信用に値しない
掃除道具を持って店を出ると、冷たい空気が肌を刺した。
ぶるっと一度震え、手早く掃除を始める。春が来るのはまだもう少し先──とはいえ、空気は徐々に緩んできている。もう都内は雪は降らないだろう。
安室は、数日前に長野の雪山に閉じ込められた時のことを思い出してため息をついた。
──閉鎖環境での連続殺人事件。
その事件自体は難しいものではなく、複数の犠牲者を出してしまったが無事解決した。
問題はむしろ、別のことだ。
脇田と諸伏。江戸川コナン。
我ながら、よくやり過ごせたものだ。諸伏に関しては、上の援護もあったようだったけれど。
潜入捜査官として、日々気を抜けない生活をおくってはいるが、それにしても緊張した。
脇田はあれでごまかされてくれたか。
珍しく反論らしい反論もせずにやりとりを聞いていたコナンが、何をどこまで察したか。
久しぶりに会った親友の兄は、景光についてどう思っているのか。──自分のことを、どう思ったか。
ぐるぐる、済んだことを考えてしまうのは疲れているからだろうか。
ため息をついてホウキを動かすと、何かに当たった。
見れば、梓の飼い猫の大尉が、不満げな顔で安室を見上げていた。
「ああ、ごめん大尉。掃除するから、どいてもらっていいかな?」
しかし大尉はつんとそっぽを向いて無視する。
「……外は寒くないかい? 猫は寒がりなものだと思っていたけど」
仕方なくホウキを置いて抱き上げると、大尉は抗議するように「ぶみゃー」と鳴いた。大人しく抱っこされてくれず、だらんと体を伸ばして嫌そうな顔をしている。
ふと、山奥の教会でコートのポケットに手を突っ込み、寒そうにしていた子どもの姿を思い出す。
あの時、抱えた子どもの体は小さくて、軽くて。
「……何やってんの?」
声をかけられ、ビクッとして手がゆるむ。その隙に大尉がするりと手から逃れた。
振り返ると、ランドセルを背負ったコナンが不思議そうな顔でこちらを見ていた。
猫は、声をかけてきた子どもの足元にすり寄る。
「コナンくん。おかえり」
「ただいま。──どうした? 大尉。安室さんにいじめられてたのか?」
にゃー、と大尉が可愛らしく鳴く。
大尉はコナンに懐いている。先程までと全く違う態度と、告げ口でもするような鳴き声に安室は顔をしかめた。
「ひどいな。掃除をするから移動してもらおうとしてたんだよ」
「ふーん」
コナンが大尉の頭を撫でると、大尉は満足げに喉を鳴らして、ふいっと、店の裏に向かった。裏口から店のバックヤードに入るつもりだろう。
店の窓越しに、梓と目が合ったので、大尉が裏へ向かったことをジェスチャーで伝える。梓は指で丸を作った。
──通じたはずだ。多分。
はぁとため息をついて振り返ると、コナンがじっとこちらを見ていた。
「……何かな」
「ううん。安室さん、大尉と仲悪いの?」
「どうだろう。僕としては、そんなつもりはないんだけどね。動物に好かれるタイプではないからな……」
「ふーん」
「猫は特に機嫌が読みにくい。気まぐれな生き物だからね」
猫によく似た少年を見下ろしてにこりと笑うと、コナンは顔をしかめた。
「安室さんが、何考えてるか読みにくいから、警戒するんじゃないの」
「それは大尉のこと?」
「それ以外に何かある?」
コナンはしれっと言ってそっぽを向いた。
──ご機嫌斜めだ。
何だろう。あの時、問いをはぐらかしたせいだろうか。
しかし、この子は安室の立場をよく知っているはずで、聞いたところで答えが返ってくる可能性が低いことも承知していただろう。
──それとも。脇田をごまかすために言った言葉に、やはり怒っていたのだろうか。
子どもの浅知恵だとか。真似しているだけだとか。
あり得る気はした。この子はその実力相応に、プライドも高い。大人しく聞いていたから、コナンはコナンで脇田に思うところがあるか、あるいは安室が無意味にあんなことは言わないとわかってくれていると、思っていたのだけれど。それは、希望的観測だったかもしれない。
──でも。
(それならそれで、いいじゃないか)
この子と必要以上に親しくなんて、なってはいけないし、なる必要もない。
たしかにこの子は、組織を追いつめるため切り札になるかもしれない。
この子本人だけでなく、この子の周囲には優秀な人間が集まっている。工藤夫妻。FBI。CIA。国際指名手配されている怪盗ともつながりがあるようだし、ベルモットは彼に何か思い入れがあるようだし、安室の知らないコネクションも、山ほどありそうだ。
彼が本気でその力を使えば、組織だって、きっと。──そんなことを考えてしまうくらい、優秀で得体の知れない子どもだ。
でも、組織に潜入しているからこそ、安室はあの組織の底の知れない巨大さと恐ろしさを承知していた。
長い間、世界中の警察機関が何とかしようと力を尽くし、犠牲を出し、それでもいまだに尻尾すら掴めない組織が、子ども一人で何とかなるなんて楽観が過ぎる。
だから、安室透は江戸川コナンと親しくするべきではない。
工藤新一は組織に目をつけられていて、毛利小五郎も、そしてこの子どもも、存在を意識されている。
安室透が毛利に取り入る姿を見せることはおかしなことではないが、小さな子どもに必要以上に構うのは、不自然だ。
脇田は、何を思ってあの時あんなことを言ったのだろう。彼自身、毛利家の近くにいるのだから、コナンが普通の子どもではないことに、気づいているかもしれない。
何を、どこまで疑っているか。わからない。
状況は、決して良いものではない。
──なのに、この子ときたら。
「安室さん?」
「え。ああ……」
つい考え込んでしまった。
安室は気を取り直して、いつもの笑みを張り付けて「なんでもないよ」と答えた。コナンの眉間にしわが寄る。
と、狭い歩道を自転車がすごい速度で走ってきた。
コナンが避けようとした先に、安室の置いたチリトリがある。安室はとっさにコナンを抱き上げた。
自転車が走り抜ける。
「危ないな」
スピードを緩めることもなく走り去った自転車に、顔をしかめる。
そもそも、自転車は軽車両なので車道を走るべきだ。都心部の狭い道では、車道を走るのも危険なのだろうが、だからといって、狭い歩道をスピードをあげて走っていいことにはならない。
「大丈夫?」
「ありがと」
コナンは不本意そうにしぶしぶ礼を言う。
想定外に近くにあった顔に、安室はハッとして反射で腕を伸ばし、抱えていたコナンを遠ざけた。
「──なに」
急に、両脇をつかんで抱える……というよりも、ぶら下げられた形になり、コナンは目を瞬かせる。
「え。……いや」
「あーっ、安室さん、何コナンくんいじめてるんですか!」
高い声が響く。梓だ。
店から顔を出した梓は、安室と、安室に無理矢理抱え上げられた(ように見える)コナンを見て、目をとがらせた。
いまの安室には助け船だ。ホッとして、安室はにこやかな笑みを浮かべて振り返った。
「嫌だな、梓さん。いじめてなんていませんよ。ねぇ、コナンくん」
「え? まぁ……」
「ほんとに? そんな、猫持ち上げるみたいにして」
「アハハ、軽いなぁって思って、つい。大尉とどっちが重いかな」
そのまま高い高いでもするように更に上にあげると、コナンはギャッと悲鳴を上げた。
「安室さん! もう下ろしてあげてください!」
「はいはい」
コナンを下ろすと、下からにらまれた。
「ごめんごめん。高いところ苦手だったかな?」
「べっつに! 梓姉ちゃんありがと! じゃあボク、うちに帰るとこだから」
コナンは口をとがらせ、梓に礼を言うと、あっという間に階段を上っていってしまった。
それを見送り、梓がため息をつく。
「もー、コナンくんのことからかうの好きみたいですけど、やり過ぎると嫌われちゃいますよ!」
「からかってるつもりはないんですけどねえ」
もう、と梓ににらまれて、安室は肩をすくめる。
(──これでいい)
小学生と近所の店のアルバイト。いたずらっ子と意地悪な大人。子どもと大人。──距離感なんて、こんなものだ。
「……ちゃんと、警戒してくれないと」
「え?」
「いいえ。それより、中入りましょうか。外、寒いですし」
安室はにこりと笑って梓の肩を押した。
その日の夕方。安室は小五郎に依頼された出前を持って、毛利探偵事務所を訪れた。
これで本日の業務は終了。あとは帰るだけだ。
「こんにちは……って、あれ?」
ドアを開けて入った事務所には、人の気配がなかった。
トイレかな、と思ったがトイレのドアは少し開いていて、その向こうは暗い。部屋の灯りがつけっぱなしだから、もう上に戻ったというわけでもないだろうし、タバコでも買いに行ったのだろうか。
そんなことを考えながら、来客用の机の上に皿を置こうとして、安室はソファに寝転がっていた少年の姿に気づいてギクリとした。
コナンが、寝ている。
本を読んでいたのだろう。胸の上に、子どもが読むにしては分厚いミステリー小説が乗っていて、呼吸に合わせて上下していた。
安室は息を潜めて皿を置くと、少年を見下ろした。
テーブルに乗ったスマートフォン。かけっぱなしの眼鏡。だらりと落ちた左腕の、細い手首にはめられた時計。ソファに転がる前に脱いだらしい、スニーカー。
──あまりにも、無防備な姿だった。
近づき、目の前にしゃがむ。それでも、子どもは起きない。
簡単に、殺してしまえそうだった。
(……この子は、何で)
苛立ちに似た気持ちがこみ上げる。
いま安室は、組織からコナンに関して何か指示をされているわけではない。攫えとも、殺せとも、言われていない。
でも、言われてしまったら、やらなければならないことを、この子はわかっているのだろうか。
安室の立場を、安室がいざという時に手段を選ばないことを、この子はよく知っているはずだ。
なのに何故、自分のそばでこんな、無防備な姿を見せるのか。──まるで、信頼しているような行動を、とるのか。
長野の雪山でもそうだ。
二人組を提案されても大人しく受け入れついてきて、高所から下りる時も大人しく身を委ねて、彼の身を守る大切な武器である時計を、簡単に安室に預けて。
まるで、安室のことを信じているかのような行動をする。
──そんな行動をされるたびに、嬉しくて、苦しくなる。
安室は公安からの潜入捜査官で、彼もそのことを知っている。でも、完全に利害が一致するわけではない。
安室透は、信頼なんて、信用なんて、していい相手ではない。
なのに、何故。
安室は少年の腕時計に手を伸ばした。
これを奪って、彼を無力化するのは簡単だ。
警告のためにも、そうした方がいい。
──なのに、あの時無造作に手の上に置かれたほのかなぬくもりを持った時計のことを思い出して、それ以上手が動かなかった。
「────しないの?」
唐突に、小さな声が耳を打って。安室はハッとした。
ぱちりと、少年の目が開いて安室を見据える。
冷静な目は、とっさにどういう反応をすればいいか戸惑った安室の顔を見て、何故か、拍子抜けしたように丸くなった。
ぱちぱちと瞬きして、コナンは気まずげな表情でため息をついた。
しばらくして、たれていた左手が持ち上がり、ふわりと、安室の頭に乗る。
「…………な、に」
「うん」
そう言って、コナンは安室の頭を撫でているような、髪をすいているような、どちらともとれない遠慮がちな仕草で手を動かす。
まるで、自分の方が小さな子どもになったような心細い気分になって、安室はグッと奥歯を噛んだ。
もう一度問う。
「……何」
「うーん……」
コナンもまた、曖昧に答えて、困ったように眉を下げた。
小さな指が下がり、安室の目元を擦る。
「無理、してない……?」
──無理。
その問いに、安室は思わずわらった。
無理していない時なんて、ない。もうずっとだ。
そういう仕事で、役目なのだから、仕方がない。
だから答える。
「してないよ」
子どもはその答えがお気に召さなかったようだった。
顔をしかめ、キュッと口を引き結んだ後で、また口を開く。
「……ボクに、出来ることある?」
「ないよ」
肩をすくめる。
「……ああ、でも一つだけ」
「何?」
身を起こしたコナンの胸の上からするりと本が落ちる。それを受け止めて、閉じると、コナンに渡す。
「──僕を、信用しないで」
大きな目が見開かれる。
賢い少年はじっと安室を見つめて、しばらくしてため息をついた。
「……わかった」
ホッとすると同時に、ツキリと胸が痛む。
──と。ぎゅむっと、頬をつねられた。
「いっ!?」
「あー、もう。ほんと面倒くせーな」
「は?」
呆気にとられる安室にため息をついて、コナンはパッと手を離すと起き上がった。
「わかったよ。安室さんの言い分はね」
それはどういう意味だ。
微妙な顔になる安室に、コナンはにこっと笑った。
「安室さん、靴取って」
「……自分で取りなよ」
これも大事な武器だろう。それに、取ってやらないといけないほど遠くにあるわけでもない。
つねられた頬をこすっていると、コナンは「取って」と駄々っ子のように繰り返した。
安室はため息をついて、コナンの足元に靴を移動してやる。
「どうぞ、お坊ちゃま」
「履かせて」
「……本気でお坊ちゃまごっこでもしたいのかい」
「いいから。はーやーく」
パタパタと小さな足が揺れる。
安室は深いため息をついて、小さなスニーカーを手に取り、少年の足に履かせた。
執事にでもなった気分だ──と思った時。
ヒュッ、と細い足が振り上げられた。咄嗟に身を引いたが、遅い。
安室の顎の下、蹴り上げられる寸前のところで止まったスニーカーから、パチ、と火花が散る。
コナンはニッと笑った。
「人には信用するなって言っておきながら……自分だけするのはズルいんじゃない?」
安室は顔をしかめた。
このまま、あのサッカーボールを蹴り出す威力で顎を蹴られれば、最低でも脳しんとうは避けられない。
知っているのにそっちこそ何を油断しているのか──いや、「コナンはそんなことをしない」と、こちらを信用しているのはそっちではないかと、言っているのだ。
──図星だった。
安室透にとって、江戸川コナンが情報源になり得るように、江戸川コナンにとっても、安室透は情報源になる。安室を無力化して利用することだって出来るし、そうするメリットだってある。
なのに、そうしないと確信しているのは、安室がこの少年の能力を、江戸川コナンという人間を、信用しているからだった。
まったく、その通りだったけれど、安室は渋面を作ったまま、少年の細い足首を掴んで、除けた。
「……信用なんて、してない」
「ふうん?」
コナンは小さく口の端を上げて、しかし、それ以上の追及はしてこなかった。
コナンはため息をつく安室を見下ろし、あっさり足を下ろすと、まだ靴を履いていない方の足を揺らした。
「こっちも」
まだやるのか。スニーカーを投げつけてやりたい気分で、安室は大きなため息をつく。
忌々しいスニーカーを握りつぶして使えなくすることも出来たがそれはせず、コナンも安室を蹴り上げようとすれば出来るがそれはせずに、もう片方のスニーカーは大人しくコナンの足に収まった。
「ありがと」
ニコッと、コナンは満足げに微笑む。
──微妙な敗北感があるのは、何故だろう。
「……言っておくけど。君みたいな子どものリーチの短い蹴りなんて、簡単に避けられる」
「うんうん、そうだね」
「……」
まるでなだめるような言い方にムカッとしてコナンの足を掴んでソファに再び転がしたところで、扉の開く音がした。
「──何やってんだお前ら」
毛利だ。
コナンがわざとらしく猫をかぶった声をあげた。
「おじさん! 安室さんがいじめるー!」
「ああん?」
「いえいえ、コナンくんが居眠りしてたので起こしてあげただけですよ。寝起きでご機嫌が悪いのかな?」
わざとらしく子ども扱いすると、コナンは嫌そうな顔をした。安室はコナンから離れ、出前の皿を手に取った。
「それより先生、出前お持ちしました」
「お、サンキューな。じゃあ事務所閉めて飯にすっか」
「今日は蘭さん部活なんですか?」
毛利家の家事は高校生の蘭がこなしている。蘭は部活もやっていて忙しいから、彼女に負担がかからないよう、ポアロで外食することも珍しくない。
「ああ、合宿でな」
「え? いらっしゃらないんですか?」
安室は三人前、と指示された出前の皿を見る。
「あん? 俺言わなかったか? この間長野で世話になったから、礼もかねて、安室くんも上で飯食ってけ」
「僕、ですか」
「安室さんが作ったご飯を安室さんに食べてもらうのって、お礼になるの?」
「うっせーな、お前は。酒があるんだよ、酒が。安室くん、今日車じゃねーよな?」
「あ、はい」
「最近なんかシケた顔してっけど、酒でも飲んでパーッと切り替えろ!」
よし行くぞ、と毛利は手早く事務所を閉めると、上に向かって行く。
呆気に取られてそれを見送っていると、コナンが「早く」と背中を押した。
「おじさんに言われたら、断れないでしょ? ──それに、他に誰か見てるわけでもないし。いいじゃん、今日くらい」
パッと振り返った安室に、コナンは笑みを見せる。
「行こ」
「……まったく」
この子には、敵わない。
安室はため息をついて、階段をのぼる。
毛利家に入り込むのは、毛利小五郎を探るため。自分は弟子のふりをして、うまく取り入ろうとしているだけ。──そんな建前、今日は捨ててもいいのかもしれない、けれど。
捨てられないのも、自分という人間だ。
「……あんまり、信用して欲しくないんだけどな」
つぶやいた声が聞こえたはずなのに、コナンは何も言わず、背中を押す手に力を入れた。