運命は信じない


※オメガバースの設定は全員ご存知だという態で詳しい説明無しに話が進みます※



 きっかけが何だったか、というのは今になってもよくわからないが、それがいつ始まったかは、よく覚えている。
 特に何ということもない、普通の日だった。


 その日、毛利探偵事務所に警視庁捜査一課の目暮警部から電話がかかってきた。
 小五郎の依頼人が、事件に巻き込まれたのだと言う。電話を受けて小五郎は、すぐに現場に向かうことになった。
 それ自体は、「よくある」というわけではないが「たまにある」、毛利探偵事務所に居候するコナンにとっては、珍しくもない日常の範囲内の出来事だ。いつもと違ったのは、たまたまポアロのバイト帰りに差し入れを持ってきていた安室が、「同行させて下さい」と言ってついてきたことだった。
 面倒臭いことになったぞ、とコナンは陰で顔をしかめた。
 安室は、コナンの正体を疑っている。公安警察官として黒の組織に潜入している安室は、敵とも味方とも確かには判断出来ない、厄介な存在だ。彼の前では、迂闊な行動はとれない。
 それに、小五郎だ。小五郎は、コナンが仕事についてくること自体は受け入れているが、事件現場に深く立ち入ることを良しとしない。安室がいると、小五郎はいつも丁度いいとばかりに、「坊主の面倒を見てろ」とコナンを押し付けるのだ。
 この日も案の定、そうなった。
 物言わぬ骸になった依頼人の姿を見せまいと、小五郎はコナンをつまみ上げて安室に押し付けると「現場もこの有り様だ。うろちょろして怪我しないように見ててくれ」と厳命した。

「はい、毛利先生。お任せ下さい」

 自称一番弟子の安室はいい返事をする。
 満足げにうなずいて目暮の所へ行った小五郎の背中を目で追って、コナンはため息をつくと、自分を抱える安室を見上げた。

「……下ろしてくれない? 重いでしょ」
「いや? 軽くて心配になるくらいだよ」

 安室はにっこりと笑う。

「そう? でも、恥ずかしいからボク、下ろして欲しいなぁ。うろちょろしないって、約束するから」
「君は目を離すとどこにいくかわからないから、駄目」

 きっぱりと言われて、コナンはため息をついた。
 この感じでは、解放されたところで撒けるとも思えないから、捜査に参加するのは諦めるしかない。小五郎の推理が変な方向に行くのが心配だが、目暮警部が抑えてくれることに期待しよう。それに、小五郎がおかしな方向に行くなら、安室だってきっと放置はしないだろう。多分。
 しかし、この体勢は恥ずかしいから止めて欲しい。
 足をバタつかせると、拘束する腕に力がこもった。腹に回された腕に内臓が軽く圧迫されてうめく。腕が硬い。

(クソ。安室さん、パッと見は優男だけど、やっぱり鍛えてるよなぁ……)

 腕だけではない。ピッタリとくっつけた背中からも、胸板の厚さと腹筋の硬さが伝わってくる。
 二十代後半、しっかり完成された大人の体だ。小学生の自分では、博士の秘密道具があっても、苦戦するだろう。
 面白くなくて、嫌がらせにだらんと力を抜くと、ぐっと引き寄せられた。
 ふわりと、いい匂いが鼻をくすぐる。

(ええー……)

 コナンは半ば呆れて安室を見上げた。
 ──これだけ鍛えていて、暑苦しい筋肉を備えているくせに、いい匂いがするのはどういうことか。

(顔が良くて体も鍛えてていい匂いするとか、おかしいだろ。せめて加齢臭くらいしないと不公平じゃね?)

 そんなことを考えていることなど知らぬ安室は、いまの抱え方が少しきつかったのか、「よいしょ」といささかオッサン臭いかけ声をかけながら、コナンの体を上に持ちあげて腕に乗せた。
 より「抱っこ」っぽい体勢になったが、密着度合いが減って少しホッとする。
 安室の肩に手を乗せると、また、先ほどのいい匂いがした。顔が近づいたからだろうか。顔というか、頭。

(もしかして、いい匂いはこれか? 安室さんって、どこの──)

 その時、安室がちらりとコナンを見て言った。

「コナンくん、シャンプーなに使ってるんだい?」
「え?」

 いままさに頭に浮かんだのと同じことを問われて、コナンは目を丸くした。

「いや、すごくいい匂いがするからさ。どこのシャンプー使ってるのかなって。蘭さんと同じのかな?」

 蘭の名前を出され、コナンは顔をしかめて、安室から離れるように上体をそらした。

「蘭姉ちゃんとは別の使ってますー。おじさんと同じだよ。だから、ボクの頭嗅いだって意味ないからね。……安室さんの変態」

 安室は慌てたように目を瞬かせる。

「待ってくれ、ひどい濡れ衣だ。そういうつもりじゃなくて……単に、コナンくんからすごくいい匂いがするから、いいシャンプーを使ってるのかなって、本当に、ただそう思っただけだよ」
「ほんとに……?」
「本当に。──それにしても、毛利先生と同じ?」

 すん、と頭頂部に顔を埋めて匂いを嗅がれ、ぎゃっと悲鳴を上げる。
 うるせーぞ、と小五郎が離れたところから注意を飛ばしてくる。
 すみません、と安室はいつもの嘘くさい笑顔を浮かべた。小五郎は顔をしかめて、また目暮との話に戻る。
 安室は、頭を押さえて警戒を見せるコナンに視線を戻し、苦笑した。

「ごめんごめん」
「急に頭の匂い嗅ぐの止めてよね。……っていうか、安室さんこそ、なんかいいシャンプー使ってるでしょ」
「僕? いや、その辺のドラッグストアで安く売ってるやつだよ」
「嘘だあ」

 そんなはずはない。
 コナンは、やられたのだからやり返していいだろうと、顔を寄せて安室の髪の匂いを嗅いだ。──やはり、いい匂いがする。
 でも、シャンプーのような人工的な臭いとは、少し違う気もする。
 何の匂いだろう、と髪に触れ、顔をさらに近づけたところで、ぐいっと首根っこを捕まれて、持ち上げられた。

「コラ! なーに猫の子みてーにふんふん懐いてんだ」

 小五郎だ。
 小五郎は本物の猫の子でも扱うようにコナンをつまみ上げると、自分の顔の前まで持ち上げた。タバコの臭いが鼻をつく。くしゃりと顔をゆがめると、小五郎も顔をしかめた。 

「珍しく大人しくしてると思ったら、安室くん困らせて何やってんだお前は」
「へ?」
「ああ、いえ。困ってないですよ。大丈夫です」

 安室が苦笑しながら言う。
 ぶら下げられるコナンを気の毒に思ったのか、小五郎の腕の負担を気遣ったのか、安室は小五郎からコナンを引き取ると、先ほどのように抱っこした。

「すみません、コナンくんはいい匂いするねって、僕がからかったもんで、お返しされてただけです」
「いい匂いだ? ……ガキが乳臭い匂いしてるってだけだろ」

 小五郎は、コナンの頭の上で鼻を鳴らし、馬鹿馬鹿しいと吐き捨てた。

「もー、止めてってば。それにお返ししてたんじゃなくて、安室さんいい匂いするんだもん。だからボク気になって」
「ああ?」

 小五郎は顔をしかめて安室に顔を近づけると、首を傾げた。

「……まあ、加齢臭とかはねぇけど、いい匂い? ってのはわからねーな」
「おじさん、タバコ吸い過ぎて鼻おかしくなってるんじゃない?」

 呆れて指摘すると、拳骨が落ちる。

「いったーい!」

 悲鳴をあげると、小五郎の後ろにいた高木が、オロオロと仲裁に入った。

「まあまあ、毛利さん。安室さんなら確かにいい匂いがしそうじゃないですか」
「あん? そういうならお前も嗅いでみろよ」
「ええ?」

 小五郎が困惑する高木を安室の方へ押しやる。高木は「すみません」と謝りながらも流されるまま安室の匂いを嗅ぎ、曖昧な笑みを浮かべた。

「……えーと、そうですね、イケメンの匂いがする気がします……なんとなく」
「ほれ見ろ。こいつだってわからないじゃねーか」
「ええー?」

 そんな馬鹿な、と高木を見ると、高木は何故かコナンの匂いも嗅いで、「コナンくんは元気いっぱいな子の匂いがするね」とフォローのつもりなのか何なのかよくわからないことを言った。
 左右から匂いを嗅がれて困惑していた安室が、ようやく我に返って苦笑を浮かべる。

「まあ、臭くないなら、それでいいです」
「ふん。安室くん、こいつをあんまり甘やかすなよ。オラ、いつまでもガキみたいに抱っこされてねーで自分で歩け。帰るぞ!」

「え!? もう終わっちゃったの?」

 嘘だろ、と慌ててあたりを見回せば、いつの間にか警察も撤収を始めている。小五郎は舌打ちした。 

「自白だ自白! 面白くもねー」

 小五郎が迷推理を披露する間もなかったらしい。なんだ、とガッカリして、確かに幼児でもないのだからと下りようとしたが──何となく、名残惜しい。
 安室を見上げると、目が合った。一瞬、視線を交わした後で、安室は小五郎に言う。

「ついでですし、ここ、まだ割れ物も片付いてなくて危ないですから、車までこのまま行きますよ。──そういえば先生、この後ご予定があったのでは」
「あ! そうだ!」

 小五郎は腕時計を見る。

「いまから直行すりゃ間に合う!」
「では、コナンくんは僕がお家まで送りますよ」
「いいのか? 悪いな」
「いえいえ、重要な用件でしょうし。これくらい、弟子の務めです」
(なーにが重要な用件だよ)

 どうせ、飲み会か競馬か、ヨーコちゃんだ。コナンは呆れてため息をつく。
 小五郎は、機嫌良さげに「おう、任せた」と言って足取り軽く去って行った。

「──じゃあ、行こうか」

 にっこりと、安室が微笑む。コナンはそれにうなずいた。
 小五郎が立ち去っても、安室は抱っこを止めない。
 この格好は気恥ずかしいが、それよりも、下ろされずに済んだことにホッとしている自分に気づいて、コナンは首を傾げた。

(……おかしいな)

 姿形がどうであれ、中身は高校生だ。本当の小学生ではない。この姿になったからといって、大人に抱っこされたい、甘えたいなどと思ったことはなかった。
 まして、相手は安室だ。油断出来る関係ではないし、抱っこされて落ち着く、なんて思うはずがない相手だ。なのに、どうしてこんなに離れがたいのか。

(何だ? 別にいつもと違うことねーよな? ──いや、匂い……。でも、おじさんたちは、わからなかったみてーだし)

 そこまで考えて、引っかかる。
 匂いに、ひかれる。
 しかも、特定の人間にしかわからない、というならば──考えられる理由が、ひとつあるのではないか。
 コナンは、半ば信じがたい思いで、安室を見上げた。
 安室は視線に気づき、首を傾げる。
 コナンはその顔をじっと見つめた。
 考えてみれば。安室だって、今日は様子がおかしい。
 元々接触が多いタイプではないし、少年探偵団含め、小さな子どもを気軽に抱き上げるようなタイプでもないくせに、今日は小五郎からわざわざコナンを取り返したり、下ろしていいと言われているのに断ったり。常にはない行動だ。

(でも、そんなことあり得るのか?)

 にわかには信じがたい。信じがたいし──非常にセンシティブな問題だ。だが、もし「そう」なら、確認しておくべきだろう。
 コナンはつばを飲み込んで、安室の耳に口を寄せた。

「……あのさ。安室さんて、もしかしてΩ、なの?」
「は?」

 ぽかん、と安室が目を丸くした。その反応に、ばつが悪くなり身を離す。
 世間の大多数は気にせずに生活しているが、第二の性──バース性は、一部の人間にとってかなり繊細な気遣いが必要な話題だ。

「ごめんなさい、不躾なこと聞いてるのはわかってるんだけど……」
「いや、そうじゃなくて。……ああ、なるほど。君がなんでそんなこと聞くかはわかった、けど……Ω? 僕が?」

 安室が、探るようにじっとこちらを見つめてくる。コナンは首を傾げた。

「違うの?」
「違うよ。……僕はαだ」

 小声で、しかしハッキリと答えが返って来る。
 警察も既に撤収し、二人も現場を離れている。他に誰が聞いているというわけでもないが、声が小さくなるのは、反射というか、習慣だ。
 それくらい、バース性の話は厄介なのだ。
 バース性。男女の別の他にある、第二の性。α、β、Ωに区分されるそれ。
 全体の七割以上を占めるβ性には取り立てて特徴はなく、面倒事ともほぼ無縁だが、少数派であるαとΩには、それぞれに特性があり、お互い本能的にひかれあう性質もあり──それに伴い、面倒事も多かった。
 そのことをコナンはよく、知っていた。──なにせ、工藤新一はαなのだ。
 安室は苦笑した。

「Ωかって聞かれたのは初めてだな」

 それは、そうかもしれない。おそらく、自分がαだという前提がなければ、間違いなく、安室もαだと思っただろう。
 なにせ安室は、身体能力が高く、頭脳も明晰な、絵に描いたようなα性のエリートなのだ。
 安室はコナンに探るような視線を向ける。

「何故、そう思ったんだ?」

 聞いておきながら、安室は勝手にしゃべり続ける。

「『いい匂い』をフェロモンではないかと推測したのは、わかる。でも、こちらをΩ性だと考えるのは、自分が対称のα性である場合だけだ。……君の年では、まだバース検査前だろう」

 痛いところを突かれて、顔をしかめる。
 安室の言う通り、バース性は、第二次性徴期後にあらわれる。それまでは、無性の状態だ。そのため、バース性の最初の検査は、小学校卒業前のタイミングと決まっていた。七歳の肉体をもつ江戸川コナンは、無論、検査前だ。
 自分をα性だと断定出来るのは、「そうだったから」なのだが、そんなことをこの男に言えるわけがない。
 コナンは曖昧に笑みを浮かべた。

「それは……何となく……。身内にαが多いし、ボク、ずっとαだろって言われてきたから」

 安室はじっとコナンを見つめ、しばらくして、深くは追及しないことにしたのか、軽くため息をついた。

「──まあ、そうだね。僕も、君はαだろうなと、思ってるよ」

 α性の人間は、何らかの、あるいはあらゆる能力に秀でたエリートが多い。客観的に見て、江戸川コナンはαと見込まれる要素が多いはずだ。子どもの頃の新一が、そう扱われていたように。

「でも、Ωは顔立ちが整った人が多いって言うからね。君は当てはまるんじゃないかな」
「それはどうも。でもそれを言うなら、安室さんだってそうじゃん」
「どうもありがとう。でも残念ながら、僕は検査で確定しているんだよね」

 そうなのか。コナンは微妙な気持ちで黙った。
 そんなコナンの様子を見て、安室はパッと、雰囲気を変えるように微笑んだ。

「──なんて。君の疑念に少し付き合ってはみたけど、僕は、これがバース性に由来するものだという可能性は低いと思うよ」
「どうして?」
「第一に、というか、これがほとんど答えみたいなものだけど、君はまだバース性の確定していない小学生だ。もし君にαの資質があるとしても、いまの段階でΩのフェロモンを感知出来るはずがない。たとえΩだったとしても同じことだ。まれに、早くからバース性があらわれる子もいるっていうけど……さっきの言い方だと、既に診断されたわけじゃないよね」
「うん。──確かに、そうだよね」

 言われて初めて、そこに気づく。第二性の確定した高校生の時の思考パターンで、バース性に由来するものではないかと疑ってしまったが、考えてみればそんなはずはないのだ。
 灰原のところで受けている定期健診でも、バース性が確定していない状態に戻ったことは、確認している。「こういうところも子どもに戻るのね」と、同じα性だった灰原が少しホッとしたように言っていたから、確かだ。
 それに、コナンの身近にはαの大人が何人かいるが、この体になってから彼らの匂いが気になったことはない。α同士だと、なんとなく「そう」かなということはわかるのだが、それが一切ないのだ。
 安室はコナンがうなずいたのを見て、続ける。

「それに、この匂いだ。僕はコナンくんの匂い、安心するいい匂いだと思うけど、コナンくんはどう?」
「同じ。ホッとする感じ」
「だろう? 君の年だとまだわからないと思うけど──Ωの匂いは、そもそも安心感とは無縁のものなんだよ」

 コナンは、ぱちりぱちりと目を瞬かせる。安室は淡々と続けた。

「いや、Ωに限った話ではないな。他のαだって……バース性に由来する匂いは、基本的に攻撃的で、心地いいものではないよ」
(──へぇ)

 そういうもの、なのか。
 実のところ。新一は元々、その辺りが鈍かった。
 多分、新一のα性が強いからだ。
 新一はバース検査で、αの中でも相当α性が強いタイプだと診断されていた。αの父とΩの母という、最もαが生まれやすい血統だからということもあるだろう。おそらく新一は、他のαの、そしてもしかしたらΩの影響も、受けにくい性質なのだ。
 だから工藤新一の時にも、匂いが気になって仕方ない、という経験をした覚えはなかった。発情期のΩに近づけばまた違うのかもしれないが、幸いというか何というか、まだその経験もない。
 安室の言葉が実感できず曖昧にうなずくと、安室は励ますように、コナンの背中をぽんと叩いた。

「だからね、これは多分関係ない。安心して」
「うん。早とちりして、プライベートなこと聞いてごめんなさい」
「気にしないでいいよ。僕も、何だろうなって不思議だから」
「だよね? ほんとこれ、何だろうね。普通に、体臭? おじさん達がわからなかったの、おかしいよね」

 安室の首筋に鼻を寄せる。やっぱり、すごくいい匂いがする気がする。これがわからないなんてことが、あるのだろうか。
 お返しのように耳のあたりの匂いを嗅がれ、くすぐったさに身をすくめると、安室は笑った。

「匂いにも好みがあるし、嗅覚も敏感な人とそうでない人がいるから」
「……そうだね」

 すっきりしないのは確かだが、安室の言う通り、バース性に関わるものだという可能性は低い。

(──まあ、いいか)

 何にせよ、不快になるわけでないなら、いいだろう。体調で今日だけたまたま、ということもある。
 そうあっさりと考えられたのは、元の性質──強いと診断された己のα性によるものかもしれない。
 コナンは、新一は、自分がバース性に左右されるかもしれないなんて、心配をしたことがなかった。自分はそういうものを超越したところにいると、傲慢に言えば、そう信じていた。
 だから、これは違う。まして、相手は安室だ。
 新一には、蘭がいる。蘭はΩではない。αでもなく、意外なことにあの身体能力でβだった。母の英理はαだが小五郎がβなので、そのせいかもしれない。限りなくαに近いβ、というところか。ともあれ、彼女がΩでない時点で、自分には第二の性なんて、関係のない話だった。蘭以外の人間を考えたことなんて一度もないし、考える必要があるとも思わない。
 ──それでも。
 安室の車に向かいながら、その首に腕を回して、匂いを吸い込む。
 もしも。
 もしも、まだ嗅いだことのないΩの匂いが、こんなだったのなら。
 世間のαやΩが番を求めるのもわからなくはないと、少しだけ思った。



 その翌日から、安室はよくある「長期のお仕事」で姿を消した。
 あのいい匂いがあの日限りのことなのか、そうではないのか、気になっていたので、会えなくなったことに拍子抜けはしたが、だからといって何がどうということもない。安室の不在は、よくあることだ。
 ──ただ、ひとつ。
 コナンはこの数日、寝不足に悩んでいた。
 きっかけは、発売したばかりの長編ミステリー。数日かけて毎日遅くまで読んでいたせいで、変に夜更かし癖がついてしまったのか、布団に入っても上手く眠れない日が続いた。
 そんな時に、ふと、思ってしまった。

(あの時のいい匂いを嗅いだら、きっと落ち着くのに)

 一度そう考えてしまうと、無性にあの匂いが恋しくなった。安室ではない。あくまでも、あの匂いが、だ。

(やっぱ、何の匂いなのかあの時ちゃんと突き止めておけば良かった)

 バース性によるものではなく、小五郎たちにはわからない程度の匂い、となると、香水の類ではなく、やはりシャンプーやボディソープのようなものだろう。ポアロで美味しいものを作っているから、その匂いかも、とも思ったが、安室不在のポアロは、コーヒーの匂いがするだけだった。
 それでは、とシャンプーを特定してみようかとドラッグストアに行ってみたが、「ドラッグストアの安いやつ」なんてヒントだけでは、さすがのホームズでもしぼりこめないだろうということがわかっただけだった。世の中にあんなにたくさんの種類のシャンプーがあるなんて、初めて知った。
 寝不足気味で顔色が悪くなったコナンを、当然、蘭も小五郎も、歩美たちも心配しはじめた。
 仕方なく、寝付きが悪いことを告白すれば、優しい彼らは安眠に役立ちそうなものを片っ端からコナンのところに持ってきた。
 寝る前のホットミルクから、ラベンダーのポプリまで。けれど、それらはどれも役に立たず、特にラベンダーは、安室の匂いの方がいい匂いだったと、思い出させただけだった。
 さすがにまずいと、一週間ほど経ったタイミングでコナンは、阿笠と灰原に事情を話して相談した。
 ──それはそれは、怒られた。
 不眠についてではない。「安眠出来そうな匂いに心当たりはあるんだけど」と冗談交じりに触れた、あの日の安室の匂いについてだ。

「江戸川くん、あなた、自分が幼児化するようなおかしな薬を飲まされたんだってことを、もっと深刻に考えてちょうだい! バース性が変わるくらい、あってもおかしくないのよ。その年で、万が一Ωに変化した上に何の対策もしないうちに発情期がはじまりでもしたら、どんな目に遭うかわからないのよ!」

 ──しかし。検査結果は、「判定不能」。
 要するにこれまで通り、まだ未分化の子どもだからバース性はわかりません、ということだ。
 イレギュラーが起きて、第二の性が変わった上に、もう特性があらわれたのかもしれない、という仮説は否定され、灰原は安堵のため息をついていた。

「……とりあえずは、安心だけど。今度おかしなことがあったら、包み隠さず! 速やかに! 報告してちょうだい」
「わかったわかった。でも、バースが変わった可能性はあるってことか?」
「無いとは言えないわね。でもいまのあなたの体では、検査しても無意味よ。工藤くんに戻った時に、検査してみるしかない」
「なら」

 一度戻ってみればいいのではないか。
 解毒剤をくれ、と手を差し出せば、ぴしゃりと跳ねのけられた。

「駄目よ。そんなことのために戻るなんて、論外だわ。いいこと? 何度も中途半端な薬を服用していたら、バースの変性どころか、元に戻れなくなるかもしれないのよ」

 そう言われては、強く言えない。
 Ω性があらわれているわけではなく、年相応に不明、未分化という判定なのだ。発情期が突然来て襲われる危険があるわけでもない。焦ってリスクを増やしても仕方がなかった。

「でも、新一の話は不思議じゃのう」
「そうね。私も調べてはみるけど……あなたの体はいま、間違いなく小学生そのものよ。αの匂いに影響されるなんて、本来ありえない。もし、あり得るとしたら──」

 灰原はコナンを見て、ことりと首を傾げた。

「それは、『運命の番』ってやつじゃないかしら?」



(──馬鹿馬鹿しい)

 灰原のからかうような声を思い返し、コナンは布団の中でごろりと転がった。
 『運命の番』。
 都市伝説級のお伽話だ。
 いまどき、公の場で真面目にそんな言葉を口にしたら、馬鹿かと白い目で見られるだろう。
 番関係とは、α性とΩ性の間でしか結べないものだ。番になれば、Ωのフェロモンは番のαにしか効かなくなり、発情期も安定するという。
 その番の中でも、運命の番というのは、一目見たらあらがえずどうしても引かれてしまい、先に他の番相手がいようと関係がなくなってしまう、絶対的なもの、らしい。
 大層はた迷惑でロマンチックな話だが、実際そんなものがいるのかと言えば、証明されていないのである。
 いや、「自分たちは運命だ」という番はいるが、そんなのは恋愛期特有の浮かれた惚気のようなもの。本気で主張している奴らなんて、いやしない。
 灰原だって、微妙な関係にある安室に対しておかしなことになっているコナンをからかっただけだ。
 隣のベッドでは、小五郎がいびきをかいている。
 荒唐無稽な話はどうでもいいが、バースの話になってしまって、肝心の不眠症の薬を出してもらえなかったのは、完全に失敗した。

(ったく。何でこんなことになったんだか。……ほんとに、せめてあの匂いがあれば良かったのに)

 次。安室が戻ってきたら。絶対に、何の匂いなのかを突き止めよう。
 丑三つ時をとうに過ぎて、ようやく襲ってきた眠気に身を任せながら、コナンはそう決意した。



 結局、安室がポアロに姿を見せたのは、いなくなってから十日後のことだった。
 何となく今日は居るような気がして、学校帰りに真っ直ぐポアロに向かったコナンは、扉を押したその先に安室の姿を見つけて、ホッと息を吐いた。

「いらっしゃい、コナンくん」
「こんにちは」

 安室は丁度エプロンを外したところだった。コナンに声をかけた後、安室は梓を振り返り、手にしたメモをひらりと揺らす。

「他にはもう、買い物リストから漏れているものはありませんね?」
「はい。もし何か思い出したら、電話します!」

 ──買い物。
 安室は、いまから出かけるようだ。
 ちらりと見えたメモには、そこそこ多くの品目が記載されていた。これは、偶然切れてしまったものを買い足しに、近所の店に行くレベルではなく、車で出かけるレベルの本格的な買い出しだろう。
 多分、ジュース一杯で粘れる時間内には、戻ってこない。
 そう悟って、ガッカリする。

「安室さん、買い物行っちゃうんだ……」

 ぽろりとつぶやくと、安室は少し考える素振りを見せた後で、コナンに声をかけた。

「コナンくん、もし良ければ、僕の買出しに付き合ってくれないかな?」
「……え」

 ぽかん、と見上げると安室はにっこりと笑った。

「今日は一人で買出しなんだ。買い忘れがあると嫌だから、買ったものチェックしてくれるお手伝いが欲しいんだけど。バイト代はアイスひとつってことで、どうかな」

 その提案は、渡りに舟だった。コナンはジュースを飲みに来たわけではなく、安室に会いに来たのだ。否はない。

「行く!」

 急いでうなずく。梓が「いいの? コナンくん」と心配するようにカウンターの中で首を傾げる。

「買い物、たくさんあるから時間かかるかもよ?」
「大丈夫! 車で行くんでしょ? ボク、安室の兄ちゃんの車乗りたい!」

 ぴょんと飛び跳ねながら答えると、梓は「そっか」と苦笑した。

「男の子はスポーツカー好きだねぇ。じゃあコナンくん、安室さんが忘れ物しないように、よろしくね」
「うん、わかった!」

 コナンはうなずいて、安室と一緒に店を出た。



 安室の車の中には、今日もあの時のいい匂いがうっすらと漂っていた。
 嬉しくなって、深呼吸して助手席に座ってから、そういえば何故自分を買い物に誘ったのだろうと、何も言わずに車を発進させる安室の横顔を見上げる。

(まさか梓さんの目の前で誘拐を企てることもないだろうし。ポアロを休んでいる間に、何かオレの協力が必要なことが起こった、とか?)

 そんなことを考えていると、安室が口を開いた。

「なんだか、久しぶりだね。一週間ぶりくらいかな」

 正確には十日ぶりだ。でもそんな細かなことを訂正したら、指折り数えて帰りを待っていたようだと、あえて訂正せずにうなずく。

「うん、そうだね。安室さん、どこ行ってたの?」
「ちょっと遠くにね。駆け出しの探偵は、どんな僻地にでもかけつけないと、生活していけないんだ」

 そういう名目でポアロを休んでいたのは、知っている。じとっと見つめたが、安室は気づかぬ素振りで運転を続ける。
 最初から聞き出せるとは思っていなかったから、想定内と言えば想定内だ。コナンはため息をついた。

「それで、ボクに何か用? ──お手伝い、って言い訳はいいから」

 先回りして釘をさすと、安室は苦笑した。

「いや。本当に久しぶりだなと思ってね。……聞きたいこともあったし」
「聞きたいことって、ボクに?」

 小声のつぶやきを拾って問い返すと、安室は、まあねと口ごもり、「それより」とごまかすように、ちらりとコナンを横目で見た。

「君こそ、何か僕に用だった?」
「え。いや……用っていうか、ボクもちょっと聞きたいことがあったんだけど、大したことじゃないから。安室さん先でいいよ」
「いや、こっちこそ、本当に大したことじゃないんだ。コナンくんからどうぞ」
「いや、うん……」

 改まって「匂いの原因が知りたい」というのは、ちょっと切りだしにくい。
 安室はまたちらりとこちらに視線を流すと、片手でコナンの頬に触れた。

「コナンくん、もしかして今日ちょっと疲れてる? 学校で体育でもあったのかな?」
「なんで?」
「眠そうだから。それに、さっきから気になってたんだけど、目の下にうっすらクマが出来てる」
「あー……これは、ちょっと。本読んでたら寝るの遅くなっちゃって……」

 安室は眉をひそめた。

「君のミステリー好きは先生からも聞いてるけど、あまり夜遅くまで本を読むのは感心しないな。目も悪くなるよ」
「わかってるってば」
「それで?」
「え?」
「聞きたいことって、何?」

 話が戻った。安室は多分、こちらが言うまで引かないだろう。
 車は首都高に入る。
 ──実のところ。車に乗った時点で、コナンは半分くらい満足してしまっていた。
 車の中には、あの日嗅いだいい匂いが薄く満ちている。それだけで、随分と落ち着く。

(いまここ寝たら、すっげーよく眠れそう)

 無論、そんなこと出来ないが、いつぞやと異なりほとんど揺れのない走りは、それだけで眠気を誘った。

(買い物終わったら、家帰って昼寝しようかな。……いや、半端に寝ると夜また眠れなくなるか?)

 ──となると。
 やはり、匂いの原因を特定して、安眠を確保しなければならない。
 欠伸をかみ殺して、コナンは「本当に大したことないんだよ」と前置きしてから、たずねた。

「前言ってた、安室さんが使ってる安いシャンプーって、どのメーカーのなんてやつ?」
「え?」

 想定外の質問だったのか、安室は目を丸くした。

「何でまた」
「いい匂いするって、言ったじゃん。えっと……最近おじさんがちょっと臭いから、安室さんと同じの使ったらましになるかなって」
「……それは、先生には直接言わないようにね」

 安室は微妙な表情でため息をついた後で、あっさりと商品名を口にした。
 それは、偶然にも小五郎が使っているものと同じものだった。つまりは、いまコナンが使っているのと同じということだ。

「え。ボクのと同じなの?」
「え。そうなの?」

 何故か、安室まで当てが外れたような顔をしている。

「じゃあボディソープは?」
「同じシリーズのやつがあるだろ? それだよ」

 本当に、どこにでもある安いものを使っているらしい。
 ならば、と一度は消した候補をあげてみる。

「もしかして、何か香水とか使ってる?」
「してるわけないだろう」

 呆れたような答え。
 それはそうだ。飲食店勤務、潜入捜査官、どちらも、香水はNGだ。

「──いや、でも」

 バーボンは違うんじゃない、と思ったが、口にする前に視線で制された。

「──香水は使わない」
「はい」

 肩をすくめて、でも、と考える。
 香水でもない。シャンプーでも、ボディソープでもない。となると、一体何だと言うのか。
 バース関係という推測は、否定されている。
 もしこれが、単純に体臭だというなら、匂いを手元に置いておくことは、不可能だ。
 ──困った。
 困ったが、いますぐ解決策など見つからない。コナンはため息をついた。

「……まあ、とりあえずそれはいいや。安室さんの聞きたいことって、何?」
「え。ああ……それは買い物終わってからにしようか」

 車は量販店の駐車場に入り、止まる。
 安室は自分のシートベルトを外すと、コナンの方へ身を乗り出して、助手席のシートベルトを外した。
 近づいた体から、この数日欲していた香りが、強くする。
 ──首に思い切り抱きつきたい。
 不意に沸いた衝動に、コナンはギョッとして、肩から滑り落ちかけたシートベルトをぎゅっと握った。
 安室が、困惑したようにコナンを見る。
 シートベルトを外した安室の手が、いつの間にか、コナンの頬に触れる寸前のところで、止まっている。

「「……」」

 安室は自分の手に視線を移して、手を下ろすと、深いため息をついた。

「──買い物前に、話をしないといけないみたいだね」



 まず確認するけど、と安室は口を開いた。

「今日も、僕からこの前と同じ、いい匂いがする?」
「する。……ボクもする?」
「するね」

 安室はハンドルにもたれて、眉間にしわを寄せ、しばらく考えた後に、「誤解しないで欲しいんだけど」と前置きして言った。

「君からすごくいい匂いがするから、何ていうかな……あれからずっと、気になってて。今日誘ったのは、何かわからないかなと思ったからなんだけど」

 どうやら自分と同じような状態のようだ。
 安眠のために原因が知りたいコナンの方が、若干切羽詰まっていて重症ではあるが、気になっているのは同じだ。

「安室さんは、原因に心当たりある?」
「ない。これまでも、こんな経験はない。──ただ、こうも特定の人物の匂いに固執するとなると」

 その先の言葉は口にされず飲み込まれる。安室は非常に言いにくそうに続けた。

「……この前違うと言っておいて、その上、こんなことを君みたいな小さな子に言うのは気が引けるんだけど……」
「バース検査のこと? それなら、ボクも気になったから、あの後念の為、阿笠博士のところで検査受けたよ」

 そう言うと、安室はハッとコナンを見つめた。コナンは肩をすくめる。

「でも、まだ不明。未確定だって」
「……本当に?」

 安室は疑わしげだ。

「本当だよ。αでもΩでも、何か性質が出てるなら、原因がわかってスッキリするし対処も出来る。だからそっちの方が、ある意味ありがたいんだけど……違ったから、困ってるんじゃん」

 じっとコナンを見つめて、嘘ではないと判断したのか、安室はため息をついた。

「……それは困ったな」
「こっちのセリフ。っていうか、ボクは全然わかんないんだけど、Ωの匂いがするの、ボク?」
「いや、そうじゃないよ。前も言った通り、君の匂いには、ああいう攻撃性は一切ない」

 安室は一度言葉を切った後、小さく続けた。

「近くにないのが落ち着かない、というのはあるけど、別段体に異変があるわけでもないしね」

 小学生に配慮したのか、随分とボカした言い方だったが、要は、発情するようなものではない、ということだろう。
 そう冷静に考えて、今更ながら、安室の言う「攻撃性」という言葉が、腑に落ちる。
 αを誘惑するΩの香り。あるいはαとΩで番を見つけるための、相性を判断するための香り。それが、「落ち着く」とは縁のない、「気持ちが昂る」匂いなのは、当然だろう。

「……じゃあやっぱり、それは関係ない?」
「そうなるけど」

 安室は、コナンの肩に額を当てて息を吐いた。

「これが、単なる体臭だなんて、信じられるわけがない」

 これまで見たことがない、迷子の子どものような、頼りない姿だった。思わず、頭をぽんぽんと撫でる。
 安室はハッとしたように体を元に戻した。

「ごめん」
「ううん。安室さんの意見には、ボクも同意だけど……。うーんと、子どものボクがフェロモンを出せないのは事実。なのにボクが『いい匂い』を感じるのは、ボク視点では、安室さんがΩのフェロモンを出してて、それが未分化のボクでも感じられるくらい強いものだって、仮説になるんだけど。ほら、Ωのフェロモンはβにだってわかることがあるって言うじゃない? ……安室さんがΩになってる可能性は、無いよね?」
「大きな病気にかかった覚えはないね」
「病気?」
「ああ……高熱を出した後にα性を失った事例がいくつかあるって、聞いたことがあるから。βへの変性だけどね」
「そうなんだ。──あ、輸血とかは?」

 この男は、病気とは無縁そうだが、怪我は多そうだ。
 安室は少し考える素振りを見せた後、小さく首を振った。

「輸血でバース性が変化した事例は聞かないな。しかも、Ω性への変化だろう? よっぽどの大怪我で、ものすごく輸血して、しかもそれがΩの血液だった……なんてことは」
「あり得ないか」

 Ω性は貴重種だ。Ω以外の人間に、Ωの血液を回す余裕なんてあるはずがない。

(……しっかし、輸血が必要なレベルの怪我してることは否定しないんだな、この人)

 陰で何をしているのやら。自分も人のことは言えないが、大丈夫かと心配になってしまう。

「だいたい、君の仮説では、君以外の人間に僕の匂いがわからないことが説明出来ない。──そしてそれは、君がΩ性だったとしても、同じだ」
「……だよね」

 コナンの体がΩ性に目覚めつつあるのだとしても、匂いが安室にしか感じられない理由は、同様に説明出来ない。
 番であれば、互いの匂いしかわからないというが、番関係を結ぶには肉体関係を持つ必要があるわけで、当然ながら、そんな真似をした覚えは、一切ない。
 同じような思考をたどったのか、安室はため息をついた。

(──でも)

 コナンは目を伏せて、考える。
 普通ならば、あり得ない。けれど……江戸川コナンは、普通の小学生ではない。
 一度α性があらわれているこの体が、検査に出なくても、何かしらの影響を外に与えている可能性は、ないとは言えない。なにより、あの薬。
 もしかしたら──自分がΩに変性したか。
 工藤新一の体に戻らないと検査も出来ない、と言われたが──もし本当にそうだったなら、自分はどうするのだろう。
 バース性になんて左右されない、と思っていた。
 でも、ならこれは何だ。
 もしこれがバースによるものなのだとしたら。性が変化することで、強く、誰かの影響を受けるようになってしまったのだとしたら。
 そう考えると、足元が揺らぐような不安を感じた。

「──コナンくん」

 声をかけられ、ハッと顔をあげる。安室が困ったように、こちらをのぞき込んでいた。

「あ……ごめん、なさい」
「いや、謝るのは僕の方だ」

 安室は自嘲するような苦い笑みを浮かべた。

「ごめん。まだバース性の話なんてほとんど習ってない、それどころか意識する必要もない年の子に、不安にさせるようなことを言った」
「ううん。……わからないことがある方が不安だし、落ち着かないから」
「君らしいな」

 小さな子をあやすように、そっと頭を撫でられる。それだけで、ひどく安心した。
 深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。
 決まってもいないことで不安になったって、仕方ない。とにかく、灰原にもう一度相談して、対策を考えよう。
 そう思ったところで、ふと先日の彼女の戯言を思い出した。
 ふっとふきだしたコナンに、安室が首を傾げる。

「どうしたの?」
「いや、うん。この前、バース検査した時に、は──博士が、言ってたの思い出して」

 灰原の名前を出しかけて、慌ててごまかす。

「阿笠博士? 何て?」
「未分化だから、バースが原因じゃないだろうけど、もし可能性があるなら──『運命の番』ってやつじゃないかって」

 安室は目を丸くした。次いで、同じように笑う。

「運命か」
「おかしいでしょ。──安室さん、ボクが運命だったら、どうする?」

 からかうようにたずねると、安室はひどく微妙な顔をした。
 小学生の男の子が「運命の番」だなんて、考えるだけで犯罪のような気がするのだろう。しかも、相手は江戸川コナンである。
 こらえ切れずにぶはっとふきだすと、安室は「君ねぇ」とムッとしたような声を出した。

「ごめんごめん。安室さんの『運命』だったら、きっとすっごくきれいで色っぽい大人の人だよね」

 そう、言うと。
 安室は、驚いたような顔をした後で、肩をすくめて冷たく笑った。

「どうかな。運命なんてお伽話だし──自分に番を作るなんて、考えたこともない」

 ぱちりと、瞬きする。
 なんで、という問いを、危うく喉の奥で留める。
 バース性の話同様、番の話も気軽にしていいものではない。
 そもそも、番を作らないことは、珍しいことではない。Ωが少ないため、αはどうしても「あぶれる」のだ。
 蘭の両親のように、αとβのカップルは珍しくないし、α同士だってよくある話だ。
 だいたい、番を作る気がないのは、コナンだって同じだ。
 番関係は、αとΩでないと、結べない。元の姿に戻ったとして、蘭と番になることは、どうやったって不可能なのだ。

(もしかして──安室さんにも、そういう人がいる……?)

 番になれない相手。αか、βの想い人が。
 しかも、あんな、何かを諦めたような顔をするような相手が。
 考えて、首を振る。
 それはあまりにも、安室のプライベートに踏み込んだ、不躾な詮索だ。

「──さて。買い物を済ませようか」

 安室は何もなかったかのように言って、車のドアを開けた。




 軽い、振動。
 それを意識して、目を覚ます。

「──あっ」

 瞬間、しまったと思って飛び起きた体は、シートベルトに押さえられた。
 わずかに日が傾いた、車の中。
 運転しているのは当然安室で、自分は助手席に戻っている。後部座席には、買い物袋がいくつか見えた。
 車は見慣れた街中を走っている。
 買い物をして、車に乗ったまでは覚えているのだが──うっかり寝てしまったようだ。

「起きた?」
「ごめん安室さん、ボク」
「いいよ、気にしないで。寝不足だったんだろう?」
「そうなんだけど……」

 行きは耐えたのに、と頭を抱える。
 ──失態だ。いくらないんでも、この男の目の前で寝こけるとか、ない。
 後で、スマホも全部一通り、灰原にチェックしてもらわなければならない。
 むすっと頬をこすって、コナンは自分が大人の──安室が先ほどまで着ていた上着を身に着けていることに気づいた。

「ごめん、車の中が少し暑くて冷房入れたんだけど、コナンくん少し肌寒そうだったから」
「それは……ありがと」

 しっかり袖まで通してくれているところを見ると余程寒そうにしていたのだろう。気を遣わせてしまった。
 車が右折する。ポアロまではもうすぐだ。
 安室が「匂いの件だけど」と口を開いた。

「原因が何かはわからないけど、とりあえずは様子見しかないね。僕も、しばらくはポアロを休む用事は無いし、また経過を見て相談しよう」
「うん」

 原因不明、己のバース性が変化した疑いは強まったとなると、すっきりしないどころではないが、いまこれ以上どうしようもないのは確かだ。
 近くにいるなら、落ち着かなくなることはないだろう。最低限、不眠の問題は解消しそうだし、とりあえずは良しとすべきだろう。
 そんなことを考えているうちに、ポアロ近くの駐車場に到着した。

「はい、お疲れ様。店で何か飲んでいくかい?」
「いいよ。今日はもう帰る」
「そう」

 安室も強くは引き止めなかった。
 車から降りて、上着を返そうと袖を抜きかけ──コナンは手を止めた。

「……」
「コナンくん?」

 後部座席から買い物袋を取り出した安室が、首を傾げる。コナンは慌てて首を振った。

「あ。えっと、何でもない! それじゃ、またね!」

 そう言ってくるりと身をひるがえしたところに「ちょっと待って」と焦った声がかかる。

「コナンくん、上着!」

 見逃してくれないか、とコナンはこっそり顔をしかめた。
 笑顔を作って、振り返る。

「あ、あ~上着ね。ボクなんか汗かいちゃったし、これ、洗って返すよ。安室さん、車なら帰りも寒くないよね……?」
「気にしなくていいよ、そんなの。だいたい、洗うのは蘭さんだろう? 手間をかけるのも申し訳ないよ」

 手を、伸ばされて。
 コナンは反射で、ぎゅっと上着の胸元を握りしめた。安室の手が驚いたように途中で止まる。

「コナンくん?」

 しまった、と思ったがもう遅い。

(──だってこれ、返したくない)

 脱ぎかけた時に、これがあれば、今夜また眠れなくても大丈夫なのではないかと、思ってしまったのだ。そう思ってしまうと、どうしても欲しくなってしまった。
 久しぶりの安眠を得た体は、より安定した睡眠を欲しているのである。だから、ドサクサに紛れて持ち帰ってしまおうと思っていたのに──失敗だ。
 こうなっては、非常に言いにくいが、正面から頼むしかない。
 覚悟を決めて、恥をしのんで、切り出す。

「あ、むろさん」
「え。はい」
「……この上着、ボクにちょうだい。駄目?」

 安室が目の前で固まった。固まっている隙に、さらに押す。

「それが難しいなら、今日だけ貸して!」
「い、いや、でも」
「お気に入りなの? これ」

 だとしたら、無理矢理くれというのは申し訳ない。
 でも。
 どうしても、どうしても欲しいのだ。

(──仕方ない)

 この男相手にこの手は使いたくなかったが、手段を選んではいられない。
 コナンはうるうると目を潤ませて、安室を見上げた。

「一日だけでいいから。……お願い」

 安室がうっと息を詰める。
 ──効果は抜群だ。
 コナンは勝利を確信した。子どもの特権「可愛いおねだり」で落ちなかった大人は存在しない。
 あの小五郎だって「仕方ねえな」と折れる百戦無敗の必殺技なのである。

「待って、待って、そんな顔しないでくれ。……参ったな」

 安室はため息をついてぐしゃぐしゃと頭をかいた。
 買い物袋を置いて、安室は視線を合わせるようにしゃがむ。
 ぎゅっと上着を押さえると、安室は顔をしかめた。

「コナンくん」
「……なに?」
「非常に言いにくいんだけど……僕にも、それが必要なんだ。返してほしい」

 一瞬、何を言われたかわからずぽかんとしてしまった。理解して、叫ぶ。

「嘘でしょ!? 安室さんはこんなイタイケな子どものお願いを断るひどい大人だったの?」
「本当に幼気な子どもは自分で自分のことを幼気とは言わない」
「ひどい」

 渾身のおねだりが通じなかったことも、ショックだ。
 安室は諭すように、ゆっくりと言う。

「ごめんね。それに、その上着のポケットにはスマホも入ってるから、持っていかれては困るんだ」
「……スマホ?」

 スマホなんて情報の固まりを入れたままの上着をコナンに貸していたなんて、安室らしくもないが、それならわからなくもない。
 ならばスマホを返せばいいだろうと、ポケットに手を入れて、スマホと、ついでにキーケースを取り出して「はい」と渡すと、安室は違う、と呻いた。

「上着が要るんだ」
「……どうしてもなの?」

 これは、絶対に引かなさそうだ。
 そうわかると、途端に絶望感が心を満たす。
 ──この上着は、自分のものにならないのだ。
 安室がうろたえた。

「待ってくれ、落ち着いて。これは僕のだから、大きいだろう。それに、君はそんなワガママを言うような子じゃないじゃないか」
「……安室さんこそ、なんでくれないの。上着なら、他にもあるでしょ?」

 じっと見つめ合う。
 言い返したはいいが、分が悪いのは、相手のものを欲しがっている自分の方だ。
 正直に理由を言わなければなるまいと、諦めて口を開く。

「……最近ずっと、寝不足で。これがあったら、よく眠れるかもって」

 安室は奇妙な表情を浮かべた。

「お願い。……ちゃんと返すから。せめて今日だけでも、貸して?」

 そう、お願いすると。安室は頭を抱えた。
 まだ駄目か、と若干イラッとして、蹴り飛ばしてやろうかと足を揺らしたところで、安室が顔をあげた。

「──落ち着いて聞いて欲しいんだけど」
「なに?」
「君はそれを、僕に返した方が、いいと思う。その理由を説明する」
「理由?」

 顔をしかめると、安室はうなずいた。

「コナンくん、これは君の今後のためなんだ。僕の話を聞いてくれ」
「……これくれるなら聞く」
「だから、それを止めた方がいいって話をしたいんだけど。あのね、君はまだ未分化だからよくわからないかもしれないけど、特定のαの衣服を身に着けるって行動は、傍からみて誤解を招きかねないし、君にもいい影響があるとは思えない」
「……どういうこと?」

 安室を見上げ、たずねると、安室はまた低く唸った。

「小学生はまだバース教育を受けてないから知らないか。……簡単に言えば、君のそれは、番のΩが取りがちな行動なんだ」

 言われて、そういえばΩには、番相手の身に着けたものを周囲に集める習性があるという話を思い出す。ひどく動物的だなと思った記憶はあるが、自分に関係ないことだったので忘れていた。

「それ、発情期のΩの話でしょ? ボクはΩじゃないよ」

 言うと、安室は顔をしかめた。

「わかってる。わかってるよ。だからこそ、小さなうちから特定のαの影響を強く受けるのはどうかと思う。君の成長になんらかの影響が出かねない」
「……それは、安室さんの影響でボクがΩになっちゃうかもってこと?」
「そこまでは言わないけど。いまの、この状況はかなりおかしいんだ。よく、考えて欲しい」

 確かに、安室の言う通りだ。
 α同士なのに、お互いの匂いが気になって仕方ない、という状態がそもそもおかしいし、コナンが未分化と思っている安室は、尚のこと、あらゆる「もしも」の可能性を考えてしまうのだろう。それに、薬のことだってある。

「そう、だね。……安室さんの、言う通りだと思う」

 そう答えると、安室はホッと息を吐いた。
 深呼吸して、上着に手をかける。
 袖を抜いて、上着が体から離れた、瞬間。

「────!?」

 安室がギョッと目を見開き、急に視界が暗くなった。
 返したばかりの上着を頭から被せられたのだ、と、先ほどよりも強く感じる匂いで気づいた。その後で、自分の手がひどくこわばっていたことに気づく。

「それは、君にあげる。君のものだ」

 焦った声にそう言われて、嘘のように気持ちが落ち着いた。
 ──落ち着いて、ゾッとする。
 被せられた上着からもそもそと顔を出して、被り直す。
 コナンの落ち着いた表情を見て、安室があからさまにホッとした表情になった。
 先程の自分は、どんな顔をしていたというのか。
 コナンは顔をしかめて、安室を見上げた。

「……ねえこれ、ヤバいんじゃない?」

 安室も顔をしかめて、額に手を当てている。

「……いますぐに、あらゆる可能性を考慮して事例を収集する」
「うん。ボクも博士に相談してみる」
「そうだね。……そういえば」
「うん?」
「阿笠博士って、α?」
「そうだよ」
「────そう」

 安室は顔をしかめて、低く唸った後で、短くそれだけ言う。
 首を傾げると、安室はごまかすように苦笑して、「よし」とコナンを抱き上げて立ち上がった。

「っわ、何」
「あのね、ひとつ君に交渉したいことがある」
「……何?」

 頭に被った上着をぎゅっと握りしめる。
 安室は非常に言いにくそうに、言った。

「僕の匂いがついたものなら、何でもいいんだよね? 家にある、僕の他の服をあげる。──だから、それとその上着を交換してくれないかな」
「……そんなにこの上着、大事な上着なの?」

 コナンがどれだけねだっても、悲しそうな顔をしても、それでもどうしても手離せないとは。
 襟か袖に何か機密情報でも縫い込まれているのだろうか、とソワソワと袖口を指で探ると、安室はため息をついた。

「君が考えているようなことはない。──君ばかりじゃ不公平だし、僕もそれを渡せない理由を言うから、何も言わずに一度聞いてくれないか」
「……いいけど」

 警戒しつつ答えると、安室は覚悟するように息を吐き、口を開いた。

「──君の匂いがついたものが、手元に欲しい。つまり、その上着が。だから、別のと交換して欲しい」

 コナンはぱちくりと目を瞬かせた。

「ボクの……?」
「我ながら、ちょっとどうかって理由なのはわかってるよ。わかってるんだけど……実は僕も最近寝不足で」

 コナンは沈黙した。しばらく考えて、顔をしかめる。

「……もしかして安室さん、これは計画的犯行ってやつ? 親切でボクに上着を着せてくれたわけじゃなくて、匂い目的だったんだ」

 上からかけるのでなく、しっかり袖まで通して着せられていたわけも、これでわかる。
 わざわざシートベルトを外して、抱っこするなりなんなりして、上着を着せるなんて面倒なこと、一度車を止めなければ出来ないから少しだけ引っかかっていたのだ。
 安室は即座に否定する。

「誤解だ」
「なにが誤解なの」

 じとっとにらむと、安室は目をそらした。

「……誤解ではないけど」
「ほら。っていうか、安室さん、さっきボクに危ないって言ったけど、自分もじゃん! その行動、番のΩが取りがちな行動なんでしょ?」
「いや……うーん」

 安室は唸った。
 自分でもわかってはいたらしい。

(──こうなると、マジであらゆる可能性を考えねーといけないぞ)

 お互いの匂いに引かれる理由。眠れない理由。もしかしたら、そもそも互いの匂いがないことが、体に悪影響を及ぼしていたのかもしれない。
 コナンが薬の影響でΩに変化しつつあるのか。あるいは、薬のせいで、身近なαに何らかの影響を与える体質になってしまったのか。それに。

(この人だって、裏で何して何に巻き込まれてるかわかんねーしな)

 下手すると幼児化の秘密がバレかねない状況だが、今回、安室の追及が何故か緩いのも気になる。
 バースに係わることだから、本能的に踏み込みにくいということはあるかもしれないが、もしかしたら、何か別に理由があるのかもしれない。
 じっと見つめると、視線が合う。
 反射でにこっと微笑むと、にこりと、これまたきれいな笑みが返ってきた。
 ──相変わらず食えない男だ。
 コナンはひとつ息を吐く。
 先ほど、上着を諦めなければならないと思った時の絶望感を思い出す。
 自分の体も心も、自分のものでなくなったような気がして、ゾッとした。

(──冗談じゃない)

 そんなのは、駄目だ。
 小さくさせられても、この体も、心も、自分のものだ。だから、自分が自分であるためにも、この謎を解いて、原因を特定しなければならない。

(必ず、解いてやる)

 よし、と気合を入れる。
 目の前の男からは、変わらず、落ち着くいい匂いがしていた。
 自分も、おそらくは相手も、隠していること、隠し通さなければならないことはあるが、とりあえずは協力体制で解決しなければならない。
 コナンは安室を見つめる。

「絶対、原因特定してこの状況何とかしようね」
「──そうだね」

 安室もうなずいて、コナンの背中に回した手に力を込めた。

「じゃあまず……えっと、買い出しの荷物置いて、安室さんの服もらいに行く……かな」
「……そうだね」

 何とも締まらないが仕方ない。
 コナンは上着に包まって、肩を落としたように見える安室の頭をぽんぽんと撫でてやった。