運命は信じない 2


※最終的には安コですが新蘭が前提にありますのでよろしくお願いします※



 目覚ましが鳴って、目を開ける。
 起き上がって伸びをして、久しぶりのスッキリした気分に、コナンは感動した。

(おお。効果バッチリだな)

 夜布団に入ってから目覚ましが鳴るまで、一度も起きずにぐっすり眠れた。
 ここまで効くと逆に怖いくらいだが、疲れが一気に無くなったのは助かる。健康って素晴らしい。
 コナンは、布団の中からくしゃくしゃになったブランケットを引っ張り出して、丁寧に畳んだ。
 安室から借りたのだ。薄手のブランケットは、ポアロや車中で仮眠する時に使っているものらしい。
 毛利家に持ち帰ってもおかしくないもの、寝る時持ち込みやすいもの、ということで、相談の結果衣服ではなく、これになった。
 おかげで、小五郎も蘭も特に気づいた様子はない。上着を持って帰ってきていたら、こうはいかなかっただろう。
 安室の側もだ。あの後、コナンの私物を安室に貸せば良かったのでは──と一瞬考えたのだが、成人男性が小学生の私物を持ち歩く図を想像すると、微妙どころの騒ぎではない。
 これがベストだったのだ。
 畳んだブランケットに顔を寄せる。
 まだいい匂いは残っていたが、やはり昨日と比べると、自分の匂いと混ざって薄くなってしまっていた。

(これがどれくらいもつのかも、確認しとかないとな)

 朝食を食べ、借りたブランケットは家に置いて、学校へ向かう。
 持ち歩くと匂いが早く消えてしまいそうだし、さすがに季節外れで目立ってしまう。調子も戻ったし、学校に行っている間くらい、なくても問題はないだろう。
 それより、昨日の自分と安室のおかしな反応について、早めに灰原たちに相談しなければならない。
 そんなことを考えながら歩いていると、タイミング良く登校途中の灰原の後ろ姿を見つけた。

「灰原!」

 灰原は顔をあげると、視線を、駆け寄ったコナンの頭の上から足元までさっと走らせて、短く言った。

「おはよう。今日は、ちょっとはまともな顔色なんじゃない」
「そのことで、報告と相談があるんだけど」
「……また、何かあったの?」
「おう。ちょっと困ったことになっててさ」
「……困ったこと、ね」

 小さなため息の後で、灰原は「了解」と短く答えた。




 放課後、一度ブランケットを取りに毛利探偵事務所に戻ってから、阿笠博士の家へ向かうことにした。
 一日学校で過ごしたが、特に変わったことはなかった。
 それでも、ブランケットの匂いを嗅ぐとホッとする。
 ──匂いの正体は、何だろうか。
 フェロモン、だったとして。無意識に出ているのであれば、Ωのフェロモンである可能性が高いような気がする。αもフェロモンは出るが、意識してそうする時か、Ωの発情期に引きずられた時がほとんどだ。
 正直なところ、自分のいまの体のことを考えると、安室がΩであると考えるのがわかりやすいのだが、そうなると、安室が感じている自分の匂いは何だ、という話になる。

(──この匂い、博士はわかるかな)

 もしもこれが、αかΩのフェロモンだったら。小五郎や、おそらくはβであろう高木にはわからなくても、α性の阿笠には、わかるはずだ。
 本当に、降谷がΩである可能性は、無いのだろうか。本人はαだと言っていたが、あくまでも自己申告だ。
 昨日はそんな嘘をつく状況ではなかったが、最初にそう言ってしまったから訂正しにくかったとも考えられる。

(でも、もしそうだったら、あの人の立場で結構面倒なことになるよな……)

 Ωは、「孕む」性だ。ゆえに三ヶ月程度の周期で発情期がある。近くにいるαを無差別に誘惑する、強いフェロモンを出し、本能的にαの精を求める期間。
 近頃は抑制剤も質の良いものがあるが、予定外の行動も強いられがちな潜入捜査中に、発情期を迎えたら大惨事だ。番がいないなら尚更。

(いや。番がいない、って思ってたけど。すでにいるってことはないか?)

 番を作るなんて考えたこともない、という安室の言葉を思い出す。
 あれは、「もう、考えられない」という意味だったのではないか。
 ──安室の、番。
 想像しかけて、首を振る。
 証拠もないのに、あれこれ想像しても意味がない。
 安室ではなく、自分が何らかの理由でΩになっている可能性だってあるわけで、その心当たりはあり過ぎるほどにあるのだ。
 とにかく相談だと、ブランケットをカバンに押し込んで家を出る。事務所の階段を下りたところで、声をかけられた。

「コナンくん」

 安室が店の前の掃除に出てきたところだった。

「安室さん、こんにちは」

 近づくと、いい匂いがした。安室も匂いを感じたようだ。視線を交わして苦笑する。

「昨日はよく眠れた?」
「おかげさまでね。安室さんは?」
「僕もよく眠れたよ」

 安室はホウキを置いて、コナンを抱き上げた。

「やっぱりするね、匂い」
「うん。……あ、そうだ、ボク昨日シャンプー変えてみたんだけど、匂い違う? 蘭姉ちゃんの借りてみたんだけど」

 どう? と頭を近づけると、安室は頭の天辺に鼻を寄せ、首を傾げた。

「うーん……いい匂いはするけど、昨日と変わらないと思うよ」
「そうなの? おじさんはわかったみたいだけど。何色気づいてんだーって言われた」

 安室は難しい顔をしていたが、しばらくして顔をあげ、肩をすくめた。

「やっぱり、昨日と同じ匂いがする。──つまり、僕たちが感じているのは、シャンプーの匂いではないってことだ。わかってはいたけどね」
「でも、ちょっとでも可能性があるものは、一つずつ検証していくべきでしょ」
「さすがだね、探偵くん」
「安室さんは……昨日と同じ?」
「そうだね。今日帰りに新しいシャンプー買ってみようかな」
「それがいいよ」

 そのまますんすんと匂いを嗅いで、ふと顔を上げると、窓越しに店の中にいる梓と目が合った。
 ──ものすごく、微笑まし気にこちらを見ている。
 そこで、いまの自分たちが傍からどう見えるのかに気づいて、かあっと頬が赤くなる。

「ボ、ボクもう下りる」
「おっと」

 突然暴れたせいで体勢を崩しかけたが、安室が支えてくれた。

「どうしたんだ急に」
「──梓姉ちゃんが見てるんだよ」
「え? ……ああ」

 安室は店を振り返る。梓がひらひらと手を振った。
 それに、二人はそろって、愛想笑いを返す。

「……上手く言っておくよ」
「……お願い」

 気まずく言葉を交わして、ため息をつく。

「ところでコナンくんは、お出かけ?」
「博士のとこ。相談しに」
「──ああ、なるほど。阿笠博士のところね……」
「だからもう下ろして欲しいんだけど」

 そう訴えると、安室は少し考えた後でにっこりと笑った。
 何だ、と警戒した瞬間、急にぎゅっと強く抱き寄せられた。首筋を、安室の鼻がくすぐる。

「は、ちょ、安室さん、なに?」

 店の中で、梓があらあら、という顔をしている。ひと通りはさほど多くない時間だが、道路沿いの道は無人のタイミングの方が少ない。
 すれ違う歩行者が、一体何をしているのだろう顔でこちらを見ていくのだから、恥ずかしい。
 安室が耳元でささやく。

「──コナンくん」
「な、何」
「何か違いに気づく?」
「……え?」

 違いとは、何だ。近づいたから何か気づくかということか。
 もしかしたら、シャンプーは変えていないがボディソープは変えた、とかそういうことだろうか。
 押しつけられた肩口の匂いをふんふんと嗅いでみたが、特に昨日と変わったことはない気がする。

「──昨日と同じだと思うけど」
「……そう」

 安室はつぶやいて、あっさりと身を離すとコナンを下ろした。

「阿笠博士によろしくね。──色々、わかることもあるかもしれない」
「うん? ──あ」
「どうかした?」
「いや、ボクいまちょっと安室さんの匂いがする」

 すんとシャツの袖口を嗅ぐ。抱きしめられたからだろうか。これがどのくらいもつかわからないが、ちょっと得した気分だ。
 安室は微妙な表情をした。

「あ、いや……ご、めんなさい」

 ちょっと、どころではなく変態っぽい行動だった。気持ち悪く見えたかもしれないと反省すると、いいんだけどね、と返って来る。

「君はしっかりしてるように見えて少し無防備だからな……。──博士の家まで、気をつけて行くんだよ」




 もしかしたら盗聴器でもしかけられたかと、思い至ったのは、安室と別れて半分ほど道を行ってからだった。
 無防備なんて言ったのはそのせいかと、慌てて体を調べてみたが、盗聴器は見つからない。
 一体何のことだとモヤモヤしたまま、阿笠邸の呼び鈴を押す。
 すぐに灰原が出てきた。

「遅かったわね」
「灰原。オレなんかいつもと違う匂いするか?」

 いまならまだ安室の匂いが残っている。今回のおかしな現象が幼児化したことによるものだとすれば、灰原にもわかるかもしれない。目の前でくるりと回ると、灰原は顔をしかめた。

「別に、何も。──ああでも、よーく気をつけると、少しだけ薔薇の匂いがするわね?」
「薔薇? ああ、それなら、蘭のシャンプーだ」

 蘭のシャンプーには、薔薇と何かのエッセンスが入っていたはずだ。ボトルに絵が描いてあった。

「それなら朝もしたはずなんだけどな」
「お風呂上りならともかく、その程度の匂い、しっかり嗅ごうと思わないとわからないわよ。──それより江戸川くん、あなた蘭さんのシャンプー使ってるの……?」

 灰原の視線が冷たくなったので、慌てて言い訳する。

「待て待て、普段は違うって! これは、実験の一環なんだよ」
「は?」
「──何を玄関先で騒いどるんじゃ」

 言い合いをしていると、阿笠が姿を現した。何故出迎えに時間がかかっているのかと、様子を見に来たのだろう。

「話なら部屋に入って──って、新一、どうしたんじゃ!?」
「え? 何が?」

 ギョッと身を引く阿笠に、コナンと灰原は揃ってきょとんとする。阿笠は二人の反応に戸惑いを見せた。

「何って……ああ、そうか、君たちはまだわからんか」

 阿笠は顔をしかめてコナンを見た。

「新一、ここに来る前、αの人間に会ったじゃろう」
「え。ああ……可能性があるとしたら、安室さん、かな」

 今日は学校と家を往復して、そこから阿笠邸に直行しただけなので、接触した人間は限られる。
 毛利家の二人、小学校の生徒たちと、先生。後は安室だ。
 小学校は、ほとんどの子どもがバース性確定前だし、教師の中にはαがいるかもしれないが、わからない。
 αの可能性があると確かに言えるのは、安室だけだ。
 阿笠はそれを聞いて、納得したような、呆れたような、嫌そうな顔をした。

「なるほど……」
「それが何?」
「あー、うーん、そうじゃな……」
「ちょっと、ハッキリ言いなさいよ」

 灰原が苛立ったように阿笠の白衣の袖を引っ張る。阿笠はため息をついて、口を開いた。

「──新一の体に、強いαのフェロモンがついとる。わしにわかる程度にな」
「は?」

 ぽかん、として口を開ける。

「オレに? オレの、ってことじゃなくて?」
「お前はまだフェロモンが出せる体ではなかろう。意図的につけられた匂いじゃ、これは」
「何だそれ。なんでそんな……」

 顔をしかめ、ハッとする。
 思い出す。
 別れ際、安室が「色々わかるかもしれない」「阿笠博士によろしく」と言っていたこと。「無防備だ」という注意も。

「──なるほど。そういうことか」

 腑に落ちた。
 安室は、昨日Ω性に変化しているのではないか、という疑いをかけられたので、コナンに己のフェロモンをつけることで、そうではないと、自らがαであることを証明してみせたのだろう。
 α同士なら、自分と違うフェロモンはなんとなくわかる。阿笠なら気づくと、そう考えたのだろう。

「ちょっと、どういうこと?」

 話が見えない灰原が、眉をひそめる。
 阿笠はため息をついて、二人の頭にぽんと手を乗せた。

「とりあえず、二人とも部屋に入らんか。そこでゆっくり話をした方が良さそうだ」



 コナンと阿笠の話を聞いて、灰原は顔をしかめた。

「信じられない。だからといってマーキングする?」
「マーキングて。そういうつもりじゃねーだろ、あの人は。ちなみに博士、これも同じ匂いする?」

 持ってきたブランケットを手渡すと、博士はそれに顔を近づけて、首を振った。

「わからんな」
「これ、安室さんのなんだけど。全然? ちょっとくらいはフェロモンつくものじゃない?」
「他人にわかるほどのαのフェロモンは、意識せんと出んからなぁ」

 灰原にも確認してもらったが、やはり何も感じないようだった。
 おかしいな、とぶつぶつ言うコナンを無視して、灰原は話を続ける。

「とにかく、あの人がαってことは、ほぼ確定ってことね」
「そう、なるな」
「……そう」

 灰原の眉間にしわが刻まれる。彼女の考えていることは手に取るようにわかった。
 わざと大げさにため息をつく。

「あのな、別にこっちが変わったって決まったわけじゃねーんだし、余計な責任感じるなよ」
「余計な責任じゃないわ。私の作った薬よ。薬を飲まされた時のあなたの迂闊な行動はともかく、あの薬に関する責任は、間違いなく私のものだわ」

 頑固だ。阿笠に目を向けたが、肩をすくめられる。ここでこの件について言い合いをしても仕方ないと、コナンはため息をついた。
 灰原はギロリとコナンをにらむ。

「とにかくあなた、一回シャワーでも浴びてきて。それからもう一度検査するから」
「シャワー? 要るか?」
「きちんと検査するためにはね」

 きっぱりと言う灰原の隣で、阿笠もうなずいた。

「そうじゃな。大して効果はないかもしれんが、しないよりマシじゃろう……。それにな、新一。いまのその体であれば、そうおかしなことにはならんとは思うが、米花町にも、αやΩはおる。小学生がαのフェロモンなんて身につけていたら悪目立ちするのは間違いないし、下手したら彼らを刺激することにもなりかねん。──安室君にも、もうこんなことはしないようにしっかり伝えておきなさい」

 珍しく真面目に説教されたので、大人しく「はい」と答える。無茶をされたのはコナンの方なのだが、安室が不在なので仕方ない。
 ──断りもなく非常識なことをされたわけだが、コナンは特に怒ってはいなかった。
 確かに少々気に入らない気持ちはあるが、目的も、理由もわかる。それに安室は、コナンなら面倒事に巻き込まれてもなんとかすると思ったのだろう。
 それが信頼なのか、あるいはコナンが何かに巻き込まれてもどうでもいいと思っているからなのかは、わからないが。
 シャワーを借りて、ついでに蘭のものとも小五郎のものとも違う、阿笠のシャンプーを借りて髪を洗い、阿笠開発のフェロモン消臭剤を吹き付けると、さっぱりしたような、さっぱりし過ぎたような、なんとも曖昧な気分になった。
 着替えなど当然持ってきていないので、着てきた服をそのまま着なおして、二人のところへ戻る。

「──じゃあ、検査しましょう」

 そうして、やや表情の硬い灰原が、慎重に血液検査をする。
 しばらくして結果の出た検査キットを見つめて、灰原はため息をついた。

「どうだった?」
「──同じよ。判定不能」

 コナンも阿笠もため息をつく。

「バース以外の原因が何か考えられないか、調べてみるわ」
「頼む。──それと、灰原」
「駄目よ」

 言う前に、断られる。灰原は腕を組んでコナンをにらんだ。

「解毒剤でしょう? 駄目。あなたはホイホイ解毒剤を使いすぎなのよ。今回のことだって、もしかしたら、そのせいかもしれないのよ?」
「でも、このままだとすっきりしねえよ。もし、オレの体に何かの影響が出てるなら、オレはそれを知っておくべきだ」

 少しでいいから元の姿に戻りたい、と単純にそう思う気持ちがあることは、否定しない。灰原の言うリスクだって、十分にわかっている。
 でも、わかった上で、言っているのだ。

「もし、この体でバース性があらわれたら、どうする。いまのこれが、その前兆だったら? 発情期を押さえるにしても、発情期の影響を受けないようにするにしても、抑制剤が必要だ。でも、この体じゃ普通の抑制剤が効くかもわからない。あの薬──APTX4869の影響だってある。抑制剤に関しては、お前に頼るしかないんだ。お前にも、オレの体がいまどうなってるかを知っといて欲しい」
「──飲むなら、私が飲むわ。それで、私のバース性が変わっていないかを調べればいい」
「灰原。気持ちはありがたいけど、いま異変が出てるのはオレだ。お前が戻って、何もありませんでしたってなったとして、じゃあ何度も解毒剤を飲んでるオレも同じだろうって、お前、言えるのか」
「でも」
「厄介事ばかり持ち込んで悪い。でも、知らなきゃ何も進めらんねえだろ」

 ぎゅっと、灰原の眉間にしわが寄る。
 長い長い沈黙の後、灰原はため息をついた。

「──しばらく、考えさせてちょうだい」



 元の姿に戻るとして、その時に何があるかわからない。万が一を考えて、αとΩの抑制剤も準備しておかないと駄目だと、灰原は言った。
 抑制剤が準備出来るまでの間に結論を出すと約束をして、コナンは阿笠邸を出た。
 予測はしていたが、灰原がああも責任を感じてしまうとは、と申し訳なくなる。とはいえ、他に頼るあてもない。それに、頼らなかったら頼らなかったで、彼女は怒るだろう。
 ため息をついて、足を速める。
 生乾きの頭が少しすうすうする気がして、ブランケットを引っ張り出して首と肩に巻いた。
 阿笠家で弄り回したせいか、ブランケットについた匂いは朝よりずっと薄くなっていた。フリーザーバッグにでも入れて保存した方が……と一瞬考え、変態かよと顔をしかめる。
 だいたい、匂いがないと落ち着かない、という状態がよろしくないのだから、徐々に消えていく匂いに合わせて、匂い無しでも普通に出来るようになるなら、それがいいのだ。
 ポアロの前まで戻って来る。夕刻で、店はそこそこ混んでいた。
 梓のシフトは終了したのか、窓から見える店内にいるのは、安室とマスターだけだった。
 これから少しずつ客が減っていく時間だ。そう考えて、通り過ぎかけた足を止め、ブランケットをしまうと、店に入った。

「いらっしゃいませ──コナンくん」

 テーブル席の接客をしていた安室が、もう一度「いらっしゃい」と言って笑顔を見せた。
 マスターに促されるままカウンター席に座って、オレンジジュースを頼む。
 客が続けざまに席を立つ。会計の対応に回った安室がコナンのもとにやって来たのは、ジュースが半分ほどになってからだった。

「お待たせ」
「ううん、ボクが勝手に来たんだし、忙しい時間なのはわかってるから」
「そう。……どうだった?」

 言葉少なにたずねる安室の目は、どこか楽し気だった。コナンは顔をしかめる。

「……危ないからマーキングまがいのことするなって、博士怒ってたよ」
「そう。気をつけるよ」

 安室は、ちっとも謝っているようには見えない顔で言った。

「何か有益な新情報は?」
「特に無し。ボクも再検査したけど相変わらずだったし。安室さんについては……博士と同じだろうって」

 こんな場所でαだΩだと口にするわけにもいかずに曖昧にそう言うと、安室は、それは良かった、とうなずいた。

「昨日あんなことがあったし、僕も少し不安でね。わかってもらえて良かった」

 何が不安だこの野郎、と目をすがめると、安室は肩をすくめた。そして、「でも」眉を寄せる。

「不思議なのは、さっき君がそれと気づかなかったことだな」

 フェロモンのことだろう。きっと抱きしめた時につけたのだろうが、近づいた分匂いがよく感じられるなと思った程度だった。コナンがΩだったなら、それだけでは済まなかったはずだ。

「うん、全然わからなかった。あ、そうだ。博士はブランケットの匂いは全然わからないって」
「持って行ったの?」
「調べてもらうためにね」
「随分徹底調査したみたいだね。……これは?」

 まだ湿っている髪に、指が触れる。

「安室さんのせいでしょ。検査するのに何か影響あったらまずいっていうから」
「ああ。……なるほど」

 安室はそのまま、コナンの頭に顔を寄せた。

「また違うシャンプーだけど、どう?」
「やっぱりよくわからないよ」
「昼は薔薇で、いまは、なんか色んなハーブで、全然違う匂いなんだけど」
「うーん」

 クスクスと、背後で笑い声がした。
 マスターだ。

「今日は安室くんとコナンくん、随分仲良しだね」
「え、へへ」

 愛想笑いでごまかす。安室がさりげなく身を離した。

「大切な常連さんですからね」

 そう答えて、安室はふと、ポケットを押さえた。何だ、と視線を向けたが、安室は何事もなかったかのようにそのまま仕事に戻る。
 そろそろ帰らねば蘭も心配するだろう。
 コナンはジュースを飲み干すと、「また何かわかったら連絡する」と約束して店を出た。



 毛利家に戻ると、蘭は食事の支度をしているところだった。
 醤油と魚のいい匂いがする。今日の夕飯は、煮魚らしい。

「ただいま」
「おかえり、コナンくん。──あら?」

 コナンを振り返った蘭は、何かに気づいたように目を丸くすると、身をかがめてコナンに顔を近づけた。

「コナンくん、これどうしたの?」
「えっ、これって何?」

 まさか匂いがわかるのかと身構えると、蘭はコナンの髪に触れて、首を傾げた。

「髪、濡れてるよ」
「あ。それ。えっと、博士の家でちょっと。……変な煙で臭くなっちゃったから、お風呂借りたの。ボクまだ臭い?」
「ううん、大丈夫だよ。うちと違うボディソープの匂いがするけど。──まったく、また実験ね? 小さい子がいる時に変な実験するなんて」

 アハハと愛想笑いしてごまかす。
 そこに少し焦げた匂いが漂ってきた。

「……ん? この匂い」
「あっ、魚!」

 蘭は慌ててコンロに駆け寄り、火を止める。

「あー、うっかり……ちょっと焦げたけど、なんとか……大丈夫、かな?」
「ごめんね蘭姉ちゃん。ボクが話しかけたから」
「やだ、コナンくんのせいじゃないよ? 私がうっかりしてたの!」

 蘭はひらひらと手を振って、鍋を覗き込むと菜箸で魚をひっくり返す。
 蘭にしては珍しいミスだった。
 最近、部活で遅いから疲れているのかもしれない。自分のことでいっぱいいっぱいで、蘭に気を遣えていなかったと反省する。

「ううん。だって蘭姉ちゃん大事な大会前なのに。ボク、お手伝いしないで遅くなって……」
「大会なら、練習はバッチリしてるから大丈夫だよ! あ、でも、お手伝いしてくれるなら、お願いしちゃおうかな」
「うん、任せて!」
「ありがと。そしたら、下からお父さん呼んできてもらえるかな」
「わかった」
「よろしくね」

 蘭はにっこりと笑う。
 それに笑みを返して、台所を出る。
 家のドアを開けると、外の空気で首筋が冷えた。髪から、ふわりと阿笠の家のシャンプーの匂いがする。

(蘭にはαの匂いは、わからないよな)

 ホッとしたような、残念なような、少し微妙な気持ちだ。
 蘭はβ性だ。βには、フェロモンも番の概念も、発情期の影響もない。だから普通に生活出来るし、バースによる厄介事とも無縁だ。
 ──でも、蘭のように突出した能力を持ったβは、少し違う。
 バース性は、公表するものではない。だから周囲は勝手にバース性を推測する。蘭の場合、α性だと思われることが多かった。
 そのことで蘭が悩んでいることを、そばにいた新一は知っていた。
 αだから強いのだろうと、努力を無視される悔しさ。蘭がβだと知った時に、αの人間から「βのくせに」と嫉妬交じりに言われる悔しさ。
 空手に限らず、スポーツの有力選手にはαが多い。その中で、αより強いβというのは、α側から良い視線を向けられないものだった。
 多分蘭は、βだというだけで、たくさん苦労をしている。
 それでも、それを嘆いたりせず、バース性なんて関係ないと証明して見せるのだと笑って言う蘭を、新一は尊敬していた。
 新一は、優秀な両親から生まれた、エリートの中のエリートだ。躓いたことなんてほとんど無くて、傲慢になりがちなところがある。
 そんな新一の目を、折に触れ覚まさせてくれる──蘭はそんな存在だった。
 階段を下りながら考える。
 安室が自己申告通りαであることは、ほぼ確定した。
 まだ今回のことがバース性に関係していると決まったわけではないが、もしそうならば。──もしも、本当に自分のバース性が変化していて、Ω性に、なってしまっているのだとしたら。
 Ω性の人間は、発情期をもつ。ゆえに、α性の人間無しに、β性の人間と生きていくのは、特に、Ωの男性がβの女性と生きていくのは、とても難しいとされていた。
 それは、Ω性の人間のどうしようもない性質だった。

(それでも、蘭は「大丈夫」って言ってくれるかもしれないけど)

 余計な苦労をかけることに、違いなかった。
 暗い考えを振り切るように首を振って、コナンは毛利探偵事務所のドアを開け、小五郎を呼んだ。



 もう一晩寝ると、ブランケットから安室の匂いは消えた。
 お守りにはならなくなったとため息をつく。
 問題はここからだ。
 前のようなことに、なるのか、ならないのか。匂いが無いと落ち着かない、目の前に安室がいたら抱き着きたいと思うまでに、またなってしまうのかどうかだ。

(多分、本人とちょくちょく顔を合わせてれば大丈夫だろうけど)

 昨日考えてしまったことも相まって、なんだか憂鬱な気分だ。
 学校に行くと、灰原が難しい顔をしていた。

「はよ。どうしたんだよ、朝から怖い顔して」
「他人事みたいに。昨日遅くまで色々調べてたのよ。……なかなか、バース性以外に、原因になりそうなものは見つからないわね」

 灰原は広げたノートに何か書きながら、隣の席のコナンにしか聞こえない、小さな声で言う。コナンもそれに合わせて小声でたずねた。

「この年でもバース性の影響が出たような事例はあんのか?」
「最年少で、八歳の子に発情期がきた例があったわ。……でも、早期にバース性が決まった事例だから、今回のあなたとは違う。あと、元々いい匂いがする人、というのはいるようだけど」
「それはオレも聞いたことある。……でも、その匂いが特定の誰かにしかわからないってことは──」
「無いわね。あなたも、あの人曰くいい匂いがするんでしょう? でも、私には全然わからないもの」

 苛立ちを表すように、ぐるぐると、ノートに無意味な線が引かれていく。
 シャーペンを投げ出して、灰原は頬杖をついた。

「──本当に、運命なんじゃないの?」
「オイオイ……投げるなよ」
「投げてるわけじゃ」
「なにが、運命なの?」

 二人で話しているところに、明るい声が入って来る。歩美だ。

「ううん、何でもないのよ。おはよう、吉田さん」

 バース性の話は、小学一年生には早い。歩美に対して過保護気味な灰原は、笑顔で話題を歩美の今日のワンピースに変えた。
 女子二人による洋服談義に入る気もなく、コナンはため息をついて、授業の準備を始めた。




 その日、安室はポアロにいなかった。
 元々今日はお休みだったようだ。拍子抜けしたが、様子を見るにはちょうどいいかと切りかえる。
 安室がいないからと出て行くのも素っ気ないので、誘われるままカウンター席に座った。
 ジュースを出しながら、梓が聞いてくる。

「この前、お店の前で安室さんと何してたの」
「何って……安室さんから聞いてないの?」
「聞いたけど。シャンプー何使ってるか、当てっこしてたんだって? ほんと?」
「そうだよ」

 嘘ではない。無難に説明したなと思いながら、しれっとうなずく。

「ほら、安室さん、いい匂いのシャンプー使ってるじゃない? どこのかなって話になって」
「え、ほんと? ……匂いを気にしたことはなかったなぁ」
「全然?」
「うん。あ、でも、夏場でも全然汗かかないから、イケメンは汗かかないのかよ! って思ったことはあるかな」

 梓は渋い顔で腕組みする。

「安室さんと二人で買出しに行くでしょ。夏は車の中、暑いじゃない。しかもあの狭い車だよ。汗臭いと思われたら嫌だなーって思うでしょ? あ、これは安室さんへの好意とかは関係なくね」
「わかってるよ」

 コナンは苦笑する。
 一度女子高生にSNSで燃やされて以来、梓は安室に対して慎重だ。

「人として、女性としての気遣いよ。でも、安室さんは全然気にしてる様子なくってさー。嫌になっちゃう。考えてみたら、安室さんって全然汗かかないのよね。イケメンは汗をかかないのよ。だから臭くもならない。ずるくない!?」
「ず、ずるいかなぁ」
「ずるいよ! コナンくん、我々女性は、常に汗と化粧崩れと戦っているのよ」
「はあ」

 梓は、若干引き気味のコナンに気づいて、慌てて手を振った。

「ごめんごめん。ついヒートアップしちゃった。気づかなかったけど、いい匂いがするっていうなら、明日確認してみようかなー?」
「……でも梓姉ちゃん、そんなとこ誰かに見られたら、また炎上しちゃうんじゃない?」
「ハッ、そうだ! でも人のいない時にするのももっと微妙だね……マスターがいる時にマスターに確認してもらおう」
「それがいいかもね……」

 苦笑する。巻き込まれたマスターと、匂いを嗅がれる安室が気の毒だ。先日も、小五郎と高木に匂いを嗅がれて困っていたのを思い出す。
 客が来て、梓が対応に出て行く。
 その背中を目で追いながら、コナンは無意味にストローでジュースをかき混ぜた。

(……なんでオレいま、止めるようなこと言っちまったんだろ)

 ──どこまで科学的な根拠があるか知らないが、嗅覚は、女性の方が敏感なことが多いという。
 普段は慎重に距離を置いているから気づかなくても、近づいて、本人を直接嗅げば、なにか匂いが感じられるかもしれない。
 自分の他にも、誰か匂いがわかる人が見つかったほうが、いいに決まっている。事例が増えれば、原因特定もグッと進むのだから。そもそも、シャンプーの話を出して梓に探りを入れたのも、それが目的だった、はずだ。
 なのに──もやもやと、嫌な気分になってしまった。
 本人もわからない、安室の匂い。

(わかるのはオレだけじゃないのかよ)

 そう考えてしまって、ジュースをストローで吸い上げ、顔をしかめる。
 なんでこんなことを考えてしまうのか。
 この思考もまた、何かに引きずられてのものなのだろうか。
 安室に対して独占欲なんて、あるはずがない。安室は、そういう相手ではない。
 ──安室は、よくわからない人だ。
 敵だと思っていた。そうではないとわかっても、いまだ、味方というには微妙な位置にいる。正体を知られるわけにもいかない。油断が出来ない相手だ。
 でも、何度かやり合い、時に協力をして、安室が優秀な人間であること、それも、自分とは異なる優秀さを持つ人間だいうことを、コナンは知った。
 立場も、考えも、相容れないところが多い。でも、その能力の高さは認めざるを得なくて──いや、認めるとか、そういう「評価」をするのではなくて、すごい人だと、尊敬して、憧れているところが、確かにあった。
 父親以外に、優秀だと思える人間なんて滅多にいないと、そう思っていた自分の目の前に現れた、大人のひとり。
 蘭とはまた違う意味で、その振る舞いだけで自分の自惚れを諫めるような、そんな大人。
 同じようにすごいと思った大人には、赤井がいる。
 ただ、自惚れを承知で言えば、赤井は自分と近いところがあるように思う。こちらの考えを理解して、それをその通りに、より理想的に実現して、助けてくれるのが赤井だ。
 安室は、そうではない。理解した上で、同じ問題に、違う解を提示する。
 コナンにとって、大人二人はそんな風に違っていた。

(──そういえば、安室さんはやたらと赤井さんに拘ってるよな)

 以前たずねた時には、事情がある、と赤井が言葉を濁したため、深くは追及しなかったけれど。

(……事情って、何だろう)

 そのことが、今になってなんだか妙に引っかかった。



 翌日。放課後ポアロをたずねると、梓の嘆きが出迎えた。

「聞いてよコナンくん。安室さん、また急な仕事でしばらくお休みするんだって!」
「え」

 それで思い出したのは、最後に会った時にポケットを押さえるような仕草をしていた安室の姿だ。
 あれは何か、緊急の連絡だったのかもしれない。

「安室さん忙しいんだね」
「まあ、あの年でいつまでも喫茶店のアルバイトっていうのも微妙だから、本業が軌道に乗ったならいいことなんだけどね。うちもそんなに忙しいわけじゃないですしー?」
「マスターも梓さんも、優しいよね……」

 特に雇い主のマスターは大らかが過ぎる気がする。
 ぷりぷりする梓をなだめて立ち話だけして、その日は家に帰った。
 幸いと言うか何というか、体調は良好だ。夜も眠れるし、匂いが気になって落ち着かないということもない。
 数日の話なら、さほど問題もないだろうと、その時はのん気に考えていた。



 窓越しに、ポアロを覗く。こちらに気づいた梓が、手でバツマークを作った。

(──今日もか)

 がっかりしつつ、笑って了解の印に指で丸を作って示す。
 安室は、あの日から出勤していなかった。

(しばらくはポアロに出てくるって、言ってたのに)

 それでも、あの男の仕事を思えば、仕方のないことだ。──仕方がない、のだけれども。
 家に戻って部屋に入ると、すっかり匂いの消えた安室のブランケットを引っ張り出して、被る。
 ──困ったのは、不在が一週間を過ぎて、不眠が再発したことだった。
 数日は大丈夫だったので、あの時が特別だったのだと、灰原たちとも話していたのだが、どうやらことはそう上手くは運んでくれないらしい。
 落ち着かない、というよりも、漠然と、不安だった。
 原因は、相変わらずわからない。

 今日までの間に、いろんな可能性を検討した。
 匂いが特別なのではなく、安室とコナンの嗅覚が鋭い可能性。だが、コナンの嗅覚のは普通だった。
 他には、APTX4869のように、組織がバース性に干渉する薬を開発した可能性。催眠術のようなものにかけられている可能性。
 しかし、これについては、具体的に薬や施術者を特定できない限り判断が出来ない。

「そもそも、二者間に起きているイレギュラーな事象の原因を、片方の人間だけ調べて特定しようなんて、無茶な話なのよ」

 灰原は投げやりにそう言った。しかし、灰原と安室を会わせるわけにもいかないし、そもそも、会わせようとしたところでいまは安室がいない。

「何にせよ、バース性が原因である可能性は高いと、私は思うわ」
「でもよ」
「あなたの言いたいことはわかる。でも──『運命』なら、話は違うんじゃない」

 灰原は、最初にそれを口にした時とは真逆の、ひどく真面目な表情で、そう言った。
 本気で言っているとはにわかに信じられず、笑い半分困惑半分の表情で灰原を見つめる。

「お前、運命ってな」
「馬鹿馬鹿しいって、言うんでしょう」
「当たり前だろ。科学者が何言ってんだよ」
「科学者だからよ。科学者だから、あり得ないと、きちんと証明されたわけでもないことを、あり得ないことだとは言わないわ」
「……お伽話だろ」

 運命の番。目が合ったら「この人が自分の番相手だ」とわかるくらいの、抗えない絶対的なつながり。

「オレはそんなもん安室さんに対して感じたことなんてねえよ」
「細かな部分は、差異があるのかもしれないわ。──調べてみたけれど、『運命』じゃないかと思える事例は、確かにあるのよ」
「調べた?」
「そうよ。あらゆる可能性を、調べるべきだもの。……あらゆる可能性を検討して、不可能なものを除外して……そうして最後に残ったものこそが真実。例え、それがどんなにあり得ないものに思えても。──そう言っていたのは、あなたの尊敬するホームズじゃなかったかしら?」

 言い返す言葉がなく、黙る。灰原はため息をついた。

「勿論、まだ『運命』だと断定出来る情報を入手したわけではないわ。他と同じく、あくまでも、否定しきれない可能性のひとつに過ぎない。でもね。私たちが、こうして一緒に検討して、検討したものを共有しているのは、特定の候補に固執せずに、色々な可能性を頭に入れておくべきだからで、そうすることで、気づくことがあるかもしれないからでしょう。──まとめたものは、あなたのスマホにも送っておくから、可能性のひとつとして、頭に入れておいてちょうだい」

 灰原の言うことは、正論だった。
 そんなはずがないと感情で否定するのは、正しい行動ではない。感情では飲み込めなくても、向き合うべきだった。
 ──そして、そうこうしているうちに、コナンに不調が現れた。
 何となく調子が出ない日がしばらく続いて、夜眠れなくなり、食欲が落ちた。
 眠くはなるが、漠然とした不安で眠れない。実際食べられないわけではないが、食べる気にならない。
 気持ちの問題だ。
 でも、寝不足は徐々に体にダメージを蓄積していくし、食欲がないのに食べなければならないというのも、苦痛だった。
 いつまでもこれが続くのは問題だ。
 コナンの様子を見て、灰原はしぶしぶ、解毒剤の投与に同意した。
 新一向けの、α・Ω両方の抑制剤が完成するのに合わせて、二日後の投与が決定している。
 ──元に戻れば、何かわかるかもしれない。
 とにかく、いまはその可能性に賭けるしかなかった。



 コナンは、ぎゅっとブランケットを握りしめた。
 こうして安室のものを身に着けていたって、何がどうなるわけでもない。意味などないと分かっているのに、それでも、これしか安室につながるものがないのだ。
 スマホに送られてきた「運命」の資料を流し読む。
『目が合った瞬間に、予定ではまだ先のはずだった発情期が始まった』
『この人以外にはありえないと本能的にわかり、他のαやΩの存在に嫌悪感を持ち、排除したくなった』
 そんな記述を見ていると、安室の「αやΩのフェロモンは、攻撃的で心地良いものではない」という言葉が思い出された。
 確かに、これが本当なら、攻撃的としか表現しようがない。まるで嵐のようだ。
 もしこれが「運命」だというなら、自分たちには当てはまらない。
 でも、当てはまるものもあった。
『発情期に関係なく、常にお互いからいい匂いを感じて、離れがたく思う』

(……でも)

 コナンは、その先の記述を目でなぞる。
『そして、離れている時に相手が危機な状況に陥ると、そのことがわかる』
 これは、本当だろうか。もし安室が危険な目に遭うことがあったら、それがわかる、なんてことが。
 でも、もしそんなことがあり得るなら、いまの自分のように不安で仕方なくなることなんて、ないはずではないか。
 わからないから、不安になるのだ。

(だって、安室さんが戻って来るかどうかなんて、オレにはわからない)

 そう考えてゾッとして、ブランケットをきつく巻き付ける。
 危険な仕事をしているのは、百も承知だ。それこそ、命がけの仕事だ。何度も怪我をしているのも、知っている。
 どこかで何かあって、このまま戻って来なくたっておかしくない。安室透という存在は、そういう不確かなものだ。

「──コナンくん? あれ? まだ帰ってないのかな」

 声がして、ハッと顔をあげる。
 いつの間にか、部屋の中は真っ暗になっていた。
 パチッと音がして、部屋が明るくなる。
 灯りをつけた蘭が、ブランケットに包まって座り込んでいるコナンを見つけ、目を丸くした。

「……あ、と。蘭姉ちゃん、おかえり……」

 恐る恐る口を開くと、蘭は一瞬間をおいて「ただいま」と微笑んだ。

「良かった。まだ帰ってないかと思っちゃった」
「ごめんなさい。……ボク、寝ちゃってたみたい」

 言い訳を口にする。蘭は何も言わずにコナンの前でしゃがむ。
 反射で身を固くしたコナンにそっと手を伸ばすと、蘭は肩の所でくしゃくしゃになったブランケットを整えた。

「──今日、ちょっと寒いね。体、冷えてない?」

 明らかに嘘だとわかる言い訳には触れずにこちらを気遣う蘭に、「ああ、これは不調には気づかれていたな」と悟って、申し訳なくなる。
 一緒に暮らしているのだ。残さずに食べていようと、寝たふりをしていようと、気づくことはあるのだろう。
 コナンは笑って、ブランケットを外した。

「うん、大丈夫だよ」

 答えて、蘭の笑顔を見上げて、ふと──今更、本当に今更、気づく。
 いつ戻って来るかわからない、危険な状況にいるかもしれない相手を待つ気持ちとは、こんなにも心細いものなのか。
 ──蘭はいつも、こんな気持ちでいるのか。
 気づいて、うろたえる。
 メールはしている。電話だって。でも、そんなのは言い訳だ。

「……あの」
「うん?」
「──ううん。なんでもない」

 この姿で何を言えというのか。コナンは笑って首を振った。
 蘭をまっすぐに見れず、顔を伏せてぎゅっと唇を噛むと、不意に抱き寄せられた。
 ぎゅっと柔らかい体に包まれて、戸惑う。

「ら、ん姉ちゃん?」
「コナンくん。今日晩御飯何にしようか」

 普段通りの明るい声が、蘭の体から伝わってくる。

「今日は、作るの面倒臭いからサボっちゃおうかなーって気分なんだけど。お父さんもいないし、こっそり二人でいいもの食べに行っちゃおうか」

 頭に触れた手は、とても優しい。
 恥ずかしいよりも、気まずいよりも、今は彼女の優しさに甘えてしまいたかった。
 彼女に苦しい思いをさせているのは自分なのに、いまの自分の気持ちをわかってくれるのは、彼女しかいないのだと、勝手なことを思ってしまった。

(──ごめんな、蘭)

 ぎゅっと蘭に抱きつく。
 部活で鍛えていても、男とは比較しようもない、柔らかい体だった。
 ひとつ、深呼吸して、明るい声をつくる。

「だったらボク、お寿司がいいなぁ」
「いいねぇ。じゃあ、いろは寿司行こうか」
「うん!」

 答えて、顔をあげる。きっといつも通りに笑えたはずだ。
 蘭も笑って、じゃあ行こう、とコナンの手を取った。




 二日後。元の姿に戻るために阿笠邸をたずねた。

「今回は、半日だけよ。効果の強い薬は、負担も大きいから」
「サンキュ、灰原」

 解毒剤をコナンの手のひらに落として、灰原はぎゅっと眉間にしわを寄せた。

「いい? 戻ったら、ここに来て、検査結果が出るまでは大人しくしているのよ」
「わかってるよ」

 最近の様子から、灰原は半ば、コナンの変性を覚悟しているようだった。きっと、罪悪感をおぼえている。

「悪いな」
「あなたの身に起こることは、私にだって起こり得ることなの。一蓮托生だってこと、忘れないで」
「ああ」

 素直じゃない相棒に苦笑して、阿笠邸の一室にこもる。
 ──体が元に戻る時。また小さく逆戻りする時。
 どちらも、激しい苦痛を伴う。灰原にも阿笠にも、見せたいものではなかった。
 水で薬を嚥下する。
 薬が喉の奥で溶けていくのを感じながら、考える。
 ここ最近の、番のαを失ったΩに近い、己の状態。
 ──もし、本当にΩになっていたとしたら。
 蘭の顔が頭に浮かんだ。
 それを振り払うように首を振る。

(──いま考えても、仕方ねえだろ)

 結果は、すぐに出る。
 なじみのある激痛が、体を襲った。



 しばらくして、なんとか痛みと熱が引いて、ふらふらと起き上がった。
 無事、元の姿には戻れたようだ。
 大きくなった手で額の汗をぬぐい、息を整える。

(こればっかりは、何度経験しても慣れねえな)

 あまりヘロヘロでは、灰原たちも心配する。用意しておいた服に着替えて、こもった空気を入れ替えるために窓を開けた。
 視線がいつもより高い。
 それだけで、気持ちが変わったような気がした。
 ぐっと手を握って開いて、屈伸して、体におかしなところはないか、慎重に確認する。あがった息が完全に落ち着いて、ふうとため息をついた。
 部屋にある鏡には、見慣れた工藤新一の顔が映っていた。 

「早く下りてかねえとな」

 つぶやいた直後、ぐうと腹が鳴った。

「……腹減った」

 ぼやいて。気づく。
 腹が減った。喉も乾いた。そう感じる己の体は、気力に満ちて健康そのものだった。
 つい数時間前まで付きまとうように体に貼りついていた不安感は、きれいさっぱりと、失せていた。

「体が戻るとリセットされるとか……? そんなことあんのか?」

 何にせよ、調子が戻ったのは、ありがたい。
 部屋を出て、灰原の待つ研究室へ向かう。
 待ち構えていた彼女の問診に答えて、検査を受ける。
 検査結果が出るまでの間、空腹を満たすために阿笠にねだって出前を取ってもらった。

「本当に大丈夫なのか? 食べる気にならんと言っていたが……胃がびっくりするんじゃないかのう」
「だーいじょうぶだって。腹減って仕方ねーんだよ」

 心配する阿笠に笑って答えて、出前のカツ丼を食べていると、灰原が研究室から出てきた。
 灰原は難しい顔で、検査結果の紙を見つめている。
 新一は箸を置いて、たずねた。

「──結果は?」

 どんな結果であろうと、受け入れるしかない。受け入れて──どうするべきか考えるのは、それからだ。
 灰原は新一を見つめて、短く答えた。

「検査の結果……あなたの第二性は、α性。──変化は、なしよ」