運命は信じない 4




 しばらくただ黙って身を寄せ合って、数分か数十分か。安室はそっと顔を上げた。

「……帰ろうか」

 落ち着いて色々気まずくなったのか、笑うのに失敗したような表情でそう言う安室に、ただうなずく。自分も、なんだからしくないことをした自覚はあった。
 部屋を出ると、阿笠が心配そうに待っていた。帰ると告げると、うなずく。

「安室くんと話をしてあげなさい」

 阿笠はこっそりそう耳打ちしてくる。
 阿笠と話していた時から少し様子がおかしかったから、阿笠も気になっているのだろう。
 そう言えば、途中で話を聞けなくなってしまったが、あの後安室は何を言っていたのだろうか。
 うなずいて、「明日また来る」と告げて安室と一緒に家を出た。
 灰原と阿笠には、改めて今日のことをきちんと相談しなければならない。でもとりあえず今日は、こちらが優先だ。
 手をつないで門の外に出て、さてどうするかと考える。真っすぐ毛利家に戻ってもいいが、帰り道だけで話が終わるだろうか。

「安室さん、明日からはまたポアロにいるの?」
「……復帰するのは、二、三日先かな」

 ということは、仕事が終わったわけではなく、今日はちょっと抜けてきただけらしい。
 コナンは顔をしかめた。

「何でそんな」

 その時、背後から車のライトが照射される。
 危ない、避けなければと振り返って、コナンは思わず「げっ」と言ってしまった。
 車はお隣──工藤家に戻ってきた、赤いスバルだった。
 沖矢は門の前で車を停めて、運転席から出てくる。

「おや、こんばんは。コナンくんも、阿笠博士の家にいたんですか」
「こ、こんばんは、昴さん」

 自分的には本日二度目の遭遇だが、コナンの姿では、今日初めてだ。
 隣の安室の気配が、わかりやすく尖る。

「……そちらも。どうも、こんばんは」

 沖矢が、安室に声をかける。安室は目をすがめて、短く「どうも」と答えた。
 何故、このタイミングで車を取って戻って来るのか。まだ安室の車があるのは、見ればわかるだろうに。
 面倒臭い気配を察知して、コナンは内心ため息をつく。

(安室さんが車降りたから、いまのうちって思ったとか? どうでもいいけどタイミング悪いな)

 安室はどこか険しい表情で沖矢を見つめている。
 ──そういえば、安室は沖矢に用があったのではなかろうか。いや、用があるというよりは、何かボロを出すのを待って見張っていたのだろうが。

(わざわざ、仕事抜けてきて)

 若干面白くない気分で、つないだ手を引く。

「安室さんと昴さん、お話があるの? ならボク、先帰ろうか?」
「「何でそうなる」んですか」

 即座に両方から抗議の声が上がる。
 呆気にとられた様子の安室と、どこか愉快げな沖矢に見つめられ、コナンは口をとがらせた。

「いや……うん、話が無いなら、いいんだけど」
「無いよ。全くない。帰ろう、コナンくん」

 安室がぎゅっと握った手に力を入れる。

「あ、うん」
「あ、コナンくん。ちょっと待って下さい」

 沖矢が何かに気づいた様子でこちらに近づく。

「──襟が曲がってますよ」

 そう言って、コナンの前にしゃがんで、手を伸ばす。
 至近距離に寄った沖矢の顔を見て、ふと、思った。

(この人には、オレの匂いわかるかな……?)

 次の瞬間、コナンはすごい勢いで安室に抱き上げられていた。

「わっ、ちょっ」
「失礼します」

 安室は素っ気なく沖矢に言って、そのまま歩き出した。
 コナンは慌てて沖矢を振り返る。

「あ、ありがと! ──あと、お礼言っといてって」

 誰が、とは言わなかったが、沖矢は理解したようだった。

「また今度ゆっくり。──と、お伝え下さい」

 頷いたところで、安室の車に乗せられる。
 コナンがシートベルトを付けたのを確認した瞬間に、車は勢いよく発進した。
 轢き殺す気か、と一瞬ヒヤリとしたが、振り返った視線の先で、沖矢がのんびりと手を振っているのが見えて、ホッとする。
 座り直して、ついでに襟を直して、運転席の安室に目をやる。

「……どこ向かってるの?」

 車は、毛利探偵事務所とは違う方向へ走っている。安室は少し間を置いて答えた。

「少しだけ、話がしたくて。……と言っても、もう遅いね」
「家には、電話しとけば大丈夫だけど。……ボクお腹空いちゃったな」

 安室はようやく力を抜いて、笑った。

「じゃあ、どこかにごはん食べに行こうか」
「なら、蘭姉ちゃんに電話する」

 スマホを取り出して、蘭に電話をかける。

「僕から話をしようか?」

 安室が横から言うのに返事をする前に、蘭が出た。

『コナンくん? いまどこにいるの?』
「蘭姉ちゃん。ごめんなさい、博士の家で寝ちゃってこんな時間になっちゃった……」

 蘭はホッとしたようだった。

『そうなの? ……よく眠れた?』
「うん、ぐっすり! えっと、それでね、こんな時間だし、ごはん食べてけばって……」

 安室がわずかに顔をしかめたのが視界の端に映ったが、無視する。
 電話の向こうで、蘭は少し間を置いた後でうなずいた。

『そう。あんまり阿笠博士に迷惑かけちゃ駄目よ?』
「はあい」
『帰りは? 私、迎えに行こうか』
「えっ、と」

 ──しまった。
 正直に安室と食事に行くと言わなかったのは、今日の蘭とのやりとりがあったからだ。余計な心配をさせたくなかっただけだったのだが──裏目に出てしまった。迎えに来られては嘘がバレてしまうし、しかし、今更正直に言うわけにもいかない。何故嘘をついたのかと余計変に疑われてしまうだけだ。博士に送ってもらう、と言って安室の車で帰るのもまずい。
 咄嗟に言う。

「あ、えーっと、博士、もう泊まっていけばって。いい?」
『お泊り? ご迷惑じゃない?』

 蘭の声が心配そうなトーンになる。
 ぐるぐると頭を回す。

「えっと。その方がいいみたい。──あのね、蘭姉ちゃん。博士が、よくわかんないけど、心配するなって伝えてって言ってるんだけど」

 曖昧にそう伝えると、蘭が一瞬息をのんだ気配がした。その後、安堵の吐息とともに、返事が来る。

『──わかった』

 咄嗟の出まかせだったが、これで蘭には、新一が早速コナンの件を阿笠に相談したのだと伝わるだろう。泊まりも、検査でもするのだと思ってくれたはずだ。

『博士に、よろしくお願いしますって、伝えておいてくれるかな』
「うん、わかった」

 じゃあね、と電話を切る。
 後ろめたいことなど一つもないのに、嘘を重ねると、何だか本当に後ろめたいことがあるような微妙な気分になってしまう。
 コナンはため息をついて、安室を見上げた。

「──ってわけだから、ご飯終わったら博士の家に送ってくれる?」

 安室は何か言いたげな視線を寄越した後、それには触れずに短く言う。

「……阿笠さんちに泊まるの?」
「うん。よく泊めてもらってるしね」

 安室は少し間を置いて、更にたずねてくる。

「何か、毛利さんのところに帰れない理由でも?」
「そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ、阿笠さんのところに行かないといけない理由が?」
「それも別に、ないけど……」

 最初に安室の存在を隠したからこんなことになったわけだが。なんと説明すればいいだろう。
 言葉に詰まるコナンをじっと見て、安室はしばらくして言った。

「──なら、僕んちでもいいわけだ」
「は?」

 ぽかん、とする。

「安室さんち?」
「そう。うちに泊まるんでも、いいだろ? 明日は日曜日だし」

 正気か。まだ仕事は終わっていない、と言っていなかっただろうか。だいたい、簡単に部屋を教えたりしていいのだろうか。潜入捜査官だろう。
 安室の横顔を見上げ、探りつつたずねる。

「……いいの、それ」
「構わないから招待してるんだよ」

 これは、どうせ仮住まいだから探っても何も出て来ない、ということか。
 しかし、仮とはいえ、この男の住まいには、ものすごく興味がある。それに、そっちの方が落ち着いて話も出来そうだ。
 考えたのはほんの少しの間だ。コナンはうなずいた。

「ならボク、安室さんの作ったご飯が食べたいな」

 昼にカツ丼を食べて以降、何も口にしていないのでお腹が空いてきた。
 コナンの言葉に、安室はふっと笑った。

「いいよ、じゃあスーパーに寄って行こう」




 スーパーで買い物をして、到着したのは、工藤家からもそう離れていない、ごくごく普通の新築アパートだった。

「ここに住んでるの?」
「そうだよ」

 あまりにも普通だ。意外といえば意外。しかし、独身男性の一人暮らしとしては適当で、つまり、目立つことは避けたい職業のこの男には、これが適当なのかもしれない。
 ──しかし。
 メゾンモクバ、というプレートを見上げ、コナンは顔をしかめた。

(ここ、前に昴さんが住んでたアパートじゃ……)

 メゾンモクバは沖矢が最初に潜伏していて、火事で焼失した、木馬荘の後に建ったアパートのはずだ。
 知っていてここなのか、偶然なのか。どちらもあり得るが、後者だとしたらよくよく縁のある二人だ。
 どちらにせよ、要らぬことは指摘しないことにして、コナンは招かれるまま安室の部屋に入った。
 ひどくこざっぱりとした、言ってしまえば殺風景な部屋だった。
 ベッドが置かれた和室の他は、ごく普通の水回り設備。──以上。
 でも、キッチンにはやたらと調理器具が充実していて、そのことになんとなくホッとする。
 安室は買い物袋を置いて、きょろきょろと部屋を見回すコナンに言う。

「ここを探っても何も出てこないけど、君から目を離すのも心配だから、ここにいて。料理してる間に、今日までに何かわかったことがあったら、教えてくれないか」

 コナンも本人の目の前で家捜しするほど図々しくはない。
 言われた通りダイニングに置かれた椅子に座って、料理する安室を見守ることにした。
 頬杖をついて、考えながら口を開く。

「わかったことって言っても……残念ながら、特には無いかな。もう一度検査したけど、未確定ってことに変わりはなかったし」

 新一に戻ってわかったことはあるが、話せるわけがない。園子の話は、まだあやふやな所も多い。コナンとして話を聞いてからの方がいいだろう。

「色々調べて、可能性があるものは検討したけど……例えば、ボクたちが何か変な薬を飲まされたんじゃないか、とか」
「それは僕も検討したけど。僕たち二人ともがってなると、原因は限られるな。ポアロの飲み物か料理に、何か仕込まれたか──」
「あるいは、安室さんが作ったものに何か入ってたか?」

 安室の手が止まる。
 視線を交わして、まな板の上の野菜を鍋に入れると、安室は苦笑した。

「まあ、それが一番あり得るのはわかるけど、そんなことを考えながら、よく手料理が食べたいなんて言えたね?」
「それは違うだろうなって、思ったからだよ。影響が出てるのボクだけじゃないし、安室さんがわざわざ、自分の不利になるようなことはしないんじゃない?」
「どうかな。身を削っても、得られる利益があるのかもしれないよ?」
「どんな? いい匂いがするってだけじゃん」
「だけ、というわけでもないだろう」

 それは、寝不足や食欲不振のことか。

「──利益じゃなくて不利益だと思うけど」
「違いない」

 ふっと笑った安室の手元で鍋がコトコトと音を立てる。

「……お腹空いた」

 漂ってくるいい匂いに思わず言うと、安室は苦笑した。

「もうちょっと待って。──君は元気だな。僕は最近、あまり食欲がないんだよね」
「それ、いまも?」

 たずねたタイミングで、安室の腹がぐううっと鳴った。
 こぎれいな顔に似合わない豪快な音に、耐え切れずふきだす。
 安室は気まずげに顔をしかめた。

「──ありがたいことに、食欲は出てきたみたいだ」
「ボクも、食欲戻ったのは今日だよ」

 鍋の火を弱火にして、安室はコナンに手を伸ばした。

「……またクマが出来てるね」

 目元を軽く指で擦られ、目を細める。

「安室さんも似たようなもんじゃん。……仕事大丈夫だったの?」
「大丈夫だよ」

 さっきは全然大丈夫そうではなかったのに、さらりとそう言う。
 安室は椅子を引いて腰かけて、さて、とコナンを見つめた。

「ところで、どうしてさっき、蘭さんに僕と一緒だって言わずに嘘をついた? これでも、毛利家の信頼はそこそこ得ているつもりなんだけどな」

 追及されなかったから流してもらえるかと思ったが、やはりそうはいかないようだ。しかしこれは、今後のことを考えると話をしておいた方がいい案件ではある。
 コナンはため息をついて、蘭が体調不良を心配していたこと、ブランケットを手放さなかったことから色々と心配していることをざっくりと話した。

「蘭姉ちゃん、あのブランケットが安室さんのだって知ってたみたいで。ボクがそれずっと持ってたから、心配して……ボクと安室さんがどうとか、そういう話じゃなくって……でも、色々考えちゃったみたいで。もしかして早いうちからボクのバース性が決まっちゃったんじゃないかってことまで心配して、博士に相談しようとしてたんだ」

 安室は目を細め、考えるように口元に指をあてる。それを見ながら続ける。

「だから咄嗟に……安室さんのこと疑ってるとか、そういうんじゃないと思うけど、下手に心配させたくないなあって、思って……」
「──なるほどね」

 安室は言って、ニコリと胡散臭い笑みを浮かべた。

「それで、よりによって僕と一晩過ごすことになってしまったと。──後ろめたくて、僕も休み明け、蘭さんと毛利先生の顔が真っ直ぐ見れないな」
「言い方」

 わざと嫌な言い方をしやがって、と机の下で足を蹴ると、安室は笑って立ち上がった。
 鍋のふたを開けて中を確認して、冷凍庫からごはんを取り出してレンジにかけ、別の鍋で味噌汁を作り始める。
 むすっと頬をふくらませ、たずねる。

「安室さんの方は? 何か情報ないの?」
「──こっちもこれと言ったものは。一応薬物検査はしたけどシロ。君が早い段階でバース性が確定したっていうのが一番わかりやすいんだけど……やっぱり違うみたいだし、それに、他の人にわからないのは何故かって謎は残るからね」
「うーん……仮に、仮にだよ? ボクが何かしらの匂い……フェロモンを発しているとして……すっごく弱いから、特別鼻のいい人にしかわからないっていうのはどうかな」
「鼻、ねえ……特別嗅覚がいい自覚はないけど」
「じゃあ何か他に匂いがわかる人の資格、っていうか条件があるのかも。──nを増やしてみるべきなのかもしれない」

 言ってから、小学一年生らしくない発言になったと反省して、言い直す。

「ボクたちの身近にいるαは博士くらいだけど、博士にわからなかったからって、他のαや、他のΩにわからないとは決めつけられないよね。だから──」

 そこまで言って顔を上げ、視線の先の冷たい顔に、思わずヒッと身をすくめる。
 安室は味噌を溶きながら、ちらりとコナンを見た。

「──だから、他のαに、匂いを嗅いでもらおうって? ……あてでもあるの?」
「……なんで怒ってるの。別にボク、変なこと言ってなくない?」

 急に不機嫌になった理由がわからず、ムッとして返すと、安室はため息をついた。

「──残念ながら、身近なところにαの知り合いはいないな。……君のそばには、誰かいるの」

 明らかにαっぽい蘭の名前が上がらないところを見ると、その程度のことは調査済み、ということだろう。

「えーっと、妃先生とか」
「ああ……それと?」

 αかΩ。父親。母親。赤井……は口に出せないとして。

「園子姉ちゃんと、京極さんと……平次兄ちゃん?」

 ハッキリ聞いたわけではないが、服部はαな気がする。いや、蘭の例もあるから確かではないが。他には誰がいるだろう。
 カチリ、とコンロの火が止まる。計ったかのように、電子レンジがピーッと温め終了の音を立てた。
 狭いキッチンに、一瞬静寂が訪れる。
 安室がゆっくりと口を開いた。

「それと──『新一兄ちゃん』?」

 落とされた名前に、ビクッとする。安室は無表情にこちらを見た。

「……そ、だね……新一兄ちゃんも……αだね」
「そう」

 安室は短く言って、小さくため息をついた。

「──君の周りには、随分とαが多いな」
「ボクの周りっていうか、蘭姉ちゃんの周り、じゃないかなぁ……」

 安室は鍋の肉じゃがを器に盛りつけると、テーブルに置く。
 きゅるる、と状況を無視してコナンのお腹が鳴った。

「あ……はは」

 気まずくてお腹を押さえると、安室は気が抜けたような顔をした。

「──とりあえず、ご飯にしようか」



 簡単なもので悪いけど、と言われたが、安室の料理はいつも通り美味しかった。
 二人とも、お腹が空いている。話もそこそこに、先ほどまでの雰囲気も忘れて夢中で食べた。
 ご飯の甘味や、肉じゃがの甘じょっぱさ、味噌汁の出汁の風味が体にしみる。
 満足にご飯が食べられるのは、やはり素晴らしい。

「……美味しい」

 最後の一口を噛みしめてため息をつくと、それはどうもありがとう、と安室も微笑んだ。

「おかわりあるよ」
「もう大丈夫。ごちそうさま」
「お粗末様でした」

 せめて洗い物だけでも手伝おうと申し出ると、先にお風呂に入って、と勧められた。

「もう遅いし、どうやら僕たちには睡眠が必要みたいだからね」

 話をすると言っても、お互い調査に進捗無しでは、先ほどのように腹の探り合いになるだけだ。早々に寝て体調を整える方が建設的だろう。提案にうなずき、先に風呂に入る。
 安室宅の風呂場にあったのは、本当に毛利家と同じシャンプーだった。でもその隣には、何故かまだ未使用の別のシャンプーも置かれている。まだ大分残ってるみたいなのに──と首を傾げ、思い出した。
 最後に会った時に、安室は別のシャンプーを試してみると、言っていた。

(……あれ、本気だったんだ)

 だからと言って別にどうということではないが、些細な、試す意味もあまりない口約束を、安室が守ろうとしていたことに──嘘がなかったことに、何となく落ち着かない気分になる。

(いや、嘘しかつかねーわけじゃないだろ。オレも、安室さんも)

 いつもと同じシャンプーでガシガシと頭を洗う。
 いつもと同じ、なのに、安室と同じなのだなと思うと、ますます変な気持ちがした。
 そうして何となく微妙な気分で風呂からあがり、交代で、片づけを終えた安室が風呂に向かう。

「──大人しく待っているように」
「はーい」

 にっこり笑顔で釘をさされ、わざとらしく良い返事を返す。そのやりとりに何故かホッとして、さて言われたからには期待にこたえなければ、と一通り部屋の引き戸や扉を開けてみたが、見事に何もない。狭い部屋の探索は、一瞬で終了してしまった。
 予想はしていたが面白くないとむくれ、テレビもなにも無い部屋で安室を待つ間、スマホをチェックする。
 新一のスマホには、蘭から礼のメールが入っていた。コナンのスマホには、阿笠から心配のメール。それぞれに返信をして、やることが無くなった途端、急に気が抜けてしまった。
 元の体に戻って、蘭と話をして、沖矢と遭遇して、コナンに逆戻りして、安室の部屋に来て──何だかんだ、今日は色々なことがあった。
 ふわ、とあくびをして、部屋にあるほとんど唯一の家具であるベッドに寄りかかる。
 ベッドからは、安室のいい匂いがした。

(……やばい、眠い)

 一度リセットした、とはいえ寝不足だった元の体まで健康体に戻るわけではない。

(まだ二、三日仕事だって言ってたしな……また何か借りられないかな……蘭が見たことないようなやつ)

 それに、安室もあの調子だと「お守り」がいるのではないか。
 そう考えて、コナンはのろのろと布団から体を離し、椅子にかけてあった安室の上着を羽織った。
 少々暑いが、安心感の方が上回る。

(これで一晩寝れば、お守りも完成するだろ)

 いきなり泊まりに来てベッドを借りるほど図々しくもないので、座布団を敷いて、布団の体裁を整える。
 ころりとその上に転がって丸くなると、動く気になれなくなった。

(いやいや。原因、何なのか考えねーと。明日灰原と博士に相談しなきゃなんねーし。……しっかし元に戻った時には何にも感じなかったのに、こっちの体になったら……ってのはどういう理屈なんだ?)

 新一に戻っていた時のすっきりした感覚。安室の匂いを感じないとわかった時の、落胆に似た気持ち。
 小さくなって、安室と顔を合わせた瞬間に戻ってきた、あの匂い。
 工藤新一は、変わらずにαだった。この体が、α性の素質を持った体であることは間違いない。でも、安室もαで。
 何も状況は変わっていない。──いや、元の姿に戻ったことでわかったことだって山ほどある。

(──さっきオレが言った仮説……匂いが微弱過ぎるっていうのも、可能性としてある。ここは、他のαの人に確認するしかないな。出来ればΩの人にも。あとは園子に話を聞いて……)

 考えなければ、と思うのに頭はどんどんぼんやりと、鈍くなっていく。コナンは上着に包まり直した。

(ほんとにこれ、安心する匂いなんだよな……)

 眠い。安室はまだ戻ってこない。
 睡魔に抗うのを諦める。
 ──寝てしまえ。スマホのセキュリティは灰原に強化してもらったし、用があるなら起こすだろう。
 もう一度あくびをして、コナンは目を閉じた。




 ふわふわと、なんだか幸せな夢を見ていた気がする。
 久しぶりの深い眠りから覚醒して、コナンはぼんやりと目を開けた。
 部屋の中は明るい。まぶしさに目を瞬かせながら起き上がる。

(──あれ?)

 目に入る景色に違和感を覚えて見回すと、そこは間違いなく、「阿笠の家」だった。
 昨日薬を飲んだ、客間。着ていたはずの安室の上着も、ない。
 慌ててベッドを抜け出して居間に向かうと、阿笠がいた。

「博士!」
「おお、新一。起きたか」
「オレ、なんでここにいるんだ? 昨日安室さんち行ったの夢じゃねーよな?」
「安室くんが今朝早く、君を連れてきたんじゃ。仕事に戻らないといけないから、とな」
「あー……」

 嘘だろ、と頭を抱える。話すことはもうほとんどなかったから寝てしまったのは仕方ないとして、ここまで世話になるつもりは微塵もなかったのだ。何故叩き起こしてくれなかったのか。

「あんまりぐっすりだったから、起こせなかったんですって」

 灰原がコーヒーカップを片手にやってくる。

「そうじゃ、安室くんから新一に、渡しておいてくれと、これを預かったぞ」

 紙袋を受け取って中を見ると、新品、ではないがそこそこ新しいタオルケットが入っていた。
 ほんのり安室の匂いがする。「お守り」に、ということだろう。

「──それで? 何かあの人と有意義な話は出来たの?」

 朝食の準備をしにいった阿笠を目で見送り、灰原はからかうような口調で言う。

「いや、ほとんど……安室さん、薬物検査受けたけど特に怪しい結果は出なかったって。あ、それより、灰原。この体に戻ったらまた、あの匂い感じるようになったんだけど、どうなってるんだ?」

 たずねると、灰原はわずかに眉をひそめてコーヒーで口を湿らせた。

「そう、やっぱり」
「やっぱりって、お前、何か仮説があったのか?」
「いいえ、残念ながら。ただ、博士に聞いた話と、今朝のあの人の様子を垣間見たらそうじゃないかって思うわよ」

 首を傾げたところに、阿笠がトーストとコーヒーの簡単な朝食を持ってきてくれた。
 礼を言って受け取り、目玉焼きの乗ったトーストにかぶりつく。

「そういや博士、昨日、安室さんとどんな話したんだ? なんか安室さんの様子がおかしくなったとこまでは聞いてたんだけどさ」
「ああ……」

 阿笠は眉間にしわを寄せ、顎を撫でながら言う。

「……どうも安室くんは、新一が元の姿に戻っている間、新一がいなくなった、という感覚に襲われたようでな」

 言葉の意味がわからず、きょとんとする。

「……オレが? いなくなった? なんで?」
「正確に言えば、『江戸川コナン』がいなくなった感覚、じゃないかしら。あなたが苦しみだしてからまた、様子が変わったみたいだし」

 灰原の視線を受けた阿笠がうなずく。

「昨日、恐らく解毒剤の効果が切れてその体に戻ったくらいに、急に彼が『この家にコナンくんが居ますよね』と言い出してなぁ」
「……あの人、オレが本当にここにいるのかって疑ってなかったか?」

 ますます意味がわからない、と顔をしかめると、灰原は肩をすくめた。

「言っていたわね」
「それなのに何で急に逆のこと言い出したんだ? おかしいだろ」
「そう? おかしなことは言ってないんじゃない。だって、あなたが工藤新一に戻っている間、江戸川コナンという存在が消えていたのは事実でしょう? そして、あなたがその姿に戻って──工藤新一は消えて、江戸川コナンが再び、現れた」

 灰原の鋭い目が、真っ直ぐにコナンを見つめる。 

「あの人が言っているのはそういうことじゃないかしら。どういう理屈かはわからないけど、あの人は、あなたの体の変化を正確に感じ取っていたみたいね」

 灰原の言葉を咀嚼し、昨日の安室の様子を思い出す。
 どこに行ってたの、というあの言葉の意味を、ようやく理解して──首を傾げる。

「……つまり、安室さんは『江戸川コナン』に反応してるってことか? このわけのわからない反応は、コナンだから、出てるって言うのか?」
「実際、工藤くんの時には、匂いはわからなかったんでしょう? あなたも、あの人も」

 コナンは眉を寄せる。
 確かに、そうだ。でも。

「──何でだ? どうしてそんな違いが出るんだよ。新一とコナンは同じだろ」
「本質的には、そうね。でも全く同じではないでしょう。年齢が違うし、体の大きさが違う」
「中身は、変わらないだろ」
「でも、今回のあなたたちの不具合は体に、出ているんじゃないの?」

 体。確かにそうだ。今回のこれは、嗅覚から来たものだ。
 不安になるのも、落ち着かないのも、臭いが無いからで、つまり気持ちの問題は、体の問題に付随するものでしかない。
 ──そう、ただそれだけのことだ。
 昨日の、泣きそうに見えた安室の顔が脳裏に浮かんで、コナンはふるりと首を振った。

「体の問題なのはわかってっけど。それで、新一とコナンの何が違うって? 年か、体の大きさ?」
「そうね。あの人の性的嗜好がなにかしらに反映されて、いまの姿にしか反応しないってこともあるかもしれないけど」

 しれっと安室をペドフィリア呼ばわりする灰原をにらむと、灰原は肩をすくめた。

「冗談はさておき。──可能性があるとしたら、あなたのいまのその体が、バース性未確定だってことが、何か影響しているのかもしれないわ」
「未確定っつっても、オレはαだろ」
「それは、将来の話でしょう。いまこの時点では、未確定だわ」

 コナンは安室が言っていたことを思い出す。

『小さなうちから、特定のαの影響を強く受けるのはどうかと思う。君の成長に、何らかの影響が出かねない』

「……バース性が誰かに変えられるなんてこと、あるのか?」

 コナンの問いに、灰原は首を振った。

「いいえ。普通はそんなこと、あり得ないわね。それがあり得るなら、Ω性がここまで希少種になるわけないじゃない」

 灰原の言う通りだ。Ω性が人為的に『作れる』なら、そうはならない。
 Ω性とα性の間に生まれてくる子供は、高確率でαになる。子どもに優秀なαが欲しい人間にとって、Ω性は喉から手が出るほど欲しいものだ。過去、そのために人身売買等の問題も起きている。現在はどの国でも、条約でそんなこと出来なくなっているが、それも建前だ。Ω性の人権は、未だ危うさをはらんでいる。
 もっとも、そのΩ性だって、αとΩの間に生まれることが一番多い。元々しっかりした家に生まれれば、そう悪いことにはならない。鈴木家の話から察せられるように、しっかりした家に生まれるほど、家に利用されることもまた多いわけなので、単純に悪いことにはならないと言えるものでもないが、まだ突然変異的に生まれたΩよりはマシだろう。──という、Ω性の抱える問題はとりあえず置いておくとして。
 問題は、バース性が未確定だということに、何の意味があるのかということだ。
 灰原はコーヒーを一口飲んで、続ける。

「外部からの働きかけでバース性を変えるなんて、普通ならあり得ないわ。人には持って生まれたものがあって、それはそう簡単に変わるものではない。ただ、バース性が定まっていない子どもに、何がどう影響するかは、完全にはわかっていない。ましてあなたは、薬のこともあって、かなりイレギュラーな状態だと言えるわ。何が影響するかはわからないし、そして、受けた影響が、バース性の確定した大人に逆に影響する可能性だって、ゼロとは言えない」
「……そんなこと言われてもよ」

 何を言えばいいかわからず、とりあえず止まっていた食事を再開する。
 その時、黙って話を聞いていた阿笠が口を開いた。

「なら、新一。いますぐフェロモン消臭スプレーを使った方がいいかもしれん」
「へ?」

 トーストを飲み込んで、首を傾げる。灰原が顔をしかめた。

「……もしかして、また? あの人江戸川くんにマーキングしていったの?」
「この間みてーにフェロモンついてるってこと?」

 阿笠は頷いて、言いづらそうにもごもごと言う。

「ああ……うちに来た時から、気にはなってたんじゃが……。うちに来て、部屋で寝かせるまで安室くんがずっと抱き上げたままじゃったし」

 阿笠はそこでため息をついた。

「ここは、まあ、わしの家だが、彼にとって『他のαの家』であることは確かだからの……気持ちはわからなくもなくて」
「博士。何を呑気なこと言ってるの」

 灰原の顔が険しくなる。
 コナンは二人を交互に見て、首を傾げた。

「──オレ、その辺ちょっとわかんねーんだけど。α性ってそんなだったっけ?」

 阿笠と灰原が、拍子抜けしたように目を丸くした。

「……そんな、とは?」
「いや、他のαに対する敵愾心っていうか、対抗心みたいなやつ……? 昨日安室さんも言ってたじゃん。博士がαだって聞いて気に入らないって思ったってさ。オレ、α性に目覚めた後も、他のαが気に食わないとか、そういうこと特に無かったからよ。普通、αってそういうもん? 灰原、お前どうだった?」

 問うと、灰原はぽかん、と目を丸くしていた。

「灰原?」

 反応がないので阿笠に目を向けると、阿笠はやれやれと言わんばかりにため息をつく。
 灰原はたっぷり黙った後に、はーっと大きく息を吐いた。

「……呆れた無防備さね。話にならないわ」
「は? どういうことだよ」
「どういうもこういうも無いわよ。ああ、もう、解説して教えてあげるのもしゃくにさわるわ! あの人、せいぜいこのポンコツに振り回されればいいのよ」
「何言ってんだよ灰原」

 首を傾げると、灰原は一喝した。

「もういいから、さっさとスプレーかけて帰りなさいってことよ!」



 園子には早めに話を聞くように、と厳命されて、消臭スプレーを吹きかけられて、阿笠邸を出た。
 また、何となくすっきりし過ぎたような気分だ。
 門を出て時計を見て、蘭に電話しておこうかなと思いながらスマホを取り出す。
 スマホにはメールが一通届いていた。
 開けてみると、それは予想外に安室からだった。
 二日後にはポアロに復帰すること、また、「気をつけるように」という、何に対してだか良くわからないメッセージ。
 連絡先を交換してはいたが、使う発想がなかったので、何とも奇妙な気分でメールを見つめる。
 無論、これまでに連絡を取ったことはある。あるが、事前に「連絡して」「連絡する」と告げて許可を得てからだった。

(いやまあ、事前に許可とかなくても、メールとか来るのは普通だよな。……連絡先交換してるんだし)

 そう考えながら、簡単に、阿笠家に運んでくれた礼を返す。
 そのメールが安室に届くかと思うと、何となく不思議な気分だった。
 昨日から、安室との距離感がよくわからなくなってきている。
 スマホをしまった時、近くで門が開く音がした。
 ──隣の家。工藤家の門だ。
 顔を上げると、沖矢が姿があった。

「こんにちは、コナンくん。姿が見えたので。──昨日は、喫茶店の彼と帰ったんじゃなかったんですか?」
「昴さん……」

 コナンは沖矢を見上げる。

(──そういえば、この人αだよな)

 それに安室のことも、この人の方が自分よりよっぽど詳しいはずだ。
 コナンの視線を受けて、沖矢は首を傾げた。

「もしお時間があるなら、ランチを一緒にいかがですか?」



 ランチに誘われたが、自分はついさっき阿笠家でブランチを食べたばかりだ。コーヒーだけもらって、沖矢のランチに付き合うことにした。
 沖矢はコナンにコーヒーとクッキーを出して、「私一人ならこれで」と冷凍スパゲッティをレンジに入れる。

「……ご飯、いつもそんななの?」
「料理をすることもありますよ」

 しれっと言うが、どの程度の頻度なのか。そういえば以前灰原が、全然煮込みが足りていないシチューを堂々と差し入れに持ってきたと、憤っていた気がする。
 安室だったらパパッと何か作るのだろうな、と昨日の夜のことを思い出し、首を振る。まあ、自分だって一人で昼食となれば、買うかインスタントの二択だろう。沖矢にどうこう言えた立場ではない。
 電子レンジを見つめていた沖矢が、ふいに口を開いた。

「──ところで、昨日はどこに泊まったんですか? お隣ではないですよね」

 コナンは少し考え、正直に答える。

「安室さんの家」
「……安室くんの?」

 口調が赤井のものに変わる。そして少し迷う素振りを見せた後で、変声機を切った。

「よく彼がそれを許したな」
「ちょっと事情があってね」
「またボウヤは、厄介事を抱えているようだな。──何か力になれることは?」
「ひとつ。……あの、その前に、聞きたいことがあるんだけど」

 ピー、と電子レンジが鳴る。スパゲッティを取り出しながら、赤井は首を傾げた。

「何だ」
「不躾な質問になるんだけど……赤井さんのバース性って、αだよね?」

 赤井は驚いたように一瞬動きを止め、手にした袋の熱に一瞬手を引いた後、袋を破いて中身を皿に出した。

「ああ、そうだ。それが、どうした?」
「ちょっと確認したいことがあって……えーっと、ちょっと抱っこしてもらってもいい?」

 赤井は皿を置いて、あっさりとコナンを抱き上げた。

「これでいいか? ──それで、ご主人様。次は何をすれば?」
「そのまま動かないで」

 軽口を叩く赤井の首に手を回し、匂いをかぐ。
 ──特にこれという匂いはしない。
 いや、するといえばするが、普通に体臭とタバコの匂いだ。赤井が困惑したようにコナンを見る。

「……ボウヤ、一体何をしている?」
「あのさ、ボク変な臭いとかしない?」
「変な臭い? ──いや」

 赤井は一瞬首を振り、その後、急に顔をしかめた。そしてコナンの耳の裏あたりに鼻を寄せて匂いを嗅ぐと、ハッキリと眉間にしわを寄せた。

「え、何か匂いする?」

 もしかして、赤井にもわかるのだろうか。
 驚いて見つめたが、赤井はそれには構わずコナンの襟足を上げて何か確認し、ホッと息を吐いた後、コナンを椅子におろして、キッチンにあった布巾を濡らして絞ると、無言でコナンの首や耳の裏をごしごしと拭いた。

「わ、何。どうしたの」
「どうしたも何も、それは何だ。安室くんに何をされた? ジョディを呼ぶか? 辛いかもしれんが訴えるなら証拠が要るぞ。いや、隣でその相談をしたのか?」

 矢継ぎ早に繰り出される言葉に、目を丸くする。

「は? 訴えるって、何で。何もされてないよ」
「それだけハッキリαフェロモンでマーキングされて、何もないなんて言えるわけがないだろう」
「マ……って、ああ、それ」

 安室のフェロモンがつけられていたというやつか。コナンは肩の力を抜いた。

「いや、これは特に深い意味はないんだよ。でも、博士のところでフェロモン消臭剤つけたのに、まだ臭うの?」

 すんすんと肩口で鼻をならすが、自分ではわからない。赤井は顔をしかめた。

「……深い意味はない?」
「そうそう。阿笠博士がαだから、対抗心的なやつみたい」
「……ボウヤは何を言っているんだ」

 赤井は心底理解出来ない、という顔をする。
 どうやら赤井も、α同士の対抗心を理解出来ない派らしい。新一と同じだ。そういうαもいるよな、とちょっとホッとする。

「あ、赤井さんもわかんない? 良かった」
「──オーケー、わかった。その話は後でお隣に聞こう」

 赤井はなぜかため息をついて、皿とフォークを持ってテーブルについた。
 定番のミートソーススパゲッティ。それに粉チーズをかけながら、赤井は口を開く。

「それで? ボウヤの知りたいことは何だったんだ。安室くんのフェロモンがわかるかどうかか?」
「違うよ。ボク、何かにおいがするかなって……でも、赤井さんには安室さんのフェロモンしかわからなかったんだよね」

 消臭剤は、髪がしっとり濡れるほど灰原にかけられた。
 普通なら安室のフェロモンは残っていないと思うのだが……安室のフェロモンがよほど強かったか、あるいは、赤井の鼻がいいのか。

「赤井さんって、鼻はいい方?」
「硝煙のにおいには敏感だが、その他では特に、自分の嗅覚が敏感だと思ったことはないな」
「……そっか」

 α同士、違うαのフェロモンには敏感だとか、そういうこともあるのだろうか。もしくは。

(──安室さんのフェロモンだからわかった、とか)

 赤井は首を傾げた。

「ボウヤの匂い……? フェロモンのことか? しかし、ボウヤの体はまだバース性が確定する年ではないだろう」

 ボウヤの体、ときた。本当にこの人は何をどこまで知っているのだろう。
 コナンは乾いた笑いを浮かべる。

「まあね」
「安室くんとそれに何の関係がある?」

 少し迷ったが、赤井はそう簡単に他人の秘密を吹聴するタイプではない。固定メンバーでの相談にも限界が見えていたし、正直に話をすることにする。

「一ヶ月くらい前からかな。安室さんとボク、お互いにいい匂いがするって感じるようになって。でも他の人はそれ、わからないみたいなんだ」

 赤井のフォークがくるくるとスパゲッティを巻き取る。

「それで、原因がわからなくて困っている、ということか。──いい匂い、な」
「いい匂いって言ったら、真っ先に思い浮かぶ原因はバース性由来のフェロモンでしょ? ボクはまだ小学生だし、関係ないとは思うんだけど、他に原因も思い浮かばないし。もし普通の人には感じ取れないレベルの匂いが出てるなら、他のαやΩにもわからないかなぁって思ったんだ」
「なるほど。と言うことは、阿笠さんもわからなかったんだな」
「うん。赤井さんも、だよね」
「そうだな」
「──でも赤井さん、安室さんのフェロモンはわかったんだよね?」

 赤井は顔をしかめた。

「こんなに大っぴらなマーキングがわからんαはいないだろう。消臭スプレーの効果か、近づかないとわからんレベルにはなっているが。てっきりボウヤはうなじを噛まれたかと思ってヒヤヒヤした」
「そんなわけないじゃん。だいたい、いま噛まれて何か影響ある?」

 うなじを噛むというのは、つまり番契約だ。しかし、発情期でない時に噛んでも意味はない。まして、コナンの体は未分化だ。

「──安室くんの状況はわかった。……同情はせんがな」

 先ほどはわからないと言っておいて、今度は博士と同じことを言う。首を傾げるコナンに、赤井は気にするな、とでも言うように首を振って、スパゲッティを口に運んだ。仕方なくコナンもチョコチップクッキーをひとつ口に入れる。
 甘い。随分と大味なクッキーだ。もしかしたら、ジョディが来た時にでも持ってきたのかもしれない。
 少し迷ったが、たずねる。

「あの、さ。また不躾な質問だけど……赤井さんて、番はいる?」
「いないな」

 赤井は気を悪くした風もなく、あっさりと答えた。

「Ω性は、存在自体が珍しい」
「──Ωじゃない恋人は?」

 その質問に、赤井は面白がるような目でコナンを見た。さすがに踏み込みすぎたかとばつが悪くなって目をそらすと、赤井は低く笑う。

「残念ながら、いまは仕事が恋人だ」
「──ありがと。質問、答えてくれて」
「どういたしまして」

 ため息をつく。

(いまは、か……)

 まあ、赤井にこれまで恋人がいなかったはずがない。βか、あるいは、αか。
 いまは、と言うからには別れを経験しているのだろうが、やはり仕事のせいだろうか。組織に数年潜入していたのだ。色々、あっただろう。

「……赤井さんはさ。安室さんのこと、どう思ってる?」

 赤井は目を丸くした。

「……その質問が、ボウヤの頭の中でどんな回路を通って出てきたのか、少しばかり不安だが。安室くんのことは、優秀な男だと思っている。気が合うかどうかは、別の話だがな」
「……組織にいた時に、何かあった?」
「少しな。──ただ、これは我々の間の問題だ」

 きっぱりと線を引かれ、降伏の意を込め両手をあげて、謝罪する。

「ごめんなさい」
「いや」

 赤井はあっさり首を振って、最後の一口を口に運ぶ。
 それを咀嚼する間に少し気が変わったのか、赤井はためらう素振りを見せつつ、再び口を開いた。

「──安室くんは、優秀な男だ。他人の優秀さを認める度量もある。ただ、彼の信頼は少しばかり、盲目的で重いところがある。……それもまた、彼自身の優秀さの裏返しかもしれんが。ボウヤは、彼の信頼を──」

 そこで赤井は言葉を切って、苦笑した。

「──いや。なんでもない」
「何でもないって」
「すまん。オレ自身もよくわからなくてな。──彼は色々なものから解放される必要があるが、その役割を君に押しつけることを、素直に良しとは思えんのさ」

 赤井の言うことは、よくわからない。
 コナンの不満はわかっているだろうに、赤井は「この話は終わりだ」と切って、フォークを皿の上に置いた。

「しかし、不思議な話だな」
「何が?」

 まだ話題転換に納得いっていないコナンが顔をしかめつつたずねると、赤井はさらりと言った。

「安室くんはαのはずだ。それに、工藤新一は、αだろう。なら、ボウヤもαなんじゃないか?」
「え」

 思わず固まる。
 赤井はその反応を見てふっと口の端を上げると、改めてにっこり、沖矢昴の笑みを見せた。

「親戚なんだろう? α性の多い家系なんじゃないか」

 冷や汗が流れる。

「え、あ、ああ、うん。ソウダネ」
「昨日会ったが──ボウヤもお隣で会ったんじゃないか?」
「あ、うん、まあね」
「彼がいたのは、今回のことに関係が?」
「ええーっと。まあ、たまたまこっち来る用事があるっていうから、相談はしたけど」
「彼はなんと?」

 意地の悪い質問は続く。自棄になって開き直る。

「調べてみてくれるって。新一兄ちゃんも、ボクの匂いも安室さんの匂いもわからないみたい」
「ほう」

 帰りがけに灰原が言っていたことを思い出して、赤井にも聞いてみる。

「未分化の子どもが、周囲の環境でバース性を特定のものに誘導されることって、あり得ると思う? そういう話、聞いたことある?」

 赤井は顔をしかめた。

「特定のもの、というとつまりΩ性に、ということか? 無いな。そんなことが出来たら問題だ」

 赤井の意見も灰原と同じだった。

「だよね」
「ジョディに何か情報がないかは、それとなく聞いておこう」
「ありがとう」

 FBIから情報が得られるのは、ありがたい。礼を言って、コーヒーを飲み干すと、赤井は腕組みしてコナンを見つめた。

「個人的には、早々に有希子さんや優作さんに相談することをすすめるがな。話の内容が内容だし、君の年齢だ。何かあったら親は心配する」
「有希子おばさんは親戚だけどね……まあ、うん、考える」
「そうした方がいい。有希子さんはΩ性なんだろう? 何かわかるかもしれんぞ」

 確かに。α性は周りにいくらでもいるが、Ω性の知り合いは、母くらいだ。

「赤井さんは、Ωの知り合いっている?」

 赤井は一瞬沈黙した後で、首を振った。

「──いや。いない」

 どうやら心当たりがないわけではないが、言う気はないようだ。
 紹介出来ない、しにくい、となると組織がらみか。
 コナンはため息をついた。
 その時、コナンのスマホが震える。見れば、蘭からだった。
 今日は戻ってくるよね、と心配するメールに、慌てる。

「ごめんなさい、ボクもう帰らなくちゃ」
「そうか。ランチに付き合ってくれてありがとう」
「ううん、こっちこそ、色々教えてくれてありがとう」

 安室にもらったタオルケットが入った紙袋を抱え、見送られて家を出る。

「そうだ、ボウヤ」
「なに?」

 玄関を出たところで呼び止められ、振り返ると、赤井はしゃがんで視線を合わせ、コナンの頬に手を当てた。

「……え、と?」

 赤井はしばらくして手を離し、口の端をあげた。

「──なるほど。いや何、おまじないだ」
「はあ」
「安室くんは、今日もポアロに?」
「次は二日先だって、言ってたけど」
「……二日か。フィフティ・フィフティだな」
「え?」
「気にするな。気をつけて帰れよ」

 釈然としないまま、見送られて、工藤家を出る。
 一体何だというのか。

(──いや、待てよ)

 いまの赤井の態度は、最初に灰原曰くのマーキングをした時の、安室と似ていなかったか。

(まさか……だよな?)

 赤井がそんなことをする意味がない、が。
 不安と、嫌な予感と──何故か悪いことをしてしまったような、そんな気がしてしまって、コナンは紙袋を抱える腕に力を込めた。