運命は信じない 7




「──いやいや、いや、駄目だよ。何を考えてるんだ」

 呆然とする安室を引っ張って部屋に入り込んだまでは良かったが、安室は我に返ると強硬に反対をし始めた。

「先生のところに帰れないってどういうことだ」
「しばらく親子水入らずで過ごしますって言って出てきちゃったんだもん」

 コナンは部屋の隅にランドセルとリュックを置いて、荷物の中から買ってもらったばかりのパジャマを取り出した。値札を引っ張り、安室を見上げる。

「安室さん、ハサミ貸して」

 安室は反射でハサミを手に取り、渡す寸前でさっと遠ざける。

「待った。何故ここで値札を切るんだ」
「今日着るからだよ。値札ついたままだと背中がごそごそするじゃん」
「泊めるなんて言っていない」
「安室さんは、行く先のないイタイケな子どもを、寒空の下に放り出すの?」
「本当に幼気な子どもは自分で幼気なんて言わないし、いま一体何月だと思ってるんだ」
「夏で生意気な子どもなら、夜中に放置してもいいんだ。ふーん」
「──先生のところに帰れないって、親御さんはどうした。……というか、コナンくんの親、ね。──どこに住んでて何をしてる人なのかな?」

 安室は目を細めてコナンを見る。

(調子出てきたなー)

 これでこそ安室だ。コナンはにこっと笑顔を作った。
「えっとね、ボクのお母さんは、飛行機でいーっぱい、移動したところに住んでるんだよ」
「ふざけないでくれ」
「個人情報だよ」

 安室は目をすがめた。

「──個人情報、ね。そこは追い追い、調べていくつもりだけど。……親御さんを名乗る誰かが帰ってしまったなら、大人しく先生のところに戻ったらどうなんだ」
「ボクの話聞いてた? しばらく戻りませんって言って、出てきちゃったんだってば。いま戻ったら、おじさん怒髪天ってやつだよ。ボクはお母さんが帰っちゃったことに納得してるし、来てくれただけでありがたいと思ってるけど、おじさんはそうはいかないの、安室さんならわかるでしょ? 小五郎のおじさん、意外と常識的な人なんだ」
「つまり、自分のしていることが非常識なのは理解しているんだな?」
「一応ね」
「……僕に君を匿うメリットはないと思うけど」
「別に、ボクだって他に行くあてがないってわけじゃないよ」

 わざとゆっくり指を折りながら、言う。

「阿笠博士のところか、昴さんのところ。──どっちも、歓迎してくれると思うけど」

 コナンはそこで安室を見上げて、ことりと首を傾げた。

「──行っても、いいんだ?」

 安室の目がますます細くなる。周囲の気温が二、三度下がったような気がする。
 ちょっと煽り過ぎたかもしれない。コナンはため息をついた。

「二人のところじゃなくって、ボクは、ここがいいと思ったからここに来たんだよ。メリットならあるよ。お互い、安定するんじゃない?」

 ふっと、安室の顔から怒気が消え、わずかに心配するような色が浮かぶ。

「……体調良くなったんじゃないのか」
「昨日、まあ、無理矢理寝かされて、ちょっと回復したけど、それだけ。──どうしても、駄目なの? ……安室さんが、触るな、近づくなって言うなら、そりゃ、無理強いはしないけど」

 安室は苛立たしげに舌打ちした。

「それは謝──―いや、ごめん。そうじゃない。謝ればいいと思っているわけではないけど、でも、さっき話したことをちゃんと聞いてたのか? 君に危害を加えるかもしれない、と言ったんだ」
「今日のボクも、嫌な臭いする?」

 安室に近づく。安室からは変わらず、いい匂いがした。困ったように、その眉が下がる。

「……しないよ」
「そう、良かった」

 コナンは安室の手からハサミを取りあげて、パチリ、とパジャマの値札を切った。

「欲を言えば一回洗濯したいとこだけど、まあいいか」

 安室は唸った。

「聞き分けてくれ。泊めるわけにはいかない」
「危害って言うけど、まだ噛みたいと思ってるの?」
「そうじゃない、けど」
「なら、いいじゃん。それに、ボクが未分化なのは正真正銘本当のことなんだよ。だったら、噛まれたって怪我するだけでしょ」
「だけじゃないだろう。──頼むから、わかってくれないか。君を傷つけたいわけじゃないんだ」

 心底、困り切った様子で言う安室に、コナンはため息をついた。

「……知ってるよ、そんなの」

 コナンはそっと、安室の手を取った。

「──ねえ、安室さん。ボクの匂いは、安室さんが言ってた、『暴力的な匂い』になってしまった?」

 そうたずねると安室の手がピクリと震える。

「……なってないよ」
「安心する匂いのまま?」
「……そう、だね」
「良かった。ボクも、そこは変わらない。──あのさ。わけがわからなくって腹が立つのはわかるし、ボクも、何なんだよって思ってるけど、でも、一緒に解決しようって、言ったじゃない。さっきも言った通り、もしものことがあったって、ボクはΩじゃないし、影響はない。──それに、始終一緒にいた方が、落ち着くんじゃないかな。あんまり会えなくて……他所のαの匂いをつけられるような隙を、ボクに作らせるから、安室さん、そんなことになったんじゃないの?」

 コナンはパッと手を離して、にこりと微笑む。

「だから、手元に置いて、見張ってた方がいいと思うな」
「──っ」

 安室は、ぐっと言葉につまり、何とも言えない表情でぐるぐると百面相していたが、最終的に、非常に嫌そうな顔をした。

「…………君ね、君は、本当に」

 そこで言葉を切って、小さくうなり、最後に、大きな大きなため息をついた。

(──勝った)

 コナンは内心ガッツポーズを決める。
 安室はぐしゃりと髪をかき上げた。

「……いつ先生のところに戻るつもりなんだ」
「とりあえずは、一週間後くらいかな」
「──三日だ」

 値切りにきた。
 往生際が悪いな、と内心舌打ちして、あえて、繰り返す。

「一週間、くらいかな!」
「……四日。これ以上は譲れない」
「十日にしようかな」
「なんで増えるんだ!」
「え、十日は駄目なの? うーん……じゃあ、しょうがないから一週間でいいよ」
「それで交渉のつもりなのか?」

 眉をつりあげる安室を見上げて、コナンはゆっくりと言う。

「別にね、四日ここにいて、残りの三日は昴さんのところでもいいんだよ」
「……そこはせめて阿笠さんのところだろう」
「昴さんのところでも、いいんだよ?」

 しっかりはっきり、繰り返すと、安室は大きくため息をついた。
 ──今度こそ、勝利だ。
 コナンは額を押さえて動かなくなった安室を放置して、着替えに要りそうな服の値札をパチンパチンと切っていった。




 夕飯は食べたからお構いなく、と言ったコナンに、安室はまたため息をついて、一人食事の準備をして、食べ始めた。
 テーブルの向かいに腰かけて、出してもらった麦茶を飲みながら、食事の様子を眺める。
 今日の夕飯はきのこの雑炊。──やっぱり調子が悪いんじゃないかと目をすがめると、安室は顔をしかめた。

「──なに」
「元気かな、大丈夫かなと思って。ご飯ちゃんと食べてた?」
「食べてたよ」

 パッと見は、変わった様子はない。よく見ると多少疲労は見えるが、愛想笑いのひとつでも浮かべれば、多分、ほとんどの人にはわからないだろう。
 基礎体力の差か、あるいは、コナンほど体調に影響はないのか。
 ふと有希子の言っていたことを思い出して、またまじまじと安室を眺める。

「今度は何だい」
「どうして安室さんにも、睡眠不足とか食欲不振の症状が出るのかなって。ボクたちが感じている匂いがバース性に関係する何かだったとして、相手の匂いが無くてαの安室さんが調子を崩すの、わからないんだよね。こういう時、普通はΩにだけ、影響が出るんじゃないの?」

 安室は雑炊をれんげですくって口に運び、眉間にしわを寄せた。

「……一般的には、確かに。ただそれは番のαとΩの話で、君はどちらでもないし、僕たちは番ではない」
「そうだよね」

 ふわりと、出汁のいいかおりがする。れんげですくわれる雑炊を見つめながら、コナンは続けた。

「園子姉ちゃんがαだって話は、前したでしょ? それで、園子姉ちゃんに、話聞いたんだ。ほら、安室さんに、近寄るなって言われた日に」

 安室は顔をしかめ、雑炊をすくったれんげをコナンの口元に差し出した。
 慰謝料としては安すぎるが、一口食べたかったので黙ってぱくりと口に入れる。雑炊は美味しかった。
 もぐもぐと咀嚼し、飲み込んで口を開く。

「美味しい。──それで、その時に聞いたんだけど、園子姉ちゃんも体調崩すことがあるんだって」

 園子に聞いた話を簡単に伝える。安室は雑炊をまた一口食べて少し考え、なるほど、とうなずいた。

「面白い話だね」
「仮説の一つだけど、ボクたちがお互いにお互いの匂いをいいなって思って、それに強く執着して、それが得られなくなったことで調子を崩してしまった、っていうのは、あるかもしれない。これなら、ボクのバース性に関係なく、あり得る話だ」

 安室は半分ほどになった雑炊のお椀に、刻んだザーサイを入れた。

「──確かにね。ただ、大元の匂いが何故出ていて、何故お互いしか感じられないか、という問題は残る」
「……そこなんだよね」

 頬杖をついて、ため息をつく。じっと見ていると、安室は黙って一口くれた。
 ザーサイのアクセントで味が変わって、これもまた美味しい。
 もぐもぐと雑炊を味わうコナンを見て、安室はゆっくりと口を開いた。

「こちらの調査報告だけど。僕も色々と調べてみた。特定の人間にだけ匂いを感じさせる、あるいは『匂いがする』と錯覚させるような方法が、何かないか。
──そのものズバリはなかったけれど、それに近い効果を持つ『香水』があることはわかった」

 目を見開いたコナンに、安室は軽く肩をすくめる。

「でも、その特殊な薬を作るには、二人分の体液が必要なんだ。そして、バース性が固定された、αとΩであることが条件。……その薬は、まあ、任意のαとΩに、何がしかの特別なつながりがあると勘違いさせるための薬だったわけだ」

 なんだ、とがっかりする。

「なら、片方がボクじゃ無理だね。……でもそんな薬、何のためにあるの?」

 安室は一瞬間を置いて、答えた。

「上流階級のお見合いとかね。政略結婚を、少しでも愛があるもののように感じさせるためのものなんじゃないかな」

 コナンは思わず顔をしかめた。安室は困ったように小さく笑って、話を続ける。

「この薬は、君と僕では無理だ。ただ、まあ……僕と誰かをどうにかしようとして、僕の体液が含まれた薬が作られた可能性は、ゼロとは言えない」

 更に顔をしかめる。
 公安という立場であろうと、黒の組織の幹部という立場であろうと、安室を利用したり、足を引っ張ろうとしたりする人間はいるかもしれない、というわけだ。
 しかし、体液って何だ。なんの体液なら採取された可能性があるというのか。
 コナンは苦い気持ちで口の中に残っていた米粒を麦茶で流し込んだ。

「……大人って汚い」
「そうだね」

 安室はさらりと肯定する。
 ますます不快な気分になって、コナンはそっぽを向いた。

「──まあ、そんな薬が作られて、使われていたとして。何故君に作用するかはわからないけどね」
「……ボクの他に、誰かいい匂いする人いるの?」
「いないよ、幸いね」

 安室は雑炊を食べ切ると、立ち上がった。

「コナンくん、お風呂先にどうぞ」



 前回泊まった時同様、先に風呂に入り、入れ替わりに安室が風呂に向かう。
 コナンはパジャマに着替えて、また適当に座布団を並べた。今度は上着を羽織る必要はないが、さすがに何かかけるものが欲しい、と室内を見渡すと、蘭が返却したタオルケットがあったので、それを拝借することにした。
 紙袋から引っ張り出して、ばさりと広げる。
 先程話したことが、まだぐるぐると腹のあたりにわだかまっていた。

(──別に、そんなのあり得る話だし、安室さんは三十近いんだし、番がいておかしくないし、番とかいなくても、恋人とかはいたはずだろ)

 それの何が気に入らないのか、自分でもわからないが、安室が自分以外の人間の匂いをいい匂いだと思うかもしれない、と思うと無性に腹立たしかった。

(……なるほど。なるほどな。つまりこの前の安室さんもこういう気分だったわけだ)

 他所のαの匂いがついているのが気に入らない、という気持ちが、ようやく理解出来た気がする。

(だからって、安室さんに噛みついてやろうとは思わねーけど。オレにはまだ理性が残ってる。……いや、別に噛みついてやったっていいんだけど。番になるわけじゃねーし)

 自分のいまの小さな口であの硬そうな体に歯が立てられるかはわからないが、想像してみると、それくらいの抗議、してもいい気がした。

(──いやいやいや)

 慌てて首を振る。腹が立つこと自体がおかしい。
 コナンはごそごそと自分の荷物を漁った。
 前回は安室が出てくる前に寝落ちしたが、今回は睡眠をばっちり取っていたおかげで、まだ目は冴えている。
 余計なことは考えまいと、スマホを取り出してチェックすると、沖矢と灰原からメールが来ていた。
 灰原のメールは、昼間の返信への返信だ。心配したのだから連絡はすぐ寄越せ、というお小言と、体調が良くなって良かったということが、少しばかり捻くれた言葉でつづられていた。
 沖矢―赤井のメールは、今日こちらに来るのではないか、いまどこにいるのか、というものだった。有希子から連絡が行ったらしい。まずい、と慌てて返信する。
 といっても、この状況を説明するのはいささか面倒で、安室はいつ風呂から出てくるかわからない。
 とりあえず、他のところに泊まることにした、大丈夫だから安心してくれ、とだけ返す。
 説明は、後ですればいいだろう。一週間世話になる、と言ったが、安室だって昼間は仕事で、ポアロの仕事にせよ他の仕事にせよ、コナンがついていくわけにもいかない。その間に、沖矢や阿笠のところへ行って話をすれば良い。
 メールアプリを閉じたところで、安室が出てきた。
 まさに間一髪のタイミングだ。ホッとして振り返り、ギョッとする。

「──えっ、何で服着てないの?」

 上半身裸で出てきた安室は、ああ、と首を傾げた。

「寝る時に上は着ない習慣なんだ」
「……ああそう」

 安室は、じとっとした目で自分を見るコナンと、その下の座布団とタオルケットを交互に見て、首を傾げた。

「寒かった? それとも足痛かった?」
「へ? これは、寝る準備だけど。敷布団と、掛け布団」

 ぽんぽんと座布団とタオルケットと叩くと、安室は沈黙する。

「この前もこれで寝てたじゃん」
「……あれは寝落ちしてごめん寝してたんじゃなくて、そこで眠るつもりだったのか」
「ごめんね? ああ、うん、あの日は勝手に先に寝ちゃって悪かったし、博士のところまで運んでくれてありがとう……とは思ってるけど」

 そういえばその礼を直接言っていなかった。

「あの時ありがとう」
「……いや、それはいいんだけど」

 安室は頭を掻く。

「子どもを床では寝かせられない」
「子どもだからこれで十分なんじゃない?」
「体が痛くなるよ。駄目だ」
「この前は平気だったけど」

 最終的には阿笠の家のベッドで寝たからだろうか、と考えながら首を傾げていると、安室はそうだろうね、と言った。

「君はこの間こっちで寝たから」

 安室はベッドを指さす。

「へ? 安室さんベッド譲ってくれたの? それは、ごめんなさい。……ありがとう」
「……いや」

 安室は何故かついっと視線をそらした。

「でも、じゃあ尚更、今回はベッド譲ってもらえないよ。昨日ボクはいっぱい寝たし、安室さん、ちゃんと寝た方がいいんじゃないの? それに、急に押しかけたのボクだし……」
「今更そんなしおらしいことを言われてもね。それに、そこまで寝不足なわけじゃない」
「……あんな弱った声で電話かけてきたくせに」
「何だって?」
「なんでもなーい」

 コナンはつんとそっぽを向く。
 安室はため息をついてベッドに腰かけると、ぽんぽんと隣を叩いた。

「とにかく、君はこっちだ」
「この家他に布団があるの?」
「ない」
「じゃあやっぱり駄目だよ。絶対、譲れないからね。安室さんがベッド」

 安室は額に手をあて、また深いため息をつく。

「──それなら、どっちも床かどっちもベッドか。どちらかだ」

 コナンはベッドを見た。
 ベッドはそこそこ広く見える。大人二人はきついかもしれないが、大人一人と子ども一人なら余裕だろう。

「安室さんがそれでいいなら、いいよ」

 あっさりとうなずくと、安室は顔をしかめた。

「君ね。わかってるのか?」
「何が? 女の子じゃあるまいし。事故って噛まれても問題ないって言ったじゃん」

 安室は、言いたいことを口にしかけては何度も飲み込んでいる様子で、口を開けては閉じ、最終的に目を閉じて、しばらくして諦めたように言った。

「────枕はないから、座布団かタオルケット畳んだので我慢して」
「はあい」

 座布団は少し高くて首が痛くなりそうだったので、タオルケットを畳んでベッドに上がる。
 その時ふと、安室の腕が目に入った。──大きな、傷あと。
 安室はコナンの視線に気づいて、自分の腕に目を落とした。

「──ああ。まあ、どうしても怪我はね」

 よく見れば、体には大小新旧様々な傷あとが見えた。
 コナンの体にも、銃創だのなんだの、子どもらしからぬ傷があるから、傷あとなんて見慣れている。しかし、他人のそれはやはり痛々しかった。
 安室は笑った。

「お陰様で、血液は色んなとこで取られ放題だろうね」
「へ……──」

 急に何だと言いかけ、一拍置いて、理解する。
 安室は、先ほどの話に出てきた体液はコナンが勘ぐっているようなものではなく血液だと、言っているのだ。
 何と返せばいいかわからず、口をへの字に曲げる。
 適当にごまかしているだけだと言う可能性は、十分にある。あるが、小学生のコナンがつっこんで余計なことを言うのは悪手だし、だいたい、へそを曲げたことを見抜かれている時点で駄目だ。
 コナンの顔を見て、安室はぷはっとふきだした。

「安心して、汚い大人の隣で寝てくれるかな」
(にゃろう)

 コナンはべちっと安室の腕を叩いて、肩を揺らして笑う安室にわざとぶつかりながらベッドの上を移動し、即席の枕を壁際にセットした。
 安室はその様子を感心したように眺める。

「君は警戒心があるんだか無いんだかわからないな」
「はあ?」
「いいけど。──じゃあ寝ようか」
「もう寝るの? 安室さんも?」
「他にすることもないし、意見交換の続きをしてもいいけど、一度時間を置いて明日にした方が良さそうだからね」

 それもそうだ。コナンは大人しく横になる。
 部屋の電気が消えた。

「おやすみ」
「……おやすみなさい」

 暗くなると、少し冷静になる。勢いでここに来てしまったが、この先をあまり考えていなかった。

(学校は、今週休みにしたって言ってたから好きにすればいい。安室さんは、ポアロなのかな)

 カーテンがひかれた窓の向こうから入る薄い灯りで、安室がこちらに背を向けて寝ているのが見える。
 好奇心で、そっとそちらに近づいてみる。
 同じ布団で寝ている時点で、安室の匂いは十分に感じられたが、近づくとやっぱりその分強くなる気がした。
 強くなるといっても、濃くなるというわけではなくて、より感じやすくなる、に近い。
 先程考えていたことを思い出して、じっと見つめる。
 広い背中も、太い首も、到底噛みつきやすいようには見えなかった。

「……コナンくん。大人しく寝て」

 視線を感じたのか、安室が顔だけこちらに向けてそう注意してくる。

「安室さん、そっち向いててボクの匂いする?」
「するよ。十分に」
「……でもそうやって無防備に背中向けてると、ボク、噛みついちゃうかも」
「──は!?」

 大きな声だ。安室が飛び起きたせいで、掛け布団が持って行かれてしまう。コナンは顔をしかめた。

「大声出さないでよ。ねえこのアパート、壁は厚い方? 夜中に騒いだらお隣に迷惑じゃない?」
「君がおかしなことを言い出すからだろう」
「安室さんもさっき同じこと言ってたじゃん」

 安室はうなった。
 表情はよく見えないが、きっとまた苦虫をかみつぶしたような顔をしているに違いない。

「まあ、寝なよ」
「安眠を妨害しているのは君なんだけどね」

 安室はぶつぶつ言いながら仰向けに寝転がった。

「まったく、なんでそんな突拍子もないこと……」
「だって目の前にあったから」

 たっぷりの沈黙の後、安室は口を開いた。

「……君はもう少し、よく考えて行動した方がいい。今日もうちに押しかけてきたりして」
「そこに戻るの? ──安室さんが、あんな電話かけてくるからじゃん」

 安室は沈黙した。そのまま、沈黙が続く。
 コナンも仰向けになって、考えて、やっぱり話しておきたくて、しばらく間をおいた後で口を開いた。

「あの、ね」

 暗闇に落とした声に、反応なかった。けれどこの短時間で寝たはずもないので、いいやと、小さな声で続ける。

「……あの日、さ。安室さんに、触るなって言われたでしょ。ボク、すごくショックで……いや、責めてるわけじゃないよ? ──どっちかっていうと、ショックを受けた自分が、ショックだったんだ」

 安室は黙ったままだが、話は聞いてくれているようだった。

「そんなことくらい、って言うのもあれだけど……普段のボクなら、ショックより、何なんだよって怒ったと思うんだ。そりゃ、ちょっとは傷ついたかもしれないけど。──あの後に、顔見に行くことも出来なかったのは、また拒絶されたらどうしようって思っちゃったからなんだけど……これも普段のボクなら、そんな風に考えるはずがない」

「──そうだね」

 低い声が答える。

「君なら……こっちの気持ちなんてお構いなしに理由を探って、問いつめて……今夜みたいに、突進してくるだろうね」

 どこか苦笑交じりに聞こえる声に、コナンも小さく笑う。

「そう。らしくないのを、止めたかったんだ。──だから、ここに来たんだよ。安室さんがいつもと違うのも、調子狂うしね」

 ふ、と笑う気配がした。

「なるほど」

 こちらを向く気配がしてコナンも安室の方を向く。表情も確かにはわからない暗闇の中で、目がしっかりと、合ったのがわかった。伸びてきた手が、そっと前髪に触れる。

「──確かにね。……そうやって人のことを考えて、危険なところに飛び込んでしまうのも……君らしいな」

 自分のところは危険な場所だと、言いたいらしい。
 確かに、Ωの疑いがある子どもに「噛みついてやりたい」と言う人間のところに飛び込んで行くのは、無謀かもしれない。
 ──でも。

「安室さんはボクにとって、『得体の知れないα』なんかじゃなくって……胡散臭い嘘つきで、でも、いまは安心するいい匂いがする人、だよ。──それに、安室さんは、噛まないでしょ」

 今日、話をして、そのことはよくわかった。
 危害を加えたくないと気にして遠ざけて、強引に押しかけたコナンを、危ないからと追い返そうとした。自分の状況をきちんと説明してくれた。
 安室は、そういう人だった。

(──ひとつ、わかった)

 安室のことなんてわからない、と思っていたけれど。今日ひとつ、わかった。
 ホッとして、目を閉じる。

「……ひどいプレッシャーをかけるな、君って子は」

 安室のつぶやきが聞こえた。
 安室自身の方が、自分に自信がないようだ。そんなことないよと、心の中で答える。
 しばらくすると、ゆっくり髪をすくように触れていた手が、そのまま頬にそえるような形で止まった。
 ──寝た、のだろうか。
 警戒心の強いこの男のことだ、自分の前では寝ないかもしれないと思っていた。
 寝たふりかもしれないが、反応を見たり余計なことをするよりは、このまま大人しく寝た方がいいだろう。
 有希子が言っていたように、安室だって多分、いつもと違う自分に戸惑っていて、精神的にも、疲れていたに違いない。
 電話越しに聞いた、らしくない小さな声を思い出す。
 ──あの時。
 走り出した時に感じた気持ちは、本当に、いつもの自分らしい気持ちだっただろうか。
 腹が立っていた。こんな風に振り回されるのは自分ではないと、そう思って、電話の向こうでらしくない様子を見せた安室にも、腹が立って──でもそれが自分のせいなのだとしたら、駆けつけなければと、あの時、そう思った。
 たった一人の言動に、振り回されて、一喜一憂して。らしくもなく、臆病になって。
 ──そんなの、まるで。

(『恋』でも、してるみたいな──)

 自分で考えたことにギョッとして、目を見開く。
 暗闇の中、安室は目を閉じて静かに寝息を立てていた。

「……」

 頬に触れたままの手に、そっと触れる。
 コナンはぎゅっと目を閉じた。

(──違う。違う。だって、こんなの蘭の時と全然違うじゃねーか)

 指が熱い。
 安室の手をそっと外して、コナンは逃げ場のない布団の中でぎゅっと胸を押さえた。