義も悪も一つではないこと。そして、自分が完璧ではないこと。自分がどうしようもなく無力で、ものを知らない子どもだということ。自惚れて、調子に乗って悪を暴き立てて、人を殺してしまうような人間であることを。
 その時。ぎゅっと、強く腕を掴まれた。
 ハッと顔を上げると、男がつぶやいた。

「──冷たい」
「……え?」
「手が」
「手……」
「──何を考えてる?」

 問われて、言われた言葉を反芻して。
 いつの間にか、死体のように冷たいと思っていた安室の体が、じわりと熱くなっていることに気づいた。
 ──いや、熱くなったのではなくて、コナンの手が、冷たくなったのか。
 コナンは息を吐いた。

「……さっきまでそっちが死体みたいだったくせに」
「何のことかな」

 はぐらかすような口調。
 いつの間にか、男は自分の知る安室透に戻ったようだった。
 自分は答えをはぐらかしておきながら、安室は重ねて問う。

「……それで?」

 黙っているとまた手を強く握られる。

「……別に。……自分のことだよ」

 コナンは息を吐いた。

「ごめんって、さっき言ったけど……その言葉を受け取る資格は、ボクにはないよ」

 この男が、何を謝ったか。
 誰かを傷つけたことか。それを阻止できなかったことか。あるいは、全く違うことなのか。
 わからないけれど、安室がいましていることを責める資格は、コナンにはない。自分は、この男の守る国で、彼らの犠牲の上に成り立つ平和を享受する立場で、その上、知っていながら彼の憂いを取り除くことも出来ないのだから。

「君は」

 安室は言いさして口を閉ざした。
 コナンが何を考えたかは、少し考えれば察しがついたのだろう。
 男はこつりと、額をコナンの肩に預けると、つぶやいた。

「君が、そんなことを気にすることはない」

 寄りそう体と裏腹に突き放すような言葉に、ムッとするより早く、男は言葉を接ぐ。

「僕は……僕たちは。自分で選んで、そういう役割をしているんだ。その覚悟は僕のもので、君には関係のないことだ」

 ムッとするよりも落胆して──一周回って、またムッとした。
 腕を払い、男の肩を押す。

「──関係あるだろ!」

 上げられた顔を見つめ、暗闇の中視線を合わせる。

「あるに決まってるだろ。そりゃ、オレはガキで、自分一人じゃ何にも出来ないけど。でも、守るって決めてるんだ。目の前にあるものだけでも、全部」

 自分の未熟さを知っている。体が縮む前の自分はそれを知らない無知な子どもで、縮んだ後それ知った自分も無力な子どもで、自分が何か出来たしたとしても、それは誰かの力を借りて成し遂げたことだ。
 知ってるけれど、傷ついている人を見ないふりすることなんて出来ない。未熟を理由に、逃げることは絶対にしない。
 さっき怯んだ自分を振り切るように怒鳴る。

「オレの目の前に出てきたのはそっちだろ! 勝手に関係ないとか言うな!」
「……」

 男は暗闇の中で目を見張った。
 そして、ふっと笑う。

「随分大きなことを言う。……まるで月を欲しがって泣く子どもだ」

 そう言ってそらした視線の先、カーテンなどない窓の外の夜空には、丸い大きな月が浮かんでいた。
 英文が頭に浮かぶ。
 ──cry for the moon.
 月をねだって泣く子ども。無い物ねだりや、到底実現不可能なことを追い求めることを揶揄する言葉。
 その通りだ、と思う。
 こんな子どもが、誰かを守りたいなんて、全部を救いたいなんて、馬鹿げた夢物語だ。この男からすれば、子供だましの戯れ言にしか聞こえないだろう。

「──それでも。出来ることがある限りは絶対、諦めない」

 これは、自分の意地だ。
 夢物語でも、自分が信じ、願う道はそれなのだ。
 男は苦笑する。その後で、ふっと、息を吐く気配がした。

「……そう」

 笑っているような、泣いているような、怒っているような、複雑な声だった。
 男はそれ以上何も言わない。コナンも黙って、窓の外を見つめた。
 気持ちが少し落ち着いたので、月を見上げて言う。

「そうだよ。──いまは手が、届かなくても。欲しいものは仕方ないじゃん。あんなにきれいなんだから」

 男もまた月を見上げた。

「…………きれい、か」

 つぶやいて、そのまままた黙り込む。
 何かもう少し言った方がいいかと口を開きかけたタイミングで、男は急に、目深に被っていたキャップを取って、立ち上がった。
 慌てて身を引く。
 身長差分、距離が空いて見上げる形になった男の顔は、暗い中ではよく見えなかった。
 ため息が落ちてくる。

「──君とはよくよく、考え方が違うようだ。……僕は、きれいだと思うものは遠くから眺められればそれでいいと思っているからね」

 一瞬、指が撫でるように頬をかすめ、キャップが頭に乗せられた。

「もう帰らないと、先生と蘭さんが心配するよ」

 安室透の声だった。

「……もしかして、こんな暗い中を子ども一人で帰すつもりなの?」

 自分はここに残るつもりかと咎めると、安室は大げさに肩をすくめた。

「無人の建物に一人で侵入してくるような子が、何が怖いって言うのかな」
「それは……そもそも安室さんはここで」

 その時、コナンのスマホが鳴った。
 蘭だ。

『コナンくん!? こんな時間まで何してるの? いまどこにいるの!?』

 心配する声に、スマホに表示された時間を見れば、とうに夕飯の時間だった。
 慌てて「ごめんなさい」と謝る。

「すぐ帰るから! 安室さんと一緒だから大丈夫!」

 安室が嫌な顔をした。それを無視して、「安室さん?」と電話の向こうで首を傾げる蘭に「うん」とうなずき、安室にスマホを押しつける。
 受け取って、数秒ためらった後、安室は諦めたようにため息をついた。

「──蘭さん、安室です。すみません、こんな遅くまで。……ええ、偶然コナンくんに会ったもので、少しお手伝いしてもらって。……はい、勿論です。……はい。……はい。では」

 適当に話を合わせてくれたようだ。
 スマホが手元に戻ってくる。
 コナンはにこっと笑って言った。

「じゃあ、帰ろ」
「……わかったよ」

 安室はまたため息をついて、コナンからキャップを取り上げて、かぶり直した。
 階段を下り、建物の外に出る。
 安室は鍵をかける様子もなく、閉じた扉をそのままにして、スケートボードを回収したコナンの隣に並んだ。
 ──今更。本当に今更、「組織の仕事をしていたなら自分と一緒にいていいのか」と思ったが、本当に駄目なら駄目だと言うだろうと、判断する。
 この人は完全な味方ではないが、敵対する必要がある場面以外ではコナンの不利になる行動はしないだろう。おそらく。
 月明かりと街灯が照らす道を無言で歩きながら、聞き損ねたことを考える。
 ──結局、安室はあそこで何をしていたのか。何があったのか。
 ──何を考えて、コナンを抱きしめたりしたのか。
 聞きたくても、横から見上げる表情はいつもの安室透のもので、あの部屋から出てしまったいま、改めてその問いを口にするのはためらわれた。

(……そもそも、あの人は)

 バーボン。安室透。あるいは、降谷零。
 暗い部屋の中で、自分が話をしたのは誰だっただろう。その全部だったような気がするし、逆に、その誰とも違ったような気もする。
 視線を上げれば、空の高い位置に浮かんだ月が、丸く淡い光を放っている。
 安室は少し目を細めてそれを見上げていた。
 先程この男は「きれいだと思うものは遠くから眺めるだけでいい」と言った。
 ──『きれいなもの』
 それは、コナンが言った子どもっぽい理想のことだろうか。それをただ、遠くから眺めていればいいと、そう思っているのだろうか。それとも、彼が言った「きれいなもの」は、それとは全然違う何か別のものなのだろうか。
 コナンは立ち止まる。

「──コナンくん?」

 少し先に行った安室が立ち止まり、振り返る。

「……歩くの疲れちゃった!」

 わざとらしくそう言うと、安室は目を丸くし、コナンが抱えたスケートボードに目を向けたが、そのまま何も言わず、歩み寄るとコナンを抱き上げた。

「──これでいいかな」

 スケートボードごと抱えて重いだろうに、そんな素振りは見せない。
 安室からは、先程感じた血のにおいも、硝煙のにおいも、消えていた。
 コナンは月に向かって手をのばした。

「何?」
「うん。──ここからなら、手が届きそうな気がして」

 いつか届く。元の体に戻って、安室も他の人たちも、元の生活に戻る日が来る。
 自分がそう信じ、願えるのは、安室のような人たちがいると知っているからなのだと、この人に知っておいて欲しかった。
 守りたいと言ったけれど、何も出来ない自分は、誰かに助けてもらわなければならないのだ。
 だから、遠くから眺めていられるだけでは、困る。一緒に、手をのばして欲しい。それが、傲慢な願いだとわかっているけれど、それでも。
 安室はコナンと、のばした手の先を見つめ、困ったように苦笑した。

「……君なら、取って来れそうだな」

 そんな、はぐらかすようなことを言って、歩き出す。
 この男から明確な答えがもらえると思っていなかったので、別に構わない。いまはコナンがどう思っているかを、知っていてくれればそれでいい。
 目的は果たしたので、「やっぱりスケートボードに乗る」と腕から下りようとすると、止められた。

「このまま行くよ」
「え……いや、でも重いでしょ」
「全然」

 大通りに出て、人も増えてきた。気恥ずかしくて顔をしかめると、安室は笑った。

「ねえ、嫌がらせでしょ、これ」
「まさか。折角だから、もう少しこのままでいいだろう?」

 何が折角だと言うのだ。コナンは顔をしかめた。
 安室は何も言わず、結局「もう少し」と言いながら毛利探偵事務所の前までコナンを抱えたままだった。

「──じゃあ、気をつけてね」

 事務所のビルの階段口でようやく下ろしてもらう。

「もう家の前なのに何に気をつけろっていうの」

 憎まれ口を叩くと、安室は「階段から落ちないように」と言ってコナンの背中を押し、キャップのつばを下げた。

「──コナンくん」
「何?」
「おやすみ」
「……おやすみなさい」

 安室は挨拶をするとあっさりと、立ち去った。
 ──結局、自分のことはほとんど話さないままだった。
 一度も立ち止まらず、振り返らないその背中が見えなくなるまで見送って、コナンは空を見上げた。

「……遠いけど」

 いつか、届く日は来る。
 元の体を取り戻して、組織を潰して、みんな平和な生活に戻れる日が。
 そして、いまは孤独で遠いあの背中にも。きっと追いついて、隣を歩ける日が来るはずだ。

「遠くから見物なんてさせねーから、覚悟しとけ」

 月に向かってつぶやいて、コナンは階段を駆け上がった。