運命は信じない 8
温かい、よりも、いささか暑い。
ぬるま湯につかるような心地良さに、少しだけ違和感が交じって、ふっと目を開ける。
目を開けた瞬間、人の肌──しかも明らかに他人の肌が目に入って、コナンはギョッとした。
戸惑ったのは一瞬。すぐに昨夜のことを思い出して、そろそろと顔を上げると、半分目を開けた安室と目が合った。
あちらも、丁度いま、起きたようだ。
寝ている間にすり寄ったのか引き寄せられたのか、随分と密着して、抱きしめられているような状態だった。
「お、はよう」
「……おはよう」
気まずく挨拶をして、身を離し、起き上がる。安室ものっそりと起き上がった。
「……寝てた」
独り言のように、当たり前のことをぼやいている。
何を言っているんだ、と言いかけ、気づく。安室は、やはりコナンの前で眠る気はなかったのだ。なのに、睡眠不足と、コナンの安心する匂いに負けて眠ってしまった、と。
(ふふん。ざまーみろだぜ。勝手に弱るからだ)
頭の中で勝ち誇っていると、安室はいきなり無言で、ぐるりとコナンの体を反対側に向けた。そしてじっとコナンの後ろ姿を見つめ、ため息をつく。
「なに」
「……いや、寝ている間に何かしてないだろうなと思って」
「え? ああ……安室さんこそ、ボクに噛まれてない?」
振り返って安室の上半身をチェックする。──特に問題はないようだ。
安心してため息をついたコナンを見下ろし、安室はどこか疲れたように、またため息をついた。
「……朝ごはんにしようか」
来客を想定していなかったから簡単なものしかないけど、と言い訳をしながら安室が食卓に並べたのは、トーストと目玉焼きと簡単なサラダ、それとコーヒーだった。
「十分だよ! 押しかけたのはボクだし」
「……一週間いるんだっけ?」
「食費入れる?」
「小学生がそんなことを気にしなくていい」
安室はトーストを三口くらいで食べてしまって、コーヒーを飲み、「今日のことなんだけど」と口を開いた。
「明日からは休みを取るけど、今日一日はポアロに行かないといけない」
「え、いいよ別に休みとか取らなくても」
「僕が仕事をしている間、何をしているつもりなんだ? どうせ学校も休むんだろう? 君をポアロに連れて行くわけにもいかないし、家の鍵を預けるのは論外。そうなると、僕が仕事の間はここに軟禁状態だ。時間の無駄だろう」
「そりゃそうだけど」
口ごもり、ちまちまと目玉焼きを乗せたトーストを食べ進める。
「梓さんも店長も、僕が休むのには慣れてる。気にしなくていい」
それは、堂々と言うことなのだろうか。コナンの呆れた視線を無視して、安室は続ける。
「今日は、一緒に出て、夕方合流。阿笠さんのところにでも行くんだろう?」
「昨日の安室さんの話って、博士に教えても大丈夫なやつ?」
「構わないよ。知ってる人は知っている話だろうしね。調査はこちらで続けるつもりだけど、科学者目線で何か意見があれば、聞いてみたいところだな」
「じゃあ、安室さん仕事終わったら連絡ちょうだい」
安室は少し間を置いて、了解、と答えた。そして、思い出したようにふっと目を見開く。
「そうだ、コナンくん。蘭さんに連絡を入れた方がいいと思う」
「へ? 蘭姉ちゃん? ……いや、だから」
「毛利先生のところにしばらく帰れないのはわかってるよ。そうじゃなくて、蘭さん、君が親御さんと海外に行って、もう戻って来ないんじゃないかって心配していたから」
「はっ!?」
ぽろりと、手からトーストが落ちる。皿の上に落ちてひっくり返った目玉焼きをトーストに乗せ直して、コナンは目を瞬かせた。
「なんでそんな話になってるの?」
「知らないけど、普通、健康状態に不安がある児童を親が迎えに来たっていったら、そうなることを考えるものなんじゃないかな? コナンくん、いつ帰るか言った?」
「……言ってない」
小五郎とは話がついているから、と、学校に迎えに来た有希子とそのまま工藤家に行ってしまったのだ。
多分、小五郎は「コナンなら親が迎えに来た」とかなんとか、不十分な説明しかしなかったのだろう。そう言えば昨日蘭と話をした時にも、いつ帰るという話はしなかったし、試合を見に行くとも伝えられていなかった。
昨日、蘭が何か言いたげだったのはそれか。
コナンはトーストを飲み込んだ。
「──メールしとく」
「その方がいい」
安室はため息をついてサラダを食べてしまう。
(ああでも、だから昨日安室さんあんなこと言ってたのか)
もう戻って来ないのかなんて、どこからそんな弱気な発想が出てくるのかと思っていたのだ。
改めて、目の前の安室を観察する。一晩ゆっくり眠れたからか、昨日よりも疲労の色は薄い気がした。幾分疲れて見えるのは、コナンが押しかけて来たことによる精神的なものだろう。これは問題無し。
安室は時計を見上げた。
「じゃあ、七時半に出かけるから、準備して」
現在時刻は七時だ。コナンは慌てて、残りのトーストにかぶりついた。
「じゃあ、夕方までいい子にしているように」
くしゃくしゃと頭を撫でられ、わかったよ、と口をとがらせる。安室は笑って、ポアロに向かって行った。
それを見送って、阿笠家に入る。
事前に連絡しておいたからか、玄関は開いていた。玄関に並んだ阿笠のものとは違う大きな靴を見て首を傾げ、「おはよう」と声をかけ居間に向かう。
居間には、阿笠と灰原と、おまけに沖矢がいた。やはり玄関の靴は沖矢のものだったようだ。
「おはよう、コナンくん。昨日はいったいどこに──居たかは、よくわかった……」
博士ががっくりと肩を落とす。
「へ?」
首を傾げると、沖矢がにっこりと笑った。
「つまり合意ではないわけですね。コナンくん、しっかり目と口を閉じて下さい」
「はっ?」
目を白黒させていると、沖矢はスプレー缶を構えた。反射で目を閉じると、プシューッと十秒ほどそれを吹き付けられる。
「──いいでしょう。目を開けても大丈夫ですよ」
コナンは手で顔の前をあおいで、顔をしかめた。
沖矢の手にあるのはフェロモン消臭スプレーだ。また、安室のフェロモンがついていたらしい。
灰原が呆れたようにため息をつく。
「またなの? というかあなた、昨日あの男のところにいたわけ?」
「おう、一週間世話になることになった」
コナンは三人に簡単に昨日の経緯──有希子が急遽戻ることになったこと、すぐに毛利家に戻ると小五郎が怒るだろうということ、そしてどうせだから安室のところで世話になることにした、ということを話す。
三人はそろって微妙な顔をした。
「小学生にマーキングするような男のところにいて大丈夫なわけ? だいたいあの男、あなたに近づいて欲しくないんじゃなかったの?」
灰原の視線が一瞬沖矢に流れ、沖矢がそっと目をそらす。
「そこは話し合って解決したから大丈夫。──昴さんがまたいたずらしなけりゃな」
コナンにも視線を向けられ、沖矢は両手を上げた。
「もうしません。姫の前で誓います」
大仰な宣誓に灰原は顔をしかめた。
「次やってごらんなさい、二度とこの家の敷居はまたがせないから」
「ここはわしの家なんじゃがのう……」
「ところで、昴さんなんでこんな朝早くからここにいるの? 灰原、お前も学校は?」
「何を呑気なこと言ってるの! この人は、あなたがどこに行ったかわからなかったから心配して、うちにいるんじゃないかって思って来たのよ」
「え。あ、それはごめんなさい」
灰原の剣幕に身をすくめ謝罪すると沖矢は苦笑した。
「いえ。ここの名前が出なかった時点で、もしかしたらとは思っていましたから。──もっとも、だから心配だった、というのはありますが」
「安室さんだって、他のαが絡まなけりゃそうおかしなことしたりしないって」
「そうかのう……」
「そうだって。対抗心っての、オレもちょっとわかったしさ」
「──何がどうわかったのか後できちんと聞きたいけれど、とりあえず、私は学校に行くわ」
灰原は椅子から下りてランドセルを背負った。
「あなたがいない上に私まで休んでいると、吉田さんが心配するから」
「悪かったな。歩美ちゃんたちによろしく」
灰原はフンと鼻を鳴らし、家を出て行った。
阿笠がフォローする。
「哀くんは、ずっと心配しとったんじゃ」
「わかってるよ」
「ところでボウヤ、今日学校は休むつもりなんだな?」
灰原を見送って、沖矢―赤井の口調が崩れる。
「うん、今日は夕方までここにいるつもり。あ、そうだ、夕方安室さん来るかもしれないから、その前に帰ってね」
「つれないな。ではその前に、こちらで入手した情報を共有しようか」
驚いて赤井を見上げる。
「え。何かわかったの?」
「いや、すまないが真相解明につながりそうな情報ではないんだ。先日来た時に、バース性が確定していない子どもになんらかの働きかけをすることで、Ωにする方法があるか、という話をしただろう」
「そんなの、あるの?」
「いいや。──ただ、α性に出来ないか、という試み……いや、盲信や狂信の類のものだな。それは、昔からどこにでもあるものらしい」
「αに……」
「Ωに、というものも、まったく無いわけではないだろうが、この手のものは、ほとんどがαだな」
「そう、だよね」
コナンは苦い気持ちでうなずく。
αは、ただαだというだけで、エリートのように扱われる。
優秀な人間が多いのは、事実だろう。でも、α性と判明しただけで何か出来るようになるわけではないし、α性でなかったからと言って、何かが出来なくなるわけではない。
それでも、「α性は選ばれた人間」という印象は、根強くある。
自分たちの集団の中にエリートを増やそう、という考え自体は、あったところでおかしなことではない。おかしくはないが、人為的に作ろう、実行しよう、となると狂気の沙汰だ。
「密室に閉じ込めた子どもを、発情期のΩと一緒に閉じ込める……というのがポピュラーな『儀式』のようだな」
「そりゃ、虐待じゃないか」
「ええ、どちらに対しても」
赤井は短く答えた。
「一度バース性が固定されたら、変わることは基本、ない。だからこそ、確定前の子どもが巻き込まれる。──α性の両親の間に生まれた子どもを、どうしてもαにしたいと願う親。α性の子どもを『買って』育てて後継にしようと考える人間。そういう人間を相手にした宗教や人身売買が、本国でも、それに日本でも、確認されている。うちにもそれを専門に追うチームがある。これまであまり意識していなかったがな」
コナンと阿笠は、大きく息を吐いた。
「情報ありがとう」
「いや。──しかし、結局のところ、『儀式』の効果はないとされている。両親が共にβの子どもがα性に目覚めた、という事例も一つ二つあるようだが、世間一般に発生する突然変異の確率と変わらない」
「じゃあつまり、ボクがαと一緒にいても、Ωと一緒にいても、特に影響はないってこと」
「……そうだな」
ふむ、とコナンは口に手を当てる。考えるコナンの隣で、阿笠がため息をついた。
「しかし、そうはいっても小さな子どもにマーキングまがいのことをするのはどうかと思うぞ。本人への影響はともかく、周囲にいる他のαやΩを刺激しかねん。というか、実際に刺激したわけじゃろう」
赤井は肩口で両手を上げた。
「反省してます」
コナンは気になっていたことをたずねる。
「そういえばさ、赤井さん、怒ってる……?」
「え?」
「いや、言ってたじゃん、嫉妬だって。ボクへの嫌がらせだったんでしょ?」
赤井はたっぷり十秒黙った後、額を押さえた。
「何故そうとる……?」
「え? だって、赤井さんも安室さんも、お互い思うところがあるのは知ってるし……」
言いながら、お互いの匂いが気になりだした時に、安室が言っていたことを思い出す。
「──安室さん、気になってる相手がいると思うんだ。多分、番にはなれない人。そんな感じのこと言ってたから。……それ、もしかしたら」
「確実に、違う」
言い切る前に、バッサリと否定される。目を丸くするコナンを見て、赤井はため息をついた。
「確かに、我々はお互いに無関心ではいられない事情がある。あるが、そういうものではない」
「……わかった」
コナンはうなずく。
ただ、赤井の側はそうかもしれないが、安室の側も同じ認識であるとは限らないのではないか。
安室が冷静さを失うのは、この男に対してだけだ。最近は、自分にもそういう顔を見せなくもないが、コナンと一緒にいようと、赤井と疑っている男が目の前に居れば、たちまちそちらに集中してしまうのは、先日のこの家の前でのやりとりでも明らかだ。
なんとなくムカムカする。
コナンはため息をついてぼやいた。
「──やっぱこれ、対抗心みたいなやつなのかな」
「何がだ?」
「安室さんがボクのこと無視して赤井さんに夢中なの、ちょっと腹立つ。安室さんに腹立ってるのか、赤井さんに腹立ってるのかわかんないけど」
赤井は沖矢の顔で目を丸く見開いて、ポケットに手を入れてタバコを取りだしかけて止め、深いため息をついた。
「……藪をつついて蛇を出すのは趣味じゃないから、この機に乗じて言い訳をするが。俺がボウヤにあんないたずらをしたのは、ボウヤが安室くんにばかり夢中なことが、気に入らなかったからだ」
「へ?」
コナンは目を丸くする。
「それで何で、ボクにフェロモンつけるわけ?」
赤井は堂々と答えた。
「気づいたら気づいたで安室くんは穏やかじゃないだろうし、彼が気づく前に消えたとして、自分のいない間に俺のフェロモンをつけていたことを、彼は知らないんだなと思えば愉快だからだな」
「──大人げなっ!」
思わず声をあげる。阿笠がたしなめる。
「コナンくんの言う通りじゃぞ。安室くんの状況には同情するところがあるが、君はもう少し大人にならんと」
「日頃、突っかかってきているのはあちらです。あちらばかり、仕方ないと許されるのも不平等では」
赤井はふいっとそっぽを向いた。思わずまじまじと見つめてしまう。
(……子どもっぽい赤井さん初めて見たかも)
FBIの同僚とは気安い会話をしているのも見るが、基本的に、赤井は大人だ。安室も大人ではあるが、比べると赤井の方が圧倒的に「大人」という感じがしていた。だから、赤井のこんな顔はとても新鮮だ。
じっと見ていると、目が合う。
「……呆れたか?」
「ううん。赤井さん、年が近い安室さん相手だとそういう顔もするんだね。……やっぱりちょっと羨ましいかも」
立場が対等だからこそ、見せられる態度はある。
羨ましく思ったところで、年だけはどうにもならない。いまは特に、だが、元の姿に戻ったところで自分は高校生だ。三十前後の二人とは、十以上年が離れている。
赤井は苦笑した。
「可愛いことを言ってくれる。──ボウヤは俺にとって恩人で、特別な存在なんだ。下らんいたずらはもうしないから、呆れずに、安室くんだけでなく俺のことも、忘れずに構ってくれ」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。完全に子ども扱いだ。反射でむっと口をとがらせる。
しかし、これも自分が子どもみたいなわがままを言ったからだろう。コナンはため息をついた。
「……つまらないこと言ってごめんなさい」
「つまらなくなんてないさ。ボウヤからの嫉妬なら大歓迎だ」
調子のいいことを言って、とにらむと、赤井は笑った。
「──ところで、安室くんの所では何もなかっただろうな?」
「あ、そうだ」
思い出して、コナンはぴょこんと阿笠を振り返った。
「安室さんからの情報なんだけど」
「情報?」
「うん。あのね──」
コナンは、昨日安室から聞いた香水のような薬の話をする。阿笠は眉間にしわを寄せた。
「博士は聞いたことある?」
「わしは薬学方面は明るくないからな……」
確かに、その方面なら、詳しいのは灰原の方だろう。
「じゃが、噂くらいは聞いたことがある」
「噂って、どんな噂?」
「安室くんの話の通り、『見合い』に使われるという話じゃな。乗り気でない見合いだとか……あと、『運命』だと思い込むことで、より優秀な子が生まれると思われていた、という話もある。優秀な後継が必要な財閥などでは当たり前に使われていたと」
園子の顔がチラついて、コナンは顔をしかめた。赤井が口を挟む。
「保護法で、α・Ω双方のフェロモンを誘発するような薬物は禁止されましたよね」
「そうじゃな。その手の薬は、効果が定かではないどころか、八十パーセント以上の確率で効果は得られず、それどころか使用者に悪影響がある、という話じゃから……権利意識の改善とともに、自然に廃れたんじゃろう」
「アメリカにも、そういう薬あるの?」
「残念ながら、どの国にもあった、が正しいな。無論、いまはどこも法律で規制されている。α・Ω双方の人権を無視した話だ。ただ──」
「法律を無視する人間なんてどこにでもいる」
赤井はうなずいた。
「自らそれを望むαやΩもいると言うしな。権力に近い立場の人間なら、薬を手に入れることは可能かもしれん。──ただ、あまりにも、リスクが高い」
「望んで……って、そんな、作られたものだってわかってて、お互いに好意なんて持てるものなの?」
「家だの才能だのに恵まれた人間ほど、自分に暗示をかけるのが上手いものだ。それが合理的なことを知っている。──これは、知人のαの話だが」
よく、わからない。
工藤新一は、優秀なαだと診断されていた。それでも、親や周りが「優秀なΩを番に」ということはなかった。βの蘭と仲良くしていることを咎める人間なんて、一人もいなかった。そんな自分からすれば、あまりにも旧時代的な、非常識な話だ。
──しかしそれは、新一が恵まれていたからかもしれない。
同じαでも、園子は立場が違うし、背負っているものが違う。彼女がもし、京極真に出会わずに、いずれΩと結婚することになっていたとしたら。そして、薬が合法的なものであったなら。もしかしたら彼女は、薬を使うことを望んだかもしれない。──相手の、Ωのために。
赤井はひとつ息を吐いた。
「──しかし最近、その手のことでうちが動いたという話は聞かないな。安室くんの話でも、実際そういうことがあった、というわけではなかったんだろう?」
「うん、何かお互いの匂いを特別に感じさせるような方法がないかって調べる中で、そういうのがあるって見つけたみたい。でもそんな薬があったとして、片方がボクなら自分たちに当てはまるとは思えないって。──自分だけなら、わからないって、言ってたけど」
「──彼は優秀なαだからな」
「……組織で、そういう話聞いたことは?」
「俺はない」
ならばその辺りは、灰原が帰ってきてから聞くしかない。彼女ならば、知っているだろう。ただ、そんな研究があるなら、今回の問題が発覚した時に思いついている気がする。
「もし、組織でバース性の研究をしているとして……」
赤井は言いかけて口を閉ざした。
「……いるとして?」
「──いや。その件は、安室くんの方が詳しいだろう。下手に踏み込まない方がいい」
「わかった」
組織を抜けた赤井と違い、安室はいまも潜入中だ。下手に踏み込めばこちらが危ないし、下手なことをすれば安室にも害を与えかねない。
「こちらの伝手でも何かわからないかは、調べておこう」
「ありがとう」
赤井はちらりと時計を見て、がらりと口調を変える。
「──では、私はこれで失礼します。喫茶店の店員さんのところが嫌になったら、是非家へ。……なんて、元々君の家ですが」
「親戚の家だよ」
沖矢はにっこりと笑うと、阿笠に挨拶をして出て行った。
ため息をついて、机の上に突っ伏す。
「ったく。赤井さんも安室さんも油断出来ねーぜ」
「しかし、新一。事がもし例の組織に関わるようなら、慎重に動かんと」
「わーってる。後で灰原に相談する。──でも、組織がらみで安室さんに効く薬が作られてたとして、それがオレに作用するのは何でかってのは、わかんねーよな」
ソファにころりと転がると、阿笠が「何かかけるもを持って来ようか?」声をかけてくる。
「大丈夫。昨日も一昨日もしっかり寝てるから。……あ。もしかしたら今日オレについてたフェロモン、意図的なやつじゃねーかも。別にそんな素振りもなかったし」
「しかし、はっきりわかったぞ?」
「そりゃ、一晩一緒に寝れば匂いくらいつくんじゃね?」
「──新一」
とがめるような声に体を起こす。
「だって、安室さんの家布団一組しかねーし。男同士な上に、オレはバース性未確定の子どもだぜ。だいたい、子どものうちにαとどう接しようと、影響はないんだろ」
「それはそうじゃが」
「むしろ、離れると調子悪くなるんだから、一緒にいられる限りはいた方がいいだろ。普段から一緒にいたら、これまで気づかなかった症状に気づくかもしれねーしよ」
阿笠はしばらく考えた後で、諦めたように言った。
「問題があったら、うちか沖矢くんのところに行くんじゃぞ」
「はいはい」
「……本当にわかっとるのかのう」
阿笠はため息をついた。
だいたいの情報共有が終わると、やることは無くなった。
阿笠は消臭スプレーの追加を作るためにしばらく研究室にこもるという。
「じゃあ、オレ何か昼飯買ってくるよ。博士何がいい?」
「わしはハンバーグ弁当で!」
「オイオイ。灰原に怒られるぞ」
「……これでもかなり痩せたんじゃが」
しょんぼりする阿笠に苦笑して「灰原には内緒だからな」と言うと、阿笠はパッと明るくなり、ついでにお金をくれた。
「好きにおやつを買ってきなさい」
「やった。じゃあ行ってくる!」
「気をつけてな」
コナンは近くのコンビニに向かって歩き出した。
昼前の街中には、会社員らしき大人が多い。平日昼間に小学生が一人でいると悪目立ちするかもしれない。買い物はパパッと済ませた方が良さそうだ。
コンビニに入って、弁当売り場でハンバーグ弁当を手に取る。自分は何を食べようか、と棚に目線を走らせていると、急に襟首がつかまれ体が浮いた。
「わっ」
弁当を落としかけて慌てて抱える。振り返ると、顔をしかめた小五郎がいた。
「げっ、おじさん」
「げ、おじさん、じゃねーよ。お前こんなとこで何してんだ」
しまった、と内心舌打ちする。近場だからと、小五郎の行動範囲のコンビニに来たのは失敗だった。
へらりと愛想笑いを浮かべる。
「えーっと、何って、お昼ご飯買いに来たんだよ。おじさんもお昼?」
小五郎はさらに顔をしかめた。
「昼だあ? ……お前、母さんはどうした」
「えっと、ちょっといま別行動で……」
ここは、「母親は用事で一時的に別行動をしている」ということで押し切るしかない。ごにょごにょと言うと、小五郎は目を細め、口を開きかけた。
そこに。
「あら、コナンちゃん! やっと見つけた!」
甲高い声の方を振り向き、コナンはギョッとした。
(は……!?)
コナンと小五郎に近づいてきたのは──江戸川文代。コナンの母親ということになっている女性の姿だった。
コナンは呆然と女を見上げた。
この人が、こんなところにいるはずがない。だって、有希子は帰ったのだ。搭乗ゲートをくぐったのを、ちゃんと見ている。まさか、ごまかしてそのまま戻って来たのか。いや、そんなことをする意味がない。
「江戸川さん」
小五郎が少し気まずげにコナンを下ろす。女はにこやかに小五郎に話しかけた。
「あら、毛利さんこんにちは。コナンちゃんてば、毛利さんに会いたかったの?」
「え。えっと」
(誰だ)
ぐるぐると頭を回す。誰だかもわからない女相手に、何をどう言えばいいのか判断出来ずに口ごもるコナンから、女は弁当を取りあげた。
「あら! こんなもの買おうとして。コンビニのお弁当は体に悪いって、言ったでしょう? お昼は特製の、お野菜たっぷりのパスタにしましょって言ったのに」
小五郎が呆れたようにコナンを見る。
「お前、野菜が嫌で逃げてきたのか?」
「そうなの? コナンちゃん」
今後のことも考えると、ここで小五郎に怪しまれるのはまずい。とりあえず女に話を合わせる。
「えっと。だってボク、ハンバーグ食べたかったんだもん……」
「折角母ちゃんが体にいい飯作ってくれるんだからちゃんと食え。……まあ、この年頃の子どもは、ハンバーグだの唐揚げだの、わかりやすいもんが好きなものですがね」
「お肉も大事ですものね。コナンちゃん、大丈夫よ。北海道から取り寄せた無添加ベーコンも入ってるんだから」
小太りのくせに食にうるさい設定なのか。誰だか知らないが、何の設定なんだそれは、と内心突っ込んでしまう。
小五郎は、一瞬同情的な視線をコナンに向けた後で「そりゃあいいですな」と女に愛想笑いした。
小五郎と女が話をしている間に、考える。
(この女が母さんの変装だっていう可能性は、低い。低いが、他に江戸川文代のことを知っていて、ここまで上手く変装出来る人間なんて──)
そこでハッとして、コナンはパッと、女の足元に駆け寄った。
「ベーコンいっぱい?」
「そうね、特別にいっぱい入れてあげる」
「じゃあ帰る!」
「そう、良かったわ」
「でも、お菓子買っていーい?」
「パンケーキを焼いてあげるから我慢なさい。お菓子も手作りが一番よ」
女はにっこりと微笑んで、コナンの手を取った。
「では、失礼しますね」
「はい。──あんま母ちゃんに心配かけんなよ」
小五郎が乱暴にコナンの頭を撫でた。髪がぐしゃぐしゃになる。
女はにっこり微笑んで、歩き出す。
「あ、ちょっと待って。──おじさん」
声をかけて手を解き、小五郎の元へ駆け寄る。
「あん? どうした」
「おじさん、ボク、一週間くらいしたらまたそっちのお家に戻ってもいい……?」
蘭が変な誤解をしていたようだし、小五郎までコナンを手放した気になっていたら困る。めいいっぱい猫をかぶって見上げると、小五郎は顔をしかめた。
「端っからそういう話だったろうが。……ったく、お前がいいなら構わねーけどよ」
ちらりと、あまり好意的とは言えない視線が女に向く。小五郎の常識からすれば、小学校にあがったばかりの子どもを他人の家に預ける親が信じられないのだろう。
「ボクが、おじさんの家がいいって言ったんだよ。ありがと、おじさん。また帰る時に連絡するね」
「連絡なら蘭に入れとけ」
「あの、蘭姉ちゃん、なにか誤解してたみたいなんだけど……」
「あ? ああ……」
小五郎は心当たりがあるのか、小さくため息をついた。
「言っておく。あいつも色々心配してたんだ。──まあ、お前もすっかりいつも通りみたいで良かったよ」
「え」
「何でもねーよ。ほら、母ちゃん待ってるぞ」
背中を押されて、ばいばい、と手を振って女の元に戻る。女はしっかりとコナンの手を握った。
「お別れは済んだ? じゃあ、行きましょうか」
コンビニを出て、女は阿笠家とは逆の方向に向かって歩き出した。
繁華街の方へ、どんどん進む。
小五郎の視線はもう届いていない、と確信したタイミングで、コナンは手を離した。
女は立ち止まる。
「どこ行くつもりだよ」
問うと、女は、にっこりと微笑んだ。
その笑みを見て、正体を確信する。
「少しだけ、話がしたいの。お茶でもどうかしら?」
一度聞いたら忘れないその艶のある声は──ベルモット、あるいはシャロン・ヴィンヤードのものに、間違いなかった。
警戒の体勢に入り、腕時計と靴を確認する。
(確率は半々、キッドのやつだったらラッキーだったんだけど、やっぱりそうはいかねーか。でも、一体何のためだ)
コナンを見下ろし、ベルモットは小さくため息を吐く。
「そう警戒しないで頂戴。話をしにきただけ。──あなたの『いま』の状況を解決できる情報を持っているかもしれない……と言えば、話を聞く気になってくれるかしら?
「オレの状況?」
それは、幼児化したことか。いや、いまの、と強調したことを考えると、違う。安室との間の、匂いの件についてだ。
警戒するなと言われても、何故それを知っているのかと、ますます警戒してしまう。
(安室さん側で何かあったか……? 二人、よく一緒に行動してるみてーだし……)
面倒な相手だ。完全な敵かというと、そうではないとも言えるが、基本的には、この女は敵方の人間である。
今回の件に関係なく、つかまえて聞きたいことは山ほどある。阿笠、いや赤井に連絡すればなんとか──とそこまで考えて、気づく。
この女が、わざわざ正体がわかる状態でコナンの目の前に出てくるなんて、異常事態だ。なぜなら危険が多すぎるからだ。
コナンが用心してFBIにつながる発信機の類を身につけていたら終わり。実際はそんなものつけていないが、彼女がそれを確信できるはずもない。
そのリスクを負ってでも、話さなければならないことがあるのだ。
「──警戒はといてもらえたかしら」
ベルモットは薄く笑った。
「話を聞くだけだっていうならな」
「そう。じゃあ、そこのお店にでも入りましょうか。──あなたを待っている人が不審に思わない程度に、早めに切り上げましょう」
昼時だからか、逆に喫茶専門店は空いていた。
飲み物を頼んで、向かい合って座る。
コナンは慎重に口を開いた。
「──いまの状況、ってのは何の話だ?」
「あなたのその、他人の匂いが気になって仕方ない症状よ」
「お前たちが関係してんのかよ」
「違うわ。──それは、わかるんじゃないかしら?」
ベルモットは、コナンの症状を知っていて、そしておそらく、相手が安室であることも知っている。安室が原因を特定出来ていないことも。
安室が「原因不明」と言っているなら、組織がらみではないことはわかるのではないか、と、彼女が言いたいのはそういうことだろう。
「さあな? 私立探偵のお兄さんから、情報が全て共有されるなんて、そんな甘いこと考えてないからな」
慎重に、話さなければならない。
安室が公安の人間でNOCだということがバレるのはまずい。コナンの正体を知っていて沈黙を守っているこの女が、安室についてどこまで何を知っているかわからないし、共に行動しているからと言って、安室に好意的だとも思えない。
江戸川コナンはあくまでも、安室透を組織の人間と疑って、あるいは知って、警戒しているだけ。そういうことにしておかなければならない。
(でも実際、安室さんが全部をオレに話しているとは思えない。例えば、そう、最初の時に、αの匂いがバース確定前の子どもの、バース性決定に影響するかもしれないと言っていたこと)
念の為、なのかもしれないし、単純に上着を返して欲しかっただけかもしれないが、咄嗟に出る口実で、まったく考えもしないことは出て来ないのではないか。
(でもその一方で、気軽にオレにフェロモンをつけたりもする。──本気でαフェロモンが子どもに影響すると思っているなら、行動に一貫性がない。安室さんは、影響がないことを、ちゃんと知ってるんだ)
だいたい、赤井が話してたような案件は、日本では公安の管轄だ。安室が知らなかったわけがないし、与太話だということも、知らないはずがない。
それでも、咄嗟の時に不安に思ってしまう、理由。
──フェロモンを暴力的と表現したことと考え合わせると、過去にか、それとも公安に入ってからか、直接その手の案件に関わっていた可能性もある。
コナンは思考を振り払った。
安室の過去に関することならば、踏み込むべきことではないし、それを隠されていたところで、大した影響はない。
とにかく自分は、安室が他にも何か隠していて、それが真相解明につながる事実かもしれない、ということを、否定出来ない立場なのは確かだ。
店員がジュースを運んできた。
ありがとう、と子どもぶって答えるのを、ベルモットが興味深げに見つめる。コナンは顔をしかめた。
「それで? 関係ないなら、何を知ってるって?」
「香水の情報は、共有されているかしら」
「そういうものがあるっていう話なら。でも──」
「いまのあなたのものが、作られるはずはない」
その通りなので、黙る。
ベルモットはゆっくりとカップに口をつけた。
「私が提供できる情報はひとつだけ。過去、この国の研究機関から、定期的に実施されているバース検査のデータが盗まれたことがある。──時期は、五年前。盗まれたデータは、その年のデータ一年分」
コナンは息をのんだ。
バース検査は、小学校卒業の年から、バース性が確定するまで毎年一回、実施される。
──五年前はちょうど、工藤新一がはじめて検査を受けた年だ。
考え、ジュースを一口飲み込んで、口を開く。
「……五年前なら、ボクは関係ないよ」
小学校卒業時の検査では、まだ新一のバース性は確定していなかった。
「かもしれないわね。でも、いまのあなたに、影響が出ていることと無関係ではないかもしれない」
コナンは慎重にベルモットを見上げた。
「そんな話、どこから仕入れた?」
「ソースまで明かす義理はないんじゃないかしら」
その通りだ。
(でも、そんなことがあったなら安室さんが知らないはずないんじゃねーか? ──あえて黙っているのだとしたら……オレの正体に気づいているか。いや、もしかして知らないのか? そんなことあり得るのか?)
コナンはベルモットを見上げる。
「どうして、『こっち』に情報を持ってきた?」
ベルモットはにっこりと笑った。
「秘密。──と言いたいところだけれど、いいわ。もうひとつ。データの盗難は、私の知る限り発覚していない。私が知っているのは、少し前にデータの持込があったから」
「どこに」
「そこまでは、サービス出来ないわ」
すましてコーヒーを飲むベルモットをにらむ。ベルモットは肩をすくめた。
「破格の大サービスだと思ってちょうだい。──自分の力で解決できるでしょう? 名探偵さん」
コナンは顔をしかめた。
「……解決していいのか?」
「勿論。そうでなければ、わざわざあなたに情報を持って来たりしない」
罠、だろうか。しかし、これまでのベルモットの言動を考えると、灰原ならともかく、コナンを罠にはめるとは考えにくい。
(となると、あっちにとっても都合の悪いデータで、データ自体を消してしまいたい? ……上手いこと利用されてんのかもな)
しかし、放っておくわけにはいかないのは、事実だ。
ふと思いついて、たずねる。
「母さんをあっちに呼び戻したのは、もしかしてお前の差し金か?」
このタイミング、江戸川文代に変装したこと。ベルモットは確実に、有希子が来日していたことを知っている。それを考えると、有希子の不自然なまでに急な帰国は、あちらで何かあったからで、それがこの女の差し金である可能性は、十分にあった。
「さあ、どうかしら」
(母さんがいるとオレと話しにくいだろうからな……)
ベルツリー急行の一件で、二人は互いに、対立する立場にあることを確認している。でも、母とこの人が友人関係にあったことは確かで、あの危険な場面で自ら立候補する程度には、母はこの人に好意を持っている。逆は、果たしてどうなのだろうか。
ベルモットは、そっとカップを置いた。
「──あなたの周りに、Ω性の人間はいる?」
「……母さんが」
「あとは、私ね」
さらりと、ベルモットは言った。
「有希子は、自分の第二性を肯定的に受け止めているでしょうね。私も、いまはそう。差別だの偏見だの、色々言われているけれど、Ωが生きやすくなったのは確かだし、自分の性を否定するわけではないわ。けれど……あなたはご両親のロマンスを、知っているかしら?」
「ロマンス?」
「そう。Ω性と判明した後も、なかなか発情期が来なかった、未完成のΩ。──彼女は、伴侶と出会って初めて、発情期を迎えた。まるで、運命の相手に出会うのを待っていたようだと、みんな憧れた」
まるで、舞台上で台詞を読むような調子でそう語る。
聞いたことは、ある。しかし両親の生々しい話はあまり聞きたくないものだ。
発情期のないΩだった時、母は「清らかなΩ」だともてはやされていたし、父と出会って番になり、結婚して芸能界を引退した時も、まるで運命、お伽話のようだと言われたそうだ。
勝手な話だ。だいたい、発情期が来ているΩが汚らわしいかのような言い方も良くない。
有希子も苦笑交じりに言っていた。──「ショービジネスの世界なんてね、そういうものよ。あらゆるものを物語にして消費するの」と。
「発情期が始まってすぐに番を得た彼女と違って、私はこの性で生きることの難しさも、少しだけ多く知っている。──αとΩが必ず番わなければならないわけではない。世間には、α同士も、αとβの組合せも当たり前にあって、そのことは当たり前に受け止められている。……ように、見えるかもしれない。でもね、Ω性の人間が、Ω性や……β性のパートナーと、共に生きていくことは、とても難しい。難しい、というよりも、不可能に近い。それは、抑制剤がどれだけ改良されようと、どうしようもないこと」
それは、蘭のことだろうか。ベルモットは特に、蘭を気にかけている様子がある。
コナンに情報を持ってきたのは、蘭を泣かせるなという理由からなのだろうか。
困難があることは、自分だって、聞いたことがある。
けれど。
「この件が解決しなかったとして。元と変わるわけじゃないだろ」
「どうかしら。生まれた時からバース性が決まっていて変わらないなんて、信じられる根拠があるわけではない。特にあなたのような立場の人間は」
そこで、ふと思い出す。
女優のシャロン・ヴィンヤードは、α性の人間ではなかったか。
しかし、いま彼女は、自分をΩ性だと言った。
「──あんたのバース性は」
ベルモットは唇に指を当てた。そしてにっこりと微笑む。
「女性の秘密を暴き立てるのはスマートな行動とは言えないわね」
ムッとしたが、黙る。確かに、ベルモットは必要以上に話してくれているのだろう。大きくため息をつくと、ベルモットは伝票を持って立ち上がった。
「長話になったわね。あんまりあなたを拘束していると、怖い人が飛んできそうだわ」
コナンも立ち上がって、大人しくそれに続いた。
「それじゃあね」
店を出て、あっさりと背を向ける彼女に、声をかける。
「最後にひとつ」
「なに?」
コナンは、少し面倒臭げに振り返った彼女に駆け寄ると、ぎゅうっと抱き着いた。周りからは、親子がじゃれているようにしか見えないだろう。
丸く見開かれた目を見つめて、たずねる。
「お母さんには、ボクの匂いわかる?」
ベルモットは少し間を置いて、コナンの首筋に顔を寄せた。
「──いいえ。残念だわ」
「そう」
パッと離れると、ベルモットは苦笑する。
「幸運を祈っているわ」
「そりゃどうも」
ベルモットはひらりと手を振る。その姿はあっという間に雑踏にまぎれて、見えなくなった。
ベルモットと別れ、急いで昼食を買って阿笠邸に戻ると、心配した阿笠が待っていた。
「どこまで買出しに行っとったんじゃ」
「悪い」
短く答えて、パッパと確認すると、案の定というか何というか、襟元に盗聴器がしかけられていた。
最後に抱き着いた時だろう。ため息をついて、無力化する。
勿論こちらも発信機をつけてやったが、追跡眼鏡で見てみると、ご丁寧に壊されていた。これはまあ、想定内だ。あっちもそうだろう。
他にはないことを確認して、訝し気にこちらを見ている阿笠に言う。
「急いで──灰原が戻って来る前に相談しないといけないことがあるんだ」
弁当を広げながら、ベルモットと会ったこと、そこで聞いたことを話す。
阿笠は顔をしかめた。
「──五年前、という時期と、いまになってそれが出てきたことから調べれば、データを持ち出した人間の特定は出来るかもしれんな」
「問題は、それがいまどうなってるのかってことだ。もしオレのいまの状況が、そのデータを元につくられた何かの薬の作用だったとしたら、面倒なことになる」
「そこまでことが広がっているなら、彼に協力を頼んだ方が良いかもしれんぞ」
「安室さんか? 確かに、公安案件ではあるだろうけど──ただ、この情報を共有したら、オレの正体がバレる可能性が高い」
阿笠は、ため息をついた。
「そうか。確かに、それはあるな」
五年前の江戸川コナンが、バース検査など受けているわけがないのだ。データが盗まれたところで、自分に関係があると思う理由がない。
コナンはサンドイッチにかぶりついて、ぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
「だいたい、五年前だってオレはバース性未確定だったんだぜ? 今と同じっちゃ同じだけど、例の薬が出来る条件を満たさねーだろ」
「もしかしたら『そういう』薬を作ったのかもしれん」
「未確定の子どもにも効くような? それを売り込みに? なんの意味があるんだよ」
「例えば、特定のα、あるいはΩと、バース性確定前の子どもの間に、疑似的に番のような好意的な何かを感じさせることによって、子どものバース性をα、もしくはΩに誘導する……とかな。朝話した宗教じみた行為を、科学的にしたもの、というわけじゃ。こんなことに科学という言葉は使いたくないがな」
「でも、五年前のデータだろ? いま作って意味あるのかよ。当時ガキでも、いまはもうほとんどの奴がバース性確定してるだろ。薬を作ったところで効果が証明出来ない」
「十七なら、若干じゃが確定しとらん子もおる。それに、新一のその症状が薬のせいだとしたら、一定の効果が出る薬が出来た、ということなのかもしれんぞ」
「そりゃ、まずいな……」
「まあ、あくまでも、可能性の話じゃ。わしには正直、そんなこと出来るとは思えん」
阿笠はハンバーグ弁当を食べてしまって名残惜し気に蓋をしめた。そののんびりした態度に、少し落ち着く。
「博士は、バース性は生まれた時から決まっているって説と、いくつかの候補からひとつに決まるって説、どっちを支持してる?」
「わし個人としては、先天性のものだと思っとる。血液型と同じようなものじゃ」
「血液型? ……ああ、子どもの頃調べた血液型が、たまに違ってるって話?」
阿笠はうなずいた。
「生後すぐは検査反応が弱いから正確な検査が出来ん。そのせいで誤診はあるが、しかし、血液型自体が変わることは、骨髄移植等の特別な場合をのぞいてはありえん話じゃろう。バース性もそれと同じで、検査に反応が出るのが長じてからというだけ──というのが、わしの考えじゃ」
「バース性も、高熱が出ると変化する事例があるってきいたけど」
「α性がβ性に、というやつじゃろう? 聞いたことはあるんだが、実際発熱が原因か、そもそも怪しい話だったはずじゃな」
「つまり博士は、データをどうされようと、バース性が変わることはないと?」
阿笠は腕を組んで首を傾げた。
「本来ならば、じゃ。──しかし、今日話をしたその女は、バース性が変わった可能性がある、ということなんじゃろ?」
「まあ、明言したわけじゃねーけどな。……ベルモットも、オレたちと同じ薬を飲んでる可能性があるんだ」
「APTX4869か……細胞に影響を与える薬なら、絶対にない、とは言えんか」
揃って、ため息をつく。
「まあ、素直に哀くんに相談するべきじゃろうな。彼女が、薬のことは一番詳しい」
「あんまあいつにベルモットの話はしたくねーんだけどな……」
なにせ、灰原は危うく殺されるところだったのだ。ベルモットも、まだ諦めてはいないだろう。
またため息がシンクロして、阿笠は苦笑して立ち上がった。
「コーヒーでもいれよう」
「サンキュ」
買ってきたサンドイッチを食べてしまって、ゴミをまとめていると、コーヒーメーカーをセットながら、阿笠がつぶやいた。
「しかし、何故安室くんかのう」
「は?」
「いや、新一のそれが、盗まれたデータに関係するものだとして、それで薬が作られたとして……安室くんのものは、どこから来たんじゃろうな」
「そりゃ、あの人は元──―」
言いかけて、ハッと口を閉ざす。
「新一?」
(──違う。もしかしたら……)
高速で頭が回り始める。
そうだ。確かに、安室本人が、「そんな薬があるなら、自分のものが作られていないとは言えない」と言った。
それはそうかもしれないが、でも今回、コナンと対で症状が出ているなら、そしてそれが何かの薬のせいなのだとしたら──その薬は、同じタイミングで同じ場所で作られてた可能性が、高いのではないか。
バース検査をするタイミングは、小学校卒業のタイミングからバース性確定までと決まっている。でも、それ以降に検査をすることが、ある。
特定の職業につく時、直近一年以内に実施したバース検査の結果の提出が求められるのだ。バース専門医。関係する看護師。──そして、公務員だ。
(安室さんは、二十九歳。五年前は二十四。大卒で警察学校修了後の検査なら、そのくらいになる可能性はあるか? ずれるか。いや、公安部に異動になったタイミングかもしれない。……年齢自体を偽っている可能性もあるけど)
しかし状況から考えると、安室のデータも、盗まれたデータに含まれていた可能性は高いのではないか。
(マズいぞ。もしそうなら、この件を放置すると、ベルモットに安室さんの正体がバレる可能性がある)
盗まれたデータがもし、一年間に限られるとはいえ、全国の受診者全員のものだとすれば、膨大な数だろう。しかし、それを就職のタイミングで受けた大人にしぼれば、数は減る。
ヒヤリとする。
このことに、ベルモットが気づく前に、データ自体を消してしまわなければならない。いや、本当に彼女はコナンが思い至ったことに気づいていないのか。
(オレがどう動くかを見ている? いや、考えたところで仕方ない。やらなきゃなんねーことは一つだ)
データを盗み出した人物を特定して、データを消してしまうこと。それしかない。
盗んだ人間の特定には、灰原の力を借りなければならないだろう。問題はデータをどうやって取り戻すかだ。
(ベルモットの目がある。灰原を必要以上に表に出すわけにはいかない。父さんと母さん。……いや、アメリカから来るのを待ってられない)
ベルモットが有希子をアメリカに引きつけたのも、彼女と優作がかかわると、ことが大きくなり過ぎると思ったからかもしれない。
(赤井さん? でも、下手にFBIに手を借りるわけにもいかないし、赤井さんには灰原を見ていてもらわないと)
ならば、あとは誰だ。
(──安室さん)
思い浮かんだ名前に、首を振る。
それは、論外だ。安室自身にもかかわることとはいえ、自分の正体がバレるかどうかがかかっているのだ。いま、彼にその証拠を握られるのは、困る。
ぎゅっと、手を握りしめる。
「新一?」
阿笠がまた、心配そうに声をかけてくる。
コナンは顔を上げて、息を吐いた。
「……悪い。大丈夫」
まだ、推測だ。博士に相談して、そして、証拠を固めてからだ。
その時、ブブッとスマホが震えた。
見れば、安室だった。
『四時頃には上がれるから迎えに行く』というメッセージ。
さっきまでの緊迫感とは無縁の、何でもないメッセージだ。
指が小さく震えていたことに気づいて、もう一度、息を吐く。
朝、安室と別れた時には、半日でこんな急展開するとは思ってもいなかった。
ぽつぽつと返信を打つ。
『待ってるね』という短い返信に、『夕飯は何がいいか考えておいて』と続けて返信が来た。
(──一週間。居るって言ったけど)
こうなっては、早めに拠点をこちらに移した方がいいかもしれない。これからの行動を、安室に察知されるわけにはいかないのだ。
昨日の夜のことを思い返す。
呆然とこちらを見ていた顔と、その後の攻防。雑炊の味と、気に食わないと思ったことと、布団の中で話したこと。安心できる匂いと、失った時の喪失感。
まるで、恋でもしてるみたいだと思った時の、気持ち。
(そうだ、これも全部、人為的に作られたものなのかもしれないんだ)
そう考えて、ふっと虚しい気分になった。
眠れずに苦しんだことも、蘭に心配をかけたことも、彼女に慰めてもらったことも、園子に話を聞いたことも、安室に拒絶されて苦しんだことも、全部全部、無駄なことで、安室に対して感じたものだって、全て嘘だったのかもしれない。
ツキリと心臓が痛む。
(いや、その方が、納得できるだろ。あの人とオレが、なんて、おかしな話なんだ)
──なのに何で、自分は失恋でもしたような気分になっているのだろう。
コナンは首を振った。
メッセージを打ち込む。
『ハンバーグがいいな!』
それに対する返事を確認せずに、スマホをしまう。
灰原は、三時には帰って来るだろう。安室が迎えに来る四時までに、情報共有して、依頼をしなければならない。
(馬鹿なこと考えてねーで、もう一度、まとめとかねーと)
コナンはひとつ息を吐く。
自分の小さな手を見下ろす。
(……こんな状態だと、あの人とまともに協力することも出来ねーんだな)
最初に、おかしな症状が出た時に、二人の間に発生した異常なのだから、共に原因を探って解決しなければ、と考えた。その時だって別に、完全な協力体制が取れると思ったわけではない。けれど、少しくらい、と思ったのは確かだ。
なのに結局はこれだ。隠さなければならないことがあるからと、隠し事を重ねようとしている。
(……仕方ねーだろ)
玄関のチャイムが鳴る。灰原が帰ってきたのだ。
その時、ポケットに入れたスマホがまた震えた。安室からの返信だろう。
コナンはそれを見ずに、灰原を迎えに玄関に向かった。