運命は信じない 3
「……は?」
新一はぽかんと灰原を見つめた。
灰原はもう一度、繰り返す。
「あなたの第二性は、α。──前と変わっていないわ」
「待て待て、じゃあ何だったんだよさっきまでのあれは」
「わからないわよ」
「どういうことだ……? てことは、安室さんがΩ?」
半ばΩへの変化を覚悟していたので、安心するよりも混乱する。
阿笠が首を傾げた。
「しかし、この間新一につけられていたフェロモンは、確実にαのものだったがのう」
「──とにかく、工藤くん。もう少しだけ検査に協力してちょうだい。いまのその姿のうちに、色々取っておきたいデータがあるから」
「わかった」
新一はカツ丼を食べてしまうと、箸を置いて時計を見上げる。
丁度昼時だ。
少し考えて、たずねる。
「……今回は、半日って言ったよな?」
「そうね、夜の七時か……うまくいけば八時頃まではもつかもしれない。勿論、前後するでしょうけど」
「検査はどのくらいかかる?」
灰原は顔をしかめた。
「出歩くのは推奨できないわよ。あなた、すぐ事件に遭遇するじゃない」
「わかってるよ。……でも、ちょっとだけ。一時間でいいんだ。頼む」
次、いつこの姿に戻れるかわからない。だから、蘭に姿を見せておきたい。
灰原は新一を見つめ、しばらく考えた後で、ため息をついた。
「──いいわ。二時間あげる」
「! サンキュー灰原!」
礼を言うと、灰原は腕組みをして新一をにらむ。
「ただし! きっかり二時間よ。三時までに検査は終わらせるから、それから二時間。五時までにはちゃんと、ここに戻って来ること。七時頃までは大丈夫だろう、というだけで、正確な予測は出来ない。間違ってもギリギリまで外にいようなんて、考えないこと」
「わかった」
まだ何か言いたげな灰原を遮って、食い気味にうなずく。
そうと決まれば、さっさと検査を終わらせたい。いそいそと立ち上がった新一に、灰原はまた、深いため息をついた。
検査は三時少し過ぎに終了した。
灰原に再度注意を受け、注意事項を復唱させられてから、阿笠邸を出る。念の為、阿笠のところに置いてあったキャップをかぶって顔を隠すことにした。
スマホを確認すると、昼過ぎに送ったメールに、蘭からの返信が来ていた。
蘭は休日の今日も部活だったが、抜けて来てくれるらしい。
『学校の近くの公園で、待ってるね』
数分前に受信したメールを確認して、口元がほころぶ。
(蘭に、ちゃんと無事なとこ見せて。……これからは、連絡ももうちょっとマメにしねーと)
胸の奥に穴が空いたような、あのなんとも言えない不安を思い出して、新一はぎゅっと眉間にしわを寄せた。
(──でも……いまは全然、何ともないんだよな……)
ありがたいが、それもまた不思議だ。灰原も首を捻っていた。
いま、安室に会ったら、どうなるだろう。
頭の隅でそう考える。
──この姿でも、あの人の匂いを感じるだろうか。
新一は首を振った。
安室は仕事で不在だ。それに、限られた時間は蘭のために使うべきだ。
いまは余計なことは考えまいと、歩く速度を上げる。
待ち合わせより二分ほど早く公園に到着すると、蘭はすでにそこにいた。
「蘭!」
「新一」
制服姿の蘭がベンチから立ち上がり、手にしていた携帯電話をカバンに仕舞った。
駆け寄ると、ホッとしたように微笑む。
彼女を、こうして少し見下ろすような位置で見るのは久しぶりだ。
「悪いな、部活の途中に」
「ううん。もう時間も時間だし、ちょっとだけ早退させてもらっちゃった」
「そっか」
蘭は、怪我や変わったことがないか確認するように、新一の周りをくるりと回って正面に戻ると、少し頬をふくらませた。
「新一、元気にしてたの? メールも全然返してくれないんだから」
「悪い。忙しくて……。今度からマメに返す」
軽口交じりの恨み言に、反省して真面目にそう答えると、蘭は目を丸くする。
「なに、どうしたの? 急にしおらしくなっちゃって。今日も、事前に連絡してくるなんて珍しいじゃない」
「うっせーな。これでも、いつも悪いなって、思ってんだよ。一応」
「……まあいいけど」
蘭は疑うような表情を引っ込めて、ふふっと笑った。
「すぐに行かないといけないの? 夕飯、うちで食べてく時間もない?」
「悪い。一時間くらいしかなくて」
「そっか。残念」
「……悪い」
「もう、さっきから新一、悪いって言ってばっかり! まあ、実際その通りなんだけどね?」
また「悪い」と言いかけて口を閉じると、蘭はふきだした。
「いいよ。諦めてるから」
諦められている、というのも複雑だ。微妙な顔をするとまた笑うので、ため息をついて話を変えた。
「お前の方は、何も変わりないか?」
「うん。もうすぐ都大会があるから、その練習と──」
蘭は楽し気に近況を話す。
既にメールで読んだことや、コナンが聞いたことばかりだったが、知らぬふりで相づちを打つ。
「それでね」と次から次に、話が尽きぬ様子で口を動かす蘭の横顔を見つめ、やっぱりもう少し、電話する回数も増やそうと密かに誓う。
「──って感じで。ほんと大変だったんだから」
「そっか」
「そうだよ。コナンくんだって、」
話の途中で、蘭はふっと顔をくもらせて言葉を切った。
少し待ってみたが口を開く様子がなかったので、たずねる。
「……コナン? コナンがどうかしたか」
大方、子どもの不調を気にかけているのだろう。今日、コナンに戻ったら元気な姿を見せてやれるはずだから、この心配も数時間のことだ。
大丈夫だと言ってやればいい、と思っていると、蘭はしばらく考えた後で、新一を見上げた。
「あのさ」
「うん?」
「コナンくんって、新一の遠い親戚なんだよね? ……新一、コナンくんのご両親と、連絡取れない?」
新一は目を丸くした。
「へ? 連絡? 江戸川さんとか? 取れるけど……お前だって、連絡先くらい知ってるだろ」
毛利家へは有希子が、自分たちか阿笠につながる連絡先を、江戸川家のものとして渡している。
何かあればそこへ連絡すればいいだろうと指摘すると、蘭はわずかに顔をしかめた。新一は首を傾げる。
「オレも遠い親戚ってだけで、コナンはともかく、あそこんちと親しいってわけじゃないからさ……何かあったのか? まさか、あいつが親を恋しがってるとか、言わねえよな」
「そう、じゃないけど。……でも、それも、あるかもしれないし……」
「よくわかんねーな。お前、何をそんなに心配してるんだ?」
ちらりと時計を見る。五時まではあと三十分ほどだ。戻るのにかかる時間もある。
この話は早く切り上げよう、と思った時、ぎゅっと腕が掴まれた。驚いて蘭に視線を戻すと、蘭は真っ直ぐに新一を見つめて言った。
「コナンくん、大きい病院に行って検査してもらった方がいいと思うの。……バース性の」
「は!?」
ギョッとして目を見開くと、蘭は一瞬恥じるように目を伏せた。
「ごめん、こんな話。でも、最近コナンくん、おかしくて。私たちはコナンくんの保護者代理だけど、赤の他人だから。病院に連れて行っても、私たちじゃ駄目なの。繊細な話だし、あの年の子だし、ご両親がいないと。この話も、私たちからより、親戚の新一からしてもらう方がいいと思って」
「待て待て、落ち着け」
蘭の肩を掴んで、遮る。いきなりの話に、こちらも少し混乱している。
息を吐いて、頭を掻いた。
「何で、そんな話になるんだよ。あいつはまだ七歳だろ。──何で、検査が必要だと思った。最近おかしいって、言ったな」
蘭はこくりとうなずく。気持ちを落ち着かせるようにひとつ息を吐いて、蘭は目を伏せて口を開いた。
「……コナンくん、最近元気がないの。食欲が無いし……多分、夜も眠れてない。毎日学校は行ってるけど、私たちを心配させないようにって、無理に元気にしてる。それで、家で一人の時はずっと、すがるみたいにブランケットに包まって……」
新一は顔をしかめた。もう少し上手く隠せているつもりだったのに、全く出来ていなかったようだ。
蘭が、ぽつりとつぶやく。
「私、いまのコナンくんみたいな感じ、見たことがあって」
「え」
予想外の言葉に、目を瞬かせる。
「あいつみたいな、って……?」
「……園子が、たまにそんな感じになるの」
「園子?」
「うん。……京極さんと長く離れてると、元気がなくなってきて、京極さんの持ち物を、こう、ずっと握りしめてるの。園子に聞いたんだけど、バースのせいなんだって」
思わぬ情報に、頭がぐるぐると回り出す。
「……園子は、確かαだよな?」
「うん」
「京極さんも」
「うん。それで園子、少しご両親と揉めたから」
鈴木財閥の当主が、代々がαなのは有名な話だ。
昔は、αの血筋を保つために、優秀なΩを探してきて当主と結婚させ、確実に次の代のαを産ませるのが慣習だった……と聞いている。αが一番生まれやすいと言われているのが、αとΩの組合せだからだ。
ただ最近は、次郎吉もああだし、優秀な後継なら血筋やバース性に拘る必要はないという考えに、なってはいるらしい。
実は、園子の両親は、どちらもαだ。α同士だと、子もαになる可能性はあるが、そうでない可能性の方が高い。園子のところも、姉はβだった。幸いというか何というか、園子がαだったため、彼女が後継と目されているが、自分たちが後継ぎのことであれこれ言われた経験から、園子の両親は、娘に不要な苦労はかけたくないと考えたらしい。園子にはΩの男性を──とずっと言っていたところに、京極真との出会いがあった。
α以外の何者でもないあの男との交際に、園子の両親はいい顔をしなかったが、最終的には、折れた。自分たちもα同士なのだ。園子たちの意志が固いなら、強く反対はできない。
──という事情をぽつぽつと語って、蘭は小さくため息をつく。
「人によるみたいなんだけど。『この人』って、決めた人への執着が強いんだって、α性って」
「……ってことは、番とかは関係ねーのか?」
「よく知らない。番関係だと、もっと症状がひどいらしい、って園子が言ってたような……気がするけど。あんまり、突っ込んで話すことでもないし……」
「まあ、そりゃそうだよな」
親友同士とはいえ、詳しい話をするものでもないだろう。第二性が違えば特にそうだ。
「京極さんの方は、あんまりそういうのないんだって。園子、それでちょっと拗ねちゃって」
クスッと笑った後で、蘭はまた顔をくもらせた。
「……コナンくん、元気ない時の園子とそっくりなんだ。コナンくん、すごく大人っぽい子でしょ? バース性が人より早めに決まっちゃうこともあるんじゃないかって」
なるほど、とため息をつく。
蘭の懸念は、わかった。確かに、そういう事情であれば、心配するのもわからなくはない。
実際、コナンの体には異変があらわれている。ただ、それがバース性に関係するものなのかという点は、確定していない。
工藤新一がα性で変わりなかったことを考えると、バース性に関係がある疑いは薄れた気がするが──問題は、園子の話だ。
彼女が、コナンに似た症状を見せる原因は京極で、京極はα。α同士なのだ。
(なんとか園子に話が聞きてーところだけど……この姿では、今日はもう時間切れだ)
「コナン」が話を聞けるように、持っていくしかない。
その前にまず、蘭の心を軽くしてやるのが先だ。
新一はあえて軽い口調で言う。
「つっても、七歳だからなぁ。……園子に似てるって言っても、コナンのやつに、もうそういう相手がいるってわけじゃないだろ?」
「うん……。あのね、コナンくんが最近手放さないブランケットがあるんだけど……それ、うちのじゃなくて」
蘭はぽつりぽつりと続ける。
「私、前に見たことがあるの。……その人は、すごく年上の人で。私たちよりも。コナンくんのことは、確かに可愛がってくれてるけど、小学生の子と、なんて考えもしないだろうし。コナンくんだって、まだ小学生だよ」
断片的に言葉を口にして、蘭はまた口をつぐんだ。
「……お前は、あいつがそのブランケットの持ち主に執着してるんじゃないかって、思ってるのか?」
「そうじゃなくて、ううん、ある意味そうなんだけど、気持ちがそうっていうことじゃなくって、もっと、どうしようもない何かなんじゃないかって。もしかしたら」
蘭は泣きそうに顔をゆがめた。
「コナンくん、Ω性かもしれないって」
やっと、蘭の思いつめた様子の本当のわけを理解する。
園子が恋人である京極の持ち物に執着するのは、彼女のバース性──α性の性質によるものだという。ただ、コナンの場合は小学生で、日頃の様子を見ていても、恋人なんている様子はない。似ているといっても、原因は全く同じものではないかもしれない。
バースが原因で、人を恋しがるような何か──そこで蘭は、Ωの発情期の話を思い出してしまったのだろう。
蘭はβ性で、Ωのフェロモンは感知できない。「もしも」を考えたら、思いつめても仕方ないことだった。Ωの発情期は低年齢の、予測不能なものほど、性犯罪と結びつきやすいのだ。
新一はため息をついて、蘭の肩を叩いた。
「わかった。検査の件は、オレから話を通しとく。あいつの親は……戻って来れないかもしんねーけど、最悪阿笠博士のところでも検査は出来るはずだ」
「ほんと……?」
蘭はホッと息を吐いた。
「良かった」
「蘭にもひとつ頼みがある」
「なに?」
「あいつの体調不良、園子の症状に似てるって言ったよな。あいつ自身も、不安に思ってるかもしれない。うちもそうだけど、コナンのとこもα性が多いんだ。園子にさりげなく事情を話して、あいつの相談にのってやるように、頼んでくれないか」
「……わかった」
蘭はうなずく。
「頼む。もしコナンが何か悩んでても、それで多分、だいぶ楽になるはずだ」
「そうだね」
蘭は言った後、ため息をついた。新一は笑って見せる。
「何だよ。大丈夫だって。案外、最初に言った通り、親が恋しいだけかもしんねーぞ?」
「だといいんだけど。……ううん、寂しい思いしてるのは、やっぱり良くないよね」
「それは蘭のせいじゃないだろ」
「そうなんだけど。……こういう時、ちょっと嫌になっちゃうなって」
「何が」
首を傾げると、蘭は苦く笑った。
「私は、自分がβ性だってこと、別に何とも思ってないけど……でも今回みたいに、βだから、大事な人たちが困ってても、本当には力になれないことって、あるんだよね。それは、悔しいよ」
蘭が己のバース性についてこんな風に言うのは、珍しい。
バース性の違いのままならなさにぐっと唇をかんで、新一はわざと乱暴に蘭の頭に手を乗せると、ぐしゃぐしゃと撫でた。
「バーカ。お前がいるってだけで、オレも園子も、すっげー勇気をもらってんだよ。力になれないなんてこと、絶対にない。コナンだってそうだろ」
「そうかな」
「そうだよ。少なくとも、オレはそうだよ。オレは、お前のこと頼りにしてて、尊敬してんだ。オレが尊敬してる奴を、そんな風に言わないでくれよ」
「……うん。ありがとう、新一」
ようやく笑顔を見せてくれて、ホッとする。
時計を見ると五時を過ぎていた。まずい、という顔をした新一に気づいたのか、蘭は慌てて立ち上がった。
「ごめん。時間あるって言ってたのに」
「いや。こんなこと、メールでも電話でも相談しにくいよな。相談してくれて、ありがとな。コナンのことも、気にしてくれてありがとう」
「ううん。コナンくんは私にとっても、弟みたいな子だもん」
その言葉に苦笑して、相談結果はまた報告すると約束をして、その場で別れた。
後ろ姿を見送り、灰原に「これから戻る」とメッセージを入れて、キャップをかぶり直して足早に進む。
──思わぬところから手がかりが出てきた。
園子と話をすれば、何かわかるかもしれない。α性の彼女にも出ている症状だというなら、自分にもあり得る話だ。
勿論、状況は全く違うので、ヒントになるかも、という程度のことだろうが、手がかり無しの状態からは大きな前進だ。
──それにしても。
蘭も、コナンをΩ性ではないかと心配していたとは。
ブランケットの持ち主も、安室だと知っているようだった。
蘭が安室についてぼかして何も言わなかったのは、安室と、コナンのプライバシーを考えてのことだろうが、蘭は当然、安室がα性である可能性も考えているのだろう。
(こりゃ、安室さんと迂闊に話出来ねーな)
べたべたと懐いていたら、不要な心配をさせそうだ。いや、もしかしたらもう小五郎や梓から何か聞いているのかもしれない。
小さくため息をつく。
コナンと安室。──あるいは、新一と本来のあの男。
年が離れていることもあって、蘭も二人に何かあるかもしれないとまでは、思っていないようだったが。
(──そうだ、ありえない。オレとあの人が、なんて)
その時、背後からクラクションを鳴らされた。
ビクッとして振り返り、すうっと自分の横で停車した車に目を見張る。
「え……?」
──赤の、スバル。
見慣れた車の、助手席側の窓が下りて、運転席から身を乗り出した沖矢昴が、車内から新一を見上げて、にこりと笑みを浮かべた。
「突然、すみません。工藤新一くん、ですよね」
「え。ああ、はい……」
何だってこの人がここに、と警戒で身をすくめると、沖矢は助手席のロックを外した。
「沖矢昴と申します。阿笠氏の救援要請で、お迎えに上がりました。──身分証明書が必要でしょうか?」
にこやかな表情を変えずにそう言って、わずかに首を傾げる。
新一は阿笠の名前に眉を寄せた。
──事実なのか、あるいは嘘か。
そこはわからなかったが、この男が工藤新一に危害を加える理由は、ない。
新一は肩をすくめ、ついでに目深にかぶったキャップを取って、にっこりと笑って見せた。
「いいえ。コナンから話は聞いてますよ。沖矢さん。──初めまして」
沖矢昴。言うまでもなく赤井秀一の変装である。
彼の正体をコナンは知っているが、知っているのはコナンであって、新一ではない。
赤井がコナンの正体を知っているかどうかは、正直半々、と言ったところだ。
彼の立場なら、察しをつけることは可能だろうが、実際、どこまで何を知っているのかはわからない。
ただ、わからないままで、隠し事をしたままでいても、この人はこちら側だろうと思える点が、安室とは明らかに異なる点だ。
敵か味方かという話ではない。同じ側にいる。それだけだ。
走り出した車の中で、口を開く。
「沖矢さんには、御礼を言わないとって、思っていたんですよ。うちの管理をして下さっているそうで。助かります。親から預かったのに放置しちゃってたんで」
「いえ、単に居候させていただいているだけですよ。助かっているのはこちらです」
「……それで? 阿笠博士の依頼っていうのは?」
沖矢は、阿笠邸とは微妙に違う方向に車を走らせながら、答えた。
「表から戻って来るのはまずいので、工藤家の裏口経由で戻って来てほしいそうです」
新一は眉をひそめる。
表からは、まずい。
何があったというのか。裏口から戻るように指示するくらいメールで出来るだろうに、わざわざ迎えを寄越したのは、万が一にもメールを見落とされては困るから、というのと、この男がいる工藤家の裏口から侵入しなければならないとなると、どの道この男には話を通さなければならないから、だろう。コナンの姿であれば見逃してくれるだろうが、この姿ではそうもいかない。
「僕も今日外出していましてね。出先にご連絡をいただいて、慌てて戻りがてら、お迎えにうかがったというわけです」
「それは、お手間をおかけしました。……表から入れないわけを、何か言ってましたか?」
「表を、怖い人が見張っているそうです」
沖矢は面白がるような口調で、そう答えた。
工藤家、あるいは阿笠家を見張る、怖い人。
(──嘘だろ)
新一はすみません、と断ってスマホを取り出すと、阿笠に電話をかけた。電話はすぐにつながる。
「博士?」
『新一か。沖矢くんとは会えたか』
「いま車の中。──表に見張りがいるって?」
『白のRX-7よ』
声は灰原のものに変わる。
やはり安室か。新一はため息をついた。
「いつから?」
『つい十五分くらい前ね。あなたがちゃんと時間通りに戻ってきていたら、鉢合わせていたかもしれないわ』
嫌味混じりに言う灰原に、首を傾げる。
「何でまた、このタイミングで。あ……えーっと、お隣に用か?」
ちらりと沖矢に視線を向ける。ため息が聞こえてきた。
『かも、しれないわね。うち寄りに停まってるから、位置的にうちの裏口もちょっと危ないの。そこにいる運転手に、その派手な車が見つからないように注意するよう伝えて』
「あー、うん。わかった」
答えて、通話を切る。
「何か?」
「……イエ、気をつけて戻って来るように、と」
「そうですか」
沖矢はほほ笑む。
「えーっと、これはどこに向かってます?」
「とりあえず車を近くの駐車場に。そこから徒歩で裏口に……ですかね」
確かに、沖矢の車が戻ってきたらそれだけで目立ってしまう。
「ご迷惑おかけします」
「いいえ」
家が近づいてきた。シートに背を預け、キャップをかぶり直す。
沖矢は何も言わない。
沈黙が落ち着かず、口を開く。
「……事情は聞かないんですね」
「聞けば教えて下さるんですか?」
新一が黙ると、沖矢は口元だけで笑ってハンドルを切った。
「家賃代わりだと、思っておいて下さい」
「……では、ありがたく」
「はい」
考えることが多すぎる。新一はため息をついて、窓の外に目をむけた。
安室が家の前にいる理由。
沖矢を赤井ではないかと疑って、たまに見張っているのは、知っている。今回もそれだろうか。
というか、長期任務はいつ終わったのか。
(終わってすぐ、赤井さんの様子を見に来た? 相変わらずだな……)
赤井に、安室の執着のわけを聞いてみたい気はする。でも、いま自分はコナンではなく、助手席の男も沖矢だ。
(そういや、この人はαだよな、絶対)
見るからにそうだし、αの体に戻ったいまは、なんとなくわかる。この男は、αだ。
(赤井さんには番相手とか、いるのかな? ジョディ先生とか……いや、FBIだとα多そうだよな。先生がどうかは知らないけど。α同士じゃ番にはなれないか)
そこまで考えて、ふと引っかかった。
これと近いことを、自分は前に考えなかったか。
──番を作るなんて、考えたこともない。
安室の声が、脳裏に浮かぶ。
「工藤くん、着きましたよ」
声をかけられて、ハッと我に返る。沖矢の車は、コインパーキングに停められていた。
「降りてここから歩きましょう」
その言葉にうなずいて、新一は車を降りて家までの道を歩く。
裏口を入ったところで、沖矢とは別れた。
「今日は、こちらに戻っていらっしゃいますか?」
「いえ、すぐ出ないといけないので」
「そうですか。残念です。──また今度、お時間がある時にゆっくり、お話させて下さい」
にっこり笑った沖矢に笑みを返す。
この人は本当に、何をどこまで知っているのやら、だ。
沖矢が裏から家に入ったことを確認すると、隠し通路を通って阿笠家に行く。
──工藤家と阿笠家の間には、隠し通路がある。
この通路を沖矢が知っているかはわからないが、こちらから侵入するにしても、阿笠側で鍵を開けなければ無理だ。見られても問題はないだろう。
通路の扉を決められた通りにノックすると、すぐに扉が開いた。灰原が、新一の姿を見てホッと息を吐く。
「まだ大丈夫のようね」
「いま何時だ?」
「六時前」
ギリギリか、と息をはく。
「有意義な時間は過ごせたかしら?」
「ああ。思わぬところから新情報だ」
灰原の研究室に入り、蘭から聞いた園子の話をする。灰原は目を細めて首を傾げた。
「──なるほど。あなたの例とも矛盾しないわね。でもあなた、いつの間にあの人のことを?」
「アホ。だから、問題はそこなんだよ。蘭がバース検査なんて言い出したのも、まったく同じ理由じゃないと思ったからだろ」
「そうよね……」
二人揃って、ため息をつく。
「ところで、半日近く経つわけだけど、症状が再発した感じはないの?」
「ねえな。さっぱり。一回リセットしたら、数日は大丈夫ってことじゃないか?」
「リセットね……。──そもそもその体の場合、あの人の匂いをどう感じるのかしら」
「それはオレも気になるんだよな。でも、顔合わせるわけにもいかねーだろ」
「そうね……」
灰原はしばらく考えた後で、口を開く。
「──ひとつ、案があるんだけど。いま外にいるあの人、ここに呼んでみたらどう?」
「は?」
突拍子もないことを言い出した相棒に目を丸くする。灰原は淡々と続けた。
「ここって言っても、この研究室じゃなくて、上のリビングよ。それで、博士に対応させるの。あなたは、可能な限り近くまで、寄ってみる。勿論、体調変化には気をつけて」
「お前らしくもない博打みてーな案だな」
「わかってるわよ。でも、あなたそうホイホイいまの姿に戻るわけにはいかないのよ? 今のうちに確認できることがあったら、確認しておかないと」
科学者らしいといえばらしい考えだ。
言いたいことはわかるが、安室のような気配に鋭い人間相手にこっそり近寄るとか、出来るのだろうか。だいたい、もし匂いがしたら、バレてしまうのではないか。
「その時はその時よ。ここで江戸川くんが体調を崩して寝てるってことにしましょう。そのせいだってごまかすの。起きたら連れて帰って欲しいって言えば、ここに呼ぶ口実としても丁度いいんじゃない」
「何が丁度いいんだよ」
しかし、それは新一も知りたいことだ。
いつコナンに戻るかわからない、というのが不安ではあるが、こんなチャンスは二度とない。それに、相棒がこんな無謀な案を自ら発案することも滅多にない。
新一はニヤリと笑った。
「──よし、博士に話をしよう」
阿笠は渋ったが、最終的には了承してくれた。
阿笠家のリビングは広い。匂いがわかる範囲で隠れるといっても難しいので、博士のところに手伝いに来ている大学院生という設定で、変装してお茶を出すことにした。
有希子に習った変装をパパッと、しかし念入りにして、いかにも冴えない印象の男子大学院生になる。
新一が頭につけた薄茶けた色のカツラを引っ張って強度を確認して、灰原は言う。
「無理は厳禁。戻る気配がしたら即座に撤退よ」
「わーってるって。それより博士、安室さん連れて来れるかな? ……お隣を見張ってんだろ?」
「来れるんじゃない。ここは、あの人にとっても興味がある場所でしょうし」
「主にはお前だろ。お前こそ、しっかり隠れてろよ」
「わかってるわよ」
安室は、工藤家に来た時に監視カメラを難なく見つけている。灰原には、阿笠が身につけた盗聴器で様子を聞いてもらうことにして、研究室に下がらせた。
しばらくして、玄関から話し声が聞こえてきた。
「──すまんな。余計なお世話かとは思ったんじゃが……」
阿笠は無事安室を家に連れ込むことに成功したようだ。
「いえ、休憩していただけなので。でも、家の前にずっと車が停まっていたら気味が悪いですよね……。すみません、配慮が足らずに」
なんだか随分久しぶりな気がする、安室の声だ。
そっと振り返り、姿を確認する。
(──安室さんだ)
しばらく組織の任務にでもついていたのだろうが、パッと見た範囲では、大きな怪我はないようだ。
(いや。大怪我したって隠して平気な顔でバイトするけどな、この人)
視線を感じたのか、安室がリビングの隅にいる新一を見る。阿笠がさりげなく言った。
「ああ、たまに実験の手伝いに来てくれとる大学院生じゃ」
ぺこりと頭を下げると、安室も軽く頭を下げる。
「お茶を頼めるかの」
うなずいて、キッチンで緑茶をいれる。
いまのところ大丈夫そうだが、問題はこれからだ。
ここで万が一、匂いがしたら、安室だって気づくだろう。
やっぱり無謀な気がするぞ、と思いながら、湯飲みに入れたお茶を運ぶ。
こぼさないよう注意している素振りでそろそろと近づいて──新一は、あれ、と首を傾げた。
(──しない)
そばにいって、安室と阿笠の前に湯飲みを置いても、全然、全く、匂いはしなかった。
安室も、こちらを何者かと思ってはいるようだったが、匂いを感じている様子はない。
そのことに、自分でも意外なほど動揺する。
ボロが出る前にと、そのままそそくさと撤退して、まっすぐ灰原の研究室に向かった。
「どうだった?」
「……全然、しなかった」
「全然、まったく?」
「おう」
灰原は腕を組んで首を傾げた。
「……となると、少なくともあなたのその体では、あの人の匂いは感じないって、ことみたいね」
「子どもだから感じる匂い、ってことか?」
「検討した案のひとつにあったけど、何か薬物を投与されてあんな状態になっていたのが、一度こうして元の姿に戻ることで、無かったことになったって可能性もあるわ」
「……となると、今度はコナンに戻って確認してみねーとだな」
阿笠が身につけている盗聴器から、会話が聞こえてきた。
『ところで、コナンくんの体調は……?』
『もうそろそろ、起きると思うんじゃが。最近少し寝不足気味だったようでな。少々強引な手をつかって寝かしつけたんじゃ』
『……寝不足、ですか』
『──そう言えば安室くんも、少し顔色が悪いようじゃな。すまんな、あそこで休憩していたなら、邪魔をしてしまった』
『いえ。……寝つきが悪いのは僕も同じでして。……阿笠博士は、コナンくんから「匂い」の件で相談を受けておいでですよね。……それもあって、僕を呼ばれたのでは?』
少し低くひそめられた安室の声に、阿笠はため息でこたえる。
『……まあ、この前のあの子に対するマーキングまがいの行動については、一言言っておかねばならんと思っておったがの』
『あれが、一番手っ取り早いかと思いまして。──ひとつうかがいたいのですが、あの子がバース性未確定というのは、事実ですか』
『確かじゃ。検査結果を出してもいい』
『──そうですか……』
『……安室くんは、何か思うところがあるのかな』
しばらく、沈黙が落ちる。
『何を……というか、その、これは言い訳でもなく……そして、失礼な発言になりますが』
らしくない、迷うような声。小さく息を吐いた後、安室はつぶやく。
『あなたもα性だと、彼から聞きました。──それを聞いて、面白くないと、思いました。フェロモンを付けたのは、こちらのバース性を察して欲しいというのが勿論ありましたが……』
『……なるほど』
新一と灰原は顔を見合わせる。
『つまり、安室くんはあの子をΩ性だと思っている、と』
『僕がαなのは、自分でよくわかっていますから』
『そうであれば、話は早いんじゃがのう……あの子も今日は、半ば覚悟して検査を受けに来たようだが……検査結果は変わらずじゃ』
『……そうですか』
『実のところ、君が仕事で不在の間に、あの子は眠れなくなったり、食欲が落ちたりと散々だった。いや、まあ、食べられはするから今のところ健康に大きな影響が出ているわけではないんじゃが』
『こちらも、同じです』
安室は短く答える。しばらくの沈黙の後、大きなため息が聞こえた。
そして、低く、硬い声が機械から零れ落ちる。
『──阿笠さん。ここに、本当にコナンくんはいるんですか』
『え?』
『毛利先生も、朝からあなたのところへ行ったと、そう仰った。あなたも、ここにいると言う。でも、それは本当ですか』
探るのとも、問いつめるのとも違う、思いつめたような余裕の無い声。
突然の変調に、新一はまた灰原と顔を見合わせた。盗聴器の向こうで阿笠も困惑したように言う。
『勿論。君も玄関であの子の靴を見たじゃろう。一体どうしたんじゃ……?』
『──わからないんです。ずっと、「ここ」にあの子がいないのは、わかっていた。でも、今日はそうじゃない。「ここ」だけじゃなく、あの子は、どこにもいない』
『安室くん、すまんが話が見えん』
その時、ドクン、と心臓が鳴った。
(まずい!)
あまりにも身に覚えがある、体が縮むサインだ。
「灰原、まずい。コナンに戻る」
灰原の反応はさすがに速かった。
「まだ歩ける? 外の部屋に移った方がいいわ」
灰原の研究室で倒れては、いまの状況では気軽に阿笠も呼べない。
元の姿に戻るのに借りた客間になんとか転がり込む。
「悪い、灰原。お前は研究室に戻って隠れてろ」
「わかった。何かあったらすぐ連絡すること。スマホは持ってるわね?」
「おう」
いつ何度経験しても、嫌なものだ。
だらだらと流れる汗を拭うのも億劫になる。
部屋まで送ってくれた灰原を帰して、扉を閉め、シャツだけになって布団に潜る。
戻る時の声を聞かれてはまずい。
グッと唇を噛んで、新一は襲ってくる激痛に備えた。
──頭がくらくらと揺れる。
目を開けて、薄暗い部屋の中、視界に入った自分の手が小さく戻っているのを確認して、息を吐いた。
起き上がってダボダボになったシャツを脱いで、着てきたコナンの服を引っ張り出す。
その時、扉がノックされた。
「……コナンくん。起きとるか。入っても大丈夫かの」
コナンは眉をひそめた。
(おかしい)
阿笠が一対一の状況で自分を「コナン」と呼ぶことは、ない。
まだ気だるい体を無理矢理動かして、服を着る。新一のシャツは汗を拭うのに使って、ベッドの下に押し込んだ。
一呼吸置いて、答える。
「──なあに?」
扉が開いた。
部屋に一番に入ってきたのは、阿笠ではなく安室だった。
「コナンくん」
安室はコナンを見つけると、部屋の灯りをつけもせずまっすぐにベッドまでやって来る。
ふわっと、いい匂いがした。
コナンはハッと目を見開く。
(なんで)
さっき、全然感じられなかった安室の匂いが、いまはハッキリと感じられる。
どういうことだ、と動揺して、無意識に扉のところにいる阿笠に目を向ける。
阿笠に声をかける前に、安室が視線を遮るようにベッドに腰かけた。
近づいた分、いい香りが強くなる。
何故だろう。さっきまでちっとも、感じられなかったのに。すっかり無かったことになったかと思ったくらいだったのに、そう思ったことが信じられなかった。
(──この、匂いが)
欲しかったのだ、と強く思って、何故そんなことを思うのかわからなくて、手を伸ばすことも出来ずにぎゅっと拳を握る。
(どうして、またこんな。なんで)
わからない。くらくらと頭が揺れる。
「──コナンくん。安室さんは、君を迎えに来てくれたんじゃ。もし大丈夫なようなら、家まで送って行ってもらいなさい」
阿笠の声にハッと我に返る。
コナンは深呼吸して、少し体をずらして阿笠に顔を見せると、答えた。
「わかった。ありがと、博士」
心配そうに安室とコナンを見る阿笠に、大丈夫だと小さくうなずいて見せると、阿笠はうなずき返して、部屋を出て行った。
──暗い部屋の中に、安室と二人残される。
月明りしかない薄暗い部屋の中では、安室の表情はよくわからない。
「……安室さん?」
入ってきた時に名前を呼んで以降、無言のままの安室に声をかけると、安室の手がそっと、頬に触れた。
その手がゆっくりと上に移動して、さらり、さらりと、何度も確かめるように、頭を撫でる。
その心地良さに無意識に目を閉じた時、ぽつりと小さな声が降ってきた。
「……どこに行ってたの」
頼りない、声だった。
目を開け、まじまじと安室を見上げる。
薄闇の中、目を凝らして見上げた安室の顔は、そんなはずないのに、泣きそうに見えた。
どこかへ行っていたのは自分の方だろうに、まるでコナンが消えたような言い方をする。
小さく答える。
「それは、安室さんでしょ。……しばらくいるって言ったのに」
「ごめん」
「お仕事……? 怪我、してないよね?」
「うん」
「ほんとに? ねえ、ちゃんと眠れてた?」
「ううん」
さっきから安室は、短い言葉しか発しない。
どうすればいいのか。どうしたというのか。
さっきも、阿笠と話していた時に少し様子がおかしかったが、何があったのだろう。
(……いや、そうか、考えてみれば)
安室がコナンと同じだったなら、彼は、一度元の姿に戻って「リセット」したコナンと違って、さっきまでずっと、不安な思いを抱えていたはずだ。
「お守り」だって、コナンがもらったブランケットより効果が薄かったに違いない。あの上着は、ほんの数時間、身につけていただけだったのだ。
匂いがどうとか、そういうことではなく、この人を抱きしめてあげないといけないような気がして、そっと首に腕を回した。
この小さな体だと、抱き着くという方が近いのが、なんだか悔しい。
耳元に口を寄せて、ささやく。
「……安室さん、家まで送って行ってくれるんでしょ。帰ろ」
あえて匂いについては何も言わずに、そう言う。
「──うん」
おずおずと、背中に手が回されて、しばらくして、ぎゅっとその腕に力が込められた。
額を小さな肩に押し付けて、安室は大きく息を吐く。
「──ねえ、コナンくん」
「なに?」
「君は……何者なんだ」
それに、いつものようには返せなくて、コナンはただ黙って腕に力を込めた。