運命は信じない 6
「小五郎くんから連絡があったのよ」
帰りの車の中で、変装を解いた有希子はそう言った。
車は前回江戸川文代が借りていたのと同じレンタカーらしい。細かいことだ。
「おじさんから?」
「そう。『江戸川家』の方にね。子どもが大変な時に何やってんだーって、すっごい剣幕で怒られちゃった」
「あー……それは、ごめん」
小五郎はあれで子どもに対しては過保護なところがある。体調不良が続いていれば「親」に連絡を入れることくらい、想定しておくべきだった。
謝罪を口にしたコナンに、有希子は眉をひそめる。
「それは何に対する謝罪かしら?」
「迷惑かけたことに対する謝罪。……わざわざロスからこっちまで来させて」
「違うでしょー?」
呆れたような声とともに、ぺしっと頭を叩かれる。
「困ってるのに連絡のひとつも入れないで! 謝るならそっち!」
むうっと口をとがらせた母の言葉に詰まり、しばらくもごもごと口ごもった後で小さく息を吐く。
「……ごめんなさい」
有希子はため息をついた。
「──ちょっとだけ、秀ちゃんから聞いたわ。体調は大丈夫なの?」
「うん……まあ、絶好調とは言えねーけど」
有希子はコナンを横目でちらりと見て、アクセルを踏んだ。
「まあいいわ。とりあえずは家に戻りましょ。──小五郎くんには、しばらく親子水入らずで過ごしますって言ってあるから」
工藤家に戻ると、沖矢が迎えてくれた。
思わず顔をしかめると、沖矢は変声機を切って、降参するように両手をあげた。
「そう怖い顔をしないでくれ、ボウヤ。すまなかった」
「……それは何に対する謝罪なの?」
「余計なちょっかいを出したことに対する。……お隣にもひどく怒られた」
灰原と阿笠には、調子を崩した後に事情を簡単に説明してある。
その時も灰原はそれはそれは怒っていたから、相当こっぴどくやられたに違いない。どうやらいまのコナンの状況も聞いているようだ。
心底反省しています、という様子が変装の上からでもわかる赤井に苦笑して、「いいよもう」と答える。
「赤井さん、あの時αフェロモンつけたの?」
「……ごく薄く、だがな。多分ほとんどのαには気づかれないレベルだ。気づかせたかったわけではないし、二日も経てば気づかない可能性が高い、というか気づく前に消えるだろうとは思っていたんだが……いや、これは言い訳だな」
コナンは顔をしかめた。
「気づかせたかったわけじゃない、ってどういうこと? だったら何のためにそんなことしたの」
赤井は気まずげに目をそらした。
「……つまらない嫉妬だ」
「は?」
「はいはい、コナンちゃん。そこまでにしてあげなさい。秀ちゃんも反省してるみたいだから」
有希子がパンパンと手を叩く。
「秀ちゃん、私とコナンちゃんにアイスコーヒーお願いしてもいいかしら? 本格的なやつよ」
「仰せのままに」
赤井は大人しくキッチンに向かった。
「さて」
有希子はコナンを抱き上げて居間のソファに座った。
背後から覆い被さるような姿勢で、ぎゅっとコナンを抱き込むと耳元でささやく。
「──秀ちゃんに話してない情報は何かある?」
体勢に抗議したかったが飲み込み、早口に新一に戻った時のことと、コナンに逆戻りしてからのことを話す。
有希子は眉間にしわを寄せて、考え込むように黙り込んだ。
頼る予定はなかったが、バレてしまったものは仕方ない。来てくれたことは素直にありがたいから、相談してしまおうと見上げる。
「……母さんは、どう思う? これバース性が原因なのか? オレが薬で縮んでるから普通じゃない症状が出てるのかな」
「可能性はあると思うけど……うーん、私にはコナンちゃんの匂いわからないわね」
首元に鼻をすりつけられ、くすぐったさに「やめろよ」と抗議する。
有希子はコナンが鬱陶しげに髪を払うのを気にせず、ぎゅっと腕に力を込めた。
「でも新ちゃんとコナンちゃんで違うっていうのは、わからないわね。コナンちゃんの体だと、Ω性になる可能性が残っている状態ってことかしら」
有希子の言葉に、コナンは目を丸くする。
「バース性って、元から決まってるんじゃないの? 途中で変わるもんなの?」
「変わるってわけじゃなくて、選択肢を二つもっていて、決めていない状態って感じじゃないかしら。そのあたり、研究者の間でも決着のついていない問題みたいね。検査に出ないだけでバース性は生まれた時から決まっているんだって考えと、いくつかの可能性から最終的にひとつに固定されるって考えと」
「そう、なんだ」
赤井も灰原も、外部要因でバース性が変わるなんてあり得ない、と言っていたが、確かに、変わるわけではなく複数の選択肢を持った状態、となると話は違う。灰原が未確定という点に拘っていたのも、そのせいなのかもしれない。
にわかに不安になる。
α性は、生まれた時からαなのだと思い込んでいた。優作と有希子、αとΩから生まれる子どもは高確率でαになる──という思い込みもあった。でも。
「じゃあ、確定してない体からいきなり成長したら、元と違うバース性になることもあるってこと?」
「うーん……可能性として、なくはないかもしれないけれど。バース性が確定した体が確定前に戻るなんてこと、本来あり得ないから、事例なんてないし、何とも言えないわ」
それはそうだ。
有希子は黙り込んだコナンの手を、にぎにぎと握った。
「それより、少し痩せちゃったんじゃない? ご飯、食べてた?」
「え? ああ、うん。それは普通に」
有希子はのんびり、世間話でもするように続ける。
「透くんの匂いって、どんな匂いなの?」
「どんな、って……落ち着く匂い、かな」
落ち着く匂い。安心する匂い。包まれるとホッとするような、ぎゅっと胸を掴まれるような匂い。
思い出すと、拒絶されたことまで思い出されて、胸がチクリと痛んだ。
小さく首を振って、たずねる。
「あの、さ。オレ、元の体の時、Ωの匂いとか気にしたことなかったんだけど……安室さんが言ってたんだ。Ωの匂いもαの匂いも、攻撃的で安心するようなものじゃないって。……そういうものなの?」
見上げると、有希子は少し眉を寄せた。
「そう、ねえ。言いたいことはわかるわ。αのフェロモンもΩのフェロモンも、言ってしまえばこの人が欲しい──ううん、この人の子どもが欲しいって、欲求の表れだから。気持ちが伴っていないと、その強い欲望に拒絶感をおぼえてしまう。気持ちがそうなのに、あらがえないことを恐ろしく感じてしまう。発情期は、あなたも知っていると思うけど、Ωにはどうしようもないことで、あてられたαもそれは同じ。自分がコントロール出来ないことも、とても恐ろしいことだわ」
それは先日、園子も言っていたことだ。
「攻撃的だって、そう言うのは、多分透くんが思う相手以外の人から、そういう欲望を押しつけられてきたからかもしれないわね」
「そっか……」
安室と「バース由来の匂いが攻撃的だ」という話をしたのは最初の時で、その時は、「だからコナンの匂いとは違う」という話だった。──でも。
少しためらった後で、口を開く。
「──安室さん、オレに言ったんだ。……触るな、近づかないで欲しいって」
「あら」
「赤井さんのフェロモンつけたオレが不愉快だったのかもって、思ったんだけど……そうじゃなくて、オレの匂いが嫌な……攻撃的な匂いに変わったんじゃないかな……?」
ずっと不安に思っていたことを口にすると、有希子は首を傾げた。
「でも、それがフェロモン、って言うなら、秀ちゃんや私にもわかるはずじゃない?」
「そう、だけど」
「秀ちゃんのフェロモンが取れてから、会いに行った?」
「……行ってない」
「なんで?」
「だって」
拒絶されたくない、という気持ちを、素直に口に出すことは出来なかった。
そんなこと、安室相手に思うはずがない。なのにそう思ってしまう自分が、そう思って身動きが出来なくなってしまう自分が嫌だ。安室が拒絶するような存在になってしまったのかもしれないと、そんな悲観的なことを考えてしまう自分が嫌だ。
こんなのは、自分ではない。
有希子は小さくため息をついて、またぎゅっとコナンを抱きしめた。
「ねえ、新ちゃん。よく考えてみて。なんで透くんがそんなことを言ったか」
「……何で……?」
「新ちゃんが、今回のことを何でだろうって思ってるのと同じように、透くんもどうしてだろうって、戸惑っているんじゃないかしら?」
「それは、そうだと思う、けど」
ぽんぽんと、有希子はゆっくりコナンの頭を撫でる。
「透くんが、秀ちゃんとあまり仲良くないのは知ってるわよね。その、秀ちゃんの匂いがあなたからして、カッとなって……カッとなってしまった自分に、戸惑ってしまったんじゃないかしら」
「自分に……?」
「そう。新ちゃんは無い? なんでこんなことしちゃったんだろう、なんでこんなこと考えちゃったんだろうって、思ったこと」
いま、まさに思っていたことだ。小さくうなずく。
「ある」
「透くんも同じじゃないかしら」
考えて、うなずいた。
「そう、かも。……でも、オレが疎ましいことに変わりはないだろ」
「そうねぇ。そうかもしれないけど。でも、新ちゃん、だったら新ちゃんだってそう思ってもいいんじゃない? 透くんから妙な匂いがしなければ、新ちゃんはいつも通りだったわけじゃない」
「匂いのことはお互い様だろ」
「でも、寝不足になったり食欲なくなったり、散々じゃない。近くにいるから中毒性が増すだけで、離れてみたら案外、慣れて大丈夫になるかもしれないわよ。距離をおいた方がいいんじゃない」
「……それは、安室さんもそう言いたかったんじゃないかってこと?」
有希子は苦笑した。
「半分ね。あと半分は、透くんも新ちゃんみたいに、自分が悪いんじゃないかって、思っちゃってるのかもってこと」
「自分……安室さんが悪いって?」
「そう。例えば、近くにいたらあなたのことを傷つけてしまうって、そう思ったのかもしれない」
ハッとする。
あの日、腕を掴まれて声をあげたコナンを見て、安室がどんな顔をしていたか。
──あれは、傷ついた顔では、なかったか。
有希子はコナンの手に自分の手を重ねて、ぽんぽんとなだめるように撫でた。
「想像でしかないけれどね。でも、あなたが知っている安室透さんは、どんな人? 意味もなく、相手を拒絶する人かしら」
「──違う……と、思う、けど」
安室透は、どんな人間か。
こんな時に、彼はどんな行動をとるか。
──コナンは目を伏せた。
「……わかんねぇ。あの人が、ほんとはどんな人かなんて。……オレ、知らないんだ」
「……そう」
とん、とん、とゆっくりしたリズムで自分の手を撫でる有希子の白い手に視線を落とす。
いまの何だか悲しい気持ちと、自分の手が小さいことが相まって、昔、癇癪を起こしては有希子になだめられていたことを思い出す。
まるで本当に小さな子どもになったような気分になって、無意識にその手を握ると、きゅっと握り返されて、ただそれだけのことにひどくホッとして、コナンは目を閉じた。
目を開けると、何故か工藤家のベッドの中だった。
妙に明るい気がして時計を見ると、時刻は午前九時。
「……」
たっぷり三十秒は時計を見つめて、パジャマに着替えた自分を見下ろして、「嘘だろ」とつぶやく。
慌てて着替えて居間に向かうと、コーヒーを飲んでいた有希子が顔をあげた。
「あらコナンちゃんおはよう。お寝坊さんね」
「おはよう、ボウヤ」
「朝ご飯、食べるでしょう?」
問われて、急に空腹を意識する。くう、と鳴ったお腹を押さえると、有希子は笑って「ちょっと待ってて」と立ち上がった。
キッチンに向かう有希子の背中を目で追い、赤井のそばに寄る。
「しっかり眠れたようだな」
「……うん。あの、もしかしてボク、あれからずっと寝てたの?」
「ああ。コーヒーをいれて戻ってきた時には既にな」
それはつまり、あの体勢でということか。
恥ずかしすぎて死ねる。
頭を抱えると、赤井はぐしゃぐしゃとコナンの頭を撫でた。
「気を張りすぎていたんだろう。──さすが有希子さん、母親は違うな」
「いや、えーっと、有希子おばさんは親戚のおばさんだけどね」
「母親という存在が偉大だということさ」
赤井はしれっとそう言った。有希子が朝食を持って戻ってくる。
トーストとスクランブルエッグ、ベーコン。サラダとヨーグルト。典型的な朝ご飯だ。
「はい、いっぱい食べてね」
「──いただきます」
自棄になってフォークに手を伸ばす。二人は、もぐもぐと食事をするコナンを見つめている。
──非常に食べづらい。
(心配かけたって、ことなんだろうけど)
それにしても、なんでこんなにぐっすり眠れてしまったか。軽く半日以上だ。
そこでハッとした。
「学校!」
「学校なら、お休みの連絡入れたわ。明日以降も、しばらくお休みしましょ」
「……そうする」
考えて、有希子の提案にうなずく。無理せずに振る舞おうとしていたことも、プレッシャーになっていたのだ。多分。
よく寝て、腹が満ちると冷静になった。
「かあ……有希子おばさん、昨日ボクに何かした?」
「なーんにも」
有希子はすましてコーヒーを飲む。
何にも、なんてそんなはずはない。こっちはしばらくろくに眠れずにいたのだ。
阿笠とグルになって睡眠薬でも投与されたか、あるいは催眠術か何か。
トーストを頬張りながら自分をにらむコナンに、有希子は肩をすくめた。
「催眠術と言えば催眠術ね。むかーし、ぐずって眠れない可愛い息子を寝かしつけるのと、同じ手を使っただけだけど」
「……ほんとかよ?」
「本当よ」
有希子はクスッと笑ってコナンの口元についたパンくずを取る。微笑ましげにこちらを見ている赤井の視線が急に気になって、コナンは顔をしかめた。
有希子という、何もかも事情を把握した保護者が来て、気が抜けたのは確かだ。しかし、そんなことで眠れてしまうなんて。
(深刻に考えてたけど、これやっぱバース関係ないのか? いや、でもなぁ……)
ぐっすり眠れて食欲も復活して、随分すっきりはしたが、まだ安室のことを考えるともやもやする気分は、残っている。
母親は偉大だ、なんて赤井は言っていたが、それが通じるならバース性の問題が薬に頼るまで深刻化しているはずがない。有希子のこれも、根本的な解決というよりも、一時的な対処に過ぎないのかもしれないが。
(母さんが特殊なのか? Ωだから? オレのバース性がどっちかは置いといて、αだとΩのそばにいて安心するとかΩ同士だと安心するとかそういうことってあんのか?)
「コナンちゃんたら、そんなに急いで食べなくてもおかわりなら作るわよ」
有希子はにっこりと微笑む。自分の母親ながら、ものすごくきれいで完璧な笑顔である。
──読めない。
何か特殊な手を使ったのをごまかしているとも、言葉の通り何もしていないとも、どちらとも取れる。
父の優作ほどではないが、母も母で、のんびりしているように見えて食えない人なのだ。
「ところでコナンちゃん、今日これからのことなんだけど」
「え、うん」
「せっかくのお休みだし、私と出かけましょうか」
朝食を食べ終えて、コナンと有希子は赤井に見送られ工藤家を出た。
有希子は何故かまた江戸川文代の格好をしている。
今回は工藤有希子として戻ってきたわけではないので、念のため、だそうだ。暑そうな変装で車を運転する母の隣でスマホを取り出すと、コナンのスマホには灰原からメールが来ていた。
「やべっ」
帰りがけ心配そうに見ていた彼女のことをすっかり忘れていた。
いまは授業中だろうが、大丈夫だと返信しておいた方がいいだろう。慌てて返信を打つコナンを横目で見て、有希子が言う。
「哀ちゃんなら、昨日のうちに秀ちゃんが連絡入れてくれたから大丈夫よ」
「え。あ、そう。ありがと」
「お礼は秀ちゃんにね。お姫様とお話出来る口実が出来てありがたいですって言ってたけど」
「ハハ……」
あの人も相変わらずだ。
そういえば、なんで赤井がフェロモンをつけるなんていたずらをしたのか、理由をちゃんと聞いていなかった。
──つまらない嫉妬、と言っていたか。
どちらに対する嫉妬だろう。安室か、コナンか。
(安室さんに嫉妬……? αの対抗心ってやつか?)
コナンには嫉妬されるような心当たりはない。
ないが、口ごもり言いにくそうにしていたあの様子だと、コナンには話せない安室との昔のことが関係しているのかもしれない。
──正直、気になっているのだ。
あの二人の間には、コナンでは入り込めない何かがあって、それは、単純に嫌悪だとか憎悪だとかいうものとは、違うものなのではないかという気がする。
普段冷静な安室が取り乱すのは、赤井に関係することだけで、赤井は赤井で、それに対して無視を決め込むでもなく、向き合おうとしている素振りがある。
好きの反対は無関心、とはよく言うが、つまり、あの二人は、単純に相手のことが嫌いなだけではないだろうと、コナンは見ている。
先日、赤井が安室について言っていたことを思い出す。
『彼の信頼は、少しばかり盲目的で重たいところがある』
赤井がそんなことを言うのは、彼がかつて、安室に信頼されていたからではないだろうか。
「新ちゃん? 何か気になることでもあるの?」
声をかけられて、ハッとする。
「あ、いや……赤井さんのこと、ちょっと考えてて」
そう言えば、昨日有希子は、赤井の態度の理由を承知しているような素振りで、話を遮ってきた。
「……あのさ。母さん、赤井さんと安室さんのこと、どう思う?」
「え? 秀ちゃんと、透くん?」
有希子は想像もしていなかったことを問われたという様子で、目を丸くした。
「なんでいまその二人? 仲が良くないことは、知ってるわよ」
「単純に仲悪いってんじゃねーだろ、あれ。……昨日赤井さんが嫉妬とか言ってたから。オレが赤井さんに嫉妬されるような何かがあるかなって」
信号で車が止まる。
有希子はまじまじと、コナンを見つめた。
「──なに」
顔をしかめてにらむと、有希子はため息をつく。
信号が青になり、有希子はアクセルを踏んだ。
「いえ……おかしいわねー。あなたのそういうところ、どっちに似たのかしら。私じゃないわね。優作ね。あの人鈍いし、たまーにトンチンカンなこと言い出すもの」
「はあ? なんでここで父さんが出てくるんだよ」
意味が分からず首を傾げると、有希子は「別に」と言ってにこっと笑った。その笑顔に、何となく寒気がして身を引く。
「……なに」
「ううん! ほんっと、新ちゃんて私たちの面白いところを集めたびっくり箱みたいな可愛い息子だわ」
「はあ? いきなりなんだよ」
「うふふ。まあいいじゃない。車返したら、今日はお買い物しましょうね。お洋服買わないと」
「家に帰ればあるだろ。てか、もう車返すのかよ」
「今日はホテルとったから、家には戻らないわよ。ちゃんと、ランドセルも積んできたでしょ」
いつの間に。コナンは顔をしかめた。
「家に帰らないでわざわざホテルに泊まるのかよ?」
「そうよ。だって、秀ちゃんに迷惑かけるでしょ。彼にはあの場所が必要で、管理をお願いしたのは新ちゃんと、私たちだし」
赤井が一泊二泊するくらいで迷惑とか思うわけがないだろう、と言いかけて、思い当たり、口をつぐむ。
赤井はαで、有希子はΩだ。
コナンが一緒にいるとはいえ、そして有希子がすでに番持ちで問題は起こらないとはいえ、ひとつ屋根の下は外聞がよろしくない。赤井―沖矢のバース性なんて誰も知らないだろうが、藤峰有希子がΩであることは周知のことなのだ。有希子の早すぎる芸能界引退はバース性のせいだと、世間では思われているのである。
いまの江戸川文代の格好も、多分沖矢を巻き込まないためだろう。
自分自身はαで気にしたことがなかったし、有希子は優作と一緒に戻ってくることが多かったから、あまり深く考えずに沖矢昴に工藤家を預けていた。
黙り込んだコナンに、有希子は笑う。
「気にしないの! こんなのいつものことだし、だいたい、一緒に来れない優作が悪いんだから。それに私、日本のホテル大好きよ」
いつも通りの母に苦笑する。
「父さん、相変わらず忙しいんだ」
「そ。実を言うと、今回も、新ちゃんが助けを求めてるわけじゃないんだから様子を見ればって言われたのよね。心配だったし、小五郎くんのこともどうにかしないといけないからって、来ちゃったんだけど」
「おじさんのとこには、しばらく預かるって言ったんだよな? しばらくってどれくらいのつもりなんだよ」
「あなたの体調が落ち着くまで──と思ってたけど」
有希子はため息をついた。
「新ちゃん。──私と一緒に、ロスに行かない?」
唐突な提案に目を丸くする。
「は? いや、それは断っただろ」
「前とは状況が違うでしょう。あなたがそんな風になっちゃった時だって、私は心配だったのよ? ずっとなんて言わないわ。あっちでお医者さんに見てもらって、体調が良くなるまで。バースについてだって、何か他の病気だったとしたって、あっちの方が研究は進んでるし取れる手も多いと思うの。もし、透くんと離れるのが駄目なんだったら無理は言えないと思ってたけど、昨日の様子をみると、身内がそばにいるだけでもかなりましみたいじゃない」
有希子は複雑そうな顔をするコナンを横目で見る。
「……透くんが心配?」
「っ、いや、そういうわけじゃねーけど」
「もしもあなたたちの間に起きているのがバース性によるものだったとして。透くんがαなのは確定なんでしょう? ──なら、離れても透くんは大丈夫よ。番相手を失って、調子を崩してしまうのは普通Ωだけよ。透くんは、あなたほど体調を悪くしていた?」
「それ、は」
寝不足だった、というのは安室の自己申告だ。実際、疲れた様子はあってくまが浮かんでいるのも見たが、あの男の激務は通常運転だ。コナンのせいかどうかはわからない。
──でも、あの時は違う。コナンが新一に戻ったあの日、安室は確かに、苦しそうだった。
「──新ちゃんに戻った時に様子がおかしかったのは聞いたけど、今回は戻るわけじゃないでしょ? 遠くに行くだけ」
「でも」
園子の場合は、と言いかけて、口ごもる。
園子と京極は、恋人同士だ。離れて寂しい、という気持ちが体に影響を与えていただけで、これは自分たちには当てはまらない。
「──でも。オレがΩになったわけじゃねーし、そもそもオレたちは番関係じゃない。番みてーな症状が出てる理由も、何も、全部わかんないだろ。今日が大丈夫だからって、明日がそうとは限らないし、何が起こるかだってわかんねえだろ」
「わからないからって、困っているだけじゃどうしようもないでしょう」
「調べてるよ。博士も、灰原も、オレも。安室さんだって、多分」
「でも、何かあってまた、昨日までみたいに調子を崩したらどうしようもないんじゃない? ──新ちゃん、わかって。私は心配なの」
車が止まる。レンタカーショップについたようだ。
有希子はひとつため息をついた。
「──たしかに、一日くらいじゃ本当に大丈夫かはわからないわね。だから、何日か様子を見て、大丈夫そうだったら、考えてみて。あなた一人じゃなくて、出来れば透くんにも相談して。──あっちに行ったら優作も色々協力してくれると思う。優作の人脈の広さは、あなたもよく知っているでしょう?」
有希子の言うことはもっともだった。
ただでさえ心配をかけている上に、さらにおかしなことに巻き込まれているとなったら、いかに放任主義の親でも、介入したくなって当然だ。
有希子は、車を返してからは一切その話には触れずに、マイペースに買い物を楽しんだ。
江戸川文代は「子ども第一で甘やかしたくてたまらないママ」という設定なのか、やたらとはしゃいでコナンの服を選んでいた。普段の有希子は自分の買い物優先で、それはそれで付き合うのが疲れるのだが、自分主体の買い物となると、別の疲労感がある。お茶にしましょう、とホテルの中のお高い喫茶店に入った時には、ぐったりと疲れていた。
「お買い物しただけで、そんなに疲れちゃったの? ……やっぱり体力が落ちてるのかしら」
行儀悪くテーブルに突っ伏したコナンを見て有希子は眉を下げる。コナンはひらひらと手をふった。
「気疲れしてるだけだって。買い物はもう勘弁して欲しいけどな」
「そう?」
ふと、有希子は自分のカバンからスマホを取り出した。そして、きゅっと一瞬眉間にしわを寄せる。
「母さん?」
「ごめんなさい、ちょっと外していいかしら。電話してくるわ」
「そりゃいいけど」
「大人しく待ってるのよ」
そう言って、有希子は店員に一言断って、店を出て行った。
大丈夫なのだろうか。有希子があれで多忙なことは、よくわかっている。今回だって相当無理をしたに違いない。
頬杖をついて、出てきたケーキを口にする。甘いものを食べると、ホッとした。
疲労は感じている、が、有希子に言った通り、単なる気疲れだ。いまだに、安室のことを考えると重苦しい気持ちになるし、あの匂いを思い出せば、無いことが苦しくも感じる。でも、多分、眠れて食べられればなんとかやっていける。
「──アメリカ、な……」
気は進まない。体が縮んだ時に、あれだけ「これは自分の事件だ」と啖呵を切ったのだ。いまさら親を頼るのはプライドが許さない。でも、有希子の心配はわかるし、問題解決の糸口が多ければ多いほどいいのは確かなのだ。期限を決めてアメリカに行くのは、ひとつの手だろう。
自分はいまパスポートもない身だが、そこは多分、優作なり赤井なりがなんとかしてくれるはず。
様子を見て。安室にも相談して。
有希子は、そう言ったけれど。
相談したとして──安室は、何と言うだろうか。
昨日、安室が意味もなく拒絶するような人間かと問われ、答えられなかったように、今回のことを相談したとして、安室が何を言うかはわからなかった。
その時、コナンのスマホが鳴った。
ビクリとして画面を見て、そこに表示された蘭の名前に肩の力を抜く。
周囲にはあまり人もいないし、自分まで席を立つわけにはいかないだろうと、小声で電話に出た。
「はい。蘭姉ちゃん?」
『コナンくん?』
蘭のホッとしたような声が届いた。
『いま、大丈夫? お母さんと一緒?』
「ううん。いまちょっと電話で、席外してる」
『じゃあ、ちょっと話しても大丈夫かな』
「うん。──あ、蘭姉ちゃん、ごめんなさい、心配かけて。ボク、挨拶もしないで……」
電話の向こうで、蘭が息を詰めた気配がした。
「蘭姉ちゃん?」
『あ、ううん! 気にしないで。──コナンくん、しばらく、お母さんと一緒なんだよね?』
「うん。お母さんがこっちに居られるまでは……」
『そか。……えっと』
蘭は口ごもり、何か言いよどんでいる。
どうしたのだろうかと首を傾げ、体調を心配しているのだろうと思い当たって、言う。
「あのね、体調なら、もう大丈夫。昨日よく眠れたし、ご飯いっぱい食べたし、いまね、おやつにおっきいパンケーキ食べてるんだ。この前、園子姉ちゃんたちと一緒に食べたみたいな、クリームいっぱい乗ったやつ。だから、大丈夫。ごめんね、心配かけて」
『……そう。そっか。元気なら、良かった。ごめんなんて、言わなくっていいんだよ』
「でも、おじさんとか、みんなに心配かけちゃったから」
『お父さんには、ちゃんと伝えとくよ。きっと安心する。安室さんも』
「え。安室さん……?」
『ああ、安室さん、昨日帰ってきた時にお店の前で会ってね。最近コナンくんを見かけないからって、心配してたんだよ。まだコナンくんのお母さんの話知らなかったから、多分大丈夫って話しか出来なかったんだけど』
「そう……確かに最近顔見てなかったかも。安室さんこそ元気だった?」
『うん、元気そうだよ』
ホッとしたような、なんだと落胆するような、微妙な気持ちで「そっか」とうなずく。
また少し沈黙が落ちた。
蘭はまだ、何か気になることがあるようだ。何だろうか、と考え、安室のことかもしれない、と気づく。
蘭は、コナンが大事にしていたブランケットが安室のものだと気づいていた。そして、そのこともあってバース性のことを気にしていたのだ。
「……あのさ、蘭姉ちゃん。ひとつお願いしてもいいかな」
『なに?』
「あのね、おじさんとボクの部屋に、白いタオルケットがあるんだけど。それ、安室さんに借りたやつだから、返しておいてくれない?」
『え? 安室さんの?』
「うん。──あのね。蘭姉ちゃん、笑わないでくれる?」
『……うん。なあに?』
「安室さんね、ちょっとボクのおうちの匂いと似てるんだ。……だから、ちょっと寂しくなった時に、代わりに借りたの。安室さんにはそれ、言わないで無理に借りたから、内緒にしておいて欲しいんだけど。恥ずかしいし」
少し苦しい言い訳だが、小学生の子どもがバース性に振り回されているというよりは、説得力のある話のはずだ。
案の定、蘭はホッと息を吐いた。
『そうなんだ。そうだったの。──わかった。返しておくけど……でも、コナンくん、自分で返した方がいいんじゃない?』
「あ、えっと」
言われてみればその通りだ。安室のことを誤解させないようにと、とっさに持ち出した話なので、そこまで考えていないかった。
「えっと、でも、次はいつ会えるかわからないから」
少し早口に答える。
実際、有希子がいつまで日本にいるのか決まっていないので、嘘ではないぞと内心言い訳する。
少し間を置いて、蘭がうなずく。
『……そ、か。わかった。あのさ! コナンくん。私、今度の大会来週末なんだけど』
「あ、そうだよね! ごめんなさい、忙しいよね。何ならおじさんにお願いしてくれてもいいから。がんばってね、蘭姉ちゃん」
応援しに行くし、と言いかけたところで、有希子が戻ってきたのが目に入る。
「あ、お母さん戻ってきた。じゃあね、蘭姉ちゃん」
切る前に何か聞こえた気がしたが、多分じゃあねと返してくれただけだろう。
「あら、新ちゃん電話?」
「ちょっとな」
母親の前で蘭と話をするのは照れくさい。ごまかしてスマホをしまう。
「それより、早かったね」
「ええ……」
「……何かあったの?」
有希子は小さくため息をついて、少し困った表情でコナンを見下ろした。
「ごめんなさい、新ちゃん。さっきは何日か考えてって言ったけど、私、すぐあっちに戻らないといけなくなっちゃったの」
それはまた、慌ただしい話だ。目を丸くする新一に、有希子は言う。
「──さっきの話、どうするか、いまここで、決めてもらえないかしら」
その夜。
夜道を歩きながら、さてどうするかと、コナンはスマホに表示した安室透の連絡先を見つめた。
こちらの様子を気にかけていた、という蘭の話が本当なら、安室は、コナンのことを疎んで拒絶したわけでは、なかったのだろう。
いや、それとも気にしていたというのはポーズだろうか。
──わからない。
安室が何を考えて、どうしてあんなことを言ったのか。今回のことをどう思っているか。これからどうするつもりでいるのか。全部。
触るな、近寄るな、と言われた。でも、ホッとしたような顔を見せてくれたことも、眠ってしまったコナンを送り届けてくれて、更に気を使って自分のタオルケットまで持たせてくれたことも、事実だ。
有希子は言った。安室がコナンと同じように思っているかもしれない、と。
(オレは、オレ自身は、どう思ってるか)
今回のことをどう思って、どうするつもりでいるか。
少なくとも、困ってはいても、安室のことを嫌だとは思わなかった。こんなおかしな症状が出た相手が安室だったことを、不思議に思いこそすれ、安室じゃなかったら良かったのにと思うことはなかった。
このわけのわからない現象が起きている理由を、謎を解き明かすために安室と協力することを、嫌だとは思わなかったし──正直に言えば、少しワクワクしていた。相手が、安室だから。
手の中のスマホが震えた。
ビクッとする。
目を落とすと、表示されていたのは、先ほどまで画面に表示していたのと同じ名前だ。
──安室透。
ひとつ、深呼吸して通話ボタンをタップする。
つながった電話の向こうは、しばらく無音だった。
黙ったままでいると、周囲の雑踏の音にまぎれて、通話口から小さな声が届く。
『──コナンくん?』
「……うん」
ホッと、電話の向こうで息を吐く気配。電話の向こうは、静かだった。家に帰っているのだろうか。
『蘭さんから、タオルケット預かったよ。……これは、もう無くても大丈夫?』
「匂い、とうに消えてるしね」
答えると、少しの沈黙の後で、安室が言った。
『──この間は、ごめん。君にひどいことをして、ひどいことを言った』
「……うん」
ショックだったと、詰るのもおかしい気がして、ただうなずく。
安室は少し間を置いて続けた。
『ごめん。あのまま一緒にいたら、君にもっとひどいことをするんじゃないかと……そう、思ったんだ。言い訳だけど』
「ひどいこと?」
『そう。──君のうなじに噛みついてやろうかと思った』
思いもよらぬ告白に、言葉を失う。
電話の向こうで、安室は苦笑した。
『自分でびっくりしたよ。──だから、コナンくんは僕から離れていた方がいいんだろうな。……親御さんが迎えに来て、元気になったって聞いた。……ご両親は、海外でお仕事されてるんだよね。……一緒に、行くの?』
「──そう、言われた。あっちのお医者さんで調べようって」
『そう、か。──そう』
安心したような、少しだけ寂しそうな、そんな声。
その声に、落胆すると同時に、苛立つ。
その時。最初にこちらの名前を呼んだのと同じくらい、小さく頼りない声が、かろうじて、耳に届いた。
『──もう、戻って来ない……?』
「────ッ」
コナンはブツリと通話を切った。
(クソッ)
そのままの勢いで駆け出す。
──駄目だ。全然、駄目じゃないか。
何が元気そう、だ。少し会えずにいたら、すっかり弱り切っているではないか。
会えばふてぶてしくこちらを探って圧をかけてくるくせに、急に柔らかい表情を見せたかと思えば、直後にこちらを拒絶してくるくせに、本当に、何なのだ。
そのたびに振り回されて、一喜一憂して、馬鹿みたいだ。
こんなのは、全然、自分らしくない。
コナンは駅から工藤家に向かっていた足をそのまま、メゾンモクバに向かって踏み出す。
腹が立って仕方ない。
こちらばかりぐるぐると考えて、せっかく駆けつけてくれた母の手を払って──ここで自分で、阿笠や灰原や、安室と一緒に、解決すると決めたというのに。
安室ときたら、本当に何なのだ。
メゾンモクバ──安室のアパートの前に、たどり着く。
あがった息を整えて、安室の部屋の窓をにらみつける。明かりはついていた。
息を整えて、足を踏み出したところで、アパートから安室が飛び出して来た。
お互いに、目を見開く。
「……どうして」
安室が、ランドセルや、荷物があれこれつまったリュックを背負ったコナンを見て、つぶやく。
家出でもしてきたような大荷物に見えるのだろう。
実際は、「アメリカには行かない」と返答したコナンを置いて早々に空港に向かった有希子を見送り、持ってきたランドセルだの買ってもらった服だのを持って、工藤家に戻るところだったわけだが。
でも。
(──そう見えるなら、そういうことで、いいんじゃねーか?)
振り回すのは、本来自分であるべきなのだ。
コナンはにっこりと笑って、安室を見上げ、言った。
「しばらくおじさんの家には帰れないから、安室さんの家に泊めて。──いいでしょ?」